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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

子どものとき、サッカーのワールドカップに「イギリスの代表」がいないことに違和感をおぼえたことがあります。

 なぜ??

「いやいや、イングランドが代表だよ。」という大人もいたのですが、イギリス=イングランドなのかというと、断じてそうではない、らしい…

「イギリス」を「イギリス」と呼んでいるのは、実は日本だけで、

 グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国

が、正式な名称。略称が“UK”です。

まず、リクツの上での説明でいきますと、イギリスはフットボール発祥の地。
FIFAが結成されるよりも以前にフットボール協会が存在していました。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つ。

いわゆるワールドカップには、フットボール協会加盟国が参加する、ということになっています。
すでにイギリスには、この四つの協会が存在していたので、それぞれがFIFAに加盟する、ということになったので、それぞれが代表チームとしてワールドカップに参加できるというわけです。

サッカーによって国家の“統合”を図ることがある、という話をコートジボワールを例にして説明しましたが、この“逆”がありまして…

いくつかの地域が統合されてできた国があったとします。
統合そのものに不満を抱かないように、政治以外のことで(文化・芸術・音楽・スポーツなどを通じて)、それぞれの地域の独自性を認めてやり、統合の不満を解消する、という手法もある、ということです。

イギリスは「一つの国」だけれども、もともとはスコットランド、イングランド、ウェールズ、北アイルランドが合同している…
でも、もともとは別だっ という意識が高まってしまって国家の分裂が起こってはいけない。よって、その地域の独自性をある程度認めてやることによって、全体の統合を維持する、というわけです。

極端な例をあげますと、現在、ヨーロッパは政治的・経済的統合が進んでいます。
でも、もし、政治的統合が成功して、ヨーロッパ全体が「一つの国」になったとしても、きっと「ヨーロッパ人」たちは、ワールドカップには、「EU代表」として参加しませんよ。

イタリアはイタリア、フランスはフランス、スペインはスペイン、ドイツはドイツだっ!

と、主張するはずなんですよね。

「別々なんだ」という意識が全体の統合を支える、という、一見矛盾しているかのようなバランスが働く国家もあるんです。

さてさて、イングランドです。

紀元前5世紀ごろ、イングランドには、ケルト人が暮らしていました。ただ、それ以前にも石器文化が存在していて、ケルト人自体も、もともとはイングランドへの侵入者でした。

紀元前1世紀には、かの高名なカエサル(ジュリアス=シーザー)がブリテン島南部を占領し、さらに1世紀には、ローマ帝国の領域となりました。
しかし、ケルト人たちの抵抗によって、スコットランド、アイルランドは、ローマの支配からはまぬがれることになりました。
スコットランドとアイルランドは、非ローマ世界、となり、「別の地域」として独自の文化・社会が育っていきます。
ローマは、スコットランドとの境界に「長城」を築いてケルト人の侵入を阻止し、この地域を“ブリタニア”という植民地として、ロンディニウムという町を築いてその拠点としました。

これがロンドンの始まりです。

もちろん、“植民”はケルト人とローマ人との融合・共存も進めていきます。
ブリテンで生まれたローマ人、ローマ人とケルト人の混血… こうした人々を“ブリトン人”と呼ぶようになっていました。

4世紀、ゲルマン人の移動が本格化し、5世紀にはとうとうブリテン島にもゲルマン人が侵入を開始しました。
記録では449年にゲルマン人のうちのアングロ・サクソン人が侵入したことがわかっています。

“アーサー王”の伝説がこのときに生まれました。

伝説上の人物と考えられていたアーサーですが、最新の研究では、ブリトン人のローマ現地軍司令官アリトリウスではないかという新説が浮上しています。

侵入してきたサクソン人を、アリトリウス率いるブリトン人の軍団が撃退して戦った… という話しがアーサー王の伝説になったのではないか…

侵入してきた敵を撃退する…
“英雄”の誕生の法則です。

その後、このアングロ・サクソン人たちが、ブリテン島に7つの国(ヘプターキー)を建てて、このうちの一つ、ウェセックス王セルディックがイングランド王の初代、ということになります。

