スピリチュアル依存
私がスピリチュアルを知ったのは30代の頃です。当時江原啓之さんがよくテレビに出ていたのもありますが、江原さんの本を読んだのがきっかけでした。両親ともに実家は神道なので子どもの頃から神棚があり、「神様」という存在は身近に感じていました。畏怖のようなもの、でしょうか。でも、江原さんの本を読んで一番ストンと落ちたのは「人は、魂の存在である」ということです。肉体と精神と魂。だからか、と、子どもの頃に感じていた、肉体と心(自分)のズレのような感覚の正体が分かったような気がしたのです。でも、霊が見えるとか、そういうものは全くありません。あくまでも、誰にもあるような直感であり、感覚的なものです。私は、人がスピリチュアルを語る時に、ざっくり3パターンある気がしています。1つは「どっぷり浸かっている」、2つ目は「すごく否定する」、3つめは「そのどちらでもない中庸」。どれがいいとか悪いとか言うつもりはないし、そんなこと言える立場でもないので、単に私の考えです。2つ目の「すごく否定する」人はよく分からない。本当はそういう力(霊的な)が欲しいのかもしれないし、何か別の理由でイヤなのか。3つ目の「中庸」は、個人的には理想的だと思う。自分がそうありたいと思うけれど、時にそうでないこともちろんある。人間が、霊的存在であって、でも今は物質世界で生きている以上は……。1つ目の「どっぷり浸かっている」人の中には2パターンあって、本当に霊的な人と、そうでなく依存的な人がいる気がするんですよ。私が思う依存的な人を表す表現が最近読んだ小説の中にあったので紹介します。「あなたの中で、きちんと自分のものになったのでしょうか。ただ言われるままに行動を起こしただけで、期待した結果が得られないからといってさらなる手を求めるのは怠慢というものです」(『猫のお告げは樹の下で』青山美智子著)でも、霊感商法は絶対に許せません。人が人を思う気持ち、人を愛する気持ちにつけ込むこと、それを利用するのは絶対に、許せない。激しい憤りしか感じません。息子や孫を語る詐欺も同じですが。今は、それとは別の話で、スピリチュアル依存について書いています。自分で考えることを止めてはいけない。諦めてはいけない。自分がどう思うか、どう考えるか、どうしたいか。人生は、自分と向き合うことだとも思うのです。まずはそこから始まると思います。私も道半ば……。ありがとうございました。「子どもの笑顔とイキイキは、大人のイキイキから。」山﨑里美(*^-^*)