中学三年生の授業で、今、江戸時代の「改革政治」の時代の話をしています。
大きな流れは以前に「教科書から消えたもの」のシリーズで説明しましたので、今回は実際の授業で取り上げた単元からお話ししたいと思います。
最近、江戸幕府、五代将軍徳川綱吉の「再評価」が進んでいます。
かつては、綱吉の政治、というのは「悪政」として有名でした。
とくにその象徴としてよく取り上げられたのが
生類憐みの令
です。
ちなみに、これは、こういう名前の法令が一つあるのではなく、何回かに分けて出されたもので、一連の法令群をさして、こう称しているのです。
教科書も、学校の先生も塾の講師も、「極端な動物愛護令」として紹介し、「世の中、平和になると、こんなもんが出るんだよね~」と説明されます。
いかに庶民が迷惑したか、ということが強調されるところです。
「再評価」のポイントは、「世の中が平和になったからこんな法令が出た」のではなく、「こんな法令が出たから世の中、平和になったんだ」という考え方への転換です。
4代家綱から5代綱吉の時代は、大きな“転換点”でした。
まだ「戦国時代」の“遺風”が残っていて、平和な、安定した世の中になりつつある元禄時代にあって、それらは「野蛮な」慣習として排除されなくてはならないものでした。
(下剋上、仇討ち、武による解決、人を殺すことに対する抵抗の無さ… こんな考え方が残っていては、いつ幕府を転覆させようという輩が出てきても不思議でないですからね。)
戦国時代にあっては「死をおそれぬ行為」は“武勇”でしたが、平和な世の中にあっては“蛮勇”にすぎません。死はおそれてもらわなくては困る、忌み嫌うべきものでなくてはならなくなりました。
命を粗末にする、武力による解決、というのを許すわけにはいきません。
“辻斬り”、刀を抜いて一般人を殺傷する行為などは厳禁、武士といえどもむやみに刀を抜くことを認めない…
綱吉は、武家諸法度の第一条に手を入れます。
「元和令」(1615年の第一号法令)では、
一、文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事
と、あったのを綱吉の発令した「天和令」では、
一、文武忠孝ヲ励シ、礼儀ヲ正スベキ事
と改めました。まさに「武断政治」から「文治政治」への転換。
軍人としての武家を官僚化していく…
みなさんは「忌引き」という言葉をご存知ですよね?
学校でも会社でも、身内の死に対して「有給の休暇がもらえる」という制度・慣習は、この時代に生まれたものなんです。
生類憐みの令は、都市部では迷惑な法令ですが、農村部では殺生の禁止、つまり“狩猟”の制限につながり、農民が持つ鉄砲を没収する口実になりました。
一揆の防止をする、かつての刀狩令ならぬ“鉄砲狩令”として機能したのです。
そもそも「動物愛護」「殺生禁止」というのは、古くは聖武天皇も発令していますし、平安時代にも白河法皇が出しています。
とりたてて、綱吉のそれをオーバーに批判することは無いのではないか? という考え方が現在の歴史学の中では広がりつつあります。
だから…
徳川綱吉の政治は、世間で言われているほどの“悪政”ではないのだ。
という“評価”になっています。
でもね… そういうことはそうなのですが…
目的と効果は、別々に評価すべきです。
わたしは、綱吉の政治は、
「やっぱりちょっと変だった」
と、思うんですよ。
振り子は大きく右に振ると、次は大きく左に振ります。
「悪政、悪政だと今まで言うてきたけれど、ほんとはちゃうでっ!」と、今は反対側に振り子が大きく振り返しているんですよね。
でも、また、少し、右に戻すべきだとわたしは考えています。
生類憐みの令って、ほんとに「平和な世の中」を作り出すためにつくられたのかなぁ? という気がするんですよ。
やっぱり発令した将軍の、おそろしく“個人的な事情”でしょ。
ほんとに“評価”してもよいのかなぁ~ と、懐疑的なんです。
ここからは、綱吉に対する“心理分析”になっちゃいそうなんですが…
綱吉は、本来、将軍になるはずのない人でした。
兄の家綱が後継者を定めぬまま死去し、一時は鎌倉幕府の先例にならって皇族から将軍をむかえる、という提案も出されたくらいです。
より“将軍らしく”ふるまわなければならぬ
と、心に思うところがあったと思うんです。
もともと学問の造詣が深かったこともあるのですが、未来の将軍としての教育を受けてこなかったことへのコンプレックスの反動というべきか、いっそう儒学に傾倒していきます。
天災は、悪政に対する天の戒めである
という古来からの考え方にも敏感で、「もともとあの人、将軍になる人じゃなかったからね」という家臣たちのヒソヒソ話に敏感になります。
いや、そもそも誰もそんなことを言うてなかったかもしれないのに、そう思われているのではないか、と、考えすぎていく…
譜代大名やその出身の老中たちを避け、側近を通じて話をするようになっていった、というのも、そういう“理由”があったからかもしれません。
柳沢吉保らに代表する側用人を登用していった背景は、こういう心理学的な説明を加えたほうがより理解ができるかもしれませんね。
地震があったり、火事があったり、火山が噴火したり… およそ綱吉さんにはまったく責任のない出来事も
「政治が悪いからだ」
と、言われてしまう(気がする…)。
「善政」の「善」は、仏心のあらわれ。殺生の禁止、なども彼にとっては「善き政治」なのです。
そういうこともあって彼は、“けがれ”というのを極端に嫌っていました。
一例をあげると、江戸城ならびに首都江戸が“清浄”でなければ嫌だったみたいで(王城静謐思想)、江戸城の台所で、魚をさばくことを(血でけがされることを)禁じてしまいます。
(ですから、「忌引き」の制度も、「親族の喪に服しなさい」という「やさしい思いやり」からではなく、きっと、「こらっ おまえ、身内に死人が出てるやろっ けがれるから出て来るなっ」みたいな感じで始めたことだったとしても、わたしは驚きません。)
みなさんは、「赤穂浪士の討ち入り」をご存知でしょうか?
(昨今は、時代劇、というのが不振なので、子どもたちの多くが「赤穂浪士の討ち入り」を知らないんですよ。)
「赤穂事件」は実話です。
赤穂藩の藩主、浅野内匠頭が江戸城にて吉良上野介に切りかかり、負傷させた、という殺人未遂事件です。
元禄時代は、まだ戦国時代の風潮の残照の時代でもあります。
「昔はよかった」という世代と、「いまどき何言うてんねん」という世代が混在している時代でもありました。
武士は、受けた恥辱を武で晴らす、というのが“戦国の作法”です。
前者の世代にとっては、「こんな時代にあっぱれだ!」と浅野内匠頭に好意的。
後者の世代にとっては、「こんな時代になんて野蛮な!」と吉良上野介に同情的。
しかし、たった一人、まったく違うところに“反応”してイラついていた男がいました。
将軍綱吉です。
「せっかく清めた江戸城が血でけがれたやないかっ! どないしてくれるんやっ!!」
浅野内匠頭が悪い!
