「扇の的」という逸話があります。
歴史の教科書には出てきませんが、中学生の国語の教科書、高校の古典の教科書には、『平家物語』のこの話がよく出てきます。
“事件”は屋島の戦いのときに起こりました。
義経軍の奇襲攻撃を受けた平氏軍は、船に乗り込み沖へと逃げますが、奇襲をかけた兵が思った以上に少なかったことから、平氏は反撃のチャンスをうかがうことになり、「陸には源氏、沖には平氏」で、睨み合いの状態になりました。
義経軍には、援軍が近づきつつありましたから、時間稼ぎもしたいところでした。
夕方をむかえたちょうどそのころ、沖に一艘の舟があらわれます。
みれば竿を立て、その先に扇が一面、すえつけられています。
美しい女性が傍らに立ち、これを射てみよ、と、言わんばかりに、手にした扇で招くしぐさをしているではありませんか。
義経は、「誰かあれを射て来い」と命じます。
こうして、那須与一という弓の名手が連れてこられました。
外せば源氏の恥となります、と、固辞しましたが義経はこれを許さない…
与一は、騎馬のまま海に入り、扇の的を射ることになりました。
このとき、使用された矢が「鏑矢」です。
長さは「十二束三伏」。
一束は、こぶしの幅の広さ。一伏は指一本分の幅です。
「じゅうにそくみつぶせ」は、一般的な矢の長さであったと考えられます。
「よつぴいてひゃうとはなつ」
と『平家物語』には記されています。
そして見事に的に命中。
「ひいふつとぞ射切つたる」
武者たちは、箙(えびら)に矢を入れて背負いますが、この中には一本、鏑矢を入れている場合があります。
鏑矢とは、一番矢、ともいわれ、合戦の合図、「われここにあり」とアピールするときなど、敵陣に向けて放つ第一矢である場合が多いようです。
この話は、この時点で、「二番矢」があるな、ということを予感させます。
二番矢には、「中差」という“戦闘用”の矢が使用されました。
見事に射抜いた那須与一を称賛し、はやし立てるように、平氏の側の一人の男が舞いを踊り始める…
義経は「あの男も射させよ」と命じました。
そして与一は、中差をすばやく抜き、つがえて「ひゃう」と放ってその男を射殺してしまいました。
「鏑矢を放った以上、もはや戦闘が始まっているのも同然だ。」と伊勢義盛は考えていました。
「無情なことをさせる」と嘆く者もいましたが、「何をいうか。もともとあのような扇の的を用意したのは、こちらの大将、義経さまをおびき出し、遠くから狙撃しようというたくらみだったのだ。」と後藤実基は看破していました。
源氏軍の仕様に、しずまりかえってしまった平氏軍でしたが、この様を
「あたりまえではないか。浮かれている場合ではない。」
と考えていた将もいました。
平教経です。
これは戦争だ。
「仕掛けて参れ!」
と、三人一組の武者を送り出します。
一人は弓、一人は楯、一人は長刀を装備しています。
楯の後ろから矢を射かけ、馬から落ちた武者を長刀で討つ、という源氏の騎馬戦に対抗する平氏の戦闘法でした。
一ノ谷でも、この戦法を有効活用して前線を維持していました。(もっとも義経の奇襲で、平氏軍は壊乱してしまったのですが…)
平氏の上陸兵に対して、源氏側から、美尾屋十郎ら五騎が迎撃します。
待ってましたとばかりに先頭を走る美尾屋十郎に、楯の後ろから鋭い矢が放たれました。
柄を漆で塗った、鷹の羽(しかも翼の下の黒ほろ羽)の強矢。ぶっすりと馬に突き立てられ、美尾屋の乗った馬は「屏風を返すように」ひっくり返りました。(このあたりの『平家物語』の描写は秀逸です。)
太刀を抜いて起き上がった美尾屋に、長刀を持った武者が切りかかります。
美尾屋が太刀をふるうと楯で受け止められ、後ろから長刀が繰り出される…
楯を持った武者と長刀をふるう武者の呼吸の合った連続技に、美尾屋はたちまち逃げ出しました。
四騎が助けに向かいましたが、馬を矢で射られることを嫌い、距離をとってなかなか近づけません。
つかまりそうになりながらも逃げきりましたが、美尾屋は甲を奪われてしまいました。
長刀を持ったその武者は、甲を長刀の先にひっかけて高々と掲げます。
遠からん者は音にも聞け!
近き者は目にも見よ!
われこそは、京童がうわさする
悪七兵衛景清だ!
平氏側の士気はどっと高まりました。
平教経はただちに命じます。
それ! 景清を敵に討たせるな! かかれっ
しかし、これは教経の作戦でした。
(義経を引っ張り出してやるっ)
(次回に続く)
先日の収録のときのことです。
例によって、こはにわとにゃんたと、ディレクターさん、プロデューサーさんとで打ち合わせがありました。
で、これまた例によって
あ、ちょと先生いいですか?
