高杉晋作。
一部の小学校の教科書、そして中学や高校の教科書では高杉晋作の事績が紹介されています。
最大の功績は、奇兵隊を組織し、それが後の近代的な軍隊制度に成長する“芽”となったことは間違いのないところでしょう。
ただ、小説やドラマでの高杉晋作の描かれ方が、あまりにも“誇張”と“虚構”に満ちていて、かえって、真の高杉晋作像を歪めてしまう、と、思うんです。
そういう話で彩らなくても、歴史的に評価されるべき人物のはずなんですよね…
吉田松陰の“弟子”でもあり、松陰は早くから彼の才能を認め、久坂玄瑞とともに、たいそうかわいがったようです。
伊藤博文も井上馨も、明治維新後の回顧録などて高杉晋作を高く評価し、その業績をとどめています。
ただ、明治維新のころに、そういう幕末に活躍して、しかも明治には生き残らなかった人々の“顕彰”が進み、ちょっと「講談」や「芝居」でおもしろおかしく、飾られすぎてしまう、ということになってしまいました。
吉田松陰が、処刑された後、小塚原に埋葬されたわけですが、ここは一般犯罪者の埋葬地で、長州藩にとっては、はなはだ不名誉なことでした。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、公武合体の空気が広がり、さらには時流が尊王攘夷に傾いて、長州藩と朝廷の「接近」が進むと、「松陰名誉回復」のチャンスがめぐってきます。朝廷からの圧力もあり、幕府は安政の大獄で処罰された者の名誉回復を認め始めました。
そこで、小塚原に埋葬された吉田松陰が「改葬」されることになったのです。
小説やドラマでは、このことを実現するために奔走したのが高杉晋作のように描かれているものがありますが、それはウソで、尽力したのは久坂玄瑞でした。
そしてこの改葬のときに起こったのが
御成橋事件
です。
吉田松陰の遺骸を小塚原から運び出した後、上野の三枚橋にさしかかったとき、高杉晋作はこう叫んだといいます。
「真ん中をとおれ!」
三枚橋の中央は、将軍が東照宮参拝のときに通過する橋で、当然、一般人は使用禁止の“御成橋”なのです。
橋役人の制止をふりきり、
「勤王の志士、吉田松陰先生の御遺骸である。勅命にてまかり通る!」
と、渡ってしまう。
お~ カッコいいっ
と、なりそうですが、これは史実ではありません。
明治時代の講談、芝居で上演された、よくできたフィクションなのです。
小説やドラマでも、あたかも事実であるかのように巧みに書かれているものだから、本当の話だと思っている人も多いエピソードですね。
ここから小説やドラマでは、一気にエンジンがかかって、もう「オラオラ晋作伝説」が暴走していきます。
“御成橋事件”におどろいた長州藩の藩主はただちに高杉晋作を長州に呼び戻します。
そしてそのとき、箱根の関所を、駕籠に乗ったまま強行突破! 小説などでは「江戸三百年の中で、白昼堂々、関所を破ったのは晋作だけである」と高く“評価”しているものがありますが、そんな話ももちろんなかったと思います。
で、高杉晋作が京都に入ると、ちょうど「うまいぐあいに」将軍家茂も京都にやってきていた。
天皇が、賀茂神社へ攘夷祈願に出かける、ということで将軍家茂もその行列に同行する。
で、天皇の列が過ぎ、みんなが土下座しているその中で、高杉晋作、おもむろに顔をあげたかと思うと、
いよぉ~ 征夷大将軍!
と、歌舞伎役者に声をかけるように、大声を張り上げたのであった~
はい、そんな“事件”はおそらくありません。
小説によっては「天皇の行列だから将軍への無礼はとがめられない」と書いているのがありますが、いやいやいやいや、そんなことありまっかいな。
「旗本や御家人たちはくやしくて江戸にそのことを手紙に書いた者が多い」とか、御丁寧な説明も記されている小説がありますが、その「手紙」、あったら是非見せてください。
いや、見たいです。少なくても高杉晋作のこれらの逸話を史実として裏付ける重要な史料になるんですから。
これらの逸話は、みな、高杉晋作(の背後の長州藩)をおそれた江戸幕府の、幕末における無力っぷりを強調するための(明治新政府アゲ、旧幕府サゲの)創作と考えたほうがよいでしょう。
ちなみに、これらの“事件”の前に起こった「イギリス公使館焼き打ち事件」は、尊王攘夷運動の代表例として、
ヒュースケン暗殺事件(薩摩藩士)
東禅寺事件(水戸藩士・松本藩士)
生麦事件(薩摩藩士)
に並ぶもの(伊藤博文・井上馨・高杉晋作ら長州藩士による)として有名ですが…
これ、なんだか、無理矢理、ヒュースケン暗殺や生麦事件に並べられているような感じなんですよね。
そもそもこの事件の犯人は、当時は不明でした。明治維新が成立し、伊藤博文や井上馨が政府の要人となってから、自らの武勇伝として
「あれはおれたちがやったのよ」
と、吹聴し、「幕府は長州藩がやったんだと思っていたけど、長州藩をビビって手が出せなかったのさ」と説明しているものです。
実は、この事件、実は「イギリスの」公使館を焼き打ちしていないんです。
建設中で、まだ、イギリスに引き渡す前の建物。
ですから、イギリスにとっては、痛くも痒くも無い話。
実は、御殿山に公使館を建てようとしたら、けっこう反対が強かったんですよね。おまけに朝廷からも止めるように幕府に申し入れがあった…
で、じゃあ、違うところに建てよう、というわけで、イギリスに「変更していいですか?」と打診すると、「え~ なんでよ。そこに建ててよ。」と、けっこうモメてしまうんです。
弱ったなぁ… どうしよう…
と、思っていたら、「うまいぐあいに」、「何者か」がその建物を放火してくれた。
うわ、ラッキ~
と、なって工事が中止。イギリスも、再度のテロが起こるのも嫌だし、じゃ、もういいか、と、なった事件だったんです。
長州藩をおそれて犯人追及をしなかった、というのではありません。
イギリス側では「話がややこしくなったから、幕府が何者かによって放火させたに違いない」と当時は考えていたようです。
薩摩藩とか、有名な攘夷やってるやんっ
うちもなんかないの??