という裁定をくだします。
このことは、浅野内匠頭の家臣たちのさらなる遺恨となり、後の赤穂藩の浪士たちの吉良邸襲撃事件(赤穂浪士の討ち入り)に発展することになるのですが…
綱吉のやったことがもたらした結果(効果)に関しては再評価すべきだと思います。
でもねぇ…
やっぱり綱吉は変だった、と、思いますよ。
生類憐みの令は、おかしな法令だった、ということは、わたしは譲りたくありません。
(最近の研究を反映させた、福田千鶴さんの『徳川綱吉』山川日本史リブレットがおもしろいので機会があれば読んでみてください。)
保元の乱。
保元の乱は、「ここから武者の世が始まった」と、慈円が『愚管抄』で述べているように、画期的な事件です。
「武者の世の始まり」は、すなわち「貴族の世の終わり」…
当時の評価はそうなのですが、不思議なことに、小学校の教科書では「保元の乱」は出てきません。
(平治の乱は一部の教科書で紹介されています。ちなみに、中学受験では保元の乱は出題されません。当然、その中に出てくる源義朝や為朝など問われません。そもそも後白河法皇すら出題されません。院政がそもそも出題されないんですよ。)
武士たちが貴族の世の中を終わらせた、というより、貴族たちが自壊した、というのが保元の乱に表現されていると思うんですよね。
わたしは、授業で保元の乱の説明をするときは、「貴族の自壊」の“空気”を伝えたいために、人間関係を念入りに説明します。
教科書的には「保元の乱」の説明は短く、中学校の教科書では、
12世紀中ごろ、院政の実権をめぐる争い(保元の乱・平治の乱)が起きました。
源氏と平氏の武士たちは、この争いに動員されて戦い、貴族と結んで政治の力を
持つようになりました。
と、かなり、やんわりと大きく包むように説明されています。
ま、はっきりいって、あんまり「おもしろい」説明ではない。
おさえるべきことは
「院政の実権をめぐる争い」
「貴族と結んで政治の力を持つようになった」
という部分になります。
高校の教科書の記述で、ようやく“人間味”が出てきます。
皇位継承問題で鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を
めざして兄の関白藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結んで、源為
義、平忠正らの武士を集めた。
保元の乱は、保元の乱にいたるまでがおもしろいんですよ。
そもそもの“きっかけ”は、鳥羽法皇の「女性関係」にありました。
鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)との間に二人の親王。
一人は顕仁親王、もう一人が雅仁親王。
鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)との間に一人の親王。
これが体仁親王。
まず鳥羽天皇は、第一皇子の顕仁親王に皇位を譲って上皇になり、顕仁親王が天皇となりました。この天皇が
崇徳天皇
です。
鳥羽上皇(後に法皇)-崇徳天皇、という「院政」が開始されます。
藤原氏の摂関政治の“力”の源は、自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた子を天皇とする(外戚となる)ことにあります。
関白藤原忠通は、崇徳天皇に自分の娘、聖子をとつがせました。
鳥羽法皇-崇徳天皇-藤原忠通
の政治は、一見安定していたかのように見えていましたが、事態が次第に“変化”していきます。
まず、鳥羽法皇は、寵姫、藤原得子(美福門院)との間に生まれた体仁親王を天皇にしたいと考えるようになり、崇徳天皇をやめさせ、体仁親王を天皇にしたいと考えるようになりました。
このあたりから“奇怪”なうわさが流れ始めました。
にゃんたのマル秘ファイルでも有名な貴族のスキャンダル雑誌『古事談』によると、もともと顕仁親王(崇徳天皇)は、藤原璋子(待賢門院)とその養父、先々帝、白河法皇との間に生まれた不義の子である、というのです。
璋子(待賢門院)を貶めようとするデマだった可能性があります。
こうして体仁親王が天皇の位につくことになりました。これが近衛天皇です。
崇徳上皇から見れば、近衛天皇は弟ですから、院政(天皇の父として政治をおこなう)はできませんし、そもそも父、鳥羽法皇が健在です。
また、本来ならば崇徳上皇を後見してくれるはずの関白藤原忠通との関係も悪化してしまいました。
というのも、忠通の娘、聖子と崇徳上皇の間には子が生まれなかったのに、別の貴族の娘との間に子ども(重仁親王)をつくってしまったのです。
そりゃ忠通にしてみれば「ああ、そう。そういうことね。」と不愉快になるのは当然です。
崇徳上皇は、単なる前天皇として、宮中では孤立した存在になってしまいました…
鳥羽法皇の後ろ盾をいいことに、藤原忠通グループと得子(美福門院)グループが手を組み、崇徳天皇を辞めさせて近衛天皇を立てる、ということをしたわけですね。
さらに話をややこしくしていたのは、この時期、摂関家の中でも内紛が進行していた、ということです。
藤原忠実の子、藤原忠通とその弟藤原頼長の対立です。
忠通と頼長は、親子くらいの歳の差があり、忠通に子がなかったものですから、忠通は頼長を養子としていました。
父、忠実は、頼長を溺愛しており、摂関家を頼長に継がせようとまで考えてしまっていたようです。
そんなときに忠通に子が生まれ、忠通にすれば自分の実の子に関白を譲りたい、と、考えるようになりました。
こうして兄、関白藤原忠通と、弟、左大臣藤原頼長の対立が表面化することになったのです。
さらに事態は変化します。近衛天皇が死去してしまいました。もともと病弱であったのですが、これまた“奇怪”なうわさが流れます。
璋子(待賢門院)が呪い殺したのだ、いやいや左大臣藤原頼長が呪い殺したのだ、などなど…
崇徳上皇を支持し、重仁親王の即位を考えていた待賢門院や藤原頼長らを“牽制”するためのデマだったのでしょう。
藤原忠通、そして美福門院らは、鳥羽法皇に働きかけて、雅仁親王の子、守仁親王を天皇に立てようと画策します。守仁親王は美福門院の養子となっていたからでしょう。
父の親王を飛ばして子を天皇にするわけにはいかない、と、なり、急きょ、雅仁親王が天皇となりました。これが
後白河天皇
です。
ところが、よりによってこのややこしいタイミングで、鳥羽法皇が死去したのです。
鳥羽法皇の死去で後ろ盾を失った、藤原忠通・美福門院グループはあせります。
このままではまずい…
と、思う気持ちが、不安を増大させる、というのはよくある話。ここでさらに“奇怪”なうわさが流れ始めます。
上皇左府同心
つまり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が手を組んで反乱を起こそうとしている…
後白河天皇、藤原忠通らはただちに、鳥羽法皇の屋敷を警護するために北面の武士たちを招集し、同時に藤原頼長に対して、自分の荘園から武士を呼んではならない、という命令を出しました。
そして、京都にある頼長の屋敷を没収してしまいました…
そこまでするか…
と、身の危険を感じた頼長も、身辺警護のために兵を集めました。
呼ばれた源為義などは、もともと摂関家の家人だったので、集めた兵は「公式の部隊」ではなく、あくまでも私兵。単なる警固の兵士のようなもの…
しかし、天皇方は、「それみたことか! やっぱり反乱をするつもりだっ」と考えます。
後白河天皇方は、公式の軍隊。
質も数も圧倒的に上回り、そうして「合戦」が始まりました。
保元の乱、というと、なにやら武家が二手に分かれての堂々の決戦、というイメージを持たれていた方も多いと思うのですが、最近の研究では、保元の乱の実態がしだいに明らかになってきました。
と、いうことは百も承知の上で、わたしは黒板に
(皇室) (摂関) (源氏) (平氏)
後白河天皇 藤原忠通 源義朝 平清盛
崇徳上皇 藤原頼長 源為義・為朝 平忠正
と記して両者の対立を示します。
う~ん… やっぱり、こう書いてしまうと、まるで関ヶ原の戦いのような対決にみえてしまいますよね。
実際は、いいがかりをつけられて、身を守ろうとしたら、ケンカする気だなっ と言われて、なぐりかかられた、というような感じだったんですよね…
(このあたりの事情は拙著『超軽っ日本史』を是非お読みください。)
保元の乱は、「ここから武者の世が始まった」と、慈円が『愚管抄』で述べているように、画期的な事件です。
「武者の世の始まり」は、すなわち「貴族の世の終わり」…
当時の評価はそうなのですが、不思議なことに、小学校の教科書では「保元の乱」は出てきません。
(平治の乱は一部の教科書で紹介されています。ちなみに、中学受験では保元の乱は出題されません。当然、その中に出てくる源義朝や為朝など問われません。そもそも後白河法皇すら出題されません。院政がそもそも出題されないんですよ。)
武士たちが貴族の世の中を終わらせた、というより、貴族たちが自壊した、というのが保元の乱に表現されていると思うんですよね。
