今回も軽~くお読みください。
史実としてあやしい逸話も混在しているので。
まともな業績はまたあらためて紹介いたしますので。
なぜか、やりすぎる偶数代の足利将軍たち…
8代義政。
これは小学校の教科書にも出てくる有名人。応仁の乱や銀閣、東山文化の担い手として有名すぎる人物です。でも、あんがいと知られていないのですが、銀閣の完成を見ずに彼は死んでいます。それとあまり言われないのですが、6代義教の暗殺で中断していた日明貿易を再開したのは彼なんです。よってお金はたんまりとあり、応仁の乱の印象が強いので混乱期のイメージが強いですが、財政的にはかなり安定していたんです。さてさて、かれのやりすぎは…
「名前やりすぎやろっ」というところ。偏諱、といって、貴人の名前を一字もらう、という習慣が武士の間にも鎌倉時代から広がりました。家来などにすれば栄誉なこと。偏諱が多いということは、それだけ権勢が強かったともいえますし、政略的に、いろいろ有力者のバランスをとっていた証拠でもあります。たいていは20~40人くらいで、義満ですからその数は90ほど… 義政さんはダントツの120人超え… 和製ゴッドファーザーでした。
10代義稙
京都を留守にしている間にクーデターが起こり、河内に逃げる… 投降して京にもどるも竜安寺に幽閉… さらに小豆島に流罪になりそうになったので逃亡… 自分を支援する守護大名畠山政長の領地、越中国(富山県)へ逃げる… さには越前国へ引っ越しし、近江坂本まで兵を進めて京都をめざすが敗退。またまた河内へ逃亡。ここでも細川政元に敗れて大内氏をたよって周防国(山口県)に引っ越し… 細川政元が暗殺されたことをきっかけに西国の諸大名の支援を受けて京都に帰還。やっと将軍にもどれたと思うと細川・大内・畠山の有力守護とケンカして近江国(滋賀県)の甲賀へ引っ越し。その後和解して京都へもどる… ところが守護大名の内紛から、和泉国(大阪府)堺に逃げる…
さらに船で淡路島へ逃亡。最後は阿波国(徳島県)に引っ越しして、そしてそこで死去… 逃げすぎ引っ越しのやり過ぎ、という将軍でした。
12代義晴
戦う征夷大将軍、リホーム大好きの将軍でした。とにかく築城好き、お城の修理が大好き。京都の東山にある如意ヶ岳(大文字の送り火の山)に城を築いて、反対勢力とつねに戦い続けました。そしてそこにつくった城が中尾城。かなり気に入ったみたいで、壁の強度をかえる、敷き詰める砂利などにもこだわり、『万松院殿穴太記』によると、普請のときには、自ら監督・指揮したくらい。とくに最新兵器の鉄砲にはかなりのこだわりをみせ、鉄砲を使用することを考えた城造りをしたことで有名です。何度も何度も中尾城に手を入れ作り変え… リホームしすぎやろっ
14代義栄
松永久秀や三好三人衆の傀儡で、一度も京都に入ったことがない「室町」幕府の将軍です。かつがれた後は、用無しとばかりに捨てられる… 室町幕府の将軍でありながら、没月日すらよくわからない… 9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説さまざま… それどころか死んだ場所すら、阿波・淡路・摂津などいったいどこで死んだかもわからない… 命日ありすぎ、死んだ場所ありすぎ、という将軍でした。
今回は軽~くお読みください。
史実としてもあやしい“逸話”も混在しているので。
まともな業績はまたあらためてご紹介いたしますので。
足利将軍のうち、なぜか偶数代の方々は、ちょっとやりすぎた方が多いようです。
2代義詮。
この方、文字通り、ヤリすぎました。
正室は渋川幸子、側室は紀良子。良子さんが義満のお母さんになります。
正室との間の子はわずか5才で死去したので、後継ぎがほしいあまり、公家の家に出かけたときは、年ごろの娘がいたら手を出し、天皇のところへ出かけたときは、仕える女官たちに手を出し…
にゃんたのマル秘ファイルでおなじみ『後愚昧記』では、鼻血を出しすぎて死んでしまった、ということです。
4代義持。
番組でも取り上げた義持さん。
父の「事績」を消し去りたいのか、金閣をのぞいて周辺の建物はすべて破棄。
