ベンチャー・キャピタリストの困難で楽しい毎日 -6ページ目

やったぜニッポン!民間ロケット国内初、宇宙空間到達!

  3度目にしてようやく成功しました。勿論、1回目の実験から、必ず成功すると思っていましたけどね。



 

 国内にロケット・ベンチャーはいくつかありますが、宇宙一番乗りはやはりインターステラテクノロジズでした。「MOMO3号機」が、青空を突き抜けて真っ直ぐに上昇していく様は、清々(すがすが)しい連休の陽気と相俟(あいま)って、実に気持ちいい光景でした。


 

 MOMO3号機は、高度100kmからの映像も送ってきてくれました。闇にくっきりと浮かんだ青い地球の輪郭は、今更ながらに、日本のロケットベンチャーが漸く宇宙空間への到達を果たしたんだという感慨を深めました。


 

 余談ではありますが、「宇宙」の定義としては様々ありますが、高度100kmより上空を宇宙とする見方が最も流布している基準と言えるでしょう。高度100kmといっても、皆さんは具体的なイメージを想像できるでしょうか?


 

 経営学という自分の専門領域を持ちながら、畑違いのJAXAの委員を委嘱(いしょく)された当時、私はまだ高度100kmも、高度400km(国際宇宙ステーションが回っている軌道の高度です。)も、明確なイメージを持てていなかったことを覚えています。ある時、「地球をバスケットボールにたとえると・・・」という素人向けの講義を聴かせていただいた時に、国際宇宙ステーションの位置が、まるでバスケットボールの表面にこびりついているような高さでしかなかったことに驚きました。


 

 そういえば、国際宇宙ステーションから送られてくる映像は、地球全体を見渡せるわけでありません。地球の丸みは感じつつも、地表にごく近い上空を、まさしく「地球にへばりつくように」移動していくに過ぎない映像であったことにあらためて気づき、自分が宇宙というものをいかに抽象的にしか捉えていなかったかを反省させられたものでした。実際の宇宙には複数の軌道があり、低軌道、中期道、静止軌道、太陽同期軌道など、それぞれの軌道に役割があり、人類はそれを区別して利用しようとしている。そんな現実をきちんとイメージできるようになったのは、委員を委嘱されて半年ほどたった頃だったろうと思います。


 

 宇宙の入り口とされる高度100kmは、この国際宇宙ステーションが回っている軌道の4分の1の高さです。今回のMOMO3号機から送られてきた映像も、まさに地球の丸みは感じつつも、地球全体を球と捉えているわけではない映像だったことを、皆さんも認識できたでしょう。しかし、そこに到達することがいかに難しいか。それは、過去のロケット開発の歴史を振り返れば分かります。そして、今回の日本の宇宙ベンチャーの成功は、間違いなく、その歴史に新たな1ページを加えることになったのです。



 

 今回の成功や、はやぶさ1号機の帰還、2号機の成功などを機にして、宇宙開発が、日本社会のリスクに対する見方を変えてくれたらいいな、という希望を持ちました。米国社会と違って、日本社会では、「リスク」を忌避(きひ)し、「失敗」を蔑視(べっし)するような風潮がまだまだ抜けていません。しかし、リスクを積極的に引き受けて、一定の失敗を許容するような姿勢がない限り、画期的な成果を上げることは困難です。パソコン、インターネット、バイオ、AIの例を持ち出すまでもなく、充分な技術基盤がありながら、日本が世界に先駆けて商業的な成功を収められない理由の第一は、このリスクと失敗に対するネガティブ・イメージが根強いことにあるのではないかと思っています。



 

 我々証券アナリストは、赤字企業であっても、その赤字が「プラスの赤字」か「マイナスの赤字」かをよく考えます。「プラスの赤字」とは矛盾した言葉に聞こえるかもしれませんが、要は、次の成功につながるプラス要素を含んだ上で赤字になっているかどうかを判断している、ということです。



 

 「失敗」の評価も同様だと思います。はやぶさ1号機は失敗の連続でしたが、それが「プラスの失敗」であってくれたおかげで、2号機が快挙を連発している今があるわけです。もし、1号機が地球への帰還を果たせずに、プロジェクトに「マイナスの失敗」の烙印(らくいん)が押されていたら(そうなった可能性は決して低くはなかったはずです。)、1号機から得られた知見や可能性は全て灰燼(かいじん)に帰してしまったはずです。