と、にゃんたからの“お誘い”です。
「今日はどんなことかな」と、けっこういつもワクワクしながら声がかかるのを待っています。
そしてまた例によって、ディレクターさんとプロデューサーさんは、すっと部屋から出ていく…
あのですね…
と、にゃんたから、こはにわはコントのネタを仕込まれる… というわけです。
(あ、もちろんどんなものかは、本番までナイショです。お楽しみに。)
で、いつもなら、わかりました、うふふふ、という感じで、部屋を出て、軽食が置かれているスペースにこはにわは移動します。
おいしいおにぎりやお菓子が並んでいる…
スタッフさんが、いろいろ吟味なさって用意してくださっているんですよ。
こはにわのお気に入りは、「天むす」と「ちりめん山椒とめんたいこ」です。
で、それをいただいて、お茶と「おせんべい」をいただく…
あ、すいません。どうでもいい話までしちゃいました。
ところが、その日は、ちょっと台本に書かれていた内容が気になって(ある字の読み方が正しいかどうかを確認して)、ちょっとその部屋を出るタイミングを逸してしまったんですよね。
と、そこへ! レキコさんが入ってきて、あらあら、その場で、にゃんたと「打ち合わせ」を始めてしまったんです。
あ… ちょ、初めて、二人の「打ち合わせ」を聞いてしまう…
あ、ですから、こう、ちょっと座って… そうそう、それです。
ああ、こうですかぁ~
と、二人は何やら楽しそう…
わたしは素知らぬふりして調べものを… しているフリ。
で、耳はもう、ダンボのお耳状態。
ここで○○○と…
え? ○○○ですかぁ~ うきゃきゃきゃきゃ
いや、ほんとに、うきゃきゃきゃきゃ、と、レキコさんはうれしそう…
こ、こんな感じで二人はいつも…
そこで扉が開いて、スタッフの方が、「収録、おねがいしま~すっ」
ああ… ついに見ちゃった、見てしまった…
さてさて、6月15日は「月刊コント6月号」です。
なんと、レキコさんも出られますよ!
HEPで刊行! 是非、みなさん観に来てください。
そして、なんとなんと…
お笑い軍師、久馬さんから「ある重大指令」が… お楽しみに~
例によって、こはにわとにゃんたと、ディレクターさん、プロデューサーさんとで打ち合わせがありました。
で、これまた例によって
あ、ちょと先生いいですか?
と、にゃんたからの“お誘い”です。
「今日はどんなことかな」と、けっこういつもワクワクしながら声がかかるのを待っています。
そしてまた例によって、ディレクターさんとプロデューサーさんは、すっと部屋から出ていく…
あのですね…
と、にゃんたから、こはにわはコントのネタを仕込まれる… というわけです。
(あ、もちろんどんなものかは、本番までナイショです。お楽しみに。)
で、いつもなら、わかりました、うふふふ、という感じで、部屋を出て、軽食が置かれているスペースにこはにわは移動します。
おいしいおにぎりやお菓子が並んでいる…
スタッフさんが、いろいろ吟味なさって用意してくださっているんですよ。
こはにわのお気に入りは、「天むす」と「ちりめん山椒とめんたいこ」です。
で、それをいただいて、お茶と「おせんべい」をいただく…
あ、すいません。どうでもいい話までしちゃいました。
ところが、その日は、ちょっと台本に書かれていた内容が気になって(ある字の読み方が正しいかどうかを確認して)、ちょっとその部屋を出るタイミングを逸してしまったんですよね。
と、そこへ! レキコさんが入ってきて、あらあら、その場で、にゃんたと「打ち合わせ」を始めてしまったんです。
あ… ちょ、初めて、二人の「打ち合わせ」を聞いてしまう…
あ、ですから、こう、ちょっと座って… そうそう、それです。
ああ、こうですかぁ~
と、二人は何やら楽しそう…
わたしは素知らぬふりして調べものを… しているフリ。
で、耳はもう、ダンボのお耳状態。
ここで○○○と…
え? ○○○ですかぁ~ うきゃきゃきゃきゃ
いや、ほんとに、うきゃきゃきゃきゃ、と、レキコさんはうれしそう…
こ、こんな感じで二人はいつも…
そこで扉が開いて、スタッフの方が、「収録、おねがいしま~すっ」
ああ… ついに見ちゃった、見てしまった…
さてさて、6月15日は「月刊コント6月号」です。
なんと、レキコさんも出られますよ!
