「 冬の華、蕾 」の続きです。

 

『冬の華』(降旗康男監督 東映 1978年)で主人公である高倉健が46歳である必要も、そもそも年齢を明確にする必要もあるようには見えません。のちの『夜叉』(降旗康男監督 東宝・グループ・エンカウンター 1985年)でも高倉健はかつて大阪ミナミで名を轟かせたやくざ者でそのことを隠したまま妻の実家の漁村に移り住んで15年になるという設定ですが、映画の後半でかつての親分と連絡を取っていまだにしっかりと名前が通じるわけですからそもそも相当なところまで上り詰めたやくざ者だったわけでしょ、それに15年足したのが現在の年齢とすると高倉健のこの役はいくつなのか、しかしそんなことは明確にする必要がありません。過去に厚みを持たせて人格に風格を作りしかし足を洗った年数をしっかり刻むことで村に根付いた確かさとそれを失う重みを担わせる、しかしそれだけの月日でもかつての威風がそれなりにとどまっているところから逆にかつての威風の人並み外れ方がいまに伝わってくる、この個々の挿話の時間的厚みを単純に足してしまうと主人公は相当な年齢になってしまいます。しかし年齢を明確にしないことでこれだけの時間の重みを背負わせながら主人公は(何となく見た目に)若くいられるわけです。


しかるに『冬の華』の脚本家である倉本聰は高倉自身の口でわざわざ46歳であることを明確にさせしかもその46歳は撮影時の高倉健の実年齢であるわけですからその意図は明らかで、要するに<健さん>という虚像の向こうにいる高倉健を引き出してみたいということでしょう。倉本のその切り口が先の、等身大の年齢ともうひとつ性を高倉の内側に持たせることです。そうでしょう、<健さん>というのは女たちが口の端でやるせなさを噛んで抱きすがってもそれをポンッと突き放し挙句に決死の覚悟で座敷の隣の間に女の身でふたつ枕を用意しても(マキノ雅弘監督『昭和残侠伝 唐獅子仁義』東映 1969年)それを蹴って席を立つわけでそういう超絶した人物を中年の、ありふれたというか(ちまちまと自尊心に取り巻かれた)等身大の性に置いてみるというのは倉本の狙うところでして、こののちふたたび高倉を相手に脚本を担当した『駅/STATION』(降旗康男監督 東宝 1981年)でも行きずりというには情を交わし合った倍賞千恵子と関係を持った朝隠れて手鼻をかむように高倉に女の、昨夜のさまを口走らせています。それは例えば『夜叉』(降旗康男監督 東宝・グループ・エンカウンター 1985年)で五十路の裸体で抱きかかえては田中裕子と優雅な濡れ場を披露するのとはまったく異質で後者が飽くまで<健さん>の範疇を滑らかになぞっているのだとすれば、倉本はその滑らかに爪を立てているわけです。
 

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それにしても倉本聰は巧妙です。『冬の華』では服役中の高倉が自分をはるかな外国にある叔父であると偽り孤児である少女に経済的な援助を続けていて少女は姿の見えないその恩人をいつも目に浮かべては彼に感謝の手紙を書いてます、なんて筋立てを聞いてまず思い浮かぶのは「あしながおじさん」の物語でしょう。それがこの映画の、見せかけの顔です。しかしこう言い換えたらどうでしょうか、心ならずも手に掛けることになったひとの、その最愛のひとを守りながらともに(人生という)旅を続けていく... そう、「沓掛時次郎」ですよ。やがて男がその最愛のひとへの恋心にちりぢりになるあの物語が「あしながおじさん」の顔の下に埋め込まれているわけです。刑務所の作業中少女への経済援助を聞きつけた秋山勝俊が高倉と少女とのこれからに舌なめずりしてみせて高倉に錐で手を刺し貫かれますがこのときの高倉の怒りは純粋に自分が殺した兄貴分の遺児と自分の(せめてもの)贖罪が汚されたことへの怒りです。しかるに出所して実際その娘を見てしまうと...  この場面一緒に歩く同級生もいるんですが年齢相応に手よりも大きなおむすびといった感じの彼女たちがその娘であったら高倉は心静かに遺児の成長に瞑目して物語はそこで終わったことでしょう。ところが彼女たちと連れ立つ池上季実子ははっきり周囲と隔絶した大人の美貌を燦然と振りまいていてその艶やかさが一歩ごとに自分と距離を縮めてくることに高倉は彼女を押し留める視線を失ってしまいます。ご承知の通り「あしながおじさん」の結末にしたところで<おじさん>と少女との結婚です。しかし児童文学のそんな敬虔な一線を大きく踏み越えて自分が殺した男の娘、それも17歳という娘の美しさに46歳の中年男の何かが大きく触れていくわけです。ただ秋山勝俊がニタニタとせせるような少女へのあけすけな欲望というのではなく、そこには触れ得ない美しさを前にして自分の失われた若さが痛みのように逆巻いてもいますし殺した男の娘という腸に捩じ込まれた禁忌がじりじりと男を駆り立ててもいるのです。しかしそれもこれも娘への形にできない欲望が真ん中にあってこそでそれがぼんやりとではあれ性欲であるため主人公が押しとどめようとすればするほどそれは高まっていくわけです。(そして池上に魅了されつつこの性欲を否定しようとすると「あしながおじさん」的な結婚が浮上してきてそれは滑稽な上に哀切でもあって性欲以上の不可能を帯びています。)
 

