1988年10月5日ーカーネギーホールと音響ー
コンサート・ホールは、音響効果が生命だ。
東京で音響効果が比較的いいのは、上野の
東京文化会館だそうだ。
NHKホールは最悪、サントリー・ホールは好き好きがあるが、
まあまあ、といったところらしい。
いま、この音響効果で、ひともめしているのが、
音楽家のひのき舞台といわれるニューヨークのカーネギーホール。
2年前に82億円(日本円)をかけて、大改修したところ、
それまで、世界最高を誇っていた音響効果が、
めちゃくちゃになってしまった。
高音域は耳障りな音になって反響、弦の低音は、
変なエコーが生じて、メロメロになってしまうという。
交響楽団員も、演奏中、仲間の音が正確に聞き取れず
困っている。
カーネギーホールも、音をあげているとか。
2010年10月5日
カーネギーホールは、音響のためだけに
再度改修したそうです。
1988年10月4日ーディスカバリーとスプートニク
アメリカのスペースシャトル「ディスカバリー」が、
無事に帰ってきた。
これで、アメリカの宇宙開発も再出発に成功した。
ホッとしたことだろう。
ちょうど、この日は、31年前の1957年(昭和32年)10月4日、
ソ連がスプートニク第一号を打ち上げ、初めての人工衛星
にすることに成功した日だ。
そのときの、世界中の人の驚きは、東京新聞が一面を飾った、
次の見出しでもわかるだろう。
「いま、地球を回っている!」
これは、後世に残る名見出しといわれている。
66年、国連は、宇宙は、どこの国のもの、
つまり「領空」ではない、と決めた。
どの国の人工衛星も、どの国の上空の宇宙も、
許可なしに飛べるということだ。
でも、いま宇宙は米ソの人工衛星が、ほとんど占領している。
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1988年9月30日ースペースシャトル「ディスカバリ」ーと「discover」
1988年10月3日ーオリンピック次期開催地スペイン・バルセロナー
ソウルオリンピックも終わった。
4年後の次の開催地は、スペインのバルセロナ。
地中海に面した、フランス国境に近いところにある。
スペインの首都マドリードにつぐ第二の都市だ。
お父様ぐらいの年のひとにとっては、スペインには
特別の感じを持っている。
第二次世界大戦の起こる前、社会主義的な政府軍と
右翼的な反政府軍であるフランコ軍との間で、
はげしい戦争が行われ、反政府軍には自由を守る
世界中の義勇軍兵、フランゴ軍にはドイツが味方、
数年間にわたって戦われた。
「誰がために鐘がなる」も、この戦争が舞台。
結局、フランコ軍が勝つ。
バルセロナにあるカタロニア地方は反政府軍の拠点
だったため、最近まで、自治が認められていなかった。
そこがオリンピックを開くのだから、世界は確実に
よくなっている。
1988年10月2日ーソ連のスペースシャトルー
アメリカで「ディスカバリー」が打ち上げられた
29日(現地時間)に、ソ連スペースシャトルの
写真が公開された。
アメリカのシャトルと、ほとんど、そっくりだね。
外観で、はっきり違うのは「CCCP」(ソ連の略語)の
文字が、翼にかかれているだけだ。
もう一つ、シャトルには主エンジンがなく、
打ち上げのときは、すべて、シャトルが、
へばりついている超大型運搬用ロケットに頼ること。
着陸の際には、二基のジェット・エンジンで帰ってくる。
うまく行くと、ことしの末には打ち上げられるらしい。
その時、テレビでうつるかどうかは不明。
2010年10月2日
いつか宇宙にいきたいとずっと思っていた。
「バック・トュ・ザ・フューチャー」のリー・トンプソンが
主演しているスペースキャンプ をみて、
宇宙飛行士になりたいという夢を持つようになり、
NHKの海外ドラマ「頑固爺さんと孫3人」のシャナン・ドハーティ
(ビバリーヒルズ高校白書
のブレンダ役)が、宇宙飛行士になるため
空軍士官学校を目指す役をしていたのに影響され、空軍士官学校を
目指したりもした。
イラン・イラク戦争勃発で、空軍士官学校などにいると
戦争で戦わなきゃいけないのでは!?と当たり前のことに恐怖を覚え
簡単に夢を捨ててしまったが・・・。
とにかく昔は、宇宙への憧れがあり、スペースシャトルの打ち上げは
どんなに深夜になろうとも、必ずテレビでみたものだ。
冷戦終了はすばらしいことだが、アメリカが宇宙開発を
縮小し、スペースシャトルの打ち上げをやめてしまうのは本当に悲しい。
争い事がない世の中になって欲しいと心から思うが、
争いと同時に向上心をなくすのはどうかと思う。
人間も、平和で刺激のない生活を送っていると
現状維持をすることに精いっぱいで、向上する力をなくす。
国家も同じなのかもしれない。
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1988年10月1日ー9月の雨の記録と鎌倉時代の沽酒禁止ー
きょうから10月。
ことしの9月は、ずい分長かった。
多分、雨が多かったせいだろう。
気象庁によると、多いどころではない。
東京で雨が降らなかったのは、13日と19日の2日間だけ。
大正6年の無降水2日以来、71年ぶりの記録だった。
日照時間も、30日午前9時までにわずか39.2時間。
平均の日照時間112時間の30%と、最少を記録した。
