令和元年 ~むかしの花見は「梅」だったことなどあれこれ①~ | ベンチャー・キャピタリストの困難で楽しい毎日

令和元年 ~むかしの花見は「梅」だったことなどあれこれ①~

 


 

 

 

 新元号は「令和」。

 

 

 

 平成の改元の際も同様でしたが、新元号というものはすぐに馴染(なじ)めず、違和感が拭いきれないものです。それでも新元号に対する巷(ちまた)の受け止めは、「平成」改元時より好意的なのではないかと感じられ、私も個人的には良い印象を持っています。

 

 

 

 万葉集は巻第一から巻第二十まで、たいへん長い編纂になっていますので、勿論私も全部読んだことはありません。

 

 

 

 件(くだん)の一節は、万葉集巻第五(まきだいご)のなかにある「梅花の歌三十二首、序をあわせたり」の序文に認(したた)めてあります。早速図書館に行って、高校時代からお世話になっている「岩波書店 新日本古典文学体系」を渉猟(しょうりょう)してみました。

 

 

 

 原文は次の通り、漢字だけの文章、

 

 

 

天平二年正月十三日、萃于師老宅、申宴会也。于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。(出典:岩波書店 新日本古典文学体系 万葉集 一)

 

 

 

 という具合です。

 

 

 

 ひらがなが発明されるのは、奈良時代から平安時代に移って、遣唐使が廃止された後、国風文化が盛んになる頃を待たねばなりませんので、万葉集は漢文そのもの、またはひらがなの元となった万葉仮名までしか使用されていません。今回の改元に当たっては、歴史上初めて出典を我が国固有の国書とすることが重視されたということですが、原文の字面(じづら)からは、あまり我が国固有という印象を持てません。

 

 

 

 しかし、詠(よ)まれている感情や気風は、我が国固有のものといって良いでしょう。

 

 

 

 先の原文を、読み下し文に直すと以下の通り。

 

 

 

天平二年正月十三日、師老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まり、宴会を申(の)ぶ。時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)、気淑(うるわし)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かをり)に薫(かを)る。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移りて、松は羅(ら)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕(ゆふべ)の岫(くき)に霧結びて、鳥はこめのきぬに封(とざ)されて林に迷(まよ)ふ。庭に新蝶(しんてふ)舞ひ、空に故雁(こがん)帰る。ここに於て、天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(ほか)に開く。淡然(たんぜん)として自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)として自(みづか)ら足る。若(も)し翰苑(かんゑん)に非(あらざれ)ば、何を以(も)ってか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古今(ここん)それ何ぞ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園梅を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。(出典:岩波書店 新日本古典文学体系 万葉集 一)

 

 

 

 菅官房長官の発表では、「気淑」は「気淑(きよ)く」と読み下していましたが、「岩波新日本古典文学体系」では、「気淑(きうるわし)く」と読んでいました。読み下し方には幾通りものバリエーションが考えられますが、いずれにしても、「新春の良い月頃となって気候もたいへんに麗(うるわ)しい」という意味でしょう。日本人ならではの、自然と一体になって季節を楽しみ寿(ことほ)ぐ感性が溢(あふ)れています。

 

 

 

 「奈良時代の花見は、桜ではなく、梅であった。」という話を聞いたことがあります。桜が花見の主役になるのはずっと後のことで、農耕民が田植え時期の目安として桜を愛でる文化が根付いてからです。奈良時代のこの頃は、花見と言えば貴族独占の楽しみ。しかも、中国伝統の詩歌文芸とともに輸入された梅が主役です。

 

 

 

 「令和」の出典となったこの序文も、万葉集の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)のお父さんである、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅に集められた貴族たちが詠じた梅花の和歌三十二首を、旅人(たびと)が編纂したという誂(あつら)えになっています。

 

 

 


 <つづく>