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ただ... 自分が殺した男の、それも年端もいかない娘に年甲斐もなく引き寄せられぐっと踏みとどまろうとすればするほどわれ知らず強く引き寄せられるなどという、そんな肌理の細かい情欲の芝居がそもそも高倉健にできるはずはなく(一度これを鶴田浩二ならと想像なさってみてください、ふたつのことが見えてくるように思います、ひとつは鶴田ならば体面と心が盃のなかの酒のように揺するほどずれて揺れている、そんな男の煩悶を見事に演じるでしょうし、ふたつはそうやって実現されてみるとこの映画の筋立てが思いのほか凡庸であるということです)、しかしいま『冬の華』を見て独特な感慨に陥るのは脚本家があれこれ引いた線をなぞりながらその意味するところは帯びずに高倉健が<健さん>を押し通したことにあって、だんまりの行きつ戻りつに主人公が何をしたいのかさっぱり見えてこないことにあります。高倉を<健さん>へと逃がしてしまったのには倉本の手落ちもあります。折角映画の冒頭で高倉が池部良を刺殺するその現場に娘を立ち会わせあまつさえ死骸の最初の発見者にもさせながら肝心の、この事件について娘が何かを記憶しそれをいつ想起するのかということがまったく抜けています。彼女は何も思い出しません。これでは高倉の心中を反射させるものがありません。事件についておぼろだった娘のフラッシュバックがある瞬間に父を殺す高倉の顔を記憶をというより現在の高倉との関係を突き破るように鮮明にする、そういう不安に立たされることがないわけです。でもこれって、言葉を変えるとこういうことでしょ、少女は中年男を拒否する可能性をあらかじめ奪われてその前に立たさせている... 中年男にとっては自分の内向的な煩悶が問題のすべてであるということでこれこそまさに中年的仕草というものでしょう。(結末で池上が男性として愛の対象にしているのが(自分ではなく)若い三浦洋一であるのを高倉は知りますが、17歳の少女の年端もいかない恋模様にまるで結婚でも取り交わすかのように三浦に足を洗わせるなんてあまりに気の早い話ですし(まずは自分の分に三浦をきちんと引き戻させるのが最初でしょうに)挙句に池上を通さずにそれを男たちの間で決めてしまってやはり少女自身の拒否を顧慮していないわけで何ともはや... )それにしても拒否する可能性を奪われ飽くまで進退の選択は男の側にあるというこの少女とは一体何なんでしょう、女子高に通い寮生活で大人びた美貌でバイオリンを奏で(同世代の通俗的な愉しみから身を引いて)名曲喫茶でクラシックに浸っては中年の男を<おじさま>と呼びのびやかな手紙の言葉は勿論お嬢さんの貞淑さながら何かその若い肢体をなぞるような溌剌さ、こういう道具立てのひとつひとつが中年脚本家の内面の性を顕にするようで何やら木乃伊取りが木乃伊になったかと。

 

 

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冬の華 降旗康男 池上季実子

 

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