HEPで刊行! 是非、みなさん観に来てください。
そして、なんとなんと…
お笑い軍師、久馬さんから「ある重大指令」が… お楽しみに~
コヤブ歴史堂の打ち合わせのとき、ディレクターの堀さんが
「いつから平家のことを平氏って言うようになったんですかね?」
という質問をされました。
確かに、「平家(ヘイケ)」という表現はあっても「源家(ゲンケ)」という言葉はあんまり耳にしない…
学校教育の場では、あまり「深い意味」を考えず、「源氏」に対比して表現を合わせる、ということで「平氏」という表現にしている、という程度の話です。
昔の教科書には一部「平家」という表現がみられましたが、1970年代以降の教科書は、ほぼすべて「平氏」と説明しています。
わたしも子どものころ、「平家」という言葉のほうをよく耳にしていたので、学校で「平氏」と習ったときは違和感をおぼえました。
「平家」という場合は、桓武平氏のうちの伊勢平氏、つまり、
平正盛-平忠盛-平清盛
というラインの一族のことのみを「平家」というのだ、という説明もあります。
でも、それならば、なおさら「平家政権」というべきではないのか? と、なりそうなのですが、いまのところ文学の世界では「平家」、歴史教育の場では「平氏」と使い分けられています。
かつての教科書では、平氏政権の扱いはかなり軽く、中学の教科書では、小さく取り扱われていました。
ところが、最近の教科書では、かなり詳細に説明されるようになっています。
・平治の乱をきっかけに平氏政権が成立した。
・平清盛は三位以上の位を得た最初の武士。
・一族を朝廷の高い役職や国司につけた。
・一族で多くの荘園を支配した。
・藤原氏と同じように、娘を天皇の后とし、生まれた子を天皇にした。
・日宋貿易を進めるために、兵庫の港(神戸市)を整えた。
ちなみに、教師でもよく間違って説明してしまいますが、日宋貿易は、平清盛が始めたのではありません。父の平忠盛が開始しました。
また、清盛が修築した大輪田泊は、最初の人工港でもありません。最初のものは清盛が博多港に造ったものです。
「藤原氏と同じように」天皇の外戚関係となった、と教科書でことさら強調しているのは、貴族の政治と武家の政治、つまり「摂関政治」と「鎌倉幕府」のちょうど中間の政権である性格を示すためでもあります。
教科書には、さらに『平家物語』の記述を引用して、「日本に66ある国のうち、平氏が支配する国は30か国あまりで、半分におよんでいる。」と紹介しています。
また、「清盛は瀬戸内の支配を進めるとともに、一族の繁栄を厳島神社に願いました。」とまで書かれ、厳島神社の写真が掲載されるようになりました。(ただし、小学校の教科書はかなり以前から厳島神社の写真は掲載されていました。たぶん関西の小学校は、修学旅行に広島に行く場合が多かったからかもしれません。)
20年以上前とは、平氏の扱いがずいぶんとよくなりました。
「鎌倉幕府の成立」の章に、わざわざ「院と平氏の政治」という単元を設定しているというのは、わたしが中学生のときにはなかったことです。
そして「学習を深めよう」というようなコーナーも設けられていて、
『平氏が力を持ち、またほろんでいった理由を「荘園」をキーワードに説明してみよう。』
と書かれています。
お~ これはすばらしい! こんな観点からの学習課題が中学の教科書で求めているなんて、ちょっと感動しました。公立中学校の先生はどんな説明をされているんでしょうか。
“こはにわ流”にまとめてみますと…
院政の時代、院や貴族、大寺院の間で荘園をめぐる争いが絶えませんでした。
院や貴族は、力をつけてきた源氏や平氏の武士たちを警備に登用します。
こうして武士たちが中央政界に進出するようになりました。
院政の実権をめぐる争いの中で、平氏と源氏も争って平氏が勝ちます。
そして平氏には多くの荘園が集まるようになり、一族で朝廷の高い位を占めたり、国司の地位を得たりするようになりました。
ところが、このことが院や貴族、他の武士たちとの対立を深め、平氏の支配を終わらせる原因となってしまいました。
どうでしょう? こんな感じの説明では?
ポイントは、平氏の力を高めることになった原因が、そのまま平氏の力を弱める原因になっている、というところです。
院と貴族の争いを通じて力をつける。
そして一族で政治の要職を独占する。
荘園が平氏に集中する。
そのため院や貴族、他の武士たちと対立していくようになる。
さらにつけくわえるならば…
平氏は多くの荘園を得ていましたが、その大部分が西国にあったのです。
平氏政権が成立したころ、西日本を中心に「養和の大飢饉」というのが発生していることを忘れてはいけません。
荘園からの収入が激減していたんですね。平氏を支える経済的基盤が揺らいでいました。
これもやはり、「平氏の力を支えていた要因が、そのまま平氏の存在を揺るがせる要因になっている」ということに当てはまります。
わたしは、歴史の授業を通じて生徒たちによくこう説明します。
短所で滅びることはない。
長所を失ったときが滅びるときだ。
わたしが語る『平家物語』は、“諸行無常”が教訓ではありません。
あなたに最盛期をもたらしたモノやコトは、同時に、あなたの滅びを準備しているモノやコトでもあるんですよ、ということです。
「いつから平家のことを平氏って言うようになったんですかね?」
という質問をされました。
確かに、「平家(ヘイケ)」という表現はあっても「源家(ゲンケ)」という言葉はあんまり耳にしない…
学校教育の場では、あまり「深い意味」を考えず、「源氏」に対比して表現を合わせる、ということで「平氏」という表現にしている、という程度の話です。
昔の教科書には一部「平家」という表現がみられましたが、1970年代以降の教科書は、ほぼすべて「平氏」と説明しています。
わたしも子どものころ、「平家」という言葉のほうをよく耳にしていたので、学校で「平氏」と習ったときは違和感をおぼえました。
「平家」という場合は、桓武平氏のうちの伊勢平氏、つまり、
平正盛-平忠盛-平清盛
というラインの一族のことのみを「平家」というのだ、という説明もあります。
でも、それならば、なおさら「平家政権」というべきではないのか? と、なりそうなのですが、いまのところ文学の世界では「平家」、歴史教育の場では「平氏」と使い分けられています。
かつての教科書では、平氏政権の扱いはかなり軽く、中学の教科書では、小さく取り扱われていました。
