カーロン愛弓『父・鶴田浩二』(新潮社 2000.06)は巷間見受けられるスター家族によるパパ大好き本とは幾分姿勢を異にしています。スターについて廻る虚飾とそれをまといつつ実人生を送っていくしかないひとりの人間の心中を紐解いてスターであることと父であることを巧みに縫い合わせていく、なかなか聡明な一冊です。岸恵子とのこと、佐久間良子とのことにも触れられていますし(松竹を揉ませに揉ませた岸との恋愛を断念したからこそ著者もまたこの世に生を享けたわけですから父娘ともにデリケートな一線でしょうが、いまや病床にあって死よりも遠い若かりし頃の恋人の面影を口にのぼらせる鶴田にもそれを聞く娘にも人生の甘美が流れるそんな一場面です)、誇大に喧伝された鶴田の戦争体験についてもまず事実であるところを認めた上で父の心情を綴っています。

とにかく著者の目の明るさが印象的です。梅宮辰夫や松方弘樹を可愛がったのも勿論彼らへの情愛あってのことですが、役者としての彼らの個性が自分を脅かすことのないことを見切った上のことなんていう洞察にはあざやかな切れ味さえ感じさせられます。この本に鶴田と山城新伍の不仲について言及があるんです。鶴田が山城を嫌ったのは山城のモダンで軽妙洒脱な才能を自分にはないものと疎んじたからというのですが...  著者の理智には敬服していますが、(だってクイズ番組の司会がしたいわけでもトーク番組で座持ちのいいチョメチョメ話を披露したいわけでもない鶴田浩二が山城のそんな才能に嫉妬する云われがないですものね)、やはり鶴田の嫌悪は生理的なもののように思います、少なくとも芝居の上での。

鶴田と山城が芝居でもっとも長く絡んだのはおそらく『次郎長三国志』(マキノ雅弘監督 東映 1963年)でしょう、何せ一本どっこの駆け出しの次郎長に最初に子分につくのが桶屋の鬼吉で冒頭からふたりの芝居が続きます。鶴田が山城をいつから嫌うことになったのか私は知りませんが、すらりとした立ち姿で青年次郎長を演じる鶴田は山城との絡みが何ともやりにくそうです。マキノ雅弘の『次郎長三国志』は次郎長よりも子分たちによって語りを廻していきますから、冒頭からしばらくは桶屋の鬼吉ひとりの切り廻しで(しかも鬼吉の前任はあの、芸の懐深い田崎潤でしょ)山城の重圧はあまりありますが、それにしても何かこうしっくりと行きません。勿論鶴田相手に山城の芝居は実直そのものです。

芝居について私があれこれいう前にまずは役者の言葉を引いた方がしっくり来るでしょうか。中村又五郎は言っています、「芝居ってのは自分だけうまくやったって、かえって浮き上がってしまうんです。バランスを崩してはいけないんで。相手あっての芝居です。この頃の役者は自分の芝居だけで精一杯で、相手を考える余裕のない人が多くてね。」(郡司道子『聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし』講談社 1995.12) 私なりに言い換えると役者には芝居をアンサンブルだと考えるひとと芝居を(自分の)表現だと考えるひとがあるということです。鶴田は勿論前者で相手の芝居を受けそれに重ねていくことで相手を引き立てつつ自分を(更に)引き立たたせようとします。一方の山城は相手の芝居を受けてもそれをそのまま返さずに、初手で仕切り直して自分の芝居を返してくる(これは喜劇の役者たちがよく見せる手際です。相手の芝居を受けながら間を詰めたり外したりして受け流し自分で仕切り直した芝居を相手に投げる、セリフはやり取りされるけれど芝居は絡まず一回一回お互いの芸が取り交わされるだけで、面白いけど芝居の情感は高まっていきません)、私が芝居の生理と言っているのはここです。

芝居を重ねていこうとする主役に、芝居を一回一回仕切り直してくる相手、鶴田の嫌悪も募ろうというものです。その後も鶴田と山城の絡みを注意して見ていますが、以降鶴田は山城を自分の懐に入れず何か足先でさばいている感じが画面からも伝わります。当然山城には更にも伝わっているわけですから不仲も当然と言えば当然です。(山下耕作監督『あゝ決戦航空隊』なんて確か直接の部下のはずですが絡みすらなくなって、山城がひとりごちるアップのはるか後ろをすたすたと歩いていく鶴田浩二... )さて山城以上にこの後者の姿勢を貫いたのが山城以上に鶴田が嫌っていた三国連太郎です(し私としては同じく最たるひとが渥美清です)が、そのことはまた別のお話に致しましょう。

 

・カーロン愛弓著 『父・鶴田浩二』 新潮社 2000年

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・マキノ雅弘監督 『次郎長三国志』 東映 1963年

次郎長三国志 次郎長三国志
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・郡司道子著 『聞き書き 中村又五郎歌舞伎ばなし』講談社 1995年