日明貿易もやめちゃうし、ヒゲもモミアゲも伸ばしっぱなし(ヒゲ・モミアゲは甲のひもがほとげにくくするために武将がはやしたので、父とは違い、公家にはなじまぬっ という彼の決意があるのかも)、父が能楽なら、おれは田楽だっ と、保護する芸能も変えちゃう。位を譲った子、義量はわずか19才で死去。『満済記』によると歴代将軍の中では、寺社への参拝数がもっとも多く(とくに北野天満宮)ほぼ毎日どこかに… お参りしすぎやろっ 最後はおしりにできたデキモノをかきむしりすぎて死んでしまう…
6代義教
いうまでもなく「万人恐怖」の将軍。義持の遺言で「くじびき」で将軍の位が決定。(このあたりの経緯は拙著『超軽っ日本史』を是非お読みください。)
儀式の最中、笑ってしまった貴族は、「おれを笑ったな!」と言われて領地没収! 自分の行列が混雑にまきこまれて前に進めなくなった原因が闘鶏の見物人だったことを知り、ニワトリを京都市内からすべて追放! 出家していたとき、自分をばかにしていた義理の兄を、将軍になったとたんに処罰! 妻に子が産まれたとき、その子が将軍になると考えた人が、妻の親戚も出世すると思ってお祝いに訪問すると、「おれはまだ何も決めてない!」とキレて、その客をみんな処罰! 将軍の噂を宴席でした貴族は「へんな噂流したなっ」と言われて流罪! 酒のつぎ方が下手くそな侍女の髪を切って尼にしてしまう! 説教しようとした僧に「二度と口きくな!」と舌を切る! 庭の梅の枝が折れても処罰、料理が口に合わないと処罰… やりすぎ記録、第一位ですね。
(次回に続く)次回、義政から。
史実としてもあやしい“逸話”も混在しているので。
まともな業績はまたあらためてご紹介いたしますので。
足利将軍のうち、なぜか偶数代の方々は、ちょっとやりすぎた方が多いようです。
2代義詮。
この方、文字通り、ヤリすぎました。
正室は渋川幸子、側室は紀良子。良子さんが義満のお母さんになります。
正室との間の子はわずか5才で死去したので、後継ぎがほしいあまり、公家の家に出かけたときは、年ごろの娘がいたら手を出し、天皇のところへ出かけたときは、仕える女官たちに手を出し…
にゃんたのマル秘ファイルでおなじみ『後愚昧記』では、鼻血を出しすぎて死んでしまった、ということです。
4代義持。
番組でも取り上げた義持さん。
父の「事績」を消し去りたいのか、金閣をのぞいて周辺の建物はすべて破棄。
日明貿易もやめちゃうし、ヒゲもモミアゲも伸ばしっぱなし(ヒゲ・モミアゲは甲のひもがほとげにくくするために武将がはやしたので、父とは違い、公家にはなじまぬっ という彼の決意があるのかも)、父が能楽なら、おれは田楽だっ と、保護する芸能も変えちゃう。位を譲った子、義量はわずか19才で死去。『満済記』によると歴代将軍の中では、寺社への参拝数がもっとも多く(とくに北野天満宮)ほぼ毎日どこかに… お参りしすぎやろっ 最後はおしりにできたデキモノをかきむしりすぎて死んでしまう…
6代義教
いうまでもなく「万人恐怖」の将軍。義持の遺言で「くじびき」で将軍の位が決定。(このあたりの経緯は拙著『超軽っ日本史』を是非お読みください。)
儀式の最中、笑ってしまった貴族は、「おれを笑ったな!」と言われて領地没収! 自分の行列が混雑にまきこまれて前に進めなくなった原因が闘鶏の見物人だったことを知り、ニワトリを京都市内からすべて追放! 出家していたとき、自分をばかにしていた義理の兄を、将軍になったとたんに処罰! 妻に子が産まれたとき、その子が将軍になると考えた人が、妻の親戚も出世すると思ってお祝いに訪問すると、「おれはまだ何も決めてない!」とキレて、その客をみんな処罰! 将軍の噂を宴席でした貴族は「へんな噂流したなっ」と言われて流罪! 酒のつぎ方が下手くそな侍女の髪を切って尼にしてしまう! 説教しようとした僧に「二度と口きくな!」と舌を切る! 庭の梅の枝が折れても処罰、料理が口に合わないと処罰… やりすぎ記録、第一位ですね。
(次回に続く)次回、義政から。
生徒たちに質問されて、けっこう困るのは、
なぁなぁ、先生、今で言うたら、ナンボすんの?
