ワキ毛を伸ばしている。

私がワキの処理をしなくなってから、もう4ヶ月近くになる。初めは「女のワキ毛ってどこまで伸びるんだろう」という単純な疑問からだった。数週間もすると毛は立派に生え揃い、伸びきって成長を止めたところで、好奇心も止んでしまった。そして、ワキ毛は私の日常になった。生えてしまえば何てことない、ただの毛である。

中学生のとき初めてワキから毛が生えて、当時の私はとても悩んだ。「どうして私にだけこんな毛が生えるのか」「こんな自分は誰にも見られたくない」常に自分の身体にコンプレックスを感じていた。それが今では、どうか。剃毛の必要性を全く感じていない。あのとき私があんなに恐れていたものは、一体何だったというのだ。

ワキ毛を伸ばすことは、とても気持ちがいい。なんだか以前より自然体でいられる気がする。思うに、その理由とはつまり「性の逸脱」に他ならないのではないか。長きに渡りワキ毛とは、女性にとってひた隠しにすべき恥の現れであった。カミソリを使うと毛が濃くなるという懸念や、処理しても黒ゴマが残るという不安に私たちはずっと心を燃やしてきた。ワキ毛を伸ばせば、それらを全て捨てることができるのだ。自分は女だからワキの処理をする、という固定概念から一旦、離れる。これぞまさしく「女性性からの解脱」である。

この方法は「女だなんて思われたくない強気な女性」にこそお勧めしたい。例えば酒場で見知らぬ男性と意気投合し、ゆきずりの行為に及びそうになった場合でも「あっ私今日ワキ毛生えてるんだ」と思い出せば服を脱ぐのもためらうだろう。また、もし親しくしていた友人がある日突然襲いかかってきても、フサフサのワキ毛を見れば性欲も一瞬にして冷めてしまうだろう。ワキ毛とは、女性であることの大いなる煩わしさからあなたを解放してくれるのだ。

前回、女は所詮女だと書いてしまったが、私だって女であることを悔しく感じるときはある。女になりたくないときはある。そんなとき、ワキ毛の存在は私の身を守ってくれる気がする。なんとなく、そんな気がする。

まあでも、もうすぐ半袖の季節になったら今度は永久脱毛するんだろうな。単に処理が面倒なだけ、とは決していわない。
男と女の関係は、詰まるところ「セックス」だと思う。

女はどうしたって女であるし、男は男である。世の中とてもシンプルだ。相手が異性である限り、どこまでも平行線の関係というのは恐らく存在しない。いつかどちらかが(あるいは双方が)セックスをしたくなる。プライベートでも、ビジネスの場であっても。

「私をひとりの人間として見てほしい」

今やジェンダーという言葉が流行して、男女平等だとさんざ唱われて、女である私たちはついそんなことを思ってしまうかもしれない。しかし、違う。私は性別も含めてすべてひとつの「私」という存在なのだ。「女として見られたくない」そう心の中で叫ぶとき、それは相手に男として扱われることを願っているのか?間違いなく否、である。女が女であること、それは単なる事実に過ぎない。誰かが私と向き合おうとするとき、その事実から目を背けることがあれば、それこそ真摯ではないと私は思う。

だから、仕方がないのだと考えることにした。長いあいだ友情だと思って大切にしてきた関係がいとも簡単に崩れてしまっても、仕方がないのだ。とても悲しいし残念だけれど、目を瞑って、我慢。
ふたたび料理について。

女性の場合、普段料理をしない人でも、野菜を切ったり魚を焼いたりと基本的なことはこなせる場合が多い。しかし男性は違う。男性が「料理をしない」と自己申告したとき、それは「基本も何も全く知らない」と思った方がいい。ひとり暮らしの経験があれば電子レンジの使い方くらいは知っているだろうが、それ以降は絶望的だ。米を炊くことはおろか、「炊く」と「蒸す」の言葉の違いすらもしかしたら分からないかもしれない。

理由は単純。男性は狩りをする役、女性は家を守る役だからだ。女性はいくら口では「料理嫌いだから」と言っても、結婚をすればかなり高い確率で自分が料理する側になることを知っている。だから無意識的に料理を体得する。小学校の家庭科の授業や、母親が料理をする様などからコツコツと料理の基礎を学ぶのだ。そして男性は女性のこのような影の努力によって、料理の必要性を感じない日常を送っている。

ということは「料理ができる男」とは一体何なのか。

その前に、料理ができる人に対する一般的なイメージを男女別に考えてみよう。まず女性の場合、料理ができると聞けばまず家庭的で優しく慎ましやか、思いやりがあり牧歌的な女性をイメージするだろう。作るのもきっとクリームシチューやけんちん汁やロールキャベツなど、お腹にやさしくあたたかいものが連想される。まさに「おかあさん」の象徴である。

