治承三年…
平氏にとっては激変の年になります。
平重盛の死
治承三年の政変
そんな事件が起こる年とも思えぬ春の始まり…
鳥羽法皇の娘にして後白河法皇の姉、上西門院が法勝寺で花見の宴を催しました。
このとき、“ある出会い”があったんです。
平通盛が刑部卿藤原憲方の娘(小宰相)をその花見の宴で見初めました。
通盛は、平清盛の弟である教盛の息子です。
清盛からみれば甥っ子、というわけですね。
その通盛、小宰相にさっそく文を届けさせますが、小宰相はこれに応えません…
このころの貴族の“しきたり”では、一度目の文ですぐに返答をしません。
一度目はお断り、二度目はためらいつつ受け取り、三度目あたりで歌など添えて返す…
通盛は、三度どころかその後、何度も何度も文を送り続けました。
そして小宰相は、そのつどそのつど無視し続けました。
文を送ること、なんと三年。
もうあきらめるか…
いや、これで最後にしよう。
と、これぞ最後の文、と、念じて、使いの者に持たせました。
使いの者も、これが主の最後の文、なんとしても届けねば、と、張り切ったのですが、なんとも悪いめぐりあわせで、取り次ぎの女房がおらず本人も不在… 渡すことがかないませんでした。
もはやこれまでか、と、思ったとき、ちょうど小宰相を乗せた車が通りかかりました。
使いの者は、最後の手段だっ と、なんとその文を車の中へ投げ入れたのです。
これは…
と、小宰相は思うも、とりあえず袂に隠して持ち帰り、そして何事もなかったように宮仕えのために御所に参上しました。
ここで、ハプニングが起こります。
その文を、なんと宮中で落としてしまったのですが、それを拾ったのが、なんと上西門院。
おやおや、まぁまぁ…
ただちに女房たちを集めて、「さてさて、このような熱烈なラブレターをもらっておいて、素知らぬ顔をしておるのは誰であろうの?」と問いかけます。
ざっと女房たちを見回して、ああ、この子か、と、上西門院はすぐに気づいたようです。
一人だけうつむき、顔を真っ赤にしているではありませんか。
上西門院は、小宰相を呼び出し、
「小野小町でもあるまいし」と、小野小町の例を出して「そんなに突っ張っていてはいけませぬよ」とたしなめ、
「ほれほれ、文を返してさしあげよ」
と硯を引き寄せ、墨まですり出す…
「なんなら、わたしが書いてさしあげましょうや? おほほほほほほほっ」
と、言ったかどうか…
め、めっそうもありませぬ~
上西門院にこう言われては文を書かないわけにもいかず…
上西門院が“恋のキューピッド”となって、二人は結ばれる、ということになりました。
ただ… ちょっと“事情”がいろいろあり…
通盛にはすでに“正妻”がおりました。
清盛の息子宗盛の娘です。
が、しかし、年齢はまだ12才。平家一門内での結束を図るための政略結婚だったわけです。
小宰相の“ためらい”も、そんな事情があったからかもしれません。
“よきおとこ”は“つみつくりなおとこ”でもあるわけです。
それにしても通盛が文を送り続けた三年間、というのは、1179~1181年に相当するわけですから、以仁王の挙兵、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、と、動乱の時期と重なります。
都と遠征…
恋路と戦さ…
おいおい、何を優雅にやっとんねんっ と、ツッコミを入れたくなるところ…
きっと、通盛の弟、教経あたりには、
「そのような心がけでは役に立ちませぬぞ」
とでも言われていたかも知れません。
弟の平教経は、
「合戦において一度も不覚なし」
「強弓精兵王城一」
の猛将として知られていましたから。
平教経は『平家物語』では、源義経との“対比”でよく描かれています。
まぁ、日本の物語はそういう“設定”好きですよね。倒されるべき相手にも強いヤツがいる…
(赤穂浪士の討ち入りでの、清水一学と堀部安兵衛みたいなもんですか。)
通盛にしてみれば、弟にたしなめられ、「また言われたか。わははははは。」だったような気がします。
剛の教経、柔の通盛。
あんがいとこの二人の組み合わせの合戦では、平氏は勝利をおさめることが多いんですよね。