ところが、最近の教科書では、かなり詳細に説明されるようになっています。
・平治の乱をきっかけに平氏政権が成立した。
・平清盛は三位以上の位を得た最初の武士。
・一族を朝廷の高い役職や国司につけた。
・一族で多くの荘園を支配した。
・藤原氏と同じように、娘を天皇の后とし、生まれた子を天皇にした。
・日宋貿易を進めるために、兵庫の港(神戸市)を整えた。
ちなみに、教師でもよく間違って説明してしまいますが、日宋貿易は、平清盛が始めたのではありません。父の平忠盛が開始しました。
また、清盛が修築した大輪田泊は、最初の人工港でもありません。最初のものは清盛が博多港に造ったものです。
「藤原氏と同じように」天皇の外戚関係となった、と教科書でことさら強調しているのは、貴族の政治と武家の政治、つまり「摂関政治」と「鎌倉幕府」のちょうど中間の政権である性格を示すためでもあります。
教科書には、さらに『平家物語』の記述を引用して、「日本に66ある国のうち、平氏が支配する国は30か国あまりで、半分におよんでいる。」と紹介しています。
また、「清盛は瀬戸内の支配を進めるとともに、一族の繁栄を厳島神社に願いました。」とまで書かれ、厳島神社の写真が掲載されるようになりました。(ただし、小学校の教科書はかなり以前から厳島神社の写真は掲載されていました。たぶん関西の小学校は、修学旅行に広島に行く場合が多かったからかもしれません。)
20年以上前とは、平氏の扱いがずいぶんとよくなりました。
「鎌倉幕府の成立」の章に、わざわざ「院と平氏の政治」という単元を設定しているというのは、わたしが中学生のときにはなかったことです。
そして「学習を深めよう」というようなコーナーも設けられていて、
『平氏が力を持ち、またほろんでいった理由を「荘園」をキーワードに説明してみよう。』
と書かれています。
お~ これはすばらしい! こんな観点からの学習課題が中学の教科書で求めているなんて、ちょっと感動しました。公立中学校の先生はどんな説明をされているんでしょうか。
“こはにわ流”にまとめてみますと…
院政の時代、院や貴族、大寺院の間で荘園をめぐる争いが絶えませんでした。
院や貴族は、力をつけてきた源氏や平氏の武士たちを警備に登用します。
こうして武士たちが中央政界に進出するようになりました。
院政の実権をめぐる争いの中で、平氏と源氏も争って平氏が勝ちます。
そして平氏には多くの荘園が集まるようになり、一族で朝廷の高い位を占めたり、国司の地位を得たりするようになりました。
ところが、このことが院や貴族、他の武士たちとの対立を深め、平氏の支配を終わらせる原因となってしまいました。
どうでしょう? こんな感じの説明では?
ポイントは、平氏の力を高めることになった原因が、そのまま平氏の力を弱める原因になっている、というところです。
院と貴族の争いを通じて力をつける。
そして一族で政治の要職を独占する。
荘園が平氏に集中する。
そのため院や貴族、他の武士たちと対立していくようになる。
さらにつけくわえるならば…
平氏は多くの荘園を得ていましたが、その大部分が西国にあったのです。
平氏政権が成立したころ、西日本を中心に「養和の大飢饉」というのが発生していることを忘れてはいけません。
荘園からの収入が激減していたんですね。平氏を支える経済的基盤が揺らいでいました。
これもやはり、「平氏の力を支えていた要因が、そのまま平氏の存在を揺るがせる要因になっている」ということに当てはまります。
わたしは、歴史の授業を通じて生徒たちによくこう説明します。
短所で滅びることはない。
長所を失ったときが滅びるときだ。
わたしが語る『平家物語』は、“諸行無常”が教訓ではありません。
あなたに最盛期をもたらしたモノやコトは、同時に、あなたの滅びを準備しているモノやコトでもあるんですよ、ということです。
「田沼意次の政治」というと、生徒たちは「わいろ政治」を連想するようです。
中学受験を経験している子たちですから、きっと塾で習ったのでしょう。
ちなみに、田沼意次の政治は小学校の教科書には出てきません。ついでに次の松平定信の「寛政の改革」も小学校の教科書には出てきません。(よってこの二人は中学受験には出題されません。)
中学校の教科書ではどのような表現になっているのか、というと…
・新田や鉱山の開発に努めた。
・株仲間を認めて営業を独占させ、そのかわりに一定の税を納めさせた。
・蝦夷地の開拓に力を入れた。
・長崎の貿易もさかんにしようとした。
で、最後の〆括りが、
「…しかし、一部の大商人と結びつき、わいろが用いられて政治が乱れました。」
ということになっているわけです。
それを受けて、松平定信が「政治をひきしめる」という流れで「寛政の改革」の話へと続けられていきます。
田沼「わいろ政治」
定信「政治のひきしめ」
こういう図式であることはほぼ間違いありません。
さて、江戸時代、「わいろ政治」というのは、どういうものだったのでしょうか…
ものすごいことを言いますと、江戸時代、「わいろ」というのは“罪”ではありませんでした。
というか… 賄賂を賄賂だと宣言して渡す者はいない、ということです。
というか… 「賄賂」は“習慣”でした。
日本は、「贈答文化」の国です。
結婚式や葬式、いろいろな機会に日本人は人に贈り物をします。
「お歳暮」や「お中元」はもちろん、お引越しのご挨拶などなど…
昔は、お稽古事などでも、お師匠さんには、お月謝以外にも「つけとどけ」というものをフツーにしておりました。
「日頃、お世話になっておりますので…」
と、「うまく」説明しておりますが、お礼をしているからお世話をしてもらえる、としたら、にわかに賄賂性がにわかに高くなります。
これ、日本だから“文化”や“慣習”となりますが、厳密に「法」を運用すると、「贈収賄」になりかねませんよね。
たぶん欧米ではアウトです。
田沼意次にかぎらず、当時の政治家たちは、フツーに“贈り物”を受け取っていました。
(そもそも、幕府の役人へ届けられる様々の方面からの“贈り物”を管理する役職もちゃんと存在していて、たとえば“鬼平”で有名な、長谷川平蔵は、火付け盗賊改めになる前は、この仕事をしていましたからね。)
この日本独自の“あいまいさ”の部分に対して、まぁまぁ、べつにかたいこと言わないでええやろ、と、するか、いや、この際、キッチリしようぜ、とするかで、政権の性質が変わるわけです。
そんなのは不正といっしょだ!