という質問です。
関西の子どもたちだから、というわけではないのでしょうが、「へぇ~ で、それ、いくらしたん??」という質問はよくあるんですよね。
お金に換算して、再度感心したい、というのが関西人の根性かもしれません。
たとえば、現在の日本の1000円でも、大人と子どもでは“価値”は違います、
そりゃそうで経済規模が違うからです。
また、都会と田舎でも“価値”は違います。地域による物価の差が必ずあるからです。
商品がたくさんある世界と無い世界でも1000円の値打ちは異なります。そもそも完全自給自足の空間ならば貨幣そのものが存在しなくなります。
ただ、でも、気になりますし、申しましたように実感して「へぇ~ そうなんや」と二度感心したいのも確かです。
「1543年、種子島に鉄砲が伝来したんだよ。」
という話をすると、へぇ~ と、なる。
「日本にはなかったモノだから、種子島のお殿様はどうしてもほしいと思って売ってくれってたのんだんだよ。」
「ふんふん、それで?」
「金2000両も払って買ったらしいよ~」
「へぇ~ で、今で言うたら、いくらくらいなん?」
という話の流れには絶対になります。
まず、周辺の話を固めておきますと、ポルトガル人のキリシタ=ダ=モッダ、という人物と、フランシスという二人の人物が鉄砲を所持していたようです。
「ポルトガル人が伝えた」と教科書には書いていますが、乗っていた船はポルトガル船ではありません。中国(といっても倭寇)の船でした。
当時の種子島のお殿様、種子島時堯さんは、彼らの所持していた鉄砲に目をつけ、「2丁売ってほしい」といいました。
ここが、種子島時堯さんのすぐれたところです。
1丁は自分が使う用に、もう1丁は分解して研究するため用だったのです。
新技術に対する好奇心、ということが旺盛でなければこういう発想は出ませんよね。
種子島にこういう領主がいなかったならば、おそらく「鉄砲の伝来」はもっと後年になっていたでしょう。
それだけではありません。種子島は当時、良質な砂鉄の産地でもあり、九州地方だけでなく全国的にもよく知られた「刀」の生産地でした。
名工と呼ばれる人がいて、とくに八板金兵衛は、美濃国(岐阜県)からわざわざこの地に刀鍛冶として来住していたのです。
時堯は、彼に命じて鉄砲の分解と研究、さらには「国産化」を命じたわけです。
種子島に砂鉄が産出して刀鍛冶という戦国時代の最先端の技術者がいなければ、おそらく「鉄砲の伝来」はもっと後年になっていたでしょう。
そして何より、伝わったのが「戦国時代」です。“武器”に関する興味と需要がもっとも高い時期でした。
新技術は、ヒト・モノ・トキがそろわなければ爆発的に拡散しません。
鉄砲は、まさに、この三つがそろうピンポイントに伝来しました。
八板金兵衛は、鉄砲の技術を教えてほしいあまり、ポルトガル人に自分の娘まで与えました。
日本は「鉄砲」を手に入れたのではなく、「鉄砲の技術」を手に入れたのです。
おそらく東南アジアやその他の地粋に鉄砲は同時期に伝わっているのですが、わずか数年でそれを量産し、30年もたたないうちに、日本というこんな小さい島国に、世界でもっとも多くの鉄砲保が存在するようにななるなんて、おもしろいと思いませんか?