わたしは、授業で保元の乱の説明をするときは、「貴族の自壊」の“空気”を伝えたいために、人間関係を念入りに説明します。
教科書的には「保元の乱」の説明は短く、中学校の教科書では、
12世紀中ごろ、院政の実権をめぐる争い(保元の乱・平治の乱)が起きました。
源氏と平氏の武士たちは、この争いに動員されて戦い、貴族と結んで政治の力を
持つようになりました。
と、かなり、やんわりと大きく包むように説明されています。
ま、はっきりいって、あんまり「おもしろい」説明ではない。
おさえるべきことは
「院政の実権をめぐる争い」
「貴族と結んで政治の力を持つようになった」
という部分になります。
高校の教科書の記述で、ようやく“人間味”が出てきます。
皇位継承問題で鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を
めざして兄の関白藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結んで、源為
義、平忠正らの武士を集めた。
保元の乱は、保元の乱にいたるまでがおもしろいんですよ。
そもそもの“きっかけ”は、鳥羽法皇の「女性関係」にありました。
鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)との間に二人の親王。
一人は顕仁親王、もう一人が雅仁親王。
鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)との間に一人の親王。
これが体仁親王。
まず鳥羽天皇は、第一皇子の顕仁親王に皇位を譲って上皇になり、顕仁親王が天皇となりました。この天皇が
崇徳天皇
です。
鳥羽上皇(後に法皇)-崇徳天皇、という「院政」が開始されます。
藤原氏の摂関政治の“力”の源は、自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた子を天皇とする(外戚となる)ことにあります。
関白藤原忠通は、崇徳天皇に自分の娘、聖子をとつがせました。
鳥羽法皇-崇徳天皇-藤原忠通
の政治は、一見安定していたかのように見えていましたが、事態が次第に“変化”していきます。
まず、鳥羽法皇は、寵姫、藤原得子(美福門院)との間に生まれた体仁親王を天皇にしたいと考えるようになり、崇徳天皇をやめさせ、体仁親王を天皇にしたいと考えるようになりました。
このあたりから“奇怪”なうわさが流れ始めました。
にゃんたのマル秘ファイルでも有名な貴族のスキャンダル雑誌『古事談』によると、もともと顕仁親王(崇徳天皇)は、藤原璋子(待賢門院)とその養父、先々帝、白河法皇との間に生まれた不義の子である、というのです。
璋子(待賢門院)を貶めようとするデマだった可能性があります。
こうして体仁親王が天皇の位につくことになりました。これが近衛天皇です。
崇徳上皇から見れば、近衛天皇は弟ですから、院政(天皇の父として政治をおこなう)はできませんし、そもそも父、鳥羽法皇が健在です。
また、本来ならば崇徳上皇を後見してくれるはずの関白藤原忠通との関係も悪化してしまいました。
というのも、忠通の娘、聖子と崇徳上皇の間には子が生まれなかったのに、別の貴族の娘との間に子ども(重仁親王)をつくってしまったのです。
そりゃ忠通にしてみれば「ああ、そう。そういうことね。」と不愉快になるのは当然です。
崇徳上皇は、単なる前天皇として、宮中では孤立した存在になってしまいました…
鳥羽法皇の後ろ盾をいいことに、藤原忠通グループと得子(美福門院)グループが手を組み、崇徳天皇を辞めさせて近衛天皇を立てる、ということをしたわけですね。
さらに話をややこしくしていたのは、この時期、摂関家の中でも内紛が進行していた、ということです。
藤原忠実の子、藤原忠通とその弟藤原頼長の対立です。
忠通と頼長は、親子くらいの歳の差があり、忠通に子がなかったものですから、忠通は頼長を養子としていました。
父、忠実は、頼長を溺愛しており、摂関家を頼長に継がせようとまで考えてしまっていたようです。
そんなときに忠通に子が生まれ、忠通にすれば自分の実の子に関白を譲りたい、と、考えるようになりました。
こうして兄、関白藤原忠通と、弟、左大臣藤原頼長の対立が表面化することになったのです。
さらに事態は変化します。近衛天皇が死去してしまいました。もともと病弱であったのですが、これまた“奇怪”なうわさが流れます。
璋子(待賢門院)が呪い殺したのだ、いやいや左大臣藤原頼長が呪い殺したのだ、などなど…
崇徳上皇を支持し、重仁親王の即位を考えていた待賢門院や藤原頼長らを“牽制”するためのデマだったのでしょう。
藤原忠通、そして美福門院らは、鳥羽法皇に働きかけて、雅仁親王の子、守仁親王を天皇に立てようと画策します。守仁親王は美福門院の養子となっていたからでしょう。
父の親王を飛ばして子を天皇にするわけにはいかない、と、なり、急きょ、雅仁親王が天皇となりました。これが
後白河天皇
です。
ところが、よりによってこのややこしいタイミングで、鳥羽法皇が死去したのです。
鳥羽法皇の死去で後ろ盾を失った、藤原忠通・美福門院グループはあせります。
このままではまずい…
と、思う気持ちが、不安を増大させる、というのはよくある話。ここでさらに“奇怪”なうわさが流れ始めます。
上皇左府同心
つまり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が手を組んで反乱を起こそうとしている…
後白河天皇、藤原忠通らはただちに、鳥羽法皇の屋敷を警護するために北面の武士たちを招集し、同時に藤原頼長に対して、自分の荘園から武士を呼んではならない、という命令を出しました。
そして、京都にある頼長の屋敷を没収してしまいました…
そこまでするか…
と、身の危険を感じた頼長も、身辺警護のために兵を集めました。
呼ばれた源為義などは、もともと摂関家の家人だったので、集めた兵は「公式の部隊」ではなく、あくまでも私兵。単なる警固の兵士のようなもの…
しかし、天皇方は、「それみたことか! やっぱり反乱をするつもりだっ」と考えます。
後白河天皇方は、公式の軍隊。
質も数も圧倒的に上回り、そうして「合戦」が始まりました。
保元の乱、というと、なにやら武家が二手に分かれての堂々の決戦、というイメージを持たれていた方も多いと思うのですが、最近の研究では、保元の乱の実態がしだいに明らかになってきました。
と、いうことは百も承知の上で、わたしは黒板に
(皇室) (摂関) (源氏) (平氏)
後白河天皇 藤原忠通 源義朝 平清盛
崇徳上皇 藤原頼長 源為義・為朝 平忠正
と記して両者の対立を示します。
う~ん… やっぱり、こう書いてしまうと、まるで関ヶ原の戦いのような対決にみえてしまいますよね。
実際は、いいがかりをつけられて、身を守ろうとしたら、ケンカする気だなっ と言われて、なぐりかかられた、というような感じだったんですよね…
(このあたりの事情は拙著『超軽っ日本史』を是非お読みください。)
いつも思うのですが、『平家物語』は、視覚的にたいへん美しいと思うんですよ。
鎌倉時代初期に、よくそんな色彩感覚があったなぁ、と感心します。
筆者の描写力によるところが多いのでしょうが、描写されているモノが、なんというか、職人技でつくられた工芸品であったことがよく読み手に伝わってきます。
足利がその日の装束には
朽葉の綾の直垂に
赤革縅の鎧着て
高角打つたる甲の緒を締め
金作りの太刀を佩き
二十四さいたる切班の矢負ひ
滋籐の弓持ちて
連銭葦毛なる馬に
柏木にみみづく打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける
細やかな描写。
そして美しき色と細工のゆきとどいた様を読み手に想像させる小道具たち…
武者の描写もまた、“勇美”です。
鐙踏ん張り立ち上がり
大音声をあげて
昔朝敵将門を亡して
勧賞蒙つて名を後代に揚げたりし
俵藤太秀郷に十代の後胤、下野の住人、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱
生年十七歳にまかりなる
おお! 足利忠綱! カッコよすぎるぞっ
鎧 甲 太刀 馬具
どれもこれも美しい…
そして“馬”。
馬、というと東国の武者たちを連想するかもしれませんが、平氏の武将の騎馬姿は、源氏よりもはるかに美しい(ちょっと平家贔屓に過ぎましたか… 失礼)。
平維盛
赤地の錦の直垂に
萌葱匂の鎧着て
連銭葦毛なる馬に
金覆輪の鞍を置いて乗りたまへり
「容儀帯佩、絵に描くとも筆も及び難し」と『平家物語』では絶賛されています。
でも、わたしは、薩摩守忠度の騎馬姿が大好きです。
紺地の錦の直垂に
黒絲縅の鎧着て
黒き馬の太うたくましきに
沃懸池の鞍を置いて乗りたまへり
どうです、維盛、忠度の勇ましくも美しい姿…
“黒き馬の太うたくましき”
「太うたくましき黒き馬」というと、『平家物語』では「生食」「磨墨」という名の馬が有名です。
え? 何と読むの?? となりそうですが、「いけづき」「するすみ」と読みます。
