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1988年6月10日ー富士山の大沢崩れー

富士山の大沢崩れのことは知っているね。

毎年、11トンのダンプで3万3千台分の

土砂が流出している。

このまま、ほっておくと、千年後には、1番下の写真のようになるという。

コンピューターにデータを入れて、つくったものだ。

一番上は千年前。もうかなり崩れ始めているね。真ん中は現在。

コンピューターも大したものだ。ひょっとしたら、○○○ちゃんの

30年後の顔などを予想してくれるかもしれないよ。

LETTER

1988年6月9日ー地方によって違う梅雨の呼び方ー

東京も「梅雨」に入った。

昨年より1日、暦の「入梅」より3日も早い。

ユーウツだね。

この「梅雨」は、古い昔に中国から入ってきた外来語。

それまでは、「さつきあめ」「さみだれ」といっていた。

「ながし」というのもある。


西日本の一部では、いつまでも「ながし」といっているそうだ。

東日本の「梅雨」は、どちらかというと、しとしと型だが、九州などでは、ざーざー型。

だから、「ながし」は「長時化(ながしけ)」から、きたのだろうという説がある。

時化は、一種の海の嵐のこと。「舟が時化で沈没した」などと使う。

最近、東日本も「ながし型」に変わってきた。これも気象異変の一つだ。


2010年6月

今年はまだ梅雨入りしていない。

ここ近年集中豪雨が初夏から夏にかけて多い。

息子を妊娠している時、愛育病院から六本木ヒルズに向かう途中に

突然の集中豪雨にあい、大変な思いをした。

とにかく、お腹を守らなきゃと思うのだが、お腹が大きくて走ることもできない。

ようやくハイアットに到着した時は、ずぶ濡れ。

妊娠中はナーバスになるものだが、あまりにも突然空が暗くなるものだから

すごく不吉な思いを感じた。

妊娠中、心配ばかりしていたような気がする。

一つの命が誕生するには、数え切れないような奇跡が積み重ならないといけない。

世間は子供を産め産めと言うが、そんな簡単に命を生み出すことはできないと思う。





1988年6月8日ーアメリカの刑ー

アメリカでは、ときどき、随分、とっぴな刑が言い渡されるときがある。

悪いことをした少年には「百日間、道路の掃除をしなさい」との判決を言い渡したこともある。

「懲役百年」なんてのもある。

死刑にするのは、いやだから、こんなことになるのだろう。

日本では、この罪には、懲役何年から何年まで、と法律で決まっているので、こんなことはない。

最近、アリゾナ州では、こんな判決があった。

「一生、子供を産んではならぬ」

育児ノイローゼで、1歳数ヶ月と、生後6ヶ月の2人の子供を、

2日間も何もあたえなかった18歳の母親に対するものだ。

本人は「仕方がない」といっているらしいが、弁護士は「ひどい」とおこっている。


1988年6月7日ー計量の日ー

きょうは「計量の日」なのだそうだ。

昭和26年6月7日、それまでの度量衡法という難しい法律が廃止され、計量法ができた。

この法律で尺とか鯨尺は使用禁止になり、長さは、すべてメートルになる。

お父様は、これには困らなかった。

弱ったのは「坪」だ。

すべて、3,3平方メートルに換算しなければならない。第一、半端な数字だから、計算するのに面倒で仕方ない。

だから、いまでも、十坪とか百坪という方が見当がつく。

アメリカも、計量単位はややこしい。

車のスピード計は、すべてマイル。キロになおすと1,6キロ。100マイルは160キロと覚えるしかない。

飛行機の高度はフィート。3,2フィートが1メートルになる。アメリカが好きなら、いまから慣れていく方がいい。

1988年6月6日ーマル文字ー

あれほど、大流行していたマル文字が、このごろほとんどといっていいほど、姿を消してしまったそうだ。

理由は、受験戦争。

マル字で答案を書くと、バツをつけられたり、減点されるかららしい。

テストに不利となると、どんな字も「ビビッ」ってしまう、と、ある新聞は書いている。

実際に、女子高のなかには、各中学校に、マル字を使わないように、と通知をしているという。

でも、こんな高校もある。

「字は読めればいいので、特に丸い字だからといって、不利には扱いません」

慶応の女子高だ。話せるね。お父様も、この考えには賛成!


LETTER-丸文字

1988年6月5日ー海外で事件に遭遇した時のための心の準備ー

台湾で誘拐されていた日本人小学校3年の大田君が1週間ぶりに無事開放された。

よかった。けれども、犯人に800万円も払って、やっと返してもらったんだ。

日本人も、これからは海外に行くとき、こうした誘拐、ハイジャック、テロを覚悟しないといけなくなった。金持ちだと思われているからだ。

○○○ちゃんも、いまから、心の準備をしておく必要があるね。そのためのトラの巻きも出ている。

その中には、こんなことが書いてあった。

「銀行強盗と警官との間に撃ち合いが始まったら、足を犯人側に向け、カバンを背中にのせて伏せること」

随分、生々しい。けれども、日本人は、こういう経験がないので、「伏せる」ことが世界中でもっとも下手だといわれる。お父様もローマの空港で拳銃を持った警官を見たとき、「伏せる」練習をやっておかなければと思ったものだ。