「買うこと」を考えず「作ること」を考える、というのが日本の国民性なのかもしれませんね。
時堯の購入価格は、現在で言うならば、1億円近いことになってしまいますが、どうもこれは大きすぎる金額で、日本は金が多く産出する国ですから、数千万円、という金額だったと思います。
ただ、ポルトガルにおいても、だいたい200~300万円で取り引きされていた鉄砲ですから、
「おいおい、おもろい国があるでぇ~ 300万円の鉄砲、6000万円で買う国あるでぇ~」
ということになり、以後、ポルトガル商人たちの商魂に火をつけ、南蛮貿易を始めるきっかけとなりました。
自動車で、道に迷って田舎に入ったら、「ええもん乗ってるなぁ~ おれに売って。」と言われても「いや、ちょっと困ります。」と答えたら、「そんなん言わないで売ってよ。6000万円でどう?」といわれたら、「はいっ 売りますっ」と即答しますよね。歩いてでも帰ります。
さてさて、1543年に伝わった鉄砲ですが、翌年には室町幕府が刀鍛冶の多くいた近江国の大友村に鉄砲生産を命じています。
そして、1549年には、なんと織田信長が、国友村や堺に500丁の鉄砲を注文している記録があります。
伝わって3年しか経ってないのに、堺や国友村では500丁の鉄砲をもう生産する能力があったんですよね。
いや、それどころか、堺の鉄砲の販売価格は、六匁銃が約50万円、三十匁銃が約200万円でしたから、量産の結果、国際価格よりも安価に製造していることがわかります。
で、それを大量に発注した信長は、10億円くらいの資金を投入して鉄砲をそろえている計算になります。
堺や国友の生産力に、信長の経済力…
1549年というと、信長が斎藤道三と“面会”している年で、「数多くの鉄砲を信長の家来たちが持っているのにおどろいた」という話がありますから、記録上のツジツマは合っています。
さて、こうなってくると、鉄砲は“商品”ですから、価格競争だけでなく品質競争も始まります。
鉄砲鍛冶たちはいろいろ工夫をし、軽量化や射程を伸ばす、命中精度を高める、などなどの工夫がおこなわれ、“倭銃”は世界各地から注文が殺到するモノに成長していきました。
火縄など鉄砲の付属品の開発に対する工夫も日本的です。
雨が降ると、基本的に火が付きにくいし、何より消えやすい…
堺では、火縄に漆を塗布することにより、「水に強い鉄砲」も開発しています。
信長の家来、明智光秀は鉄砲の名手といわれていましたし、杉谷善住坊という人物は、なんと戦国時代の“ゴルゴ13”で、金をとって暗殺なども引き受けていたようです。
そして彼が狙った大物こそ、織田信長でした。
朝倉氏を攻めたものの、信長は浅井長政の裏切りで敗退し、美濃国へひとまず帰国することになりました。その帰路をねらって狙撃されたもののかすり傷ですんだといいます。
当時、杉谷善住坊が「的」を外す、なんてありえない、と、言われたほどでしたから、よっぽど信長は強運の持ち主だったのかもしれません。
信長は彼を全国指名手配にし、逮捕した後、土に体を埋めて首をのこぎりびきして処刑した、といわれています。
ルイス=フロイスの『日本史』にもこの記述が残っているので、ほぼ実話だったと思います。
鉄砲って、自動車に似ていますよね。
もちろん自動車は日本が発明したものではありません。輸入した後、自動車をつくってやるっ と、思った技術者たちが寝食を忘れて研究に没頭、たちまち量産して世界一の性能を持つ自動車を作ってしまった…
しかし、江戸幕府の成立とともに、鉄砲は突然に消滅していきます。
幕府が新技術の開発を禁止しただけでなく、“泰平”の維持のために武器の所有を徹底的に制限していったからでした。
しかし鉄砲をつくる技術は他の技術に転用され、日本の伝統的産業の基盤となります。
世界最大の武器大国の日本は、現在では製造もしない、輸出もしない、国民の所持すら認めない、という「平和な国」となりました。
なぁなぁ、先生、今で言うたら、ナンボすんの?
という質問です。
関西の子どもたちだから、というわけではないのでしょうが、「へぇ~ で、それ、いくらしたん??」という質問はよくあるんですよね。
お金に換算して、再度感心したい、というのが関西人の根性かもしれません。
たとえば、現在の日本の1000円でも、大人と子どもでは“価値”は違います、
そりゃそうで経済規模が違うからです。
また、都会と田舎でも“価値”は違います。地域による物価の差が必ずあるからです。
商品がたくさんある世界と無い世界でも1000円の値打ちは異なります。そもそも完全自給自足の空間ならば貨幣そのものが存在しなくなります。
ただ、でも、気になりますし、申しましたように実感して「へぇ~ そうなんや」と二度感心したいのも確かです。
「1543年、種子島に鉄砲が伝来したんだよ。」