「磨墨」は、「まことに黒かりければ磨墨とは附けられたり」と説明されていますし、「生食」は、「黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましき…」と説明されています。
以前に、テレビ朝日の「Qさま」の「教科書スペシャル」という番組に出演させていただいて解説させてもらったのですが、
「日本の当時の馬はサラブレッドではない。」
「ポニーのような大きさの馬だ。」
と、申しました。実は、半分正しくなく、「ポニーのような」と説明したのは、その大きさ、形状だけの話で、日本の馬は、かなり気性が激しい“暴れ馬”でした。
また、武者たちは、こういう荒馬が好きで(それを乗りこなして賞賛を得たいという思いもあった)、自らの愛馬には、ことさらそういう馬を求めたようです。
確かに、戦場にむかう馬の気が弱くては話になりません。
たしか司馬遼太郎さんが、『坂の上の雲』の中で、日本の軍馬をみたドイツの軍人が
「これは馬ではなく猛獣だ」
と驚いた、みたいなことを書かれていたと思います。
「生食」という名前から考えて… こいつ、けっこう“怪獣”のような馬だった気がするんです。
『平家物語』の中でも、「馬も人も、あたりをはらつて食ひにければ、生食とは附けられたり」と記されています。
噛みつきまくる荒れ馬だったんでしょう。
名だたる武者にしてみれば、
「お~! これ、ほしいぜっ」
と、なるにきまっています。
所有者は、源頼朝。欲した者は二人。
まずは梶原源太景季。
が、しかし、頼朝は景季には「生食」ではなく「磨墨」を与えました。
景季はちょっぴり残念に思いますが、「磨墨」とて他の武者たちにとっての垂涎の的。
「おまえ、ええよなぁ~」と、みんなからうらやましがられたに違いありません。
ところが、源頼朝、彼の気まぐれなのか、はたまた、彼の人物鑑定眼によるものか、「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまったのです。
「磨墨」は、漆黒青毛の良馬であったことには違いないのですが、「生食」は美しき馬であることに加えて、戦闘馬としては一段格上の馬です。
梶原源太景季は、佐々木四郎高綱が引く馬をみて仰天しました。
やややややっ! あ、あれは「生食」ではないかっ
自分が求めて与えられなかった「生食」を佐々木高綱がもらっている…
こんな恥辱があるものかっ 高綱を斬り、おれも死んでやるっ と、ばかりに佐々木四郎高綱に文句をつけにやってきました。
一方、その様子を見た佐々木高綱は、「ははぁ~ん」とすべてを察します。
「おいっ この馬は、生食ではないかっ いったいどうしたのだ!」
(返答次第では斬ってやるぜっ)
「おう、さればよ、今度の合戦は長期にわたる。並の馬ではとうていかなわぬ。殿に申し上げて生食を所望したのよ。」
「おう、それで?」
「ところが、だ、おれの前に、誰やら名のある武者が所望したらしく、殿には『それほどの武者の申し出を断った以上、おまえには当然やれぬ』と言われてしまったのよ。」
「お、おう?」
こう言われれば景季も悪い気はしない。
「だからよ」と高綱、急に声をひそめて、「盗んだのよ。」とニヤリと笑う。
「な、なに? 盗んだとな?」
「な~に、抜け駆け先駆けは武門のならい。合戦で手柄を立てれば、おとがめもなかろうよ。」
(うわ~ やられたっ そりゃそうだっ どうしてそれに気付かなかったかっ)
「四郎! おまえはすごいやつだっ」と、わははははははっ と、景季は高笑い。
梶原源太景季、おまえ、なんて“よきおとこ”なんだ!
佐々木四郎高綱、おまえ、“わるい”やっちゃなぁ~
かくして、宇治川の渡河作戦の日を迎えます。
世に言う“宇治川の先陣争い”の始まりです。
「先陣」というのは、まっさきに敵陣に切り込む、ということです。当然、突入してくる集団の先頭を叩けば、後の戦いは有利に展開できます。逆に、先頭集団が、敵陣にくい込めば、敵を分断して壊滅に追い込みやすくなります。
「先陣を切る」のは、もっとも危険であるとともに、もっとも手柄を立てやすいもの。
武者にとっては「ハイ・リスク、ハイ・リターン」のお仕事です。
この先陣を、この二人が、争うことになりました。
梶原源太景季は「磨墨」に騎乗し。
佐々木四郎高綱は「生食」に騎乗し。
先に乗り入れたのは景季でした。それに遅れじと高綱が追う!
「源太! 馬の鞍がゆるんでおるぞっ この激流、落馬してはたいへんだっ 気をつけろよ!」
と、高綱は景季に声をかけました。
「おうよっ」と、景季は馬の鞍の紐を締め直す…
と、その隙に、高綱は「生食」を駆って景季を追い抜いてしまいました。
「しまった! やられた!」
と、景季は思います。すぐに高綱を追う。
そして今度は、景季が、
「功をあせって、はやまるなっ 川底には大綱が張られているぞ。気をつけろっ」
と、声をかける。
(たしかに。)と思った高綱は、抜刀して、川底に張られている綱を切りつつ進んでいきました。
こうして“宇治川の先陣争い”は佐々木四郎高綱の一番乗り、ということになったのです。
さて、この話は、どう解釈すればよいのでしょう。
佐々木高綱が梶原景季をだまし、うまうまと先陣争いに勝利した、という話でよいのでしょうか。
わたしは、ただ、二人が“協力”して川を渡りきったような気がしてしかたがありません。
『平家物語』では、最初のところで「だまされた!」という言葉を景季が発しているものですから、ついついそう考えてしまいがちですが、実際は、お互いに声をかけながら、渡河作戦を敢行した、というような気がします。
あるいは…
「合戦で手柄を立てれば、おとがめもなかろうよ。」
という先の高綱の言葉を景季が思い出し、高綱に功を譲ったのかもしれません。
だとすれば、ますます源太は“よきおとこ”ということになりそうです。
“悪”と“悪になりきれなかったおとこ”の物語といってよいかもしれません。
(次回に続く)次回・楽器の話
鎌倉時代初期に、よくそんな色彩感覚があったなぁ、と感心します。
筆者の描写力によるところが多いのでしょうが、描写されているモノが、なんというか、職人技でつくられた工芸品であったことがよく読み手に伝わってきます。
足利がその日の装束には
朽葉の綾の直垂に
赤革縅の鎧着て
高角打つたる甲の緒を締め
金作りの太刀を佩き
二十四さいたる切班の矢負ひ
滋籐の弓持ちて
連銭葦毛なる馬に
柏木にみみづく打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける
細やかな描写。
そして美しき色と細工のゆきとどいた様を読み手に想像させる小道具たち…
武者の描写もまた、“勇美”です。
鐙踏ん張り立ち上がり
大音声をあげて
昔朝敵将門を亡して
勧賞蒙つて名を後代に揚げたりし
俵藤太秀郷に十代の後胤、下野の住人、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱
生年十七歳にまかりなる
おお! 足利忠綱! カッコよすぎるぞっ
鎧 甲 太刀 馬具
どれもこれも美しい…
そして“馬”。
馬、というと東国の武者たちを連想するかもしれませんが、平氏の武将の騎馬姿は、源氏よりもはるかに美しい(ちょっと平家贔屓に過ぎましたか… 失礼)。
平維盛
赤地の錦の直垂に
萌葱匂の鎧着て
連銭葦毛なる馬に
金覆輪の鞍を置いて乗りたまへり
「容儀帯佩、絵に描くとも筆も及び難し」と『平家物語』では絶賛されています。
でも、わたしは、薩摩守忠度の騎馬姿が大好きです。
紺地の錦の直垂に
黒絲縅の鎧着て
黒き馬の太うたくましきに
沃懸池の鞍を置いて乗りたまへり
どうです、維盛、忠度の勇ましくも美しい姿…
“黒き馬の太うたくましき”
「太うたくましき黒き馬」というと、『平家物語』では「生食」「磨墨」という名の馬が有名です。
え? 何と読むの?? となりそうですが、「いけづき」「するすみ」と読みます。
「磨墨」は、「まことに黒かりければ磨墨とは附けられたり」と説明されていますし、「生食」は、「黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましき…」と説明されています。
以前に、テレビ朝日の「Qさま」の「教科書スペシャル」という番組に出演させていただいて解説させてもらったのですが、
「日本の当時の馬はサラブレッドではない。」
「ポニーのような大きさの馬だ。」
と、申しました。実は、半分正しくなく、「ポニーのような」と説明したのは、その大きさ、形状だけの話で、日本の馬は、かなり気性が激しい“暴れ馬”でした。
また、武者たちは、こういう荒馬が好きで(それを乗りこなして賞賛を得たいという思いもあった)、自らの愛馬には、ことさらそういう馬を求めたようです。
確かに、戦場にむかう馬の気が弱くては話になりません。
たしか司馬遼太郎さんが、『坂の上の雲』の中で、日本の軍馬をみたドイツの軍人が
「これは馬ではなく猛獣だ」
と驚いた、みたいなことを書かれていたと思います。
「生食」という名前から考えて… こいつ、けっこう“怪獣”のような馬だった気がするんです。