という感じで「イギリス公使館焼き打ち事件」をクローズアップさせたんちゃうん?? と、いえなくもない事件、というお話です。
何度も申しますが、あやしげなエピソードを必要としないくらい、高杉晋作は、重要な役割を演じている、ということを強調しておきたいと思います。
(このあたりの話は、集英社新書『司馬遼太郎が描かなかった幕末』一坂太郎さんの話が興味深く、たいへんおもしろい視点で記されているので機会があれば是非、お読みください。)
源義経と平経経。
『平家物語』では二人は“好敵手”であるかのように描かれています。
二人には戦いの方法に共通点があり、ともに戦術用語では
“ハートランドアタック”
を考えている、ということです。心臓部直接攻撃…
この時代にあっては、本隊あるいは大将を直接ねらう、という戦い方のことです。
一ノ谷でも屋島でも、義経は常に「本隊」部分に奇襲攻撃をかけています。
平教経も、戦闘目標が明確で、「義経を倒す」ということに的をしぼっています。
「扇の的」の“しかけ”も、出て来た義経を遠矢で射殺する、ということを考えていたようです。(ただし、これは源氏側の後藤実基に見破られてしまいましたが…)
教経は、陸戦部隊を投入しました。
200人ほどの上陸ですが、すべて歩兵。
義経は騎馬を投入してこれを蹴散らします。
「退け!」
と、歩兵は海へと逃げる。
「追うのだ!」
と、義経はこれを戦機ととらえたのでしょう、自ら兵を率いて突出し、騎馬のまま海まで入ってきました。
「捕えるのだ!」
(義経さえ捕えれば、あるいは討ち取れば、少なくとも一ノ谷の敗戦は挽回できる)と平教経は考えました。
平氏の舟からは、長刀や熊手が伸びてきて、義経の甲や鎧を引っかけようとします。
この時、平氏軍が矢を射かけていないことからも、狙いは「義経捕縛」にあったのでは、と、思わせる描写が『平家物語』には見られます。
ここで“アクシデント”が起こりました。
義経が、長刀をはらい、熊手を退けて戦っているとき、自分の弓を取り落してしまい、弓が波にあらわれて流されていったのです。
捨てておけばよいのに、義経はそれを追いかけ拾おうとします。
後藤実基は、「殿っ 弓矢など、うち捨てておきなされ!」と声をかけ、伊勢義盛は義経を守ろうと側を固めようとしましたが、なおも義経は弓を拾おうとします。
せまる熊手を打ち払い、馬打つ鞭で弓を引きよせようやく拾い上げ、義経は兵をもどして陸に帰りました。
(ちっ 取り逃がしたかっ)
と平教経は悔しがりました。
「逃げ足の速いやつよっ」
一方、源氏軍は、あわや大将を失うところ…
「弓など、殿のお命にはかえられるものではございませんぞ!」
「いや、弓が惜しくてあのようなことをしたのではない。わたしの弓が、叔父上、為朝さまのように二人、三人がかりではるな強弓ならば、わざと打ち捨てて平家の輩に拾わせるのだが、このような弱弓が敵にわたって、これが源氏の大将の弓だ、と、笑われてはいかぬからな。」
義経は、十六歳のときの身長の記録は残っていて、だいたい130㎝くらいと考えられています。
一方、平治の乱で活躍した、義経の叔父、為朝は2メートルをこえる大丈夫で、その弓も、
「五人張り」
と呼ばれる超強弓。四人で支えて一人が張るようなものですから、それに比べれば、義経の使っていたものは、かなり小ぶりのものであったにちがいありません。
この時代の武具は、基本的に“オーダーメード”です。
甲も鎧も太刀も弓も、使用する者の体格、体力に合わせて作られています。
武家の戦いは、「名乗り」をあげての戦いであるだけでなく、「ののしりあい」の戦いでもあるので、武具が貧粗な場合もかっこうの“口撃”の対象となりました。
景清に甲を奪われた美尾屋のように“恥”をかいてはならぬ、ということで義経は「流した弓」を命がけで拾ったわけです。
さて、平教経は、なかなかに“あきらめの悪い”男です。
さすがの義経軍も、奇襲のための強行軍と、先ほどの戦いで疲れ果てているに違いないっ わたしが直接指揮して夜襲をかけ、義経を倒す!