侵入して征服する…
“英雄”の誕生の法則です。

9世紀末までの380年間を世界史では「七王国の時代」というのですが、9世紀末にこれらを統合したのがウェセックス王エグバートです。

分裂を統合する…
“英雄”の誕生の法則です。

しかし、10世紀に入ると、イングランドは、デーン人(デンマークのヴァイキング)の侵入を受けます。
このデーン人の侵入を一時撃退して、イングランドを守ったのが、アルフレッド大王です。
彼に“大王”の名が冠せられるのは、外敵の侵入を撃退したからでした。

しかし、デーン人の王クヌートのとき、デンマークは最強となり、イングランドを征服して北海周辺を一つの帝国としました(北海帝国)。
クヌートの死後、デンマークの力は弱まり、イングランドは再び独立しましたが、その後もデーン人の侵入を受け続けます。
イングランド王エドワードは、妹の婿(義弟)ハロルドにデーン人との戦争をまかせて、自分はフランスのノルマンディーに避難し、ノルマンディー公ギョームの庇護を受けます。

ハロルドの活躍でイングランドは守られ、エドワードは帰国しました。しかし、外国に逃げていたエドワードに貴族たちは冷たい視線…
自然と、「次の王はハロルドさんだよなぁ」という空気が漂います。
いたたまれなくなったエドワードは、再びノルマンディーで生活を始め、ノルマンディー公ギョームの世話になります。

「あんたには世話になったなぁ」とエドワードはギョームに言います。
「おれ、子どもがいないから、おれが死んだら、イングランドの王位、あんたに譲るよ」と言ったとか言わなかったとか…

エドワードの死後、ハロルドがイングランド王の位についたのですが、これを不服としてノルマンディー公ギョームがイングランドに遠征し、ヘースティングスの戦いで勝利してイングランド王の位を奪いました。
こうしてノルマンディー公ギョームは、イングランド王ウィリアム1世となったのです(ノルマン・コンクェスト)。

イギリスは「一つの国」かもしれませんが、イングランドの人たちは、

「おれたちは、スコットランドでもウェールズでもアイルランドでもないっ イングランドはイングランドだっ」

という文化や歴史を背負っている…
サッカーを通じて、フランスやデンマークと戦い、イギリスの中のイングランドの独自性を訴え続けている、というわけです。
ワールドカップで日本と対戦する、というまでコートジボワール、という国を知らない人が多かったかもしれませんが、案外と中学生くらいは知っているかもしれません。

というのも、地理でアフリカの話をするときに、日本との貿易や世界との貿易で、ある農産物の生産と輸出に関して説明されるからです。その農産物が

 カカオ

です。チョコレートの原料として有名なもの… これは世界最大の輸出国で、日本はコートジボワールから多くのカカオを輸入しています。
40歳以上の方だと、カカオといえば、すぐ近くの国、ガーナを思い出す方も多いでしょうが、現在は日本との貿易ではコートジボワールが多くなっています。

他にもコーヒーや天然ゴム、木材などの輸出もさかんで石油も産出しています。
ただ、日本では、佐賀県とたいして違わないくらいの経済規模で、人口は2000万人です。
公用語はフランス語ですから、もともとフランスの植民地であった、ということもわかります。

ふ~ん…

と、なりそうですが、50歳以上の方ですと、この国は昔、日本では

 “象牙海岸”共和国

と呼ばれていた、というと、にわかに、あ~、知っている! と言われる方が増えるかもしれません。大阪の万博博覧会でもパビリオンを出していました。

フランス語で、“コート”は「海岸」、“イボワール”は「象牙」(英語のアイボリー)、二つをあわせて“コートジボワール”ですから、なんだ昔といっしょじゃん、と、なりそうです。

西アフリカのこの周辺の地域は、最初にポルトガルが進出していきました。

ヨーロッパと“東方”(アジア・インド)との交易は、その間にイタリア諸都市とイスラーム商人が介在して、彼らが独占的に取引していたことから、なんとか、香辛料・木材などを彼らの仲介なしに手に入れたい、と、ヨーロッパの諸国は考えるようになりました。

なんせスペインやポルトガルでは、香辛料スプーン一杯が、スプーン一杯の砂金と等価交換されていましたから…

で、地球は丸いっ という地理学というか天文学の発達で、スペインは西に進んでインドをめざし、ポルトガルは、アフリカをぐるっと回ったらインドに行けるんじゃないか? と、考えて、アフリカ沿岸を南下していく、という“大航海”を開始しました。