 

 宇宙開発は、現段階では失敗の連続となりうる定めを持っています。その失敗にどう向き合うべきか、失敗の可能性が高い中で、リスクを取って進むことがいかに尊(とうと)いことか。日本社会全体が、こうした許容と判断を身につけられれば、日本の宇宙開発は、もっと豊かで力強いものになってくれるはずです。青空を駆け上がっていくMOMO3号機の勇姿を見ながら、そんなことを考えていました。

 

 

 

 

 

令和元年 ~むかしの花見は「梅」だったことなどあれこれ③~

 

<前回から続く>

 

 

 

 「令和」の改元を祝いつつ、久しぶりに目にした「貧窮問答歌」を最後に掲げましょう。「令和」の時代が、貧窮問答歌に詠まれたような惨状に陥ることなく、梅の花の歌のように優美で平和な時代となることを願って。

 

 

 

 

 

風交(ま)じり 雨ふる夜の 雨交(ま)じり 雪ふる夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに 然(しか)とあらぬ ひげ掻(か)き撫(な)でて 我(あれ)を除(お)きて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有(あ)りのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜(よ)すらを 我(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世(よ)は渡(わた)る 天地(あめつち)は 広(ひろ)しといへど あ(吾)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 我(あ)がためは 照りや給(たま)はぬ 人皆か 我(あ)のみや然(しか)る わくらばに 人とはあるを 人並に 我(あれ)もなれるを 綿もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけ下がれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解(わらと)き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方(かた)に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂(うれ)へ吟(さまよ)ひ かまどには 火気(ほけ)吹(ふ)き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣(す)かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて ぬえ鳥(どり)の のどよひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端(はし)切ると 言へるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道 

 

 

 

 

 

 

 

世の中を憂(う)しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば  

 

 

 

 

 

令和元年 ~むかしの花見は「梅」だったことなどあれこれ②~

 

<前回から続く>



 その梅花の和歌三十二首を並べてみると、次の通り。

 

 

 

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を折りつつ楽しき終へめ  大弐紀卿

 

梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも  少弐小野大夫

 

梅の花咲きたる園の青柳は縵(かづら)にすべく成りにけらずや  少弐粟田大夫

 

春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ  筑前守山上大夫

 

世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを   豊後守大伴大夫

 

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり   筑後守葛井大夫

 

青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし   某官笠氏沙弥 

 

我が園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも   主人

 

梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ   大監大伴氏百代

 

梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも   少監阿氏奥島

 

梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな   少監土氏百村

 

打ち靡く春の柳と我が屋戸の梅の花とをいかにか分かむ   大典史氏大原

 

春されば木末(こぬれ)隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に   少典山氏若麻呂

 

人ごとに折り挿頭しつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも   大判事舟氏麻呂

 

梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべく成りにてあらずや   薬師張氏福子

 

万代に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし   筑前介佐氏子首

 

春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに   壹岐守板氏安麻呂

 

梅の花折りて挿頭せる諸人は今日の間は楽しくあるべし   神司荒氏稲布

 

年のはに春の来らばかくしこそ梅を挿頭して楽しく飲まめ   大令史野氏宿奈麻呂

 

梅の花今盛りなり百鳥の声の恋(こほ)しき春来たるらし   少令史田氏肥人

 

春さらば逢はむと思()ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも   薬師高氏義通

 

梅の花手折り挿頭して遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり   陰陽師

 

春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く   算師志氏大道

 

梅の花散り乱(まが)ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて   大隅目榎氏鉢麻呂

 

春の野()に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る   筑前目田氏眞人

 

春柳かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒坏の上()   壹岐目村氏彼方

 

鴬の音聞くなべに梅の花我ぎ家の園に咲きて知る見ゆ   對馬目高氏老

 

我が屋戸の梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ   薩摩目高氏海人

 

梅の花折り挿頭しつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ   土師氏御通

 

妹が家に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも   小野氏国堅

 

鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子が為   筑前拯門氏石足

 