と、考えました。
ところがこの作戦を見破っていた者が源氏側いました。義経です。
義経は義盛を呼び、こう述べました。
「今宵、敵の夜襲がある。おまえば敵が上陸してきたら、隠れていつでも狙撃できるように弓矢を持って待機しておれ。」
(次回に続く)
『平家物語』では二人は“好敵手”であるかのように描かれています。
二人には戦いの方法に共通点があり、ともに戦術用語では
“ハートランドアタック”
を考えている、ということです。心臓部直接攻撃…
この時代にあっては、本隊あるいは大将を直接ねらう、という戦い方のことです。
一ノ谷でも屋島でも、義経は常に「本隊」部分に奇襲攻撃をかけています。
平教経も、戦闘目標が明確で、「義経を倒す」ということに的をしぼっています。
「扇の的」の“しかけ”も、出て来た義経を遠矢で射殺する、ということを考えていたようです。(ただし、これは源氏側の後藤実基に見破られてしまいましたが…)
教経は、陸戦部隊を投入しました。
200人ほどの上陸ですが、すべて歩兵。
義経は騎馬を投入してこれを蹴散らします。
「退け!」
と、歩兵は海へと逃げる。
「追うのだ!」
と、義経はこれを戦機ととらえたのでしょう、自ら兵を率いて突出し、騎馬のまま海まで入ってきました。
「捕えるのだ!」
(義経さえ捕えれば、あるいは討ち取れば、少なくとも一ノ谷の敗戦は挽回できる)と平教経は考えました。
平氏の舟からは、長刀や熊手が伸びてきて、義経の甲や鎧を引っかけようとします。
この時、平氏軍が矢を射かけていないことからも、狙いは「義経捕縛」にあったのでは、と、思わせる描写が『平家物語』には見られます。
ここで“アクシデント”が起こりました。
義経が、長刀をはらい、熊手を退けて戦っているとき、自分の弓を取り落してしまい、弓が波にあらわれて流されていったのです。
捨てておけばよいのに、義経はそれを追いかけ拾おうとします。
後藤実基は、「殿っ 弓矢など、うち捨てておきなされ!」と声をかけ、伊勢義盛は義経を守ろうと側を固めようとしましたが、なおも義経は弓を拾おうとします。
せまる熊手を打ち払い、馬打つ鞭で弓を引きよせようやく拾い上げ、義経は兵をもどして陸に帰りました。
(ちっ 取り逃がしたかっ)
と平教経は悔しがりました。
「逃げ足の速いやつよっ」
一方、源氏軍は、あわや大将を失うところ…
「弓など、殿のお命にはかえられるものではございませんぞ!」
「いや、弓が惜しくてあのようなことをしたのではない。わたしの弓が、叔父上、為朝さまのように二人、三人がかりではるな強弓ならば、わざと打ち捨てて平家の輩に拾わせるのだが、このような弱弓が敵にわたって、これが源氏の大将の弓だ、と、笑われてはいかぬからな。」
義経は、十六歳のときの身長の記録は残っていて、だいたい130㎝くらいと考えられています。
一方、平治の乱で活躍した、義経の叔父、為朝は2メートルをこえる大丈夫で、その弓も、
「五人張り」
と呼ばれる超強弓。四人で支えて一人が張るようなものですから、それに比べれば、義経の使っていたものは、かなり小ぶりのものであったにちがいありません。
この時代の武具は、基本的に“オーダーメード”です。
甲も鎧も太刀も弓も、使用する者の体格、体力に合わせて作られています。
武家の戦いは、「名乗り」をあげての戦いであるだけでなく、「ののしりあい」の戦いでもあるので、武具が貧粗な場合もかっこうの“口撃”の対象となりました。
景清に甲を奪われた美尾屋のように“恥”をかいてはならぬ、ということで義経は「流した弓」を命がけで拾ったわけです。
さて、平教経は、なかなかに“あきらめの悪い”男です。
さすがの義経軍も、奇襲のための強行軍と、先ほどの戦いで疲れ果てているに違いないっ わたしが直接指揮して夜襲をかけ、義経を倒す!