しっかりケジメをつけるのだっ
というのが松平定信の政治姿勢でした。
田沼意次は、それまでの政治家に比して、そういう“あいまいさ”の部分におおらかであっただけですが、厳密に法を適用すれば、これをアウトにできる、というワケです。
そもそも「田沼と定信」の政権交代は、“権力闘争”ですから、善も悪もありません。
松平定信は、徳川吉宗の息子、田安宗武の子ですから、世が世なら将軍になっていてもおかしくはない人物。それが、宗武が将軍の位につけず、定信も田安家から他家に養子に出されて将軍の位につくことを遠ざけられたわけで(その“陰謀”を企画したのが田沼意次と言われている)、定信にすれば、「改革」の第一は田沼失脚にあったわけです。
現政権の正統性を、前政権の否定によって担保する、というのはよくあること。
この流れの中で、田沼=腐敗、定信=清新、のイメージが定着してしまいました。
もういいかげんに、田沼=わいろ政治、というステロタイプから子どもたちを解放したいところです。
田沼意次の政治では…
鉱山開発のところでは、かの有名な、平賀源内が活躍しました。
蝦夷地の開発では最上徳内による探検が進みます。北海道ならびに千島がロシア領にならなかったのは、田沼が着手した北方政策によるところが大きいともいえます。
長崎貿易の奨励についても、田沼政権が続けばロシアとの交易を開始していた可能性もありました。
株仲間、というと、ついつい営業独占からインフレをもたらして庶民を困られせた、というマイナス面が強調されがちですが、「価格競争」がなくなったがゆえに、「品質競争」の段階へさまざまな工芸品、日用品の製造、販売を移行させることになり、後の開国にあたって、国際競争力が高い製品を日本に存在させることになった、ともいえるのです。(価格が同じだから、品質で勝負! ということになるんですよね。)
「改革」というならば、田沼時代こそ「改革」が進んだ時代で、松平定信の「寛政の改革」は改革ではなく、ネジを逆に回す保守・反動です。
松平定信の寛政の改革は、「寛政の反動」と名称を変えてもよいくらいです。
歴史の評価は、どの立場にたって考えるかによって大きく変わります。
田沼時代の説明は、なぜだか知らないですけど、多くの人たちが松平定信の側に立って評価していますよね。
白河の
清きに
魚もすみかねて
もとのにごりの
田沼恋しき
というのが、多くの庶民の実感だったと思います。
中学受験を経験している子たちですから、きっと塾で習ったのでしょう。
ちなみに、田沼意次の政治は小学校の教科書には出てきません。ついでに次の松平定信の「寛政の改革」も小学校の教科書には出てきません。(よってこの二人は中学受験には出題されません。)
中学校の教科書ではどのような表現になっているのか、というと…
・新田や鉱山の開発に努めた。
・株仲間を認めて営業を独占させ、そのかわりに一定の税を納めさせた。
・蝦夷地の開拓に力を入れた。
・長崎の貿易もさかんにしようとした。
で、最後の〆括りが、
「…しかし、一部の大商人と結びつき、わいろが用いられて政治が乱れました。」
ということになっているわけです。
それを受けて、松平定信が「政治をひきしめる」という流れで「寛政の改革」の話へと続けられていきます。
田沼「わいろ政治」
定信「政治のひきしめ」
こういう図式であることはほぼ間違いありません。
さて、江戸時代、「わいろ政治」というのは、どういうものだったのでしょうか…
ものすごいことを言いますと、江戸時代、「わいろ」というのは“罪”ではありませんでした。
というか… 賄賂を賄賂だと宣言して渡す者はいない、ということです。
というか… 「賄賂」は“習慣”でした。
日本は、「贈答文化」の国です。
結婚式や葬式、いろいろな機会に日本人は人に贈り物をします。
「お歳暮」や「お中元」はもちろん、お引越しのご挨拶などなど…
昔は、お稽古事などでも、お師匠さんには、お月謝以外にも「つけとどけ」というものをフツーにしておりました。
「日頃、お世話になっておりますので…」
と、「うまく」説明しておりますが、お礼をしているからお世話をしてもらえる、としたら、にわかに賄賂性がにわかに高くなります。
これ、日本だから“文化”や“慣習”となりますが、厳密に「法」を運用すると、「贈収賄」になりかねませんよね。
たぶん欧米ではアウトです。
田沼意次にかぎらず、当時の政治家たちは、フツーに“贈り物”を受け取っていました。
(そもそも、幕府の役人へ届けられる様々の方面からの“贈り物”を管理する役職もちゃんと存在していて、たとえば“鬼平”で有名な、長谷川平蔵は、火付け盗賊改めになる前は、この仕事をしていましたからね。)
この日本独自の“あいまいさ”の部分に対して、まぁまぁ、べつにかたいこと言わないでええやろ、と、するか、いや、この際、キッチリしようぜ、とするかで、政権の性質が変わるわけです。
そんなのは不正といっしょだ!
