綱吉の再評価の“再”評価 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

中学三年生の授業で、今、江戸時代の「改革政治」の時代の話をしています。
大きな流れは以前に「教科書から消えたもの」のシリーズで説明しましたので、今回は実際の授業で取り上げた単元からお話ししたいと思います。

最近、江戸幕府、五代将軍徳川綱吉の「再評価」が進んでいます。

かつては、綱吉の政治、というのは「悪政」として有名でした。
とくにその象徴としてよく取り上げられたのが

 生類憐みの令

です。
ちなみに、これは、こういう名前の法令が一つあるのではなく、何回かに分けて出されたもので、一連の法令群をさして、こう称しているのです。

教科書も、学校の先生も塾の講師も、「極端な動物愛護令」として紹介し、「世の中、平和になると、こんなもんが出るんだよね~」と説明されます。
いかに庶民が迷惑したか、ということが強調されるところです。

「再評価」のポイントは、「世の中が平和になったからこんな法令が出た」のではなく、「こんな法令が出たから世の中、平和になったんだ」という考え方への転換です。

4代家綱から5代綱吉の時代は、大きな“転換点”でした。

まだ「戦国時代」の“遺風”が残っていて、平和な、安定した世の中になりつつある元禄時代にあって、それらは「野蛮な」慣習として排除されなくてはならないものでした。
(下剋上、仇討ち、武による解決、人を殺すことに対する抵抗の無さ… こんな考え方が残っていては、いつ幕府を転覆させようという輩が出てきても不思議でないですからね。)

戦国時代にあっては「死をおそれぬ行為」は“武勇”でしたが、平和な世の中にあっては“蛮勇”にすぎません。死はおそれてもらわなくては困る、忌み嫌うべきものでなくてはならなくなりました。

命を粗末にする、武力による解決、というのを許すわけにはいきません。
“辻斬り”、刀を抜いて一般人を殺傷する行為などは厳禁、武士といえどもむやみに刀を抜くことを認めない…

綱吉は、武家諸法度の第一条に手を入れます。
「元和令」(1615年の第一号法令)では、

 一、文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事

と、あったのを綱吉の発令した「天和令」では、

 一、文武忠孝ヲ励シ、礼儀ヲ正スベキ事

と改めました。まさに「武断政治」から「文治政治」への転換。
軍人としての武家を官僚化していく…

みなさんは「忌引き」という言葉をご存知ですよね?
学校でも会社でも、身内の死に対して「有給の休暇がもらえる」という制度・慣習は、この時代に生まれたものなんです。

生類憐みの令は、都市部では迷惑な法令ですが、農村部では殺生の禁止、つまり“狩猟”の制限につながり、農民が持つ鉄砲を没収する口実になりました。
一揆の防止をする、かつての刀狩令ならぬ“鉄砲狩令”として機能したのです。

そもそも「動物愛護」「殺生禁止」というのは、古くは聖武天皇も発令していますし、平安時代にも白河法皇が出しています。
とりたてて、綱吉のそれをオーバーに批判することは無いのではないか? という考え方が現在の歴史学の中では広がりつつあります。

だから…

徳川綱吉の政治は、世間で言われているほどの“悪政”ではないのだ。

という“評価”になっています。

でもね… そういうことはそうなのですが…

目的と効果は、別々に評価すべきです。

わたしは、綱吉の政治は、

「やっぱりちょっと変だった」

と、思うんですよ。

振り子は大きく右に振ると、次は大きく左に振ります。
「悪政、悪政だと今まで言うてきたけれど、ほんとはちゃうでっ!」と、今は反対側に振り子が大きく振り返しているんですよね。
でも、また、少し、右に戻すべきだとわたしは考えています。

生類憐みの令って、ほんとに「平和な世の中」を作り出すためにつくられたのかなぁ? という気がするんですよ。
やっぱり発令した将軍の、おそろしく“個人的な事情”でしょ。
ほんとに“評価”してもよいのかなぁ~ と、懐疑的なんです。