と、考えました。
ところがこの作戦を見破っていた者が源氏側いました。義経です。
義経は義盛を呼び、こう述べました。
「今宵、敵の夜襲がある。おまえば敵が上陸してきたら、隠れていつでも狙撃できるように弓矢を持って待機しておれ。」
(次回に続く)
江戸の「庶民」、というのは、いつからできたのでしょう…
というと、ずいぶんと、変な質問だ、と、思われるかもしれませんね。
江戸時代の日本の人口構成だと、3200万人のうち、80%以上が農民で、武士と町人がほぼ7%ずつであったと考えられています。
意外というか、言われてみればそうかと思う話をしますと、江戸では。武士が人口の5割近くを占めていました。
参勤交代で往来する武士はもちろんですが、旗本や御家人など、かなりの武士が生活していました。
身分によって居住地域が分けられていて、町人地、武家地、寺社地などに区分されています。
また、江戸の人口構成では、男子の数がかなり多く、女性が少ない、というかなり歪な状態でした。時代劇では、男女の比率が同じような賑わいで描かれていますが、実際、街中で歩く女性は少なかったようです。
さて、“江戸っ子”という言葉はいつから使用されていたかというと記録上は、明和のころ、つまり18世紀の後半あたりになります。
「宵越しの金は持たない」「喧嘩っ早い」という表現がされる庶民の性質、というのは文化文政年間にはよく言われるようになっていました。
このころ、いろいろな文物が大量生産されるようになっています。
「木版印刷」によって絵や書物が大量につくられる… よって価格が下がる。
「干拓」が進む… 干拓地に「い草」が植えられ、畳が一般庶民でも手に入るようになる。
人口集中と、消費の拡大は「職」を生み出し、商品の種類を増やしていく。
蕎麦・寿司・天ぷら
などは、このころの“ファストフード”で、職人たち(現代のサラリーマンたちのようなもの)が「外食」をすることによって、ますます広がり、かつ、廉価なものになっていきました。
寿司や天ぷらの絵を歌川広重が描いていますが、現在の寿司職人さんがつくるお寿司とたいして違いがありません。
ただ、陶器のお皿に盛りつけて出していたことがわかります。(現在の板前さんたちも、浮世絵に出てくる絵を参考にされたらどうでしょう。かなり美しく盛られています。)
ちなみに「居酒屋」もこのころに誕生します。
「酒屋」が、その場で飲ませる、ということが江戸の町ではふつうになりました。
砂糖の普及も広がります。また、醤油の製造も拡大しました。
砂糖の普及で、「お菓子屋さん」も江戸には増えていくようになります。
ただ、一般に食卓では、ご飯とお味噌汁と漬物、というのがメインで、鮮魚が御膳に出るのは商家くらいで、一般庶民の家庭料理では、お祝い事や節句くらいにしか魚は出てきませんでした。
たいていは干物。(吉田松陰が江戸に出てきたときの記録を残していて、御丁寧に毎日の食事を記録していますが、魚は、ほとんどが干物であったことがわかります。)
たんぱく質不足をイメージしますが、卵はわりと食べられていたようです。『卵百珍』という卵料理の本も江戸時代には書かれていますから、時代劇ではあまり見かけませんが、けっこう食べられていたような気がします。
時代劇では、長屋には井戸があり、“井戸端”会議的な女性たちの「会話」がみられますが、ほとんどの江戸の長屋の半分以上には井戸はありませんでした。
ましてや飲料には井戸水は使用しません。
飲料水は、「水屋」が水を売りにきてそれを購入するというケースが多かったようです。
あと、税金なのですが…
町人にかけられる公の税金はほとんどありませんでした。
文化文政年間の町人文化の繁栄には、この「無税」政策が大きく“貢献”していると思います。
人口わずか7%の部分に課税するよりも80%以上の農民にかけたほうがよいですからね…
(新潮文庫の、杉浦日向子『一日江戸人』がなかなか楽しく読める本です。機会があれば一度お読みください。)
というと、ずいぶんと、変な質問だ、と、思われるかもしれませんね。
江戸時代の日本の人口構成だと、3200万人のうち、80%以上が農民で、武士と町人がほぼ7%ずつであったと考えられています。
意外というか、言われてみればそうかと思う話をしますと、江戸では。武士が人口の5割近くを占めていました。
参勤交代で往来する武士はもちろんですが、旗本や御家人など、かなりの武士が生活していました。
身分によって居住地域が分けられていて、町人地、武家地、寺社地などに区分されています。
また、江戸の人口構成では、男子の数がかなり多く、女性が少ない、というかなり歪な状態でした。時代劇では、男女の比率が同じような賑わいで描かれていますが、実際、街中で歩く女性は少なかったようです。
さて、“江戸っ子”という言葉はいつから使用されていたかというと記録上は、明和のころ、つまり18世紀の後半あたりになります。
「宵越しの金は持たない」「喧嘩っ早い」という表現がされる庶民の性質、というのは文化文政年間にはよく言われるようになっていました。
このころ、いろいろな文物が大量生産されるようになっています。
「木版印刷」によって絵や書物が大量につくられる… よって価格が下がる。