『平家物語』の中でも、「馬も人も、あたりをはらつて食ひにければ、生食とは附けられたり」と記されています。
噛みつきまくる荒れ馬だったんでしょう。
名だたる武者にしてみれば、
「お~! これ、ほしいぜっ」
と、なるにきまっています。
所有者は、源頼朝。欲した者は二人。
まずは梶原源太景季。
が、しかし、頼朝は景季には「生食」ではなく「磨墨」を与えました。
景季はちょっぴり残念に思いますが、「磨墨」とて他の武者たちにとっての垂涎の的。
「おまえ、ええよなぁ~」と、みんなからうらやましがられたに違いありません。
ところが、源頼朝、彼の気まぐれなのか、はたまた、彼の人物鑑定眼によるものか、「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまったのです。
「磨墨」は、漆黒青毛の良馬であったことには違いないのですが、「生食」は美しき馬であることに加えて、戦闘馬としては一段格上の馬です。
梶原源太景季は、佐々木四郎高綱が引く馬をみて仰天しました。
やややややっ! あ、あれは「生食」ではないかっ
自分が求めて与えられなかった「生食」を佐々木高綱がもらっている…
こんな恥辱があるものかっ 高綱を斬り、おれも死んでやるっ と、ばかりに佐々木四郎高綱に文句をつけにやってきました。
一方、その様子を見た佐々木高綱は、「ははぁ~ん」とすべてを察します。
「おいっ この馬は、生食ではないかっ いったいどうしたのだ!」
(返答次第では斬ってやるぜっ)
「おう、さればよ、今度の合戦は長期にわたる。並の馬ではとうていかなわぬ。殿に申し上げて生食を所望したのよ。」
「おう、それで?」
「ところが、だ、おれの前に、誰やら名のある武者が所望したらしく、殿には『それほどの武者の申し出を断った以上、おまえには当然やれぬ』と言われてしまったのよ。」
「お、おう?」
こう言われれば景季も悪い気はしない。
「だからよ」と高綱、急に声をひそめて、「盗んだのよ。」とニヤリと笑う。
「な、なに? 盗んだとな?」
「な~に、抜け駆け先駆けは武門のならい。合戦で手柄を立てれば、おとがめもなかろうよ。」
(うわ~ やられたっ そりゃそうだっ どうしてそれに気付かなかったかっ)
「四郎! おまえはすごいやつだっ」と、わははははははっ と、景季は高笑い。
梶原源太景季、おまえ、なんて“よきおとこ”なんだ!
佐々木四郎高綱、おまえ、“わるい”やっちゃなぁ~
かくして、宇治川の渡河作戦の日を迎えます。
世に言う“宇治川の先陣争い”の始まりです。
「先陣」というのは、まっさきに敵陣に切り込む、ということです。当然、突入してくる集団の先頭を叩けば、後の戦いは有利に展開できます。逆に、先頭集団が、敵陣にくい込めば、敵を分断して壊滅に追い込みやすくなります。
「先陣を切る」のは、もっとも危険であるとともに、もっとも手柄を立てやすいもの。
武者にとっては「ハイ・リスク、ハイ・リターン」のお仕事です。
この先陣を、この二人が、争うことになりました。
梶原源太景季は「磨墨」に騎乗し。
佐々木四郎高綱は「生食」に騎乗し。
先に乗り入れたのは景季でした。それに遅れじと高綱が追う!
「源太! 馬の鞍がゆるんでおるぞっ この激流、落馬してはたいへんだっ 気をつけろよ!」
と、高綱は景季に声をかけました。
「おうよっ」と、景季は馬の鞍の紐を締め直す…
と、その隙に、高綱は「生食」を駆って景季を追い抜いてしまいました。
「しまった! やられた!」
と、景季は思います。すぐに高綱を追う。
そして今度は、景季が、
「功をあせって、はやまるなっ 川底には大綱が張られているぞ。気をつけろっ」
と、声をかける。
(たしかに。)と思った高綱は、抜刀して、川底に張られている綱を切りつつ進んでいきました。
こうして“宇治川の先陣争い”は佐々木四郎高綱の一番乗り、ということになったのです。
さて、この話は、どう解釈すればよいのでしょう。
佐々木高綱が梶原景季をだまし、うまうまと先陣争いに勝利した、という話でよいのでしょうか。
わたしは、ただ、二人が“協力”して川を渡りきったような気がしてしかたがありません。
『平家物語』では、最初のところで「だまされた!」という言葉を景季が発しているものですから、ついついそう考えてしまいがちですが、実際は、お互いに声をかけながら、渡河作戦を敢行した、というような気がします。
あるいは…
「合戦で手柄を立てれば、おとがめもなかろうよ。」
という先の高綱の言葉を景季が思い出し、高綱に功を譲ったのかもしれません。
だとすれば、ますます源太は“よきおとこ”ということになりそうです。
“悪”と“悪になりきれなかったおとこ”の物語といってよいかもしれません。
(次回に続く)次回・楽器の話
私がまだ小学生の低学年だったころのことです。たぶん一年生か…
京都の叔母の家に行きました。2月も終わり頃、庭の梅がきれいに咲いていたのですが、翌朝、一転して大雪となりました。
子どもって、雪、好きじゃないですか。
私も庭に飛び出てはしゃぎ、調子にのってしまって、雪がいっぱい積もっていた庭の梅の枝を折ってしまいました。
ほら、雪がこんなにのってるで。
と、叔母に差し出すと、
あらあら、まぁまぁ、すけもりさんじゃあろまいし。
と、言われたんです。
すけもりさん???
だれ? それ? と、そのときは思ったのですが、そのような出来事があったことすらすっかり忘れて歳月が流れました。
そして高校生になり、やがて卒業だな、というある日…
長く忘れて記憶の底に沈んでいた「あの日」のこと、そして叔母の「すけもりさん」という言葉が、突然目の前によみがえったのです。
『建礼門院右京大夫集』
を読んだんです。
あ! このことやったんか!
平資盛。
平重盛の子で、歴史の教科書では、まったく取り上げられない人物です。
彼の兄の維盛のほうは、実はちょっぴり出てきます。
ただし、なんとも不名誉な役回りで…
富士川の戦いで、水鳥の音に驚いて逃げる…
倶利伽羅峠の戦いで、さんざんに打ち破られる…
以前に、重盛は、維盛・資盛の兄弟を、それぞれ政権内での役割分担をさせる計画でいたのではないか、という話をしました。
維盛は「武」、資盛は「文」。
維盛は一門を率いる武将として育てる。
資盛は宮廷で出世させて公卿として育てる。
なんともおもしろいことですが、実際、維盛は「武」において歴史の教科書に出てきて、資盛は「文」において古典の教科書に出てきます。
(『平家物語』の中で、資盛のもっとも有名な「殿下乗合事件」なのですが、前にも申しましたように、これは資盛自身に責任があった事件ではありません。まだ10才の子どもだった資盛にとっては、いったい何が起こったの? というようなことだったでしょう。)
さてさて、まちがいなく、資盛は“よきおとこ”です。
“悪にはなりきれぬおとこ”
「謀」においても、資盛は宮廷担当でしたが、後白河法皇との交渉もうまくいかず、都落ちの後、豊後国での交渉も不調に終わる…
「武」においても、三草山の戦いでは、源義経配下の土肥実平の、民家への放火をともなう奇襲攻撃に敗退してしまう…
(でもね、このとき義経軍は資盛軍の倍以上の兵力があったんですよ。ふつう大軍が寡兵に対して奇襲するなんて考えられません。ましてや夜盗のごとく、非戦闘員をまきこんでの攻撃など、資盛には思いつかなかったことでしょう。)
三草山の戦いは、源平の“悪”と“悪になりきれぬ”者との戦いであったようにも思います。
さて、そんな資盛が歴史の中で輝くことになったのは、建礼門院右京大夫によってではないでしょうか。
建礼門院右京大夫
は、建礼門院に仕える女房。つまり、平清盛の娘にして安徳天皇の母、徳子に仕える女房の一人でした。
『建礼門院右京大夫集』の中で、彼女は資盛への“想い”を綴っているのですが、資盛と右京大夫は、ほんとうに純粋な“恋”の世界を漂っていた、と、思うんですよ。
通盛と小宰相は“愛する二人”
資盛と右京大夫は“恋する二人”
という感じがします。
意外に思われるかもしれませんが、『建礼門院右京大夫集』には、「資盛」およびそれとわかる彼の官位はほとんど出てきません。
もの思はせし人
さめやらぬ夢と思ふ人
女性にこのように表現される資盛は、さぞや“よきおとこ”だったのでしょう。
いや、資盛は、右京大夫によって初めて“よきおとこ”になりえたような気がします。
そして平家の都落ちのとき、二人は「別れる」ことになりました。
平家は敗れ、資盛は壇ノ浦に沈む…
冬のある日のことでした。
右京大夫が庭を見てみると、雪で真っ白…
橘の木にも雪が積もっていました。
あ…
と、右京大夫は、ある日の資盛の姿を思い出したのです。
かつて内裏に大雪が積もったときのことでした。
宿直の資盛が、雪の積もった橘の枝を手折り、雪を払わずにそれを手に持っている…
「橘の枝を手折られたのですね。」
「いつも橘の木の横に立っているからね。なんだか親しみがあって…」
平資盛は、右近衛権中将。
宮中の儀式では、“右近の橘”の側に立ちます。
雪の積もった橘の枝を持ち、おだやかに右京大夫に微笑みかける資盛。
資盛! おまえなんてカッコいいんだ!