木曽義仲との戦いに敗れ、都落ちした後も、木曽義仲がさしむけた軍を、水島の戦い、で、撃退し、義仲失脚のきっかけを作っています。
こうして平氏は態勢を立て直し、一ノ谷の戦いをむかえることになりました。
何か感じるところがあったのでしょう。沖合の船にいた小宰相をわざわざ通盛は呼び寄せます。
ここらあたりも事情があり、小宰相は通盛の“妻”として知られていますが、なんせ正妻ではありません。同じ場所には小宰相はいることはできないわけです。
「なんだか、明日の戦さで討ち死にするような気がする… そうなったら、おまえはどうする?」
そんな質問するかぁ? と、思うところなのですが、小宰相は「実はわたくしは身ごもっております」と、重大な報告をします。
通盛は、「おお、是非、男の子を生んでほしい。しかし、船の上では心配だなぁ~」となんだか暢気な応答をする…
こんなあたりも“よきおとこ”らしさというべきか…
そしてここに弟が登場。
「兄上! いったい何をしてらっしゃるやら。ここは、この教経がまかされるほどの戦場ですぞ。」
と、女と睦み合っている(と教経には見えた)兄をたしなめました。
「そのような心がけでは役にたちませぬぞ」
「ああ、また言われたか。」と、しかし、今度は笑えません。小宰相を沖の船へと返しました。
一ノ谷の戦いは、二つの謀で成り立っていた戦いでした。
戦闘準備中だった平氏軍に、後白河法皇から「調停」の手紙が届いたのです。
「和議だ。おれが調停してやるから、源平ともに戦さを停止せよ。」
平氏は、源氏と天下を二分してもよいと考えていました。
西国が平氏、東国が源氏…
“平家の都落ち”は、もともとその“企画”の一つだったわけです。
そして、通盛・教経の活躍による水島の戦いの勝利で態勢を立て直し、「天下二分の計」を進めやすい環境が整っていました。
が、しかし、武装を解除して戦いをやめようとしていた平氏に対して、源氏はかまわず軍を進めて攻撃をしかけてきたのです。
一ノ谷から湊川にかけては大激戦となりました。
むしろ平氏が優勢で押し返そうとしたそのとき…
源義経の別動隊が奇襲攻撃をしかけてきました。
いわゆる“ひよどりごえ”。
これが二つ目の謀でした。
がっぷり四つに組んでいる大相撲のとき、たとえ指一本でも脇腹をつんと突けば、「うひゃ」と体勢を崩せますよね。
一ノ谷の戦いにおける義経の奇襲は、この“指一本”のひと突きでした。
(一ノ谷の戦いの詳細は拙著『超軽っ日本史』に描いております。機会があれば是非読んでみてください。)
この一ノ谷の戦いで、平家は多くの一門衆を失うことになります。
そして…
小宰相のもとに「通盛さまが討たれました」という報せが届きます。
戦いは混乱をきわめましたので、小宰相は「まだわからぬ」と第一報は信じませんでした。
しかし、やがて、最期を見届けたという者の話を聞くにおよび、通盛の死を受け入れました。
小宰相は、あとを追い、死ぬことを決心しますが、乳母にとどめられました。
「通盛さまの子を産み育て、通盛さまの菩提を弔いましょうぞ」
と、励まされます。
「うそですよ。死ぬ、死ぬという者は死んだりはいたしませんよ。」
と、笑顔で答えました。
しかし、その夜、小宰相はそっと抜け出し、海に身を投じてしまいました…
船の漕ぎ手がすぐに気づき、引き上げようとしましたが、何せ暗い夜の海…
見つけられて船に引き上げられたときはすでに帰らぬ人となっていました。
通盛の鎧が一領残っていたので、乳母は「せめてあの世でごいっしょに」とそれを小宰相に着せて海に沈めたといいます。
二月十四日の夜のことでした。
なぜ、小宰相は死ななければならなかったのか…
小宰相の立場はいわば“愛人”。
正式の妻ではありません。
なので、何も都落ちに同行する必要も本来はなかったのです。
生き残ったとしても、小宰相の実家の立場からすると、別の誰か貴族のもとへ嫁に出される可能性が高い…
「そのことがいやだったのでございましょう…」
と、建礼門院右京大夫は述べています。そして
例になき契りの深さよ
と、小宰相の“夫”通盛への愛をたたえて記しました。
まさに二月十四日、“愛の日”伝説は古の日本にもありました、というお話です。
(次回に続く)次回・平資盛