結果、西アフリカにたどりつき、もともと予定していたものとは違う、いろいろな産品を手に入れることになります。

 黒人奴隷・黄金・象牙

です。

これらを輸出する海岸、ということで、このあたりは、

 「奴隷海岸」「黄金海岸」「象牙海岸」

という呼称がつくようになったのです。

その後、イギリスやフランスが、植民地としてアフリカに進出するようになり、第一次世界大戦前からアフリカの分割が列強によって進み、これが第一次世界大戦の理由の一つになりました。

イギリスはアフリカを縦に、フランスはアフリカを横に、支配地域を進めていきました。

で、欧米列強は、自分たちの支配しやすいように(必要な産品を得やすいように)アフリカを“改造”していきます。

それぞれの地域を、自分たちに必要な農産物・原材料の供給地となるように「役割分担」し、おまえらは、麻だけつくれ、おまえらは天然ゴムだ、おまえらはカカオで、おまえらは綿花だ…
他の農作物を勝手につくるのはゆるさないぞっ と、破壊し、その産品に関する生産者を殺害していきました。
もちろん、自分たちの都合の良い「労働者」「中間管理者」に仕立てるために、英語やフランス語を「教育」し、作業や機械が扱える程度の技術教育をしていきます。
その過程で、支配の抵抗に結びつくような、固有の慣習や文化を排除し、自分たちの文化をおしつけていく、ということもしていきました。

西アフリカの地域は、マリ王国、ガーナ王国などのイスラーム国家があったため、イスラーム教とその文化が広がっていましたが、弾圧と懐柔を重ねながらキリスト教も広げていきました。

よって、輸出にたずさわる、あるいは農業をおこなう地域(沿岸部)ではキリスト教が広がり、内陸部ではイスラーム教がのこり、そうして現在にいたり、もともと支配されていた人々、植民地支配に“協力した”人々、イスラーム教、キリスト教、それぞれの諸部族などが、混在するようになったのです。

共通の敵ができると団結できる、の、法則があります。

植民地支配から脱却するために、彼らは団結して一つの国をつくることができましたが、いったん独立すると、もともとのその構造がまた表面化し、対立するようになり、1990年代から2000年代になって、“部族”および北部イスラーム地域、南部キリスト教地域の対立から、二次にわたるコートジボワール内戦が起こっています。

そして…

かれらは、“共通の敵ができると団結できる”の法則、民族、宗教をこえた“国民共通の文化”で再結集しようとしています。

なんとその国民共通の文化が、サッカーであり、共通の敵が、ワールドカップにおける対戦相手となっているのです。

サッカーによって国内を一つにまとめる…

かれらの、国家分裂の再統合のための戦い、その第一線目の相手が、われわれ日本、ということになります…

“何かを背負って”戦うのがワールドカップ。
彼らが背負っているものは、なかなかに重く、コートジボワールの“分裂”をふせげるかどうかがかかっている、その大切な一戦となるわけです。
サッカーのワールドカップが始まりました。
いきなりのビッグカードとして注目されたのが、スペイン対オランダ。
どうなるかと思いきや、なんと、まさかの5-1でスペインが敗退…

でも、おもしろいことに、前回優勝だったスペインですが、実は四年前、やはり初戦で、スイスに1-0で敗退しているんですよね。

スペインがスイスとオランダに敗退する…

というと、世界史が好きな方は、ああ、おもしろいな、ということに気がつくと思います。

16世紀、ハプスブルク家がヨーロッパを支配していたときがあります。
婚姻関係から、カールは、神聖ローマ帝国の皇帝と、スペイン国王を兼ね、神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン王カルロス1世としてヨーロッパの大部分を継承することになりました。

スイスは、それより以前からハプスブルク家の支配に抵抗していました。
スイス独立の英雄ウィリアム=テルの物語は、後にロッシーニ作曲の歌劇となり、その序曲の最終曲“スイス軍の行進”は、おそらく知らない人がいない名曲となりました。