わたしはシビれてしまいました。
平家の公達の、なんと気品のあることか。
右京大夫にしてみれば、これは資盛のベストショットの“心の写真”だったと思います。
これは忘れられるわけがない…
資盛の死後、右京大夫は、日常すべての出来事の中に、資盛を思い出していました。
資盛の荘園が荒れ果てている様を見ても資盛を思い出し、一緒に花見をしたときの桜が、あのときと変わらず今年も咲いているのを見ては、かたわらに資盛がおらぬ今を嘆く…
うつりかわるもの、うつりかわらぬもの… 何をみても資盛のことばかりが思い出されて悲しい…
建礼門院右京大夫は二度恋をしたのでしょう。
一度目は生きている資盛に
二度目は死んでしまった資盛に
(次回に続く)次回・生食と磨墨
京都の叔母の家に行きました。2月も終わり頃、庭の梅がきれいに咲いていたのですが、翌朝、一転して大雪となりました。
子どもって、雪、好きじゃないですか。
私も庭に飛び出てはしゃぎ、調子にのってしまって、雪がいっぱい積もっていた庭の梅の枝を折ってしまいました。
ほら、雪がこんなにのってるで。
と、叔母に差し出すと、
あらあら、まぁまぁ、すけもりさんじゃあろまいし。
と、言われたんです。
すけもりさん???
だれ? それ? と、そのときは思ったのですが、そのような出来事があったことすらすっかり忘れて歳月が流れました。
そして高校生になり、やがて卒業だな、というある日…
長く忘れて記憶の底に沈んでいた「あの日」のこと、そして叔母の「すけもりさん」という言葉が、突然目の前によみがえったのです。
『建礼門院右京大夫集』
を読んだんです。
あ! このことやったんか!
平資盛。
平重盛の子で、歴史の教科書では、まったく取り上げられない人物です。
彼の兄の維盛のほうは、実はちょっぴり出てきます。
ただし、なんとも不名誉な役回りで…
富士川の戦いで、水鳥の音に驚いて逃げる…
倶利伽羅峠の戦いで、さんざんに打ち破られる…
以前に、重盛は、維盛・資盛の兄弟を、それぞれ政権内での役割分担をさせる計画でいたのではないか、という話をしました。
維盛は「武」、資盛は「文」。
維盛は一門を率いる武将として育てる。
資盛は宮廷で出世させて公卿として育てる。
なんともおもしろいことですが、実際、維盛は「武」において歴史の教科書に出てきて、資盛は「文」において古典の教科書に出てきます。
(『平家物語』の中で、資盛のもっとも有名な「殿下乗合事件」なのですが、前にも申しましたように、これは資盛自身に責任があった事件ではありません。まだ10才の子どもだった資盛にとっては、いったい何が起こったの? というようなことだったでしょう。)
さてさて、まちがいなく、資盛は“よきおとこ”です。
“悪にはなりきれぬおとこ”
「謀」においても、資盛は宮廷担当でしたが、後白河法皇との交渉もうまくいかず、都落ちの後、豊後国での交渉も不調に終わる…
「武」においても、三草山の戦いでは、源義経配下の土肥実平の、民家への放火をともなう奇襲攻撃に敗退してしまう…
(でもね、このとき義経軍は資盛軍の倍以上の兵力があったんですよ。ふつう大軍が寡兵に対して奇襲するなんて考えられません。ましてや夜盗のごとく、非戦闘員をまきこんでの攻撃など、資盛には思いつかなかったことでしょう。)
三草山の戦いは、源平の“悪”と“悪になりきれぬ”者との戦いであったようにも思います。
さて、そんな資盛が歴史の中で輝くことになったのは、建礼門院右京大夫によってではないでしょうか。
建礼門院右京大夫
は、建礼門院に仕える女房。つまり、平清盛の娘にして安徳天皇の母、徳子に仕える女房の一人でした。
『建礼門院右京大夫集』の中で、彼女は資盛への“想い”を綴っているのですが、資盛と右京大夫は、ほんとうに純粋な“恋”の世界を漂っていた、と、思うんですよ。
通盛と小宰相は“愛する二人”
資盛と右京大夫は“恋する二人”
という感じがします。
意外に思われるかもしれませんが、『建礼門院右京大夫集』には、「資盛」およびそれとわかる彼の官位はほとんど出てきません。
もの思はせし人
さめやらぬ夢と思ふ人
女性にこのように表現される資盛は、さぞや“よきおとこ”だったのでしょう。
いや、資盛は、右京大夫によって初めて“よきおとこ”になりえたような気がします。
そして平家の都落ちのとき、二人は「別れる」ことになりました。
平家は敗れ、資盛は壇ノ浦に沈む…
冬のある日のことでした。
右京大夫が庭を見てみると、雪で真っ白…
橘の木にも雪が積もっていました。
あ…
と、右京大夫は、ある日の資盛の姿を思い出したのです。
かつて内裏に大雪が積もったときのことでした。
宿直の資盛が、雪の積もった橘の枝を手折り、雪を払わずにそれを手に持っている…
「橘の枝を手折られたのですね。」
「いつも橘の木の横に立っているからね。なんだか親しみがあって…」
平資盛は、右近衛権中将。
宮中の儀式では、“右近の橘”の側に立ちます。
雪の積もった橘の枝を持ち、おだやかに右京大夫に微笑みかける資盛。
資盛! おまえなんてカッコいいんだ!