「干拓」が進む… 干拓地に「い草」が植えられ、畳が一般庶民でも手に入るようになる。
人口集中と、消費の拡大は「職」を生み出し、商品の種類を増やしていく。
蕎麦・寿司・天ぷら
などは、このころの“ファストフード”で、職人たち(現代のサラリーマンたちのようなもの)が「外食」をすることによって、ますます広がり、かつ、廉価なものになっていきました。
寿司や天ぷらの絵を歌川広重が描いていますが、現在の寿司職人さんがつくるお寿司とたいして違いがありません。
ただ、陶器のお皿に盛りつけて出していたことがわかります。(現在の板前さんたちも、浮世絵に出てくる絵を参考にされたらどうでしょう。かなり美しく盛られています。)
ちなみに「居酒屋」もこのころに誕生します。
「酒屋」が、その場で飲ませる、ということが江戸の町ではふつうになりました。
砂糖の普及も広がります。また、醤油の製造も拡大しました。
砂糖の普及で、「お菓子屋さん」も江戸には増えていくようになります。
ただ、一般に食卓では、ご飯とお味噌汁と漬物、というのがメインで、鮮魚が御膳に出るのは商家くらいで、一般庶民の家庭料理では、お祝い事や節句くらいにしか魚は出てきませんでした。
たいていは干物。(吉田松陰が江戸に出てきたときの記録を残していて、御丁寧に毎日の食事を記録していますが、魚は、ほとんどが干物であったことがわかります。)
たんぱく質不足をイメージしますが、卵はわりと食べられていたようです。『卵百珍』という卵料理の本も江戸時代には書かれていますから、時代劇ではあまり見かけませんが、けっこう食べられていたような気がします。
時代劇では、長屋には井戸があり、“井戸端”会議的な女性たちの「会話」がみられますが、ほとんどの江戸の長屋の半分以上には井戸はありませんでした。
ましてや飲料には井戸水は使用しません。
飲料水は、「水屋」が水を売りにきてそれを購入するというケースが多かったようです。
あと、税金なのですが…
町人にかけられる公の税金はほとんどありませんでした。
文化文政年間の町人文化の繁栄には、この「無税」政策が大きく“貢献”していると思います。
人口わずか7%の部分に課税するよりも80%以上の農民にかけたほうがよいですからね…
(新潮文庫の、杉浦日向子『一日江戸人』がなかなか楽しく読める本です。機会があれば一度お読みください。)
今、中学三年生の授業では、江戸の産業の話をしています。
本校は私立の一貫校ですので、高校の日本史を先取りしていて、やや細かい話もします。
田沼意次は、長崎の貿易を奨励した、とは、前にちょっとお話ししました。
貿易の奨励、とは、一般に輸入をたくさんする、ということだけでなく、輸出をしっかりする、という意味でもあります。
つまり、貿易を黒字にする…
貿易とは、自国に無いモノを輸入し、自国に有るモノで他国に無いモノを輸出する、ということです。
ですから、当時日本は、世界最大の銅産出国でしたから、「銅」を輸出する、ということをしました。
それから、中国でたくさん消費しているわりには、日本では消費が少なかったものも輸出する、ということをします。それが「海産物」で、乾燥させたものなどを含む「俵物」とよばれるものを重要な輸出品としました。
「俵物」としては、イリコ・干し貝柱・干しアワビが有名で、これは当時、日本ではあまり消費されなかったものの、中国では食材として重要なものでしたので、当然、たくさん中国が買ってくれました。
長崎貿易、というと、ついついオランダとの貿易? と考えがちですが、長崎では中国との貿易量はかなりを占めていました。
その「俵物」の中の
イリコ
ですが、これが学校の先生や塾の講師でも誤解している場合があるので申し上げておきますと、いわゆる「イリコ出汁」のイリコではない、ということです。
このイリコは、
なまこ
の干したモノのことなんです。
アワビ・カイバシラ・ナマコ、などを乾燥させたもの、これが「俵物三品」でした。
カンテン、コンブ、カツオブシ、スルメも「俵物」に含まれます。
さて、「鎖国」は極端な保護貿易ですので、鎖国を通じて、開国時に世界に通用する、国際競争力が高い商品が育つことになるのですが、「生糸」などがその代表例でした。
もともと鎖国前は、生糸は輸入品てしたが、開国時には最大の輸出品となっています。また、茶などもそうで、「生糸・茶」は開国時の二大輸出品となりました。
安くて質が高い、というわけです。
紅茶、ウーロン茶、緑茶についてのちょっとした誤解を言うと、これらはみんな同じ茶で、発酵させたものが紅茶、半発酵させたものがウーロン茶、そのまま乾燥させたものが緑茶なわけです。
ですから、日本の茶も、発酵用、半発酵用として使用されました。
染料として有名な紅花は、平安時代には現在の千葉県あたりでも栽培されていたようですが、江戸時代は、出羽国、つまれ現在の山形県が特産地となりました。
紅花は、基本的には見た目は黄色で、紅色ではありません。これも染料としては発酵させてつくります。
藍染めも、タデ藍を発酵させて作った染料で使用します。
江戸時代の代表的な染料の原料となる紅花・藍は、その汁をしぼってそのまま使うのではなく、発酵させているわけです。