しっかりケジメをつけるのだっ
というのが松平定信の政治姿勢でした。
田沼意次は、それまでの政治家に比して、そういう“あいまいさ”の部分におおらかであっただけですが、厳密に法を適用すれば、これをアウトにできる、というワケです。
そもそも「田沼と定信」の政権交代は、“権力闘争”ですから、善も悪もありません。
松平定信は、徳川吉宗の息子、田安宗武の子ですから、世が世なら将軍になっていてもおかしくはない人物。それが、宗武が将軍の位につけず、定信も田安家から他家に養子に出されて将軍の位につくことを遠ざけられたわけで(その“陰謀”を企画したのが田沼意次と言われている)、定信にすれば、「改革」の第一は田沼失脚にあったわけです。
現政権の正統性を、前政権の否定によって担保する、というのはよくあること。
この流れの中で、田沼=腐敗、定信=清新、のイメージが定着してしまいました。
もういいかげんに、田沼=わいろ政治、というステロタイプから子どもたちを解放したいところです。
田沼意次の政治では…
鉱山開発のところでは、かの有名な、平賀源内が活躍しました。
蝦夷地の開発では最上徳内による探検が進みます。北海道ならびに千島がロシア領にならなかったのは、田沼が着手した北方政策によるところが大きいともいえます。
長崎貿易の奨励についても、田沼政権が続けばロシアとの交易を開始していた可能性もありました。
株仲間、というと、ついつい営業独占からインフレをもたらして庶民を困られせた、というマイナス面が強調されがちですが、「価格競争」がなくなったがゆえに、「品質競争」の段階へさまざまな工芸品、日用品の製造、販売を移行させることになり、後の開国にあたって、国際競争力が高い製品を日本に存在させることになった、ともいえるのです。(価格が同じだから、品質で勝負! ということになるんですよね。)
「改革」というならば、田沼時代こそ「改革」が進んだ時代で、松平定信の「寛政の改革」は改革ではなく、ネジを逆に回す保守・反動です。
松平定信の寛政の改革は、「寛政の反動」と名称を変えてもよいくらいです。
歴史の評価は、どの立場にたって考えるかによって大きく変わります。
田沼時代の説明は、なぜだか知らないですけど、多くの人たちが松平定信の側に立って評価していますよね。
白河の
清きに
魚もすみかねて
もとのにごりの
田沼恋しき
というのが、多くの庶民の実感だったと思います。
『平家物語』には、三つの楽器にまつわる哀しくも美しい話があります。
まずは「琴」。
高倉天皇の中宮は、言うまでもなく平清盛の娘、徳子です。
しかし、天皇には、他にも寵愛している女性がいました。
葵の前、という女性です。
ところが儚くも病死してしまいます。
帝はたいそう気落ちされたので、徳子は天皇をなぐさめるために、琴の名手で、たいそう美しい小督という女性をお側に仕えさせることにしました。
どうも、この“設定”が昔からわからないんですよね…
どうしてわざわざ徳子は高倉天皇に、自分のライバルとなるかもしれない女性をあてがったのか…
後に続く、“清盛の横暴”を強調するための“フィクション”のような気がします。
小督は、藤原成範の娘、といいますから、平治の乱で殺された信西の孫、ということになります。
高倉天皇はこの女性をすっかり気に入り、寵愛することになりました。
当然、清盛は激怒します。
小督は、身の危険を感じて、宮仕えをやめて行方をくらましてしまいます。
高倉天皇は悲嘆にくれ、なんとかしてもう一度会いたい、と、考えました。側近で笛の名手で、しかも小督のこともよく知っている源仲国を呼び出し、なんと「勅」を発しました。
小督を見つけて、(清盛に)わからぬように宮中へ連れ戻せ。
「それほどまでに帝は御心を悩ませられていたのか…」と、かしこまり、源仲国、すぐに小督を探しに出かけました。
どうやら嵯峨野にいるらしい… という噂を聞きつけて探索を続けました。
しかし、陽も落ち、夜になり… みるとたいへん美しい月が出ている…
「これほど美しい月の夜、彼女は琴の名手だから、琴を弾いているに違いない。」と、帰らずにさらに探索を続けました。
すると、どこからともなく琴の音が!