サッカーのワールドカップは、“血を流さない戦争”、なんですよね。
それぞれの国が、それぞれの民族や地域や宗教や歴史を背負って戦う、という場でもあります。

かつて、ドイツとウクライナがサッカーの試合をしたことがありますが、もう、まるでほんとうの戦争をしているようなピリピリとした試合になり、キエフの国立競技場は、警官隊や一部軍隊まで出動しての開催になりました。

その理由は1942年にさかのぼります。
ドイツとウクライナのチームがサッカーの試合をしたことがあります。
当時ウクライナはナチスの占領下にあり、ドイツのチームに負けるように“八百長”を強要されたのです。
しかし、ウクライナのチームはこれを拒否し、ドイツのチームに勝ったのですが…
試合後、ウクライナのチームは、ナチスの親衛隊により、全員暗殺されてしまった、という事件があったのです。

以来、ウクライナはこのことを忘れることなく、戦後も、ドイツとの試合は、一種異様な緊張の中でおこなわれるようになりました。

イングランドとアルゼンチンの試合も、ものすごい緊迫した試合になります。
理由は、1982年のフォークランド紛争にあります。
フォークランド諸島の領有をめぐり、イギリスとアルゼンチンが戦争をし、相互に大きな犠牲が出て、以来、両者は“怨念”の対決を続けています。

四年前、スイスとスペインの対決でスイスが勝利したとき、スイスの全土はお祭り騒ぎのようになり、一部の新聞では「ウィリアム=テル以来の快挙だ!」と紙面を飾りました。

さてさて、オランダの話です。

オランダとスペインの歴史は“劇的”です。

そもそもネーデルラント地方は、16世紀、スペインが支配している地域で、プロテスタントが多い商工業と貿易が発達した地域でした。
カール5世が支配していたときは、まだ、よかったのですが、次にスペイン王となったフェリペ2世は、熱心なカトリック信者であったこともあり、異端審問所を設けて、ネーデルラントのプロテスタントを徹底的に弾圧し、重税をかけていきました。
これに反発して、オラニエ家ウィレムを中心に、スペインに対する抵抗運動を開始したのです。

フェリペ2世は、アルバ公に命じて大軍を派遣します。
アルバ公も熱心なカトリック信者で、苛烈な軍人でした。
徹底的に抵抗運動を弾圧し、一時、オランダの独立運動を壊滅寸前にまで追い込みました。
しかし、その苛烈さゆえに失敗をしてしまいます。

 「ネーデルラントの住民は、みな異端であるから、全員、火あぶりの刑だっ!」

と宣言したのです。

 戦って負けても死、降伏しても死、ならば戦いあるのみ!

と、かえって団結が進み、一気に形勢を逆転させ、アルバ公率いるスペイン軍に大勝しました。

“力でねじふせる”ことに失敗したスペインは方針を転換します。
スペインが次に派遣したパルマ公は、なかなかの知恵者で、外交を用いてカトリックの多いネーデルラント南部の切り崩しに成功し、独立運動に打撃を与えました。
北部ネーデルラントとの戦いも有利に進めていましたが、フェリペ2世がイングランドとの戦いを優先してしまい、北部への決定的な攻撃ができなくなってしまいました。

こうして、ネーデルラントは、北部と南部に分裂し、北部が現在のオランダ、南部が後のベルギーとなります。

結局、1581年、フェリペ2世の支配を拒否し(事実上の独立宣言)、1648年のウェストファリア条約で国際的に承認されることになりました。

四年前、スペインに決勝で屈したオランダは、今回、国家の威信にかけて復讐戦にのぞみ、スペインのサッカーを徹底的に研究して今回の大会にのぞんでいます。

「おれたちは次、スペインに負けるわけにはいかないんだ!」

むろん、対戦相手を研究するのはどこのチームでもやっていることでしょうが、ワールドカップというのは“いろいろなものを背負って”戦うものなのです。
彼らは、自国の歴史を学んで育っています。欧米での歴史教育は半分以上、愛国教育ですからね。