ここまで説明すると、ははぁ~ん、こはにわは「四木三草」の話をしているんだな、と、ピンとくる人もいると思います。
江戸時代の代表的な商品作物は「四木三草」といい、
桑・茶・漆・楮・紅花・藍・麻
が、それらです。
桑は生糸をつくる蚕のエサ、茶の話はもうしました。紅花と藍はしました。楮は、「こうぞ」と読み、和紙の原料となります。
さてさて、漆、なのですが、これはもちろん「塗り物」に使用されるものです。
Chaina
と、頭文字を大文字にするとこれは中国のことですが、
china
と、小文字で表記するとこれは「陶器」のことになります。
で、
Japan
と、頭文字を大文字にするとこれは日本のことですが、
japan
と、小文字で表記するとこれは「漆器」のことになります。
その国を代表する産品がその国の名で呼ばれる… (そういえば、昔、東南アジアでは自動車のことをトヨタ、と呼んでいたことがあります。)
ところがですね、漆は、塗り物として使用される以外にも用途があり、こちらのほうが日用品としてよく利用されていました。
「漆は塗り物に使用していたんだよね。これはすぐわかるよね。」と話が終わってしまうと、ちょっと当時の漆の用途の説明としては不十分です。
和ロウソクの原料は、「櫨(はぜ)」という植物の実なのですが、そもそも「櫨」はウルシ科ウルシ属の植物なんです。(やはりアレルギー反応を起こしてしまう)
ですから、江戸時代は、漆の実からもロウをとっていたので、漆は、ロウソクの原料としても大量に使用されていました。
さて、産業の発達、とはすなわち、役割分担の細分化、社会的分業が進むことでもあります。
かんたんに言うと、専門・専用の「~屋さん」が生まれる、ということです。
農具も、もともとは農家が自前で作っていましたが、「専用の農具」をつくって売る職人と商人があらわれます。
商売、と、なると、価格競争と品質競争を生み出しますから、そこに人の“知恵”がこめられます。よって、鍬も、深く耕すことができる備中鍬が生まれますし、能率よく脱穀する千歯扱も生まれました。唐箕や千石どおしなども開発されていく、というわけです。
さらに「肥料屋さん」も登場します。農家で「つくる」肥料から、「買う」肥料、つまり金肥が開発されるようになりました。
で、よく誤解されるのが
干鰯
です。単に「これは、イワシを干したやつだよ」と説明すると誤りです。
これも“発酵”させて作るんですよ。イワシを乾燥させてハイ、できあがり、みたいな単純なものではありません。カツオブシも、鰹の身を乾燥させたらできる、と、思っている人がいたら大きな誤解です。
現在あるモノと江戸時代のモノ… 同じモノもあれば、ちょっぴり違うモノがあり、誤解してしまっているものもあるので、「ちょっぴり」注意が必要です。
本校は私立の一貫校ですので、高校の日本史を先取りしていて、やや細かい話もします。
田沼意次は、長崎の貿易を奨励した、とは、前にちょっとお話ししました。
貿易の奨励、とは、一般に輸入をたくさんする、ということだけでなく、輸出をしっかりする、という意味でもあります。
つまり、貿易を黒字にする…
貿易とは、自国に無いモノを輸入し、自国に有るモノで他国に無いモノを輸出する、ということです。
ですから、当時日本は、世界最大の銅産出国でしたから、「銅」を輸出する、ということをしました。
それから、中国でたくさん消費しているわりには、日本では消費が少なかったものも輸出する、ということをします。それが「海産物」で、乾燥させたものなどを含む「俵物」とよばれるものを重要な輸出品としました。
「俵物」としては、イリコ・干し貝柱・干しアワビが有名で、これは当時、日本ではあまり消費されなかったものの、中国では食材として重要なものでしたので、当然、たくさん中国が買ってくれました。
長崎貿易、というと、ついついオランダとの貿易? と考えがちですが、長崎では中国との貿易量はかなりを占めていました。
その「俵物」の中の
イリコ
ですが、これが学校の先生や塾の講師でも誤解している場合があるので申し上げておきますと、いわゆる「イリコ出汁」のイリコではない、ということです。
このイリコは、
なまこ
の干したモノのことなんです。
アワビ・カイバシラ・ナマコ、などを乾燥させたもの、これが「俵物三品」でした。
カンテン、コンブ、カツオブシ、スルメも「俵物」に含まれます。
さて、「鎖国」は極端な保護貿易ですので、鎖国を通じて、開国時に世界に通用する、国際競争力が高い商品が育つことになるのですが、「生糸」などがその代表例でした。
もともと鎖国前は、生糸は輸入品てしたが、開国時には最大の輸出品となっています。また、茶などもそうで、「生糸・茶」は開国時の二大輸出品となりました。
安くて質が高い、というわけです。
紅茶、ウーロン茶、緑茶についてのちょっとした誤解を言うと、これらはみんな同じ茶で、発酵させたものが紅茶、半発酵させたものがウーロン茶、そのまま乾燥させたものが緑茶なわけです。
ですから、日本の茶も、発酵用、半発酵用として使用されました。