わたしはシビれてしまいました。
平家の公達の、なんと気品のあることか。
右京大夫にしてみれば、これは資盛のベストショットの“心の写真”だったと思います。
これは忘れられるわけがない…
資盛の死後、右京大夫は、日常すべての出来事の中に、資盛を思い出していました。
資盛の荘園が荒れ果てている様を見ても資盛を思い出し、一緒に花見をしたときの桜が、あのときと変わらず今年も咲いているのを見ては、かたわらに資盛がおらぬ今を嘆く…
うつりかわるもの、うつりかわらぬもの… 何をみても資盛のことばかりが思い出されて悲しい…
建礼門院右京大夫は二度恋をしたのでしょう。
一度目は生きている資盛に
二度目は死んでしまった資盛に
(次回に続く)次回・生食と磨墨
治承三年…
平氏にとっては激変の年になります。
平重盛の死
治承三年の政変
そんな事件が起こる年とも思えぬ春の始まり…
鳥羽法皇の娘にして後白河法皇の姉、上西門院が法勝寺で花見の宴を催しました。
このとき、“ある出会い”があったんです。
平通盛が刑部卿藤原憲方の娘(小宰相)をその花見の宴で見初めました。
通盛は、平清盛の弟である教盛の息子です。
清盛からみれば甥っ子、というわけですね。
その通盛、小宰相にさっそく文を届けさせますが、小宰相はこれに応えません…
このころの貴族の“しきたり”では、一度目の文ですぐに返答をしません。
一度目はお断り、二度目はためらいつつ受け取り、三度目あたりで歌など添えて返す…
通盛は、三度どころかその後、何度も何度も文を送り続けました。
そして小宰相は、そのつどそのつど無視し続けました。
文を送ること、なんと三年。
もうあきらめるか…
いや、これで最後にしよう。
と、これぞ最後の文、と、念じて、使いの者に持たせました。
使いの者も、これが主の最後の文、なんとしても届けねば、と、張り切ったのですが、なんとも悪いめぐりあわせで、取り次ぎの女房がおらず本人も不在… 渡すことがかないませんでした。
もはやこれまでか、と、思ったとき、ちょうど小宰相を乗せた車が通りかかりました。
使いの者は、最後の手段だっ と、なんとその文を車の中へ投げ入れたのです。
これは…
と、小宰相は思うも、とりあえず袂に隠して持ち帰り、そして何事もなかったように宮仕えのために御所に参上しました。
ここで、ハプニングが起こります。
その文を、なんと宮中で落としてしまったのですが、それを拾ったのが、なんと上西門院。
おやおや、まぁまぁ…
ただちに女房たちを集めて、「さてさて、このような熱烈なラブレターをもらっておいて、素知らぬ顔をしておるのは誰であろうの?」と問いかけます。
ざっと女房たちを見回して、ああ、この子か、と、上西門院はすぐに気づいたようです。
一人だけうつむき、顔を真っ赤にしているではありませんか。
上西門院は、小宰相を呼び出し、
「小野小町でもあるまいし」と、小野小町の例を出して「そんなに突っ張っていてはいけませぬよ」とたしなめ、
「ほれほれ、文を返してさしあげよ」
と硯を引き寄せ、墨まですり出す…
「なんなら、わたしが書いてさしあげましょうや? おほほほほほほほっ」
と、言ったかどうか…
め、めっそうもありませぬ~
上西門院にこう言われては文を書かないわけにもいかず…
上西門院が“恋のキューピッド”となって、二人は結ばれる、ということになりました。
ただ… ちょっと“事情”がいろいろあり…
通盛にはすでに“正妻”がおりました。
清盛の息子宗盛の娘です。
が、しかし、年齢はまだ12才。平家一門内での結束を図るための政略結婚だったわけです。
小宰相の“ためらい”も、そんな事情があったからかもしれません。
“よきおとこ”は“つみつくりなおとこ”でもあるわけです。
それにしても通盛が文を送り続けた三年間、というのは、1179~1181年に相当するわけですから、以仁王の挙兵、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、と、動乱の時期と重なります。
都と遠征…
恋路と戦さ…
おいおい、何を優雅にやっとんねんっ と、ツッコミを入れたくなるところ…
きっと、通盛の弟、教経あたりには、
「そのような心がけでは役に立ちませぬぞ」
とでも言われていたかも知れません。
弟の平教経は、
「合戦において一度も不覚なし」
「強弓精兵王城一」
の猛将として知られていましたから。
平教経は『平家物語』では、源義経との“対比”でよく描かれています。
まぁ、日本の物語はそういう“設定”好きですよね。倒されるべき相手にも強いヤツがいる…
(赤穂浪士の討ち入りでの、清水一学と堀部安兵衛みたいなもんですか。)
通盛にしてみれば、弟にたしなめられ、「また言われたか。わははははは。」だったような気がします。
剛の教経、柔の通盛。
あんがいとこの二人の組み合わせの合戦では、平氏は勝利をおさめることが多いんですよね。
木曽義仲との戦いに敗れ、都落ちした後も、木曽義仲がさしむけた軍を、水島の戦い、で、撃退し、義仲失脚のきっかけを作っています。
こうして平氏は態勢を立て直し、一ノ谷の戦いをむかえることになりました。
何か感じるところがあったのでしょう。沖合の船にいた小宰相をわざわざ通盛は呼び寄せます。
ここらあたりも事情があり、小宰相は通盛の“妻”として知られていますが、なんせ正妻ではありません。同じ場所には小宰相はいることはできないわけです。
「なんだか、明日の戦さで討ち死にするような気がする… そうなったら、おまえはどうする?」
そんな質問するかぁ? と、思うところなのですが、小宰相は「実はわたくしは身ごもっております」と、重大な報告をします。
通盛は、「おお、是非、男の子を生んでほしい。しかし、船の上では心配だなぁ~」となんだか暢気な応答をする…
こんなあたりも“よきおとこ”らしさというべきか…
そしてここに弟が登場。
「兄上! いったい何をしてらっしゃるやら。ここは、この教経がまかされるほどの戦場ですぞ。」
と、女と睦み合っている(と教経には見えた)兄をたしなめました。
「そのような心がけでは役にたちませぬぞ」
「ああ、また言われたか。」と、しかし、今度は笑えません。小宰相を沖の船へと返しました。
一ノ谷の戦いは、二つの謀で成り立っていた戦いでした。
戦闘準備中だった平氏軍に、後白河法皇から「調停」の手紙が届いたのです。
「和議だ。おれが調停してやるから、源平ともに戦さを停止せよ。」
平氏は、源氏と天下を二分してもよいと考えていました。
西国が平氏、東国が源氏…
“平家の都落ち”は、もともとその“企画”の一つだったわけです。
そして、通盛・教経の活躍による水島の戦いの勝利で態勢を立て直し、「天下二分の計」を進めやすい環境が整っていました。
が、しかし、武装を解除して戦いをやめようとしていた平氏に対して、源氏はかまわず軍を進めて攻撃をしかけてきたのです。
一ノ谷から湊川にかけては大激戦となりました。
むしろ平氏が優勢で押し返そうとしたそのとき…
源義経の別動隊が奇襲攻撃をしかけてきました。
いわゆる“ひよどりごえ”。
これが二つ目の謀でした。
がっぷり四つに組んでいる大相撲のとき、たとえ指一本でも脇腹をつんと突けば、「うひゃ」と体勢を崩せますよね。
一ノ谷の戦いにおける義経の奇襲は、この“指一本”のひと突きでした。
(一ノ谷の戦いの詳細は拙著『超軽っ日本史』に描いております。機会があれば是非読んでみてください。)
この一ノ谷の戦いで、平家は多くの一門衆を失うことになります。
そして…
小宰相のもとに「通盛さまが討たれました」という報せが届きます。
戦いは混乱をきわめましたので、小宰相は「まだわからぬ」と第一報は信じませんでした。
しかし、やがて、最期を見届けたという者の話を聞くにおよび、通盛の死を受け入れました。
小宰相は、あとを追い、死ぬことを決心しますが、乳母にとどめられました。
「通盛さまの子を産み育て、通盛さまの菩提を弔いましょうぞ」
と、励まされます。
「うそですよ。死ぬ、死ぬという者は死んだりはいたしませんよ。」
と、笑顔で答えました。
しかし、その夜、小宰相はそっと抜け出し、海に身を投じてしまいました…
船の漕ぎ手がすぐに気づき、引き上げようとしましたが、何せ暗い夜の海…
見つけられて船に引き上げられたときはすでに帰らぬ人となっていました。
通盛の鎧が一領残っていたので、乳母は「せめてあの世でごいっしょに」とそれを小宰相に着せて海に沈めたといいます。
二月十四日の夜のことでした。
なぜ、小宰相は死ななければならなかったのか…
小宰相の立場はいわば“愛人”。
正式の妻ではありません。
なので、何も都落ちに同行する必要も本来はなかったのです。
