春の野 | kondoclのブログ

春の野

昨年、久しぶりに奥只見の尾瀬口に旅をした。四日間の旅はずっと晴天であった。宿の窓から青空を眺めていると、そばの小沢の傍にあった小さな野のことを急に思い出した。その野は、若いころに繰り返し訪れた場所で、記憶ではいつも青空を伴っていた。

しかし久しぶりに尋ねてみると溪沿いの杣はすでに消えかかり、野も笹竹の生い茂るただの山間の一画となっていた。あの恩寵のような野はすでに失われていたのだと知り、僕は行手の谷間を眺めるだけだった。

以下は、1973年にその野と初めて出会った時の、旅行の文章である。当時、革命を信じた若者たちが沢山いたが、それとは真逆の自己放棄的イロニーを抱えた都会の若者もいた。僕は典型的な後者であった。今の人たちには分かりにくいと思うが、この文章にはそのことが幾分か反映している。遠く離れたアメリカで、若い日の感傷的な文章を読み返すと、自分の若い日ももはや幻のようなものになったと感じる。(2000、NY Utica)

 

 

 五月の山の澄みわたる青空。谿沿いの小径を散歩していて、突然その小さな野に出会った。

 鬱蒼としたミズナラの樹林の下、巨大な苔むした倒木が道を塞ぎ、行くての笹竹の薮が谿へと傾いていくところだ。

 僕は一休みしようと倒木の上に座って、初めて左手に森に囲まれた小さな丸い野があることに気づいた。煙草を吸いながら、突然の陽射しにキラキラ輝く野を、目を細めて眺めた。小学校の校庭ほどの野は、周囲の森に囲まれて小さな恩寵のように沈黙している。渓音さえここには届かない−。頭上の真昼の空はただ青く、ときおり小鳥が翔けるのみだ。野は光に満ちるのみで、誰もいない舞台のように思われた。

 

 野の光景を、茫洋として眺めていると、見渡す限りの緑の中に一本のきれぎれの踏み跡があることに気がついた。そしてその果て、丁度暗い山毛欅の森へと路が消えていくところに崩れかけた杣小屋が見えた。斜めになった屋根はぺんぺん草で覆われ、板壁は半ばはがれている。野と森の境界に半ば埋もれかけたこの小屋を見つけて、僕はぽつねんと想像した。あそこから出てくるのは千年昔の老人か、あるいは密命を帯びた来るべき兵士か。

 

 するとかつて同様に遠い彼方への幻想にとりつかれ、しかし僕とは逆に未来に身を投げて山中に失踪した君の問いかけが、青空の果てから微かに聞こえてくる。

―千年昔の老人の世界に隠れようとしたお前と、過去の一切から決別しようとした俺がここで会う。二人とも「現在」から追われてこの野原でばったりであったら、俺たちはどのような挨拶をしよう―。      

 

 僕には答えが分からない。

 だから、お前がかって作った歌の端切れを思い浮かべて口ずさむ。

―悲しいときは野に行こう。そしてゆっくり寝そべって、心のままに空をみよう。鏡のような空をみよう。空に飽きたら、ああ眠りにつこう。

 

 この野にはもう誰もいない。五月の空はただ青く、春の野はかく密やかに、置き去りにされた瞳のように静まりかえる。空は未来の比喩たりえず、それゆえ君があの昏い森から帰ってくる姿も幻にすぎぬ。コートをはおった君の姿が空の青さに溶けかかっている。

僕の下手な歌声は野の丸い空にたちまち消え去る。悲しいときは野にいこう。そしてゆっくり寝そべって、心のままに空をみよう。鏡のような空をみよう。