例えば松田定次監督『天下の御意見番』(東映 1962年)です。三河武士以来の、鉾の収めようを知らない旗本と外様大名の行列が鉢合わせして譲れ譲らぬの意地の張り合いです。挙句の果てがお殿様を駕籠ごと堀に投げ落とす乱暴狼藉に幕閣たちはいよいよ旗本の粛清に乗り出します。戦場を駆けずり廻って血で血を洗った忠臣たちと天下安寧の御代に必要な振る舞いとがどうにも折り合えずやがて両者の間に立った大久保彦左衛門をのっぴきならないところへと押し上げていきますが、今日のお話はそこではないんです。冒頭の、旗本と大名が我先にと向かっていたところそれが将軍様への年始の御挨拶です。江戸城大広間にキャメラが開けると並み居る烏帽子に直垂の平伏する一堂の前を最初の挨拶が始まります。こういうときの一番最初というのは挨拶の儀礼、所作をひと通り観客に見せる役ですから、言わば一番画面に映るわけです。広間の突端まで進み出るとそこで献上の目録と脇差をお付きの者に渡します。自らは将軍の座に上がりひと声を掛けられるとここで献上品と下賜品が披露されて祝の一献をお流れに頂きます。ゆったりとそこまで映しますから案の定ふたり目以降は省略です。
例えば松田定次監督『赤穂浪士』(東映 1961年)です。言わずと知れた赤穂城明け渡しか城を枕に討ち死にか、忠義と面目に残された家臣のひとりひとりが胸算用に乱れに乱れる話し合いです。重ねるごとにひとり減りふたり減り日を追って身に迫るのは以降は浪人という現実でして武士であれ命あっての物種です。いよいよ内蔵助の胸の内を打ち明けるに足るまさに忠烈の面々が残った一座の真正面、大石がこれら頼もしい面々を見渡すところ、大石の近くに対座して画面に大きく映るひとがあります。先ほどの、将軍拝礼の一番手と同じひとです。大石が隠密に東下りをするその限られた供のなかにもやはり混じっています。これらを演じているのは明石潮、いづれも台詞はありませんが(まあ将軍様に盃を頂いて思わず「ははあ」とひれ伏したそれぐらいで)、いま見た通り何かこう、扱いがひとつ重いんです。明石は東映の脇を固めるひとりですからオープニングクレジットでも(それこそ赤穂浪士の血判状のように)横にずらずらずらっと並んだなかにあります。ですからひとつ重いと言っても下にも置かないというわけではないんです、下には置きながら他より筵一枚余計に掛けてやっているそんな感じなんです。
そもそも明石潮は戦前には大きく名前を轟かせた剣戟のスターです。ちょうど阪妻が高木心平、月形龍之介と連れ立つようにマキノプロの大部屋から時代のスターへと蹴上がっていった矢先、東亜キネマからの引き抜きにあって(以降マキノは東亜との、苦渋と忍従の離合集散に傷だらけの数年を送ることになるわけですが)当の阪妻は第三の道、個人プロを設立して抜けていった(秋篠健太郎『阪東妻三郎』毎日新聞社 1977.2)東亜で阪妻のあとを襲ってスターになったのが明石です。戦前を振り返る役者たちの回想にはしばしば明石の、大きく人気を誇った剣戟一座の名前が口にされます。しかしそれならば岡嶋艶子だって負けてはいないはずです。同じくマキノや東亜を渡り歩いて長く可憐なヒロインを演じ続けた岡嶋もまたこの時期東映の映画で名前を見ないことがないようなひとですが、いまでは役はそれなりです。その膨大な出演量と端役の、更にも小さいものでも顧みず(だって『温泉こんにゃく芸者』(中島貞夫監督 東映 1970年)なんて遠目に顔もろくすっぽ映らない蒟蒻農家の、もんぺのお婆さんですもんね)、何か撮影所に歯を立ててむしゃぶり付いているやり手婆の風情です。それからしてもやはり明石潮はひとつ重い、となるわけです。
もうひとつ、見てみましょうか、加藤泰監督『沓掛時次郎 遊侠一匹』(東映 1966年)。体よく客人を出入りにこき使ってなんて思っていると当の錦之助に逆ねじを喰らって詰め寄られる親分が明石潮です。日本間をぐいぐいと錦之助に押し寄せられそれ以上に自分が振りまいた口約束に首許を捻じ上げられてほうほうの体ですが、股旅物に付き物のあこぎな親分にしてはどこか憎めない愛嬌の肉づけがしてあります。大きな瞳に元は二枚目の、端正な面差しですからふっと画面に映えます。それもそのはず加藤泰に重用された俳優としては汐路章や沢淑子が有名ですが、明石もまたそのひとりです。東映諸作から『阿片大地 地獄部隊突撃せよ』(ゴールデンぷろ 1966年)のような個人プロ作品にも呼ばれ『宮本武蔵』(松竹 1973年)では武蔵を見送る物静かな宿屋の主人です。そうだからこそどっぷりと血の臭いが漂うようなモノクロームで主人公の青年の、情け容赦のない復讐と誰かの手をずっと舐めていたいような捨て犬の寂しさに寄り添う『みな殺しの霊歌』(松竹 1968年)では若者の危なっかしさをただ溜め息で見守るしかない食堂の親父になるわけです。ひとつ重い、不思議なような尤もなような。