平教経。
平家随一の武闘派。
よってドラマなどでは、やや荒くれ者のイメージで表現されがちですが、なかなかどうして、頭脳プレーもできる“知勇の均衡”がとれた将だったと思います。
そもそも、屋島の戦いは、義経の奇襲で始まりましたが、すぐさま態勢を立て直し、反撃に出たのが平教経でした。
平宗盛、直々のご指名です。
「能登殿はおわすか! 上陸して反撃せよ!」
「承って候!」
カッコいい~ ちょっとしびれる場面です。
「船の戦さには、船の戦さのやり方というのがあるのだっ みておれ!」
直垂はつけず、唐巻染の小袖に唐綾縅の鎧。
背負った矢は、鷹の薄黒羽、弓は滋藤。
教経は、弓矢の達人。
教経の、前に立つ者、立つ者、次から次へと射抜かれていきます。
(義経を射る! それでこの戦さは終わるのだっ)
狙うは義経ただ一人。
もちろん、義経の前には、“親衛隊”が並んで矢面に立ち、その矢を防ごうと前に立ちはだかります。
ええいっ 雑兵どもっ そこをどけっ
と、教経は次から次へと射抜いていきました。
もらったっ!
と、ひゃうと放たれた矢は、まっすぐに義経に!
が、その間に飛び込んで、義経を守ったのが、佐藤嗣信でした。
矢は嗣信の肩を射抜いて脇腹まで抜けるというすさまじい威力。奥州からの義経の従者、嗣信はこの屋島の緒戦で戦死しました。
あのときは、あとひといきのところであった。
今度こそ、義経を討つ。
と、平教経は、夜襲を計画しました。
しかし、思わぬことで失敗してしまいます。
越中次郎兵衛と海老守方の二人が、どちらが奇襲攻撃の先陣を切るか、そしてどのような作戦をするかで口論になってしまったのです。
作戦会議で、その方法をめぐって現場指揮官が対立してしまいました。
それに疲れているのは敵だけではありません。
味方の疲労も考慮すると、この奇襲は成功するとも思えなくなりました。
「仕方あるまい。もともと無理があったのだ。」と教経は夜襲を断念しました。
ここで平教経と源義経の“差”が出てしまったというべきでしょう。
「ならば、おれが先陣を切るっ」とは教経は言いませんでした。
義経ならば(部下の手柄を奪ってでも、ここは自ら進んで)奇襲攻撃の先陣をつとめたことでしょう。
その点、平教経は“よきおとこ”だったと思います。
さてさて、「弓矢の話」のしめくくりは、やはり壇ノ浦の戦いでしょう。
壇ノ浦の戦いは、“矢合戦”であったといっても過言ではありません。
(詳しくは拙著『超軽っ日本史』をお読みください。壇ノ浦の戦いを最新の研究に基づいて解説していますので。)
“与一”というと、たいていの方は、那須与一を思い出されるかもしれませんが、もう一人、忘れてはならない“与一”がいるのです。それが、
阿佐利与一
です。
私が子どものころ、わたしの伯父は、紙に「与一」と書いて私に見せ、
「どうや。よくみるとおもしろいやろ。「与」という字は、まるで人が矢を射ようとしているように見えるやろ。」
と、言いながら、「もう一人の与一」の話をしてくれました。
源頼朝の家臣で、甲斐源氏の流れをくむ男です。
義経も、この男には、敬語を用いていたことが『平家物語』から読み取れます。
壇ノ浦の戦いは船上の戦いです。
源氏方の和田義盛は、弓には自信があり、船を接近させて、自分の名前を書いた矢を、平知盛の乗る船に射込みました。
矢の長さは十二束三伏。
「どうだっ この矢を射返せる者はおるやいなや!」
平知盛は、射込まれた矢を手にとり、ふんっ と鼻で笑いました。
海上戦は、「矢戦」です。海軍ともいうべき平氏の兵どもは、弓矢の達人が多い…
「坂東の者は、これくらいの弓で腕自慢と思っているようだ。返してやれ。」
「おうっ」
と、応えたのが、新居紀四郎親清。
いともたやすく、しかも和田義盛よりも遠方に矢を飛ばして返しました。
これには源氏方からも笑い声があがります。
「義盛殿も、とんだ恥をかかされたものよ。」
知盛は、さらに親清に言います。
「おまえの腕を見せてやれ。」
「はっ」
と、取り出した強弓に、つがえた矢は、なんと十四束三伏。
たっぷりと引き絞り、ひゃうと放った矢は、三町飛んだといいますから、ざっと330メートル。
「今度はその矢を返してもらおうかっ」と親清は、船の舳先に立って大音声をあげました。
これには源氏の兵は沈黙するしかありません。
ちっ なんたることっ
と、義経は悔しがります。
(義盛めっ いらぬことをして味方の士気をそぐ。)
「だれぞっ だれぞその矢を返せる者はおらんのかっ」
後藤実基は、阿佐利与一を指名しました。
「おおっ 阿佐利殿か。」
義経は、同族の年長者、甲斐源氏の阿佐利与一を敬服していました。
ただちに呼び出し、
「矢返しを求められております。なんとかやってくださらぬか。」
と、射られた十四束三伏の矢を手渡しました。
「ほう…」と手にとる阿佐利与一。
「これは無理だな…」とつぶやく。
一瞬、義経主従に失望の色が広がると…
「あ、いや、そうではござらぬ。こんな矢は弱すぎて使えませぬ。」
と、床にその矢を捨て、「おれの弓矢を持って参れ!」と従者に命じました。
持ってこられた弓をみて、一同驚愕…
九尺の弓
十五束の矢
「ごらんあれ」とその弓矢を手にして、ずいっ と、船の外に出ました。
見れば、およそ四町先に、新居紀四郎親清が、船の舳先に立っている…
ぐっと素早く引き絞り、ひゃうふつと放った矢は、ものすごい勢いでつき進み、な、な、な、なんとっ 新居紀四郎親清を射通してしまいました。
いや、もうこれはものすごい、としか言いようがありません。
与一は、440メートル先の親清を射たことになるのですから…
二町先の走る鹿を射る、という与一の噂は、虚構でも誇張でもありませんでした。
甲斐源氏をはじめ、信濃などの内陸の武士たちは、遠矢の名手が多く、阿佐利与一らは、多くそういう部下を従えていました。
壇ノ浦の戦いは、初戦で平氏側が、ものすごい数の矢を源氏側にあびせかけ、「息もできぬほど」源氏側を沈黙させたと言われています。
しかし、その攻撃の後、源氏が陸から壇ノ浦の平氏の船に遠矢をあびせかけ、平氏側に多数の犠牲を出させ、それが平氏の敗北を決定づけました。
この陸からの遠矢を射たのが、甲斐・信濃の兵だったと言われています。
矢戦で始まり、矢戦で終わる…
壇ノ浦の戦いの縮図が、“親清・与一の矢返し”の逸話であったと思います。