対して男性はどうか。料理のできる男性といえば、気難しく几帳面、完璧主義、襖に溜まったホコリに文句を言う、冷めたご飯は食べない、やたらと理屈をこねる、とあまり良い印象は思い浮かばない。作るものも、中華や韓国料理など辛いもの、炒めものや油もの、魚より肉、など身体によさそうでないものを好む気がする。職業でいえば漁師のような、職人気質の人。

そう。男性の場合、必要性から料理を学ぶというよりは、「自分が好きな味は自分にしか出せない」であるとか「他人が作る食事は信用できない」といった、何かしら「外部への不信感」と「自分への自信」から料理をするように感じられるのだ。だから料理をする男は何となく、怖い。

今までに何人か「料理ができる」と自称する男と付き合ったことがあるが、彼らの前で料理をするのはやりにくいことこの上なかった。私のつたない包丁さばき、目分量の味付け、杜撰な素材管理、そういうものが全てチェックされていると思うと、恐ろしいではないか。

それよりは、調理の技術も細かい味の違いも分からない男に料理を作る方が遥かに楽しいし、楽だ。自分で料理を作らない男は食べ物にこだわりがない場合が多い。何を食べてもおいしい。であれば、愛しい女が作ってくれたというだけでそれは極上の食事なのだ。レトルトのカレーもご馳走なのだ。それがいい。そのくらいゆるい方がいい。

あくまで、ダメ女の一意見に過ぎないのであるが。
たまに、「ものすごく話が合う男」というのがいる。初めて会って、ほんの少しふたりきりで話しただけで、それは解明されるだろう。そういう男と話しているときは、とにかく「自分は認められている」という気持ちで一杯になる。相手とすべてを共有していると信じ込んでしまうのだ。

その幻想にも似た直感は大抵の場合、単なる妄想ではない。本当に気が合う男に対しては、仲良くなる前にそれが分かってしまう。自分と似たような種類の思想を感じ取る能力が、たぶん人間には本能的に備わっているのだ。

ただし、そういう男と性的な関係を持つことが正しいかというと、必ずしもそうではないと思う。

例えば前回の話を引き合いに出してみよう。「休日を無駄に過ごすのが好きな男」と「休日を無駄に過ごす男が好きな女」が付き合ったとして、彼らは休日に外出することはほとんどないだろう。いつでも家でぐうたらして、それに何の疑問も抱かない。しかし「休日はアクティブに過ごしたい男」と「休日を無駄に過ごす男が好きな女」が付き合ったらどうか。最初こそいさかいは避けられないだろうけれど、いずれはお互いの価値観に触れ、新しい休日の楽しみ方を発見することができるに違いない。

生物学的に言っても、人間は自分にない遺伝子を求めてパートナーを探すのだ。ものすごく考え方の似た男女が生活を共にしたとして、それは一緒にいてどんなに楽であっても、決して進化はしない。本来的な意味での「発展」はないのだ。

久し振りに、ものすごく気が合いそうな男と出会ってしまったので、自分を律する意味も含め、こういうことを書いておく。
「好きな男のタイプは?」

という質問に「休日に夕方まで寝てしまうような男」とつい答えてしまう私は、いわゆる「ダメ男好きの女」だ。その事実をようやく最近認めることができた。

例えば、休みの日は海へ山へと駆け回りいつでも忙しくしている男。キラキラした瞳で将来へのキャリアプランを語る男。友情に厚く、1度かわした約束は必ず守る男。多彩な趣味と数々の輝かしい実績を持つ男。彼らはとても魅力的で、明日へのエネルギーに満ち溢れ、常に人の輪の中心にいる。彼らは社会にとって必要不可欠な存在である。我々一般市民が一般的に尊ぶべきは彼らのような存在である。それは分かる、が、いざそういう類の男を前にすると、私は眩しくて目も開けられなくなってしまうのだ。立派すぎる。立派すぎて、まったく現実味がない。

それよりも、少しダメなくらいが人間らしい。「明日は下北に買い物にいこうね」なんて話しながらだらだらと夜を明かし、結局翌日目が覚めたらもう外は暗かった、ああもうしょうがないまたやっちゃった、じゃあご飯でも食べに行こうか、なんて。そういうやり取りにこそ人生の神髄がある気がする。というか単純に、落ち着く。

