傍流平家物語 序 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

“悪”という言葉は、平安時代から鎌倉時代にかけては、いわゆる現在のような「悪」という意味と違う使い方をします。

「過ぎたるはなおおよばざるがごとし」の「過ぎた」とき、「悪」を用いる場合があります。
強すぎても悪、知恵がまわりすぎても悪、何か従来の常識とは違うことをしても悪…

“悪源太”“悪左府”“悪禅師”…

現在のイメージの「悪」でとらえると、当時の価値観からすると、ちょっぴりズレてしまうときがあります。

よって「よし」「よろし」の場合も、「良」「善」という現在のイメージとは、少し違う場合があります。たとえば

“よきおとこ”

には、“悪”ではないゆえに、「ほどほどな」「中道」「やんわりとした」というイメージもつきまといます。
よって、武将の「武」においては、どこか一歩ふみこめない… 知将の「知」においては、人をだましきれず、策や謀を使いきれない…

源氏の武と知は「悪」ですが、平氏の武と知は「悪」にはなりきれない…
いや、源氏においても、『平家物語』では、この「悪」と「悪になりきれない」人物対比が描かれているような気がします…

「悪」と「悪になりきれぬ」

そんな源平の人たちをちょっと紹介したいと思います。

そしてまた、

 太陽と月

夜、月を輝かせるのは間違いなく太陽です。しかし、あたりまえですが、夜には太陽は輝いていない…
そこには見えぬ太陽があるからこそ月は輝いている。

主役なのに、実は別の誰かがいるから、輝いている…

そんな源平の人たちをちょっと紹介したいと思います。

(次回に続く)次回・平通盛