スペインとオランダ…
他の国のチームと戦うときとは違う“何か”が彼らの力となるわけです。

“そんな場所”に日本は飛び込んでサッカーをするんです。
親善試合やその他の試合みたいに、そう簡単に勝ち抜いていけないのが“ワールドカップ”なんですよね。

いろいろな国の歴史を知っていると、サッカーの試合も、ちょっと違ったおもしろい見方ができて楽しいと思います。
中学三年生の授業で、江戸時代の産業の話をしています。

めちゃくちゃ強引な比喩なのですが、わたしは以下の話をよく授業でしています。

「みんなは、“笠地蔵”の話を知っているかな?」

というと、たいていの子は知っています。どんなあらすじか、と問うと、これまたみんなよく知っている…

 昔々あるところに、貧しい暮らしをしている老夫婦がいた。
 年末になっても正月を迎えるのに必要なものがそろっていない。

「あるところ」というのはおそらく東北。東北地方にこの伝承が広く残っているからです。
「正月を迎えるのに必要なもの」という表現があるように、昔は新年を迎える儀式、ということが一般庶民、農民の中でも浸透していて、「貧しい暮らし」をしていても、それをしない、という選択肢が無いことがわかります。

「お正月も迎えられないのか…」

というのが、貧しいさを強調できる表現であるわけです。

話中では、「餅」を用意できない、ということになっています。
江戸時代は、米は年貢として出されるので、貧農ではなかなか米が手に入らない。
ハレ(非日常)の日は加工品、ケ(日常)の日は加工しないものを食べる、というのがこの時代の習慣です。
餅・団子・練り物などは、ハレの日の、特別な日にしか用意しませんでした。

おじいさんは、「笠」を作って町に売りに行き、餅を買うお金を得ようとしましたが、笠はまったく売れませんでした。

農閑期になると、農作物が無いため、日々の糧が不足することがあり、それを補うために、何らかの“手工業製品”を町に売りに行く“商品”とする「副業」をおこなう農家が出現します。

これが

 「農村家内工業」

の始まりです。

 吹雪になりそうだったので、急いで家に帰ることにする。
 すると、お地蔵さんが七体おわすことに気がついた。
 そこでお地蔵さんに、笠をさしあげる、ということにした。

町と村の境界は、異質の世界の接点、ということで、この時代にはお地蔵さんや祠などが祀られている場合が多いのです。
「笠」は江戸時代、だいたい五つで1セット=「一山」で行商人たちは持ち歩きます。
おそらく、この時、おじいさんは「一山」の笠を持っていたのでしょう。五つをお地蔵さんにかぶせ、残り二体のうち、一体に自分の笠、もう一体に手ぬぐいをかぶせて帰宅します。

で、話のオチは、お地蔵さんたちが夜中にゾロゾロやってきて、正月を迎えるのに必要なモノをごっそり置いて帰りました、ということになります。

どうでしょう。たったこれだけの話でも、昔の農村の様子がわかる貴重な情報が埋まっています。

 清く正しい行いをすれば、よいことがある。

という話だけではありません。

実は、仏教説話としては、なかなか深い意味がこの話にはあります。

おじいさんは笠を売りに町に向かい、そして来た道を引き返してきたことになります。
おもしろいことに、「行き」には気づかなかったお地蔵さんに「帰り」には気がついていることになりますよね。

行きは、「さぁ、笠を売って儲けてやろう」という“欲”に目がくらみ、仏の姿が見えなかったのです。
しかし、笠が売れず、あきらめて帰るとき、つまり“欲”を捨てたときに、仏の姿が見えるようになった…

 清く正しい行いをすればよい

という単純な話ではないんですよね。

おっと、話が少しズレてしまいました。

で、次は“鶴の恩返し”の話をします。

これまた、たいていの子は知っていてくれます。

 昔々、おじいさんとおばあさんが住んでいました… と、おきまりのフレーズで始まる場合もあれば、おじいさんが若者であるバージョンもあります。

 おじいさんが町に薪を売りに行くと、一羽の鶴が猟師の罠にかかっている。
 これをおじいさんが哀れに思って助けてやる。
 雪が降る夜、若い女性が訪ねてきて、
 「道に迷ったので一晩泊めてください」という。
 老夫婦は泊めてやることに…
 しかし、雪は降り続け、なかなか女性は家を出ることができない。
 その間、この女性はおじいさんとおばあさんの世話をする。
 「いっそ、お二人の娘にしてもらえませんか」と申し出て、老夫婦はこれを快諾する。
 そうしてその娘は、その家にあった機織り機を使って織物をつくるようになる。
 その織物があまりにも美しいので、たちまち高値で売れるようになった。

まぁ、続きはご存知のように、「機織りをしている間は絶対に中を見ないでください。」という娘との約束を破ってしまい、中を見てみると、なんと、あの助けた鶴が自分の羽を織り込んで織物を作っていた、という話です。

このおじいさんとおばあさんの家に「機織り機」があります。
貧しいはずの老夫婦の家になぜ、こんなものがあるんでしょう?