ここからは、綱吉に対する“心理分析”になっちゃいそうなんですが…

綱吉は、本来、将軍になるはずのない人でした。
兄の家綱が後継者を定めぬまま死去し、一時は鎌倉幕府の先例にならって皇族から将軍をむかえる、という提案も出されたくらいです。

 より“将軍らしく”ふるまわなければならぬ

と、心に思うところがあったと思うんです。
もともと学問の造詣が深かったこともあるのですが、未来の将軍としての教育を受けてこなかったことへのコンプレックスの反動というべきか、いっそう儒学に傾倒していきます。

 天災は、悪政に対する天の戒めである

という古来からの考え方にも敏感で、「もともとあの人、将軍になる人じゃなかったからね」という家臣たちのヒソヒソ話に敏感になります。
いや、そもそも誰もそんなことを言うてなかったかもしれないのに、そう思われているのではないか、と、考えすぎていく…

譜代大名やその出身の老中たちを避け、側近を通じて話をするようになっていった、というのも、そういう“理由”があったからかもしれません。
柳沢吉保らに代表する側用人を登用していった背景は、こういう心理学的な説明を加えたほうがより理解ができるかもしれませんね。

地震があったり、火事があったり、火山が噴火したり… およそ綱吉さんにはまったく責任のない出来事も

「政治が悪いからだ」

と、言われてしまう(気がする…)。

「善政」の「善」は、仏心のあらわれ。殺生の禁止、なども彼にとっては「善き政治」なのです。
そういうこともあって彼は、“けがれ”というのを極端に嫌っていました。

一例をあげると、江戸城ならびに首都江戸が“清浄”でなければ嫌だったみたいで(王城静謐思想)、江戸城の台所で、魚をさばくことを(血でけがされることを)禁じてしまいます。
(ですから、「忌引き」の制度も、「親族の喪に服しなさい」という「やさしい思いやり」からではなく、きっと、「こらっ おまえ、身内に死人が出てるやろっ けがれるから出て来るなっ」みたいな感じで始めたことだったとしても、わたしは驚きません。)

みなさんは、「赤穂浪士の討ち入り」をご存知でしょうか?
(昨今は、時代劇、というのが不振なので、子どもたちの多くが「赤穂浪士の討ち入り」を知らないんですよ。)

「赤穂事件」は実話です。

赤穂藩の藩主、浅野内匠頭が江戸城にて吉良上野介に切りかかり、負傷させた、という殺人未遂事件です。

元禄時代は、まだ戦国時代の風潮の残照の時代でもあります。
「昔はよかった」という世代と、「いまどき何言うてんねん」という世代が混在している時代でもありました。

武士は、受けた恥辱を武で晴らす、というのが“戦国の作法”です。

前者の世代にとっては、「こんな時代にあっぱれだ!」と浅野内匠頭に好意的。
後者の世代にとっては、「こんな時代になんて野蛮な!」と吉良上野介に同情的。

しかし、たった一人、まったく違うところに“反応”してイラついていた男がいました。
将軍綱吉です。

「せっかく清めた江戸城が血でけがれたやないかっ! どないしてくれるんやっ!!」

 浅野内匠頭が悪い!

という裁定をくだします。

このことは、浅野内匠頭の家臣たちのさらなる遺恨となり、後の赤穂藩の浪士たちの吉良邸襲撃事件(赤穂浪士の討ち入り)に発展することになるのですが…

綱吉のやったことがもたらした結果(効果)に関しては再評価すべきだと思います。

でもねぇ…
やっぱり綱吉は変だった、と、思いますよ。
生類憐みの令は、おかしな法令だった、ということは、わたしは譲りたくありません。

(最近の研究を反映させた、福田千鶴さんの『徳川綱吉』山川日本史リブレットがおもしろいので機会があれば読んでみてください。)