霞立つ長き春日を挿頭せれどいやなつかしき梅の花かも   小野氏淡理

 

 

 

 4番目の歌を物(もの)した「筑前守山上大夫」とは「山上憶良(やまのうえのおくら)」のことなんですね。今回あらためて巻第五を読み直してみて、憶良の歌が秀逸であることを再認識させられました。「山上憶良」といえば、日本史で「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の作者としてご存じの方も多いでしょう。

 

 

 

「憶良(おくら)らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も吾(わ)を待つらむそ」


 

「瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ」

 

 

「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も何せむに まされる宝子に如(し)かめやも」

 

などの歌も有名です。

 

 

 

 憶良といえば、貴族の官僚社会にありながら、農民の貧困や家族の愛情に目を向けた社会派的な歌人として記憶に残っています。当時の貴族社会でこうした社会問題に関心を持った官僚は少数派でしたでしょうから、私のなかの社会科学的な素養に響いているのかもしれません。

 

 

 

 しかるに、今回の歌は、「春さればまづ咲く屋戸(やど)の梅の花 独り見つつや春日暮らさむ」という優美な歌です。憶良の別の一面を見たような気がしたのと同時に、麗らかで華やいだ春の空気が伝わってくるようで、つくづく秀逸な歌人だなと感心させられます。

 

 


<つづく>

 

令和元年 ~むかしの花見は「梅」だったことなどあれこれ①~

 


 

 

 

 新元号は「令和」。

 

 

 

 平成の改元の際も同様でしたが、新元号というものはすぐに馴染(なじ)めず、違和感が拭いきれないものです。それでも新元号に対する巷(ちまた)の受け止めは、「平成」改元時より好意的なのではないかと感じられ、私も個人的には良い印象を持っています。

 

 

 

 万葉集は巻第一から巻第二十まで、たいへん長い編纂になっていますので、勿論私も全部読んだことはありません。

 

 

 

 件(くだん)の一節は、万葉集巻第五(まきだいご)のなかにある「梅花の歌三十二首、序をあわせたり」の序文に認(したた)めてあります。早速図書館に行って、高校時代からお世話になっている「岩波書店 新日本古典文学体系」を渉猟(しょうりょう)してみました。

 

 

 

 原文は次の通り、漢字だけの文章、

 

 

 

天平二年正月十三日、萃于師老宅、申宴会也。于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。(出典:岩波書店 新日本古典文学体系 万葉集 一)

 

 

 

 という具合です。

 

 

 

 ひらがなが発明されるのは、奈良時代から平安時代に移って、遣唐使が廃止された後、国風文化が盛んになる頃を待たねばなりませんので、万葉集は漢文そのもの、またはひらがなの元となった万葉仮名までしか使用されていません。今回の改元に当たっては、歴史上初めて出典を我が国固有の国書とすることが重視されたということですが、原文の字面(じづら)からは、あまり我が国固有という印象を持てません。

 

 

 

 しかし、詠(よ)まれている感情や気風は、我が国固有のものといって良いでしょう。

 

 

 

 先の原文を、読み下し文に直すと以下の通り。

 

 

 

天平二年正月十三日、師老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会を申(の)ぶ。時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)、気淑(うるわし)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かをり)に薫(かを)る。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移りて、松は羅(ら)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕(ゆふべ)の岫(くき)に霧結びて、鳥はこめのきぬに封(とざ)されて林に迷(まよ)ふ。庭に新蝶(しんてふ)舞ひ、空に故雁(こがん)帰る。ここに於て、天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(ほか)に開く。淡然(たんぜん)として自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)として自(みづか)ら足る。若(も)し翰苑(かんゑん)に非(あらざれ)ば、何を以(も)ってか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古今(ここん)それ何ぞ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園梅を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。(出典:岩波書店 新日本古典文学体系 万葉集 一)

 

 

 

 菅官房長官の発表では、「気淑」は「気淑(きよ)く」と読み下していましたが、「岩波新日本古典文学体系」では、「気淑(きうるわし)く」と読んでいました。読み下し方には幾通りものバリエーションが考えられますが、いずれにしても、「新春の良い月頃となって気候もたいへんに麗(うるわ)しい」という意味でしょう。日本人ならではの、自然と一体になって季節を楽しみ寿(ことほ)ぐ感性が溢(あふ)れています。