よし、それならば、と、自分も笛を取り出して吹いてみる。
古の音楽の達人というのは、琴の音、笛の音で、奏者が誰かわかるようで、居場所をつきとめた源仲国は、帝からの文を手渡し、小督を説得して密かに宮中へ連れ帰りました。
かくして帝と小督、めでたく再び結ばれました、とは、なりませんでした。
清盛におもねった者が、このことを密告し、怒った清盛は、小督を出家させる、ということにしたのです。
源仲国が笛の名手、と、申しましたが、その「笛」も『平家物語』では物語を彩る“小道具”として登場します。
「青葉の笛」というと、年配の方、および『平家物語』ファンの方なら知らない人はいないと思います。
言わずと知れた、“無官大夫”平敦盛と、熊谷次郎直実の逸話です。
と、その話の前に…
実はこの時代、「青葉の笛」は「もう一つの話」があるんです。
悪源太義平(源義平)も「青葉の笛」を持っていて、妻子に自分の形見として残しているんですよね。
あれれ? 同じもの? それとも二本あったの? と、なりそうですが、実は、「青葉の笛」の“青葉”とは、笛の材料となる竹の産地の名称なんですよ(鹿児島県台明寺にある笛材に適した竹が産する場所の名前)。
なんていうか… ワインで言うならブルゴーニュとかボルドーのこと。「青葉の笛」というのは、笛吹きにとっては、ワイン通が「ブルゴーニュのワイン」と言うているのと同じで、笛そのものの名前のことでは無いんですよね。
平敦盛の笛は、「小枝(さえだ)」という銘があります。
一ノ谷の戦いに敗れて逃げていく平氏。
それを追う源氏。
熊谷直実が「そこなる武者よ。逃げるのは卑怯でございましょう! かえせもどせ!」と、呼びかけに対して「おう」と応えて組み打ったのが平敦盛。
直実が組み伏したその武者は、なんと自分の息子とたいして年齢の違わない若者でした。
名も名乗らず、わが首を討て、という…
涙をのんで首をはねる…
そしてその若武者の所持品をみると「笛」が一つ。
合戦の前、敵陣から聞こえてきた笛の音の主はこの若者であったのか…
熊谷次郎直実は、この後、この笛を敦盛の父、平経盛に送ることになります。
直実は、無常を感じてこの後、出家。なんと、かの法然の弟子となり、六万遍念仏修行をおこなった、という話が残っています。
この笛「小枝」は、鳥羽法皇から平忠盛が賜ったという名器中の名器。これを嫡流でもない敦盛が所持している、ということから、「敦盛は後白河法皇の御落胤だったのでは?」という“伝説”を強化する材料となっています。
ただ、実は、平家ファミリーというのは、一族で“宮中のお仕事”を分担して独占していた、という側面があります。
ですから、「芸能担当」の“経盛ファミリー”に笛が伝承されていても不思議ではない…
平清盛の息子、重盛が後継者で全体の統括者。その後継者の維盛は「武」、資盛は「文」を担当。
清盛の弟、平教盛とその子通盛・教経は「武」、同じく清盛の弟、平経盛とその子経正・敦盛は「芸」を担当。
平経盛一族は、和歌や楽器の名手たちなのです。
平氏は、「文武歌芸」、宮廷のあらゆる分野に進出してネットワークを広げていました。
歴史のタブー、「たら」「れば」を承知で言うならば…
清盛があと十年長生きし、重盛が清盛よりも長生きして、重盛を中心とする小松家が安定していたならば、後代の足利家のような(室町幕府のような)体制を確立することに成功していたような気がします。
さて、“経盛ファミリー”の中では、敦盛ばかりが有名で、笛の名手として知られていますが、忘れてはならない人物が一人いるんです。
『平家物語』の唯一の(とは少し大げさですが)“ファンタジー”の主役、
平経正
です。
かつて、日本には琵琶の名器が三面伝来した、と、いわれています。
「玄象」「青山」「獅子丸」
です。このうち、「獅子丸」は「龍神に所望され」(ようするに来日途中で船が沈んで失われ)、「玄象」「青山」が日本に伝わることになりました。
その「青山」を、平経正が所持していたのです。
木曽義仲が北陸で挙兵し、その討伐に平氏軍が出動しましたが、経盛一族は、なにせ「芸能」担当です。平経正は合流せず、琵琶湖の竹生島に戦勝祈願に出かけました。
で、請われて名器、「青山」で、神さまに一曲奉納することになりました。
一同、息をのむ美しき演奏だったといいます。
な、な、なんと! 白龍があらわれて、演奏している経正のまわりを曲にあわせて優雅に舞うではありませんか!
これぞ瑞兆、平氏軍の勝利はまちがいなし! と、誰もが思ったといいます。
が… しかし…
陰陽道を少しでも心得ていた者がその場におれば、違う“解釈”を立てたことだったでしょう。
白龍は、龍の中でももっとも速く天空を駆け抜けるものといいます。
そして陰陽五行では、「白」は西方を示すもの…
急ぎ、西へ!
平氏は敗れる。
疾く、西方へ逃げよ。
そしてまた、神は“能”ある者を自分に仕えさせたいために、早く天に召すともいわれています。
経正は琵琶で。
敦盛は笛で。
それぞれ神を魅了してしまったのでしょう…
(次回に続く)
まずは「琴」。
高倉天皇の中宮は、言うまでもなく平清盛の娘、徳子です。
しかし、天皇には、他にも寵愛している女性がいました。
葵の前、という女性です。
ところが儚くも病死してしまいます。
帝はたいそう気落ちされたので、徳子は天皇をなぐさめるために、琴の名手で、たいそう美しい小督という女性をお側に仕えさせることにしました。
どうも、この“設定”が昔からわからないんですよね…
どうしてわざわざ徳子は高倉天皇に、自分のライバルとなるかもしれない女性をあてがったのか…
後に続く、“清盛の横暴”を強調するための“フィクション”のような気がします。
小督は、藤原成範の娘、といいますから、平治の乱で殺された信西の孫、ということになります。
高倉天皇はこの女性をすっかり気に入り、寵愛することになりました。
当然、清盛は激怒します。
小督は、身の危険を感じて、宮仕えをやめて行方をくらましてしまいます。
高倉天皇は悲嘆にくれ、なんとかしてもう一度会いたい、と、考えました。側近で笛の名手で、しかも小督のこともよく知っている源仲国を呼び出し、なんと「勅」を発しました。
小督を見つけて、(清盛に)わからぬように宮中へ連れ戻せ。
「それほどまでに帝は御心を悩ませられていたのか…」と、かしこまり、源仲国、すぐに小督を探しに出かけました。
どうやら嵯峨野にいるらしい… という噂を聞きつけて探索を続けました。
しかし、陽も落ち、夜になり… みるとたいへん美しい月が出ている…
「これほど美しい月の夜、彼女は琴の名手だから、琴を弾いているに違いない。」と、帰らずにさらに探索を続けました。
すると、どこからともなく琴の音が!