これは、町の商家が農家と“契約”し、機械と原材料を貸与して生産させる、という方法が農村に浸透していたからです。これが

 「問屋制家内工業」

です。
農家には、農作業する労働力(主として男子)以外に、余剰労働力(女性など)が存在していました。その労働力を活用することが広がるようになっていたのです。

 農村家内工業 → 問屋制家内工業

江戸時代、18世紀になって、このような移行がみられるようになりました。

 安価な労働力をうまく使って大きな利益を得る…

商人たちの、あたりまえの“思想”です。

 どうやってつくられているのか。
 どんなふうに売られているのか。
 ほんとはどれだけ儲かっているのか。

生産者たちは、そのカラクリを「見てはいけません」「知らないほうがよい」という“教訓”だったのかもしれませんね。
平教経。

平家随一の武闘派。
よってドラマなどでは、やや荒くれ者のイメージで表現されがちですが、なかなかどうして、頭脳プレーもできる“知勇の均衡”がとれた将だったと思います。

そもそも、屋島の戦いは、義経の奇襲で始まりましたが、すぐさま態勢を立て直し、反撃に出たのが平教経でした。

平宗盛、直々のご指名です。

「能登殿はおわすか! 上陸して反撃せよ!」
「承って候!」

カッコいい~ ちょっとしびれる場面です。

「船の戦さには、船の戦さのやり方というのがあるのだっ みておれ!」

直垂はつけず、唐巻染の小袖に唐綾縅の鎧。
背負った矢は、鷹の薄黒羽、弓は滋藤。

教経は、弓矢の達人。
教経の、前に立つ者、立つ者、次から次へと射抜かれていきます。

(義経を射る! それでこの戦さは終わるのだっ)

狙うは義経ただ一人。

もちろん、義経の前には、“親衛隊”が並んで矢面に立ち、その矢を防ごうと前に立ちはだかります。

ええいっ 雑兵どもっ そこをどけっ

と、教経は次から次へと射抜いていきました。

もらったっ!

と、ひゃうと放たれた矢は、まっすぐに義経に!
が、その間に飛び込んで、義経を守ったのが、佐藤嗣信でした。
矢は嗣信の肩を射抜いて脇腹まで抜けるというすさまじい威力。奥州からの義経の従者、嗣信はこの屋島の緒戦で戦死しました。

あのときは、あとひといきのところであった。
今度こそ、義経を討つ。

と、平教経は、夜襲を計画しました。
しかし、思わぬことで失敗してしまいます。
越中次郎兵衛と海老守方の二人が、どちらが奇襲攻撃の先陣を切るか、そしてどのような作戦をするかで口論になってしまったのです。
作戦会議で、その方法をめぐって現場指揮官が対立してしまいました。
それに疲れているのは敵だけではありません。
味方の疲労も考慮すると、この奇襲は成功するとも思えなくなりました。

「仕方あるまい。もともと無理があったのだ。」と教経は夜襲を断念しました。

ここで平教経と源義経の“差”が出てしまったというべきでしょう。
「ならば、おれが先陣を切るっ」とは教経は言いませんでした。

義経ならば(部下の手柄を奪ってでも、ここは自ら進んで)奇襲攻撃の先陣をつとめたことでしょう。
その点、平教経は“よきおとこ”だったと思います。

さてさて、「弓矢の話」のしめくくりは、やはり壇ノ浦の戦いでしょう。

壇ノ浦の戦いは、“矢合戦”であったといっても過言ではありません。
(詳しくは拙著『超軽っ日本史』をお読みください。壇ノ浦の戦いを最新の研究に基づいて解説していますので。)

