保元の乱。
保元の乱は、「ここから武者の世が始まった」と、慈円が『愚管抄』で述べているように、画期的な事件です。
「武者の世の始まり」は、すなわち「貴族の世の終わり」…
当時の評価はそうなのですが、不思議なことに、小学校の教科書では「保元の乱」は出てきません。
(平治の乱は一部の教科書で紹介されています。ちなみに、中学受験では保元の乱は出題されません。当然、その中に出てくる源義朝や為朝など問われません。そもそも後白河法皇すら出題されません。院政がそもそも出題されないんですよ。)
武士たちが貴族の世の中を終わらせた、というより、貴族たちが自壊した、というのが保元の乱に表現されていると思うんですよね。
わたしは、授業で保元の乱の説明をするときは、「貴族の自壊」の“空気”を伝えたいために、人間関係を念入りに説明します。
教科書的には「保元の乱」の説明は短く、中学校の教科書では、
12世紀中ごろ、院政の実権をめぐる争い(保元の乱・平治の乱)が起きました。
源氏と平氏の武士たちは、この争いに動員されて戦い、貴族と結んで政治の力を
持つようになりました。
と、かなり、やんわりと大きく包むように説明されています。
ま、はっきりいって、あんまり「おもしろい」説明ではない。
おさえるべきことは
「院政の実権をめぐる争い」
「貴族と結んで政治の力を持つようになった」
という部分になります。
高校の教科書の記述で、ようやく“人間味”が出てきます。
皇位継承問題で鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を
めざして兄の関白藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結んで、源為
義、平忠正らの武士を集めた。
保元の乱は、保元の乱にいたるまでがおもしろいんですよ。
そもそもの“きっかけ”は、鳥羽法皇の「女性関係」にありました。
鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)との間に二人の親王。
一人は顕仁親王、もう一人が雅仁親王。
鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)との間に一人の親王。
これが体仁親王。
まず鳥羽天皇は、第一皇子の顕仁親王に皇位を譲って上皇になり、顕仁親王が天皇となりました。この天皇が
崇徳天皇
です。
鳥羽上皇(後に法皇)-崇徳天皇、という「院政」が開始されます。
藤原氏の摂関政治の“力”の源は、自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた子を天皇とする(外戚となる)ことにあります。
関白藤原忠通は、崇徳天皇に自分の娘、聖子をとつがせました。
鳥羽法皇-崇徳天皇-藤原忠通
の政治は、一見安定していたかのように見えていましたが、事態が次第に“変化”していきます。
まず、鳥羽法皇は、寵姫、藤原得子(美福門院)との間に生まれた体仁親王を天皇にしたいと考えるようになり、崇徳天皇をやめさせ、体仁親王を天皇にしたいと考えるようになりました。
このあたりから“奇怪”なうわさが流れ始めました。
にゃんたのマル秘ファイルでも有名な貴族のスキャンダル雑誌『古事談』によると、もともと顕仁親王(崇徳天皇)は、藤原璋子(待賢門院)とその養父、先々帝、白河法皇との間に生まれた不義の子である、というのです。
璋子(待賢門院)を貶めようとするデマだった可能性があります。
こうして体仁親王が天皇の位につくことになりました。これが近衛天皇です。
崇徳上皇から見れば、近衛天皇は弟ですから、院政(天皇の父として政治をおこなう)はできませんし、そもそも父、鳥羽法皇が健在です。
また、本来ならば崇徳上皇を後見してくれるはずの関白藤原忠通との関係も悪化してしまいました。
というのも、忠通の娘、聖子と崇徳上皇の間には子が生まれなかったのに、別の貴族の娘との間に子ども(重仁親王)をつくってしまったのです。
そりゃ忠通にしてみれば「ああ、そう。そういうことね。」と不愉快になるのは当然です。
崇徳上皇は、単なる前天皇として、宮中では孤立した存在になってしまいました…
鳥羽法皇の後ろ盾をいいことに、藤原忠通グループと得子(美福門院)グループが手を組み、崇徳天皇を辞めさせて近衛天皇を立てる、ということをしたわけですね。
さらに話をややこしくしていたのは、この時期、摂関家の中でも内紛が進行していた、ということです。
藤原忠実の子、藤原忠通とその弟藤原頼長の対立です。
忠通と頼長は、親子くらいの歳の差があり、忠通に子がなかったものですから、忠通は頼長を養子としていました。
父、忠実は、頼長を溺愛しており、摂関家を頼長に継がせようとまで考えてしまっていたようです。
そんなときに忠通に子が生まれ、忠通にすれば自分の実の子に関白を譲りたい、と、考えるようになりました。
こうして兄、関白藤原忠通と、弟、左大臣藤原頼長の対立が表面化することになったのです。
さらに事態は変化します。近衛天皇が死去してしまいました。もともと病弱であったのですが、これまた“奇怪”なうわさが流れます。
璋子(待賢門院)が呪い殺したのだ、いやいや左大臣藤原頼長が呪い殺したのだ、などなど…
崇徳上皇を支持し、重仁親王の即位を考えていた待賢門院や藤原頼長らを“牽制”するためのデマだったのでしょう。
藤原忠通、そして美福門院らは、鳥羽法皇に働きかけて、雅仁親王の子、守仁親王を天皇に立てようと画策します。守仁親王は美福門院の養子となっていたからでしょう。
父の親王を飛ばして子を天皇にするわけにはいかない、と、なり、急きょ、雅仁親王が天皇となりました。これが
後白河天皇
です。
ところが、よりによってこのややこしいタイミングで、鳥羽法皇が死去したのです。
鳥羽法皇の死去で後ろ盾を失った、藤原忠通・美福門院グループはあせります。
このままではまずい…
と、思う気持ちが、不安を増大させる、というのはよくある話。ここでさらに“奇怪”なうわさが流れ始めます。
上皇左府同心
つまり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が手を組んで反乱を起こそうとしている…
後白河天皇、藤原忠通らはただちに、鳥羽法皇の屋敷を警護するために北面の武士たちを招集し、同時に藤原頼長に対して、自分の荘園から武士を呼んではならない、という命令を出しました。
そして、京都にある頼長の屋敷を没収してしまいました…
そこまでするか…
と、身の危険を感じた頼長も、身辺警護のために兵を集めました。
呼ばれた源為義などは、もともと摂関家の家人だったので、集めた兵は「公式の部隊」ではなく、あくまでも私兵。単なる警固の兵士のようなもの…
しかし、天皇方は、「それみたことか! やっぱり反乱をするつもりだっ」と考えます。
後白河天皇方は、公式の軍隊。
質も数も圧倒的に上回り、そうして「合戦」が始まりました。
保元の乱、というと、なにやら武家が二手に分かれての堂々の決戦、というイメージを持たれていた方も多いと思うのですが、最近の研究では、保元の乱の実態がしだいに明らかになってきました。
と、いうことは百も承知の上で、わたしは黒板に
(皇室) (摂関) (源氏) (平氏)
後白河天皇 藤原忠通 源義朝 平清盛
崇徳上皇 藤原頼長 源為義・為朝 平忠正
と記して両者の対立を示します。
う~ん… やっぱり、こう書いてしまうと、まるで関ヶ原の戦いのような対決にみえてしまいますよね。
実際は、いいがかりをつけられて、身を守ろうとしたら、ケンカする気だなっ と言われて、なぐりかかられた、というような感じだったんですよね…
(このあたりの事情は拙著『超軽っ日本史』を是非お読みください。)