という話をすると、へぇ~ と、なる。
「日本にはなかったモノだから、種子島のお殿様はどうしてもほしいと思って売ってくれってたのんだんだよ。」
「ふんふん、それで?」
「金2000両も払って買ったらしいよ~」
「へぇ~ で、今で言うたら、いくらくらいなん?」
という話の流れには絶対になります。
まず、周辺の話を固めておきますと、ポルトガル人のキリシタ=ダ=モッダ、という人物と、フランシスという二人の人物が鉄砲を所持していたようです。
「ポルトガル人が伝えた」と教科書には書いていますが、乗っていた船はポルトガル船ではありません。中国(といっても倭寇)の船でした。
当時の種子島のお殿様、種子島時堯さんは、彼らの所持していた鉄砲に目をつけ、「2丁売ってほしい」といいました。
ここが、種子島時堯さんのすぐれたところです。
1丁は自分が使う用に、もう1丁は分解して研究するため用だったのです。
新技術に対する好奇心、ということが旺盛でなければこういう発想は出ませんよね。
種子島にこういう領主がいなかったならば、おそらく「鉄砲の伝来」はもっと後年になっていたでしょう。
それだけではありません。種子島は当時、良質な砂鉄の産地でもあり、九州地方だけでなく全国的にもよく知られた「刀」の生産地でした。
名工と呼ばれる人がいて、とくに八板金兵衛は、美濃国(岐阜県)からわざわざこの地に刀鍛冶として来住していたのです。
時堯は、彼に命じて鉄砲の分解と研究、さらには「国産化」を命じたわけです。
種子島に砂鉄が産出して刀鍛冶という戦国時代の最先端の技術者がいなければ、おそらく「鉄砲の伝来」はもっと後年になっていたでしょう。
そして何より、伝わったのが「戦国時代」です。“武器”に関する興味と需要がもっとも高い時期でした。
新技術は、ヒト・モノ・トキがそろわなければ爆発的に拡散しません。
鉄砲は、まさに、この三つがそろうピンポイントに伝来しました。
八板金兵衛は、鉄砲の技術を教えてほしいあまり、ポルトガル人に自分の娘まで与えました。
日本は「鉄砲」を手に入れたのではなく、「鉄砲の技術」を手に入れたのです。
おそらく東南アジアやその他の地粋に鉄砲は同時期に伝わっているのですが、わずか数年でそれを量産し、30年もたたないうちに、日本というこんな小さい島国に、世界でもっとも多くの鉄砲保が存在するようにななるなんて、おもしろいと思いませんか?
「買うこと」を考えず「作ること」を考える、というのが日本の国民性なのかもしれませんね。
時堯の購入価格は、現在で言うならば、1億円近いことになってしまいますが、どうもこれは大きすぎる金額で、日本は金が多く産出する国ですから、数千万円、という金額だったと思います。
ただ、ポルトガルにおいても、だいたい200~300万円で取り引きされていた鉄砲ですから、
「おいおい、おもろい国があるでぇ~ 300万円の鉄砲、6000万円で買う国あるでぇ~」
ということになり、以後、ポルトガル商人たちの商魂に火をつけ、南蛮貿易を始めるきっかけとなりました。
自動車で、道に迷って田舎に入ったら、「ええもん乗ってるなぁ~ おれに売って。」と言われても「いや、ちょっと困ります。」と答えたら、「そんなん言わないで売ってよ。6000万円でどう?」といわれたら、「はいっ 売りますっ」と即答しますよね。歩いてでも帰ります。
さてさて、1543年に伝わった鉄砲ですが、翌年には室町幕府が刀鍛冶の多くいた近江国の大友村に鉄砲生産を命じています。
そして、1549年には、なんと織田信長が、国友村や堺に500丁の鉄砲を注文している記録があります。
伝わって3年しか経ってないのに、堺や国友村では500丁の鉄砲をもう生産する能力があったんですよね。
いや、それどころか、堺の鉄砲の販売価格は、六匁銃が約50万円、三十匁銃が約200万円でしたから、量産の結果、国際価格よりも安価に製造していることがわかります。
で、それを大量に発注した信長は、10億円くらいの資金を投入して鉄砲をそろえている計算になります。
堺や国友の生産力に、信長の経済力…
1549年というと、信長が斎藤道三と“面会”している年で、「数多くの鉄砲を信長の家来たちが持っているのにおどろいた」という話がありますから、記録上のツジツマは合っています。
さて、こうなってくると、鉄砲は“商品”ですから、価格競争だけでなく品質競争も始まります。
鉄砲鍛冶たちはいろいろ工夫をし、軽量化や射程を伸ばす、命中精度を高める、などなどの工夫がおこなわれ、“倭銃”は世界各地から注文が殺到するモノに成長していきました。
火縄など鉄砲の付属品の開発に対する工夫も日本的です。
雨が降ると、基本的に火が付きにくいし、何より消えやすい…