“与一”というと、たいていの方は、那須与一を思い出されるかもしれませんが、もう一人、忘れてはならない“与一”がいるのです。それが、

 阿佐利与一

です。

私が子どものころ、わたしの伯父は、紙に「与一」と書いて私に見せ、

「どうや。よくみるとおもしろいやろ。「与」という字は、まるで人が矢を射ようとしているように見えるやろ。」

と、言いながら、「もう一人の与一」の話をしてくれました。

源頼朝の家臣で、甲斐源氏の流れをくむ男です。
義経も、この男には、敬語を用いていたことが『平家物語』から読み取れます。

壇ノ浦の戦いは船上の戦いです。

源氏方の和田義盛は、弓には自信があり、船を接近させて、自分の名前を書いた矢を、平知盛の乗る船に射込みました。

矢の長さは十二束三伏。

「どうだっ この矢を射返せる者はおるやいなや!」

平知盛は、射込まれた矢を手にとり、ふんっ と鼻で笑いました。
海上戦は、「矢戦」です。海軍ともいうべき平氏の兵どもは、弓矢の達人が多い…

「坂東の者は、これくらいの弓で腕自慢と思っているようだ。返してやれ。」
「おうっ」

と、応えたのが、新居紀四郎親清。
いともたやすく、しかも和田義盛よりも遠方に矢を飛ばして返しました。

これには源氏方からも笑い声があがります。
「義盛殿も、とんだ恥をかかされたものよ。」

知盛は、さらに親清に言います。

「おまえの腕を見せてやれ。」
「はっ」

と、取り出した強弓に、つがえた矢は、なんと十四束三伏。
たっぷりと引き絞り、ひゃうと放った矢は、三町飛んだといいますから、ざっと330メートル。

「今度はその矢を返してもらおうかっ」と親清は、船の舳先に立って大音声をあげました。
これには源氏の兵は沈黙するしかありません。

 ちっ なんたることっ

と、義経は悔しがります。
(義盛めっ いらぬことをして味方の士気をそぐ。)

「だれぞっ だれぞその矢を返せる者はおらんのかっ」

後藤実基は、阿佐利与一を指名しました。

「おおっ 阿佐利殿か。」

義経は、同族の年長者、甲斐源氏の阿佐利与一を敬服していました。
ただちに呼び出し、

「矢返しを求められております。なんとかやってくださらぬか。」

と、射られた十四束三伏の矢を手渡しました。

「ほう…」と手にとる阿佐利与一。
「これは無理だな…」とつぶやく。

一瞬、義経主従に失望の色が広がると…

「あ、いや、そうではござらぬ。こんな矢は弱すぎて使えませぬ。」
と、床にその矢を捨て、「おれの弓矢を持って参れ!」と従者に命じました。

持ってこられた弓をみて、一同驚愕…

 九尺の弓
 十五束の矢

「ごらんあれ」とその弓矢を手にして、ずいっ と、船の外に出ました。

見れば、およそ四町先に、新居紀四郎親清が、船の舳先に立っている…

ぐっと素早く引き絞り、ひゃうふつと放った矢は、ものすごい勢いでつき進み、な、な、な、なんとっ 新居紀四郎親清を射通してしまいました。

いや、もうこれはものすごい、としか言いようがありません。
与一は、440メートル先の親清を射たことになるのですから…

二町先の走る鹿を射る、という与一の噂は、虚構でも誇張でもありませんでした。
甲斐源氏をはじめ、信濃などの内陸の武士たちは、遠矢の名手が多く、阿佐利与一らは、多くそういう部下を従えていました。

壇ノ浦の戦いは、初戦で平氏側が、ものすごい数の矢を源氏側にあびせかけ、「息もできぬほど」源氏側を沈黙させたと言われています。
しかし、その攻撃の後、源氏が陸から壇ノ浦の平氏の船に遠矢をあびせかけ、平氏側に多数の犠牲を出させ、それが平氏の敗北を決定づけました。
この陸からの遠矢を射たのが、甲斐・信濃の兵だったと言われています。

 矢戦で始まり、矢戦で終わる…

壇ノ浦の戦いの縮図が、“親清・与一の矢返し”の逸話であったと思います。