2010年6月

学生時代、語学研修のエクスカーションでラスベガスに行った。カジノで遊んでいると、突然警官が大きな声で叫び出し、発砲した。周りの人は、すぐに床に伏せていたが、私はポカーンとブラックジャックの椅子に座ったままだった。一瞬、何がおこったか分からなかったのだ。何秒か遅れて、しゃがみこむのがやっとだった。まるで映画でも見ているようなリアリティーのなさ、でも一歩間違えば命を奪われていたかもしれないのだ。


OL時代、ロスのDFSでの買い物に友人と夢中になって、あっという間に閉店時間を迎えてしまった。DFSから、追い出されるように外に出ると、すでに暗くなっており、旅行会社が運行しているシャトルバスもなくなっていた。知り合いに迎えに来てもらおうと公衆電話に向かったが、電話は壊れていた。途方にくれていると、遠くから男数名が歩いてくるのが見えた。黒人だ。私たちを指差している。後ろに振り返ると、反対側からも黒人数名が歩いてくる。身の危険を感じた。こちらは、ブランドの紙袋をたくさん抱えている。身の危険を感じた。

そのとき、パトカーがとまり「こんなところで何してる?」と警官が聞いてきた。突然のことで、何を言っていいか分からなかったので「電話が壊れていて・・・」と答えた。すると、警官が「はやく乗れ!」と言ってくれ、私たちは急いでパトカーに乗った。近くのホテルまで送ってくれて、そこからタクシーで宿泊ホテルまで帰った。

あの時、もしパトカーが通らなかったら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。若い頃は、危険と隣り合わせの生活をしていても、楽しいことを追い求める力の方が強く作用し、あまり怖いと思わないものだ。だから、いろんなことに挑戦できるのかもしれないが・・・。

1988年6月4日ー出来心ー

間抜けな泥棒もいたものだ。

日比谷公園を、テニスコートや庭園、花壇、噴水のある豪華な邸宅と思い込み、「忍び込んで」しまった。

そして挙動不審(様子がおかしいこと)でお巡りさんにつかまってしまったという。


もちろん、本当の話ではない。

落語の「出来心」にでてくる、つくり話だ。

けれども、日比谷公園も、むかしは、本当に大名屋敷の庭だった。

公園に残っている石垣や池は、その堀のあと。

明治になって、取り壊され、日比谷が原と名前をかえて、軍隊の演習場に使われていた。

その後、ドイツの公園を手本に改造、洋式公園第一号になった。

明治36年6月1日。

いまも、東京は外国の半分以下しか公園がない。

ハイドバークと比べてもわかるね。

1988年5月31日ー武田信玄の妻三条夫人ー

「武田信玄」も、南野陽子が出なくなってからすっかり、興味を失ったようだね。

けれども、いま、甲府のあるお寺は、それどころではない。

信玄の妻、三条が埋葬されている、瑞厳山円光院(ずいげんざんえんこういん)だ。

ドラマでは、三条夫人のことを「気位が高く、しっと深い」と、悪妻の見本のようになっている。

だが、住職(お坊さん)は「史実と違う」とかんかん。

三条夫人が死んだときの弔辞を、寺の前に看板に書いて、立てている。

それによると、「西方一の美人、和気春に似たり」だったそうだ。

つまり、会うと、ホンワカするような、やさしい人だったのだという。

だから、信玄も愛し、その証拠に5人も子供がいると、盛んに主張している。

それでは湖衣姫は、どうだったのだろう。

1988年5月30日ー那古野城ー

織田信長が生まれた城の跡がみつかった。

城の名前は那古野(なごの)城。

名古屋城の天守閣から約500メートル南東にある「三の丸遺跡」に名古屋第一地方合同庁舎が

建てられることになり、その前に愛知県が調べたところ、那古野城の跡に間違いないことがわかった。


その証拠になったのは、そこから出てきた陶器のすり鉢の破片。戦国時代末期のものと

鑑定されたからだという。


那古野城は、駿河の今川氏親が大永元年(1521年)ごろに築いた。

約10年後に、織田信秀が、この城を奪い、ここで信長が生まれて、のちに城主になった

といわれる。

信長が清州城に移ったため、間もなく城はこわされたが、慶長15年(1610年)、徳川家康が、

このあとに、名古屋城をつくった。もっと調査すると信長の子供時代のものが、

出てくるかも知れない。

1988年5月29日ー在原業平ー

光源氏が業平(なりひら)かー。

この2人は、平安時代の美男の代表だった。

いまなら、さしづめ、なんとかグループのなになに君といったところだろう。

業平のフルネームは、在原業平(ありわらのなりひら)。

歌人としても有名で、六歌仙の一人でもある。六歌仙は古今和歌集のなかに歌がのっている

歌人の中で、最も優秀な6人を紀貫之が選んだものだ。


ほかに、喜撰とか小野小町らがいる。

業平は、当時の「南野陽子」小野小町とも恋仲だったといわれる。

この業平も、ときには女に捨てられ、それを追った。

「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと」

これが言問橋(隅田川にある)の由来。

元慶4年(880年)5月28日に死んだ。