染料として有名な紅花は、平安時代には現在の千葉県あたりでも栽培されていたようですが、江戸時代は、出羽国、つまれ現在の山形県が特産地となりました。
紅花は、基本的には見た目は黄色で、紅色ではありません。これも染料としては発酵させてつくります。
藍染めも、タデ藍を発酵させて作った染料で使用します。
江戸時代の代表的な染料の原料となる紅花・藍は、その汁をしぼってそのまま使うのではなく、発酵させているわけです。
ここまで説明すると、ははぁ~ん、こはにわは「四木三草」の話をしているんだな、と、ピンとくる人もいると思います。
江戸時代の代表的な商品作物は「四木三草」といい、
桑・茶・漆・楮・紅花・藍・麻
が、それらです。
桑は生糸をつくる蚕のエサ、茶の話はもうしました。紅花と藍はしました。楮は、「こうぞ」と読み、和紙の原料となります。
さてさて、漆、なのですが、これはもちろん「塗り物」に使用されるものです。
Chaina
と、頭文字を大文字にするとこれは中国のことですが、
china
と、小文字で表記するとこれは「陶器」のことになります。
で、
Japan
と、頭文字を大文字にするとこれは日本のことですが、
japan
と、小文字で表記するとこれは「漆器」のことになります。
その国を代表する産品がその国の名で呼ばれる… (そういえば、昔、東南アジアでは自動車のことをトヨタ、と呼んでいたことがあります。)
ところがですね、漆は、塗り物として使用される以外にも用途があり、こちらのほうが日用品としてよく利用されていました。
「漆は塗り物に使用していたんだよね。これはすぐわかるよね。」と話が終わってしまうと、ちょっと当時の漆の用途の説明としては不十分です。
和ロウソクの原料は、「櫨(はぜ)」という植物の実なのですが、そもそも「櫨」はウルシ科ウルシ属の植物なんです。(やはりアレルギー反応を起こしてしまう)
ですから、江戸時代は、漆の実からもロウをとっていたので、漆は、ロウソクの原料としても大量に使用されていました。
さて、産業の発達、とはすなわち、役割分担の細分化、社会的分業が進むことでもあります。
かんたんに言うと、専門・専用の「~屋さん」が生まれる、ということです。
農具も、もともとは農家が自前で作っていましたが、「専用の農具」をつくって売る職人と商人があらわれます。
商売、と、なると、価格競争と品質競争を生み出しますから、そこに人の“知恵”がこめられます。よって、鍬も、深く耕すことができる備中鍬が生まれますし、能率よく脱穀する千歯扱も生まれました。唐箕や千石どおしなども開発されていく、というわけです。
さらに「肥料屋さん」も登場します。農家で「つくる」肥料から、「買う」肥料、つまり金肥が開発されるようになりました。
で、よく誤解されるのが
干鰯
です。単に「これは、イワシを干したやつだよ」と説明すると誤りです。
これも“発酵”させて作るんですよ。イワシを乾燥させてハイ、できあがり、みたいな単純なものではありません。カツオブシも、鰹の身を乾燥させたらできる、と、思っている人がいたら大きな誤解です。
現在あるモノと江戸時代のモノ… 同じモノもあれば、ちょっぴり違うモノがあり、誤解してしまっているものもあるので、「ちょっぴり」注意が必要です。
生徒たちは、よく、年号をおぼえるためのゴロ合わせ、というのをよくやります。
日本は“だじやれ”文化の国。こういうのが好きなんですよね。
かんたんに言えば、ほとんどが「おやじギャグ」みたいなもんです。
710年は、「ナント見事な平城京」です。平城京遷都の年。ナントと南都も掛かっていて、これはなかなかよくできています。
794年は、「ナクヨうぐいす平安京」です。平安京遷都の年ですが、これは美しいですけれど、「遷都」の意味はこのゴロ合わせには含まれていません。
1167年は、「平清盛イイムナ毛」だそうです。平清盛が太政大臣になった年なのですが、これにいたっては、まったく意味不明。インパクトはあって絶対忘れそうにはあのませんが、そもそも「いい胸毛」をしていたかどうかもわかりませんし、見たくもありません。
さてさて、「遣唐使の廃止」、というのもみなさんは学生時代に習って出来事だと思います。
894年ですから、「ハクシにもどす遣唐使」というゴロ合わせが有名です。
「白紙にもどす」ということから遣唐使が無くなっちゃった、というイメージと重なってなかなかよいものです。
と、いう話を、生徒たちにしたら、
「わたしは、ハクヨげろげろ遣唐使と習いました。」
という子がいました。
きたないやんっ と、なりましたが、まぁ、確かに遣唐使の航海は困難と危険をともなうものですし、インパクトも大。なかなかの“傑作”かもしれません。
さて、
遣唐使の“廃止”
なのですが、実は、現在の教科書からは無くなりつつあります。
え? どうして? となりますが、実は「遣唐使は廃止されていない」からです。
はぁ?? ますますわからぬ…
と、なりそうです。
7世紀後半までに遣唐使は7回ありました。
第1回が、犬上御田鍬によるもので630年。第7回が669年です。
とくに第2回以降は、
653年
654年
659年
665年
667年
と、数年間隔で“頻繁”に往来しているといえます。