 

 

 

 「奈良時代の花見は、桜ではなく、梅であった。」という話を聞いたことがあります。桜が花見の主役になるのはずっと後のことで、農耕民が田植え時期の目安として桜を愛でる文化が根付いてからです。奈良時代のこの頃は、花見と言えば貴族独占の楽しみ。しかも、中国伝統の詩歌文芸とともに輸入された梅が主役です。

 

 

 

 「令和」の出典となったこの序文も、万葉集の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)のお父さんである、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅に集められた貴族たちが詠じた梅花の和歌三十二首を、旅人(たびと)が編纂したという誂(あつら)えになっています。

 

 

 


 <つづく> 
 

 

 

はやぶさ2の1回目のタッチ・ダウン、見事すぎました!

 


 

 「人類の手が新しい小さな星に届きました。」

 

 JAXAの津田プロジェクト・マネージャーが、2019223日午前11時にそう会見した、はやぶさ21回目のタッチ・ダウンは、この会見に先立つ午前729分頃に達成されました。




JAXA相模原 はやぶさ2模型展示

 

 私はというと、JAXAが開設した「はやぶさ2タッチ・ダウン運用ライブ配信」の画面で、「その時」を固唾(かたず)を飲んで見入っていました。タッチ・ダウン成功の報告が伝わったときのミッション・コントロール・ルームの喜びよう。私も思わず叫びましたが、喜びの輪が日本国中に共有された感じがして、思わず目が潤む(うる)みました。

 

 今回のシーケンスで私が最も驚いたのは、直径6メートルの狭い範囲にはやぶさ2を着陸させねばならなくなったことです。アポロ11号の月着陸の場合でも、確か着陸予定地を1km以上もずれて着陸したということだったと記憶しています。また、同じく日本現在開発中の月面着陸計画SLIMの場合でも、精度100m以内を目指して「ピンポイント着陸」と称しているはずです。

 

 これに対しリュウグウでは、小惑星自体の大きさが直径900m程度、地球からの距離約3億キロ、通信に要する時間は往復で約40分という桁外れに困難な状況下で、精度直径6mの範囲に着陸させるというのですから、これこそ「ピンポイント着陸」の名に恥じないでしょう。もちろん月の場合は重力の影響がより大きいので、かえって難しいということがあるのかもしれませんが、いずれにせよ、直径6m以内の着陸は、もはや「ピンポイント着陸」を超して、狂気の沙汰としか言えないように思えました。その「超ピンポイント着陸」に成功したわけですから、これは日本の今後の惑星探査に、計り知れないくらいの貢献を及ぼすはずです。

 

 はやぶさ2の次の注目点は、「インパクター」を用いたタッチ・ダウン・シーケンスです。このミッションは非常に複雑です。第一段階として、はやぶさ2は、本体から「インパクター」と「分離カメラ」を切り離します。第二段階で、はやぶさ2本体は、リュウグウの影に身を隠して衝撃を回避する位置まで移動します。第三段階で、切り離した「分離カメラ」で撮影しながら、「インパクター」を作動させます。「インパクター」は、写真のように表面を平らな銅板でふさがれているのですが、この銅板の内側で爆薬を爆発させることで、秒速2kmの速度(因みに拳銃の弾は秒速800m程度。)で銅板を発射します。発射された銅板は、爆風により、平らな板から丸い球のように変形して小惑星表面に衝突します。すると、直径数メートルのクレーターが形成され、小惑星内部の岩石が露出します。ここで、第四段階として、隠れていたはやぶさ2本体がクレーター上空まで移動し、降下後、クレーターにタッチ・ダウンすることによって、小惑星内部の岩石を採取します。このプロセスも想像を絶するような、複雑で困難な手順となっています。




JAXA相模原 インパクター展示

 

 そもそもはやぶさプロジェクトの目的は、太陽系の成り立ちを調べること、特に、小惑星が地球に水や有機物をもたらしたとする仮説を検証することにあるはずです。地球に帰還して無事サンプルを人類に届けるところまで、まだまだ困難は続きますが、今回のチームならきっと成功してくれることでしょう。祈っています。