1989年8月2日ー電話の発明者アレキサンダー・グラハム・ベルー
アレキサンダー・グラハム・ベル。
「ベル」と聞けば、わかるだろう。
あの電話の発明者だ。
これを思いついた、ヒントが面白い。
「耳の不自由な人に、話をさせることができるのだから、
金属にも話をさせられるはずだ」
それもそのはず、彼の父親は話術の研究家で、
彼自身も音の出るメカニズムに強い興味を持ち、
ボストンに聾唖学校をつくったぐらいだ。
1876年に電話器発明。
77年にベル電話会社を設立した。
そして、この発明に与えられたボルタ賞(ナポレオン時代の
イタリアの物理学者の名前。電機のボルトは彼の名からとった)
をもとに聾唖教育を研究するボルタ研究所を創設している。
いまの科学者はカネのため。
彼のような科学者は、少なくなった。
1922年8月2日に死去。
1989年8月1日ー水の日ー
もう8月。
夏休みも、日一日と短くなっていく。
そして、夏は、これからが盛りだ。
きょう1日は「水の日」。
この日から一週間は「水の週間」という。
暑くなり、水の使用が増え、海、プールに行く機会が
多くなるので、一日を「水の日」に選んだのだろう。
一昨年は、東京も何年ぶりかで渇水に見舞われた。
昨年も、6月ごろまでは、危なかった。
ことしは、そんなことはウソのように、水は豊富にある。
しかし、油断はできない。
統計的にみると日本は、この10年、明らかに雨が少なくなってきている。
地球が温暖化しているという。
早くも、二つの影響が出ているのだろうか。
いつか“朝シャン”ができなくなるぞ。
1989年7月31日ー凱旋門の歴史ー
またもや、パリの凱旋門。
完成除幕式が行われたのは1836年の7月29日
のことだった。
ローマ帝国の再現を夢見て、建設を命じたナポレオンは、
すでに死亡。4年後に、セント・ヘレナ島から送り返された
遺体が、ようやく、その下をくぐった。
最も盛大だったのが、「ああ無情」などを書いた
ビクトル・ユゴーの葬儀のとき。
遺体は数十万の人々に送られて、凱旋門の下を
くぐったという。
1920年には、第一次世界大戦で戦死した無名戦士が
葬られた。
1923年、そこに永遠の火がともった。
完成してから153年 フランスの歴史が凱旋門の下を
くぐり、通り過ぎて行ったのだ。
新しくできたアルシュとともに、二つの門が、これから
複眼でフランスを見守る。
【関連記事】
1989年7月30日ー旭岳SOS事件とナスカの地上絵ー
北海道の大雪山系の旭岳(2290㍍)で
発見された「SOS」文字事件は、その後、
ナゾを深めるばかりだ。
女性の人骨、男性の助けを求める声の入った
録音テープ。
もうひとつ、世界のナゾとなっている、地上の絵
がある。
南米ペルーのアンデス山脈で発見された
巨大なナスカの絵模様だ。
荒涼としたナスカ高原に、長さ60キロ、
幅20キロにわたって、奇怪な鳥やサル、クモ、
魚の絵と三角・四角の幾何学模様が刻みこまれている。
みつかったのは60年ほど前。
多分、アンデス文明の栄えた西暦100~800年ごろの
ものらしい。
最近では宇宙人の基地説やメッセージ説まで飛び出している。
旭岳の「SOS」は何人のものだろう。
2011年7月
旭岳のSOS事件は、人骨は男性のものと後に判明。
当初、女性のものとされたので、謎が多い事件と
とりあげられた。
1989年7月29日ー円周率計算の熾烈な争いー
きのうは、コマーシャルの天才、平賀源内のことを
書いたね。
きょうは、同じ天才でも、何が面白いのかわからぬことで、
世界一を争っている男たちの話。
例によって、3.1415・・・で知られる円周率(π)の
計算のことだ。
東京大学の金田康正という先生が、このほど
5億3千6百87万ケタまで算出することに成功した。
この6月、アメリカの学者2人が4億8千ケタまで出し、
それまでの記録保持者だった金田先生の記録を
破ってしまったため、再挑戦した。
計算時間は日立のスーパーコンピューターを使って
67時間13分。
普通のコンピューターなら5,6年かかるという。
つまりコンピューターと頭脳の性能くらべだが、
凡人には、うなぎの方がいい。
2011年7月