話はとぶけど、日本で酒を売る店ができたのは鎌倉時代。
鎌倉幕府は、早くも建長4年(1252年)9月30日に、
沽酒(こしゅ)を禁じた。
沽酒とは酒を売ること。
各家庭にも一家に一つだけ酒つぼを貯えることを許された。
そのとき、鎌倉に37,274個のつぼがあった。
ただしこの沽酒禁止は雨が降らず、水キキンのためだった。
1988年9月30日ースペースシャトル「ディスカバリ」ーと「discover」
スペースシャトル「ディスカバリー」の打ち上げを
見ることができて、よかったね。
お父様も「ディスカバリー」が、むかしの探検船の名前から、
とったことを、初めて知った。
「ディスカバリー」はdiscoveryと書く。
意味は「発見」。
だから、コロンブスがアメリカ大陸を発見した日(10月12日)
を「コロンブス・デー」または「ディスカバリー・デー」という。
テレビを見ながら話したように、
これの動詞「発見する」はdiscover。
カバーは、日本語にもなっているように「隠す」こと。
またディス(dis)は「取り除く」ことを意味する。
従って「カバーを取り除く」、つまり「発見する」だ。
disのようなのを接頭語という。
日本語の「不」とか「非」もそうだね。
こういう接頭語を覚えておくと、単語も覚えやすいよ。
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1988年9月29日ー安田善次郎と安田講堂ー
東大のシンボルといえば安田講堂。
この名前は、寄贈者の安田善次郎の名前を
とってつけられたものだ。
安田善次郎は富山藩の下級武士だったが、
江戸で、でっち奉公ののち、両替店(江戸時代の一種の銀行)
を開き、維新の混乱に乗じて、巨万の富を得た。
この金でつくった安田銀行(現在の富士銀行)や保険会社
などのグループを安田財閥という。
しかし大正10年9月28日、暴漢に襲われて殺された。
社会事業への寄付を断ったのが理由だが、
実は、社会事業もやっていた。
その一つが安田講堂への寄付。
日比谷公会堂もそうだ。
安田講堂は大正14年に完成。
昭和44年、大学制度に反対する学生が立てこもり、
機動隊を大攻防戦をやった。
このため、内部は破壊され、火えんびんで焼けたが、
このほどやっと、全面改修が決まったそうだ。
1988年9月28日ーベン・ジョンソンのドーピング
世界中がわいた、あの100メートルの金メダリスト
ベン・ジョンソンがドーピングをやっていたとは。
オリンピックも地におちたという感じだ。
ドーピング
dopingと書く。
競技の成績をあげるため、刺激剤や抑制剤などの
薬を飲んだり、注射をうつことをいう。
もともとは、競馬の馬に使われ、問題になった。
それが、人間にも使われるようになり、昭和35年の
ローマオリンピックで自転車選手がドーピングで死亡し、
にわかに有名になった。
ベンが使った薬は、未熟児や手術後の筋力を回復させるために
使われるホルモン剤。
女性が用いると、“男性化”するといわれる。
困ったものだ。
1988年9月27日ーソウルオリンピック「ベン・ジョンソン」
オリンピックも、半ばを過ぎた。
背泳ぎの鈴木大地のほかは、日本は、
あいかわらず、ふるわない。
まあ、いいところだろう。
しかし、また、体力向上とか、スポーツ振興とか、
うるさくなることだけは間違いない。
うんざりする。
その度に、オリンピックなんて、変なものを考え出したのは、
だれだ、といいたくなる。
けれども、ジョンソンは、すごかった。
ああ、みえても、ずい分、鍛練しているらしい。
記録を出すカギは、スタートするときの瞬発力。
240キロのバーベルで筋力を鍛え、ベルの音で、
すぐに動作を起こす訓練も、しているのだそうだ。
それでも、日本の吉岡隆徳が10秒3で世界を驚かしてから、
半秒縮めるのに、53年かかっている。
2010年9月27日
ベン・ジョンソンは、競技後にドーピングが発覚。
メダルははく奪され、幻の記録となる。
父は、喘息だった。
そのためか、朝マラソンをしている人などを
嫌う傾向があった。
それでも、私には体力をつけた方がよいと
いっていたのだから、矛盾している。
記者という職業は、喘息は致命傷。
だから、必死に薬でコントロールして隠して
いたと母から聞いた。
喘息の発作の恐ろしさは尋常ではなかったはずだ。
生前、あまり理解してあげられなかったこと
後悔している。
1988年9月26日ー学校の制服は、日清戦争がきっかけ
学校の歴史をつづけよう。
学校の歴史というより、学校の行事とか、
習慣の歴史といった方が、正確かも知れない。
きょうは、制服。
これも、日清戦争が、きっかけだった。
この戦争で、日本は勝ったけれども、日本兵に体格が、
中国人にくらべ、貧弱なのが、わかった。
そこで、男子の体力を向上させるには、
その子供を産む母親の体が強くなくてはいけない
ということになり、女学校で本格的な体操の授業が
行われることになった。
そのとき、困ったのは女子学生の服装。
当時の女子学生は和服を着ていたからだ。
跳んだり、はねたりすることは、とてもできない。
そこで、女子用のはかま(それまでは男子しかなかった)
が考え出された。これが制服のはじまり。
やがて、セーラー服ができる。
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