ところが第8回以降は、十数年に1回くらい…
任命されたが行かなかったのが3例あの、遭難してしまったものが2回ありました。
759年に派遣された後、779年まで派遣されていないので、この間は20年間空白です。
そしてその後、838年まではなんと60年間も空白なんですよね。
で、838年の次が894年で、このとき任命されたのが菅原道真だったのです。
56年間、遣唐使はありませんでした。
120年間に1回行っただけ、ということになります。菅原道真の前の遣唐使について知っている政治家はまずいないでしょう。
「中国は、今、政治的に混乱しています。今回は行くのをやめましょう。」と菅原道真は提案しました。
むろん、背景には藤原氏との勢力争いがあり、
菅原道真を中国に追っ払おうとする藤原氏
そうはさせるか、という菅原氏
の、“つばぜりあい”があったともいえます。
宇多天皇は決定しました。
じゃ、今回は、止める。
つまり、過去にもあったように、「任命されたが行かなかった」というもので、遣唐使の制度そのものを廃止したのではないのです。
今回は行かない、と、「停止」しただけでしたが、次に行こうとする前に、907年に唐が滅亡してしまった、というだけのことなんです。
(極論を言えば、現在にいたるまで、遣唐使は廃止されていないということになっちゃいます。)
よって、「遣唐使の廃止」という表現は教科書からは無くなり、
遣唐使が“停止”されました。
という表現になっているものがほとんどです。
(このあたりの詳細は、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)
日本は“だじやれ”文化の国。こういうのが好きなんですよね。
かんたんに言えば、ほとんどが「おやじギャグ」みたいなもんです。
710年は、「ナント見事な平城京」です。平城京遷都の年。ナントと南都も掛かっていて、これはなかなかよくできています。
794年は、「ナクヨうぐいす平安京」です。平安京遷都の年ですが、これは美しいですけれど、「遷都」の意味はこのゴロ合わせには含まれていません。
1167年は、「平清盛イイムナ毛」だそうです。平清盛が太政大臣になった年なのですが、これにいたっては、まったく意味不明。インパクトはあって絶対忘れそうにはあのませんが、そもそも「いい胸毛」をしていたかどうかもわかりませんし、見たくもありません。
さてさて、「遣唐使の廃止」、というのもみなさんは学生時代に習って出来事だと思います。
894年ですから、「ハクシにもどす遣唐使」というゴロ合わせが有名です。
「白紙にもどす」ということから遣唐使が無くなっちゃった、というイメージと重なってなかなかよいものです。
と、いう話を、生徒たちにしたら、
「わたしは、ハクヨげろげろ遣唐使と習いました。」
という子がいました。
きたないやんっ と、なりましたが、まぁ、確かに遣唐使の航海は困難と危険をともなうものですし、インパクトも大。なかなかの“傑作”かもしれません。
さて、
遣唐使の“廃止”
なのですが、実は、現在の教科書からは無くなりつつあります。
え? どうして? となりますが、実は「遣唐使は廃止されていない」からです。
はぁ?? ますますわからぬ…
と、なりそうです。
7世紀後半までに遣唐使は7回ありました。
第1回が、犬上御田鍬によるもので630年。第7回が669年です。
とくに第2回以降は、
653年
654年
659年
665年
667年
と、数年間隔で“頻繁”に往来しているといえます。
ところが第8回以降は、十数年に1回くらい…
任命されたが行かなかったのが3例あの、遭難してしまったものが2回ありました。
759年に派遣された後、779年まで派遣されていないので、この間は20年間空白です。
そしてその後、838年まではなんと60年間も空白なんですよね。
で、838年の次が894年で、このとき任命されたのが菅原道真だったのです。
56年間、遣唐使はありませんでした。
120年間に1回行っただけ、ということになります。菅原道真の前の遣唐使について知っている政治家はまずいないでしょう。
「中国は、今、政治的に混乱しています。今回は行くのをやめましょう。」と菅原道真は提案しました。
むろん、背景には藤原氏との勢力争いがあり、
菅原道真を中国に追っ払おうとする藤原氏
そうはさせるか、という菅原氏
の、“つばぜりあい”があったともいえます。
宇多天皇は決定しました。
じゃ、今回は、止める。
つまり、過去にもあったように、「任命されたが行かなかった」というもので、遣唐使の制度そのものを廃止したのではないのです。
今回は行かない、と、「停止」しただけでしたが、次に行こうとする前に、907年に唐が滅亡してしまった、というだけのことなんです。
(極論を言えば、現在にいたるまで、遣唐使は廃止されていないということになっちゃいます。)
よって、「遣唐使の廃止」という表現は教科書からは無くなり、
遣唐使が“停止”されました。
という表現になっているものがほとんどです。
(このあたりの詳細は、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)