生き残ったとしても、小宰相の実家の立場からすると、別の誰か貴族のもとへ嫁に出される可能性が高い…
「そのことがいやだったのでございましょう…」
と、建礼門院右京大夫は述べています。そして
例になき契りの深さよ
と、小宰相の“夫”通盛への愛をたたえて記しました。
まさに二月十四日、“愛の日”伝説は古の日本にもありました、というお話です。
(次回に続く)次回・平資盛
平氏にとっては激変の年になります。
平重盛の死
治承三年の政変
そんな事件が起こる年とも思えぬ春の始まり…
鳥羽法皇の娘にして後白河法皇の姉、上西門院が法勝寺で花見の宴を催しました。
このとき、“ある出会い”があったんです。
平通盛が刑部卿藤原憲方の娘(小宰相)をその花見の宴で見初めました。
通盛は、平清盛の弟である教盛の息子です。
清盛からみれば甥っ子、というわけですね。
その通盛、小宰相にさっそく文を届けさせますが、小宰相はこれに応えません…
このころの貴族の“しきたり”では、一度目の文ですぐに返答をしません。
一度目はお断り、二度目はためらいつつ受け取り、三度目あたりで歌など添えて返す…
通盛は、三度どころかその後、何度も何度も文を送り続けました。
そして小宰相は、そのつどそのつど無視し続けました。
文を送ること、なんと三年。
もうあきらめるか…
いや、これで最後にしよう。
と、これぞ最後の文、と、念じて、使いの者に持たせました。
使いの者も、これが主の最後の文、なんとしても届けねば、と、張り切ったのですが、なんとも悪いめぐりあわせで、取り次ぎの女房がおらず本人も不在… 渡すことがかないませんでした。
もはやこれまでか、と、思ったとき、ちょうど小宰相を乗せた車が通りかかりました。
使いの者は、最後の手段だっ と、なんとその文を車の中へ投げ入れたのです。
これは…
と、小宰相は思うも、とりあえず袂に隠して持ち帰り、そして何事もなかったように宮仕えのために御所に参上しました。
ここで、ハプニングが起こります。
その文を、なんと宮中で落としてしまったのですが、それを拾ったのが、なんと上西門院。
おやおや、まぁまぁ…
ただちに女房たちを集めて、「さてさて、このような熱烈なラブレターをもらっておいて、素知らぬ顔をしておるのは誰であろうの?」と問いかけます。
ざっと女房たちを見回して、ああ、この子か、と、上西門院はすぐに気づいたようです。
一人だけうつむき、顔を真っ赤にしているではありませんか。
上西門院は、小宰相を呼び出し、
「小野小町でもあるまいし」と、小野小町の例を出して「そんなに突っ張っていてはいけませぬよ」とたしなめ、
「ほれほれ、文を返してさしあげよ」
と硯を引き寄せ、墨まですり出す…
「なんなら、わたしが書いてさしあげましょうや? おほほほほほほほっ」
と、言ったかどうか…
め、めっそうもありませぬ~
上西門院にこう言われては文を書かないわけにもいかず…
上西門院が“恋のキューピッド”となって、二人は結ばれる、ということになりました。
ただ… ちょっと“事情”がいろいろあり…
通盛にはすでに“正妻”がおりました。
清盛の息子宗盛の娘です。
が、しかし、年齢はまだ12才。平家一門内での結束を図るための政略結婚だったわけです。
小宰相の“ためらい”も、そんな事情があったからかもしれません。
“よきおとこ”は“つみつくりなおとこ”でもあるわけです。
それにしても通盛が文を送り続けた三年間、というのは、1179~1181年に相当するわけですから、以仁王の挙兵、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、と、動乱の時期と重なります。
都と遠征…
恋路と戦さ…
おいおい、何を優雅にやっとんねんっ と、ツッコミを入れたくなるところ…
きっと、通盛の弟、教経あたりには、
「そのような心がけでは役に立ちませぬぞ」
とでも言われていたかも知れません。
弟の平教経は、
「合戦において一度も不覚なし」
「強弓精兵王城一」
の猛将として知られていましたから。
平教経は『平家物語』では、源義経との“対比”でよく描かれています。
まぁ、日本の物語はそういう“設定”好きですよね。倒されるべき相手にも強いヤツがいる…
(赤穂浪士の討ち入りでの、清水一学と堀部安兵衛みたいなもんですか。)
通盛にしてみれば、弟にたしなめられ、「また言われたか。わははははは。」だったような気がします。
剛の教経、柔の通盛。
あんがいとこの二人の組み合わせの合戦では、平氏は勝利をおさめることが多いんですよね。
木曽義仲との戦いに敗れ、都落ちした後も、木曽義仲がさしむけた軍を、水島の戦い、で、撃退し、義仲失脚のきっかけを作っています。
こうして平氏は態勢を立て直し、一ノ谷の戦いをむかえることになりました。
何か感じるところがあったのでしょう。沖合の船にいた小宰相をわざわざ通盛は呼び寄せます。
ここらあたりも事情があり、小宰相は通盛の“妻”として知られていますが、なんせ正妻ではありません。同じ場所には小宰相はいることはできないわけです。
「なんだか、明日の戦さで討ち死にするような気がする… そうなったら、おまえはどうする?」
そんな質問するかぁ? と、思うところなのですが、小宰相は「実はわたくしは身ごもっております」と、重大な報告をします。
通盛は、「おお、是非、男の子を生んでほしい。しかし、船の上では心配だなぁ~」となんだか暢気な応答をする…
こんなあたりも“よきおとこ”らしさというべきか…
そしてここに弟が登場。
「兄上! いったい何をしてらっしゃるやら。ここは、この教経がまかされるほどの戦場ですぞ。」
と、女と睦み合っている(と教経には見えた)兄をたしなめました。
「そのような心がけでは役にたちませぬぞ」
「ああ、また言われたか。」と、しかし、今度は笑えません。小宰相を沖の船へと返しました。
一ノ谷の戦いは、二つの謀で成り立っていた戦いでした。
戦闘準備中だった平氏軍に、後白河法皇から「調停」の手紙が届いたのです。
「和議だ。おれが調停してやるから、源平ともに戦さを停止せよ。」
平氏は、源氏と天下を二分してもよいと考えていました。
西国が平氏、東国が源氏…
“平家の都落ち”は、もともとその“企画”の一つだったわけです。
そして、通盛・教経の活躍による水島の戦いの勝利で態勢を立て直し、「天下二分の計」を進めやすい環境が整っていました。
が、しかし、武装を解除して戦いをやめようとしていた平氏に対して、源氏はかまわず軍を進めて攻撃をしかけてきたのです。
一ノ谷から湊川にかけては大激戦となりました。
むしろ平氏が優勢で押し返そうとしたそのとき…
源義経の別動隊が奇襲攻撃をしかけてきました。
いわゆる“ひよどりごえ”。
これが二つ目の謀でした。
がっぷり四つに組んでいる大相撲のとき、たとえ指一本でも脇腹をつんと突けば、「うひゃ」と体勢を崩せますよね。
一ノ谷の戦いにおける義経の奇襲は、この“指一本”のひと突きでした。
(一ノ谷の戦いの詳細は拙著『超軽っ日本史』に描いております。機会があれば是非読んでみてください。)
この一ノ谷の戦いで、平家は多くの一門衆を失うことになります。
そして…
小宰相のもとに「通盛さまが討たれました」という報せが届きます。
戦いは混乱をきわめましたので、小宰相は「まだわからぬ」と第一報は信じませんでした。
しかし、やがて、最期を見届けたという者の話を聞くにおよび、通盛の死を受け入れました。
小宰相は、あとを追い、死ぬことを決心しますが、乳母にとどめられました。
「通盛さまの子を産み育て、通盛さまの菩提を弔いましょうぞ」
と、励まされます。
「うそですよ。死ぬ、死ぬという者は死んだりはいたしませんよ。」
と、笑顔で答えました。
しかし、その夜、小宰相はそっと抜け出し、海に身を投じてしまいました…
船の漕ぎ手がすぐに気づき、引き上げようとしましたが、何せ暗い夜の海…
見つけられて船に引き上げられたときはすでに帰らぬ人となっていました。
通盛の鎧が一領残っていたので、乳母は「せめてあの世でごいっしょに」とそれを小宰相に着せて海に沈めたといいます。
二月十四日の夜のことでした。
なぜ、小宰相は死ななければならなかったのか…
小宰相の立場はいわば“愛人”。
正式の妻ではありません。
なので、何も都落ちに同行する必要も本来はなかったのです。
生き残ったとしても、小宰相の実家の立場からすると、別の誰か貴族のもとへ嫁に出される可能性が高い…
「そのことがいやだったのでございましょう…」
と、建礼門院右京大夫は述べています。そして
例になき契りの深さよ
と、小宰相の“夫”通盛への愛をたたえて記しました。
まさに二月十四日、“愛の日”伝説は古の日本にもありました、というお話です。
(次回に続く)次回・平資盛