よし、それならば、と、自分も笛を取り出して吹いてみる。
古の音楽の達人というのは、琴の音、笛の音で、奏者が誰かわかるようで、居場所をつきとめた源仲国は、帝からの文を手渡し、小督を説得して密かに宮中へ連れ帰りました。
かくして帝と小督、めでたく再び結ばれました、とは、なりませんでした。
清盛におもねった者が、このことを密告し、怒った清盛は、小督を出家させる、ということにしたのです。
源仲国が笛の名手、と、申しましたが、その「笛」も『平家物語』では物語を彩る“小道具”として登場します。
「青葉の笛」というと、年配の方、および『平家物語』ファンの方なら知らない人はいないと思います。
言わずと知れた、“無官大夫”平敦盛と、熊谷次郎直実の逸話です。
と、その話の前に…
実はこの時代、「青葉の笛」は「もう一つの話」があるんです。
悪源太義平(源義平)も「青葉の笛」を持っていて、妻子に自分の形見として残しているんですよね。
あれれ? 同じもの? それとも二本あったの? と、なりそうですが、実は、「青葉の笛」の“青葉”とは、笛の材料となる竹の産地の名称なんですよ(鹿児島県台明寺にある笛材に適した竹が産する場所の名前)。
なんていうか… ワインで言うならブルゴーニュとかボルドーのこと。「青葉の笛」というのは、笛吹きにとっては、ワイン通が「ブルゴーニュのワイン」と言うているのと同じで、笛そのものの名前のことでは無いんですよね。
平敦盛の笛は、「小枝(さえだ)」という銘があります。
一ノ谷の戦いに敗れて逃げていく平氏。
それを追う源氏。
熊谷直実が「そこなる武者よ。逃げるのは卑怯でございましょう! かえせもどせ!」と、呼びかけに対して「おう」と応えて組み打ったのが平敦盛。
直実が組み伏したその武者は、なんと自分の息子とたいして年齢の違わない若者でした。
名も名乗らず、わが首を討て、という…
涙をのんで首をはねる…
そしてその若武者の所持品をみると「笛」が一つ。
合戦の前、敵陣から聞こえてきた笛の音の主はこの若者であったのか…
熊谷次郎直実は、この後、この笛を敦盛の父、平経盛に送ることになります。
直実は、無常を感じてこの後、出家。なんと、かの法然の弟子となり、六万遍念仏修行をおこなった、という話が残っています。
この笛「小枝」は、鳥羽法皇から平忠盛が賜ったという名器中の名器。これを嫡流でもない敦盛が所持している、ということから、「敦盛は後白河法皇の御落胤だったのでは?」という“伝説”を強化する材料となっています。
ただ、実は、平家ファミリーというのは、一族で“宮中のお仕事”を分担して独占していた、という側面があります。
ですから、「芸能担当」の“経盛ファミリー”に笛が伝承されていても不思議ではない…
平清盛の息子、重盛が後継者で全体の統括者。その後継者の維盛は「武」、資盛は「文」を担当。
清盛の弟、平教盛とその子通盛・教経は「武」、同じく清盛の弟、平経盛とその子経正・敦盛は「芸」を担当。
平経盛一族は、和歌や楽器の名手たちなのです。
平氏は、「文武歌芸」、宮廷のあらゆる分野に進出してネットワークを広げていました。
歴史のタブー、「たら」「れば」を承知で言うならば…
清盛があと十年長生きし、重盛が清盛よりも長生きして、重盛を中心とする小松家が安定していたならば、後代の足利家のような(室町幕府のような)体制を確立することに成功していたような気がします。
さて、“経盛ファミリー”の中では、敦盛ばかりが有名で、笛の名手として知られていますが、忘れてはならない人物が一人いるんです。
『平家物語』の唯一の(とは少し大げさですが)“ファンタジー”の主役、
平経正
です。
かつて、日本には琵琶の名器が三面伝来した、と、いわれています。
「玄象」「青山」「獅子丸」
です。このうち、「獅子丸」は「龍神に所望され」(ようするに来日途中で船が沈んで失われ)、「玄象」「青山」が日本に伝わることになりました。
その「青山」を、平経正が所持していたのです。
木曽義仲が北陸で挙兵し、その討伐に平氏軍が出動しましたが、経盛一族は、なにせ「芸能」担当です。平経正は合流せず、琵琶湖の竹生島に戦勝祈願に出かけました。
で、請われて名器、「青山」で、神さまに一曲奉納することになりました。
一同、息をのむ美しき演奏だったといいます。
な、な、なんと! 白龍があらわれて、演奏している経正のまわりを曲にあわせて優雅に舞うではありませんか!
これぞ瑞兆、平氏軍の勝利はまちがいなし! と、誰もが思ったといいます。
が… しかし…
陰陽道を少しでも心得ていた者がその場におれば、違う“解釈”を立てたことだったでしょう。
白龍は、龍の中でももっとも速く天空を駆け抜けるものといいます。
そして陰陽五行では、「白」は西方を示すもの…
急ぎ、西へ!
平氏は敗れる。
疾く、西方へ逃げよ。
そしてまた、神は“能”ある者を自分に仕えさせたいために、早く天に召すともいわれています。
経正は琵琶で。
敦盛は笛で。
それぞれ神を魅了してしまったのでしょう…
(次回に続く)