現在は、小数点以下5兆ケタまで計算されているらしい。
1989年7月28日ー土用の丑の日と平賀源内ー
きょうは、うなぎの大厄日。
「土用の丑の日」だ。
こんな句がある。
丑の日の けむり窓より 昇天す
うなぎが焼かれ、 けむりとなって、
次々と天国に行く様子が、よく描かれている。
万葉の昔から、うなぎが夏負けの薬とされていたが、
土用の丑の日に食べるようになったのは
江戸時代からだ。
それも平賀源内が、うなぎ屋から宣伝を頼まれて
言いふらしたのだという話は、確か、前も書いたね。
いまでいえば、バレンタインデーのチョコレートのようなもの。
平賀源内が、いまに生きておれば、コマーシャルで大儲け、
PR会社の社長になっていたことだろう。
それだけに、奇人ともいわれ、最後は人を切り
獄中で病死した。
天才すぎたのだ。
1989年7月27日ー旅の語源ー
「旅(たび)」
この言葉の語源には、いろいろの説があり、面白い。
①「たどる日」、つまり、迷い尋る歩く日のことで、
それがつまって「たび」に。
②他のところで日を送ることから、本来は「他日」の意味だった。
③遠い辺境を意味する「外辺(たび)」を行くから。
④旅先では、たまにしか見ないものが多いから「たまに見る」
がなまった。
などだ。
こんな説もある。
旅はタベ、つまり「たまわれ」、すなわち「下さい」という意味。
旅する時は、いつも「たべ」「たべ」といって人にもらって
歩くからだ と。
いまも、旅先では人の世話になる。
お父様はこの説に共感する。
明治4年7月22日までは、政府の許可がないと、
この旅もできなかった。
1989年7月26日ーアポロ以前とアポロ以後ー
この前、映画に行った時、こんなことを話したね。
「○○○ちゃんの生まれる前に、もう、人間は
月に行っていたんだな」
月に対する、いや、宇宙に対する人間の考え方、
感じ方は、アポロ以前に生まれた人と以後に生まれた人
とは、180度近くも違うはずだ。
いまの20才がちょうど、その境になる。
だが、○○○ちゃんも、安心しておれない。
この次は「火星以前」と「火星以後」になりそうだから。
ブッシュ米大統領は月着陸20周年の日に
今後10年以内に日米欧加共同の宇宙ステーションを
完成、次に月面に基地をつくり、それを利用して
火星に人間を送ると発表した。
ソ連も21世紀初めの火星着陸を目指している。
その時は○○○ちゃんも「火星以前の人類」になる。
1989年7月25日ー宇野首相の退陣と歴代の内閣の期間ー
宇野首相が退陣(辞任すること)を表明した。
宇野内閣が竹下内閣のあとを継いで発足した
のが、この6月3日。それから51日目の短さだった。
次の首相が決まるまでには、少なくとも、1ヶ月はかかるので、
宇野内閣の寿命は3ヶ月にはなるだろうが、内閣の
長さでは戦後3番目だ。
一番短かったのは昭和20年、敗戦直後に生まれた
東久邇宮内閣(ひがしくにのみやないかく)の54日間。
東久邇は当時、皇族。皇族を首相にすれば敗戦で
混乱している日本国民もいうことを聞くだろうと
いう思惑があったのだから、短くても仕方がない。
2番目は昭和32年の石橋内閣。
病気になり、首相の任にたえぬと自らやめた。
これは、りっぱだと、讃えられた。
宇野さんは哀れだ。
でも、それを知っていて責任を果たしたのだから、
それなりに評価されるだろう。
2011年7月
現在は1位は東久邇宮内閣 2位は羽田内閣 3位が石橋内閣。
1989年7月23日ー暑中の期間ー
暑かったね。
それも、そのはずだ。
きょう23日から8月6日までは「大暑」。
いよいよ、夏本番になる。
文字通りの「暑中」だ。
ところが、この「暑中」は、辞書によると夏の
土用の18日間のことをいう。
これに対して「寒中」とか「寒の内」は、
1月5日に始まる「小寒」から2月3日におわる「大寒」
の期間を指す。
これと同じ論法でいくなら「暑中」は7月7日に始まる
「小暑」から8月6日の「大暑」最終日まででなくては
ならない。
それなのに「暑中」は「小暑」の前半は、ほとんど
切り捨てられている。
これは多分、冬と違い、夏の「小暑」の間は
梅雨があるので、「暑中」というには季節感が
少しずれるからだろう。
季節の言葉も意外に細かい。