堕ちていくひとを見るのが好きだ。それが自分の為であれば、尚よい。だらしない男、どうしようもない男、私の為にダメになってくれる男。そういう男の弱みに幸せを見出してしまう。

言うまでもなく、「ダメ男好きの女」である私は完全なる「ダメ女」である。
料理ができる女、というものに憧れる。

私の母は料理をしない人で、幼少期の食事の思い出といえばファミレスの外食とスーパーのお惣菜が中心だった。そのため、私自身「食事は家で作って食べるもの」という感覚がない。本来家庭で培われるべき料理の基礎知識やセンスなど、ほぼ無いに等しい。

そのことへの漠然としたコンプレックスがあり、女の友人の「料理が好きでいつも自炊してるの」「彼氏が来ると必ずご飯作ってあげるの」という類の話を聞くと、無条件で尊敬の念を抱いてしまう。仮に、付き合っている男が他の女に乗り換えてしまったとしても、「だってあいつ家庭料理のプロなんだよ」と言い訳でもされたら、憎しみや敗北感よりも先に相手の女を褒め讃えたくなるだろう。

私だって、いい年をして料理が全くできないわけではない。人並みに野菜を切ったり魚を煮たりすることはできる。しかしそれは私が考える「料理ができる」ということとは遠くかけ離れているのだ。料理ができる女というのは、例えば魚と一緒に煮込むための生姜をわざわざ擦りおろす女、ご飯に乗せるためだけにわざわざ三つ葉を刻む女、大根サラダがそれだけでは寂しいからとわざわざ帆立を茹でて交ぜるような女、である。

私だったら、生姜もニンニクも全て100円均一のチュープで十分だし、三つ葉や大葉など保存のきかない薬味は不要、食材を複数使って料理をすることなど無い。それらは食事のコストと手間を大幅にアップさせる行為でしかなく、そして何より「面倒くさい」のである。

しかし思うに、料理とはそれらの「わざわざ」が一番重要な要素なのではないか。食材選びから皿に盛りつけて運ぶまで、どれだけのこだわりと愛情を持って取り組んだか、そこでその料理の有難みは決まる。そういう意味で言えば、私のやり方では決して「価値ある食事」を提供することはできない。

羨ましいというよりは、私に備わっていない感性を持つ者への賞讃に近いと思う。料理ができる女たちよ、あなた方はまことに素晴しい。男でなくたって惚れてしまうのは当然である。
気の置けない友人たちと話していると、いつしか話題は自然と下ネタに発展するものだ。
その日もご他聞に漏れず、「祖チン」という単語がふと会話の中に出てきて場が湧いた。

イチモツが粗末だという事実が男性にとってどれだけ無念なことであるかを女性陣がひとしきり考察した後、それに反論するかのように男性陣から「女にだってペチャパイがいるじゃないか」と意見が挙がった。

ここで、貧乳をコンプレックスとしている女性の数名は黙って考え込んでしまう(もちろん私も)。ううむ、そうか、私は男に生まれたら祖チンだったのか。

それに対しひとりの友人(♂)が非常に模範的な解答をしたので、一同納得してしまった。以下の通りである。

「乳房の大きさには絶対的価値判断基準がなく、その価値は個人の趣味趣向に頼るところが大きい。巨乳で豊満な身体の女性に魅力を感じる男性もいれば、ペチャパイで華奢な女性に興奮する男性もいる。男性にとっては必ずしも、女性の胸が大きければいいというものではないのである。対して、男性の祖末な性器を見て喜ぶ女性は恐らくいない」

例えるならば、
女の貧乳は男の「モヤシッ子」
男の祖チンは女の「ガバガバ」
といったところだろう。前者は単に趣味趣向の問題、後者は物理的に相手を満足させられるか否かの問題である。

その場にいたペチャパイ女たちが、彼に熱い拍手を贈ったのはいうまでもない。
欲深く計算高く薄情で白々しい。
真顔で嘘をつき、あっという間に手のひらを返す。
他人の傷には無頓着で、自分への裏切りには過剰反応。
それが、「女」という生き物でございます。

こんなに狡猾で我が儘な生き物を、私は他に知りません。


このブログでは、悲しいほどに「女」であるこの私が日々感じたこと、考えていることなどをほどほどに赤裸々に、かつなるべくややこしい表現を抜きにして綴っていきたいと考えています。

ただ、あくまで私という存在はひとつのサンプルに過ぎません。すべての女性が私と同じような考えを持っているという過信も勿論ございません。

この女、こんなくだらないこと普段考えてるんだぜ、あったまわりいの、くらいの軽いテンションでお読みいただければ、これ幸いです。

それでは何卒よしなに。