堺では、火縄に漆を塗布することにより、「水に強い鉄砲」も開発しています。
信長の家来、明智光秀は鉄砲の名手といわれていましたし、杉谷善住坊という人物は、なんと戦国時代の“ゴルゴ13”で、金をとって暗殺なども引き受けていたようです。
そして彼が狙った大物こそ、織田信長でした。
朝倉氏を攻めたものの、信長は浅井長政の裏切りで敗退し、美濃国へひとまず帰国することになりました。その帰路をねらって狙撃されたもののかすり傷ですんだといいます。
当時、杉谷善住坊が「的」を外す、なんてありえない、と、言われたほどでしたから、よっぽど信長は強運の持ち主だったのかもしれません。
信長は彼を全国指名手配にし、逮捕した後、土に体を埋めて首をのこぎりびきして処刑した、といわれています。
ルイス=フロイスの『日本史』にもこの記述が残っているので、ほぼ実話だったと思います。
鉄砲って、自動車に似ていますよね。
もちろん自動車は日本が発明したものではありません。輸入した後、自動車をつくってやるっ と、思った技術者たちが寝食を忘れて研究に没頭、たちまち量産して世界一の性能を持つ自動車を作ってしまった…
しかし、江戸幕府の成立とともに、鉄砲は突然に消滅していきます。
幕府が新技術の開発を禁止しただけでなく、“泰平”の維持のために武器の所有を徹底的に制限していったからでした。
しかし鉄砲をつくる技術は他の技術に転用され、日本の伝統的産業の基盤となります。
世界最大の武器大国の日本は、現在では製造もしない、輸出もしない、国民の所持すら認めない、という「平和な国」となりました。
中学2年生の授業で、世界史の「中世ヨーロッパ史」を説明しています。
前にも申しましたように、一部高校内容の世界史が含まれていて、
11世紀ごろ、ヨーロッパでは、「商業が復活した」という言い方をします。
どういうことか、ざつくりと説明しますと…
1~4世紀まで、ローマ帝国という「一つの世界」がありました。
スペインもフランスもイタリアも北アフリカも“ローマ”だったわけです。
「一つの世界」ですから、大きな広い世界の中で暮らし、交易や取引の規模もたいへん大きなものでした。
「道」で結ばれ、帝国が治安も保障し、商人たちや人々は安心して取引と生活を営んでいました。
しかし、4世紀になると、ローマ帝国は東西に分裂します。
そして西の世界にはゲルマン人たちが入ってきました。
西ヨーロッパには、ゲルマン人の小国家が乱立し、とたんに治安も悪くなり、遠隔地との取り引きや交易は事実上できなくなっていきました。
8世紀、ようやくフランク王国が西ヨーロッパを統一したかと思ったらすぐにまた、東・中・西の三つに分裂…
9世紀には、新たにノルマン人(ヴァイキング)が侵入して沿岸部(交易の拠点)をおそい、かつては「一つ」だった商業圏はズタズタに分断されてしまいました。
戦乱の中で、王は手がらを立てた者に土地を与えて忠誠を約束させて諸侯とします。諸侯はまた、手がらを立てた自分の家来にも土地を与えて騎士とします。
王-諸侯-騎士
という封建制度とその身分が生まれるようになりました。
王国といっても実際は、諸侯の領地(荘園)が各地に分立し、町は、戦乱と外敵に備えて城壁を築きます。
ヨーロッパの地名に、「~ブルク」や「~シュタット」というのが多いのは、これらが「城」や「壁で囲まれた」という意味があるからです。
それぞれが「閉じられた世界」になってしまいました。
外の世界とは、できるだけつきあわないようになってしまう…
治安も悪く、交易にも出られません。
『進撃の巨人』というコミックがありますが、まさに外敵に備えて城を築いて、内なる世界で暮らしている、というような感じになってしまいました。
「大きな一つの世界」から「小さな閉じられた世界」になってしまいました。
経済的には逆行です。
ローマの時代には、貨幣もつくられ、遠隔地貿易がさかんでしたが、中世ヨーロッパでは、閉じられた世界の中での自給自足がおこなわれ、貨幣なども使われなくなってしまいました。
ところが10世紀に入ると、戦乱もおさまり、外敵の侵入も防がれ、ようやく治安も回復されるようになりました。
諸侯が自立して政治的・社会的に安定してくると、農業生産も高まり、人口も増え、農作物や手工業品が「余る」ようになりました。
すると「交易」が始まります。
「閉じられた世界」はそれぞれに特色ある産業を成長させていました。
「うちは小麦をたくさんつくっている」
「うちは果実をたくさんつくっている」
「うちはワインやビールがたくさんある」
「うちはブタやウシをたくさん飼っている」
自分のところに無くて隣に有るものは買う。
自分のところに有って隣に無いものは売る。
「じゃ、おれが運んでやるわ」という運送業も登場することになります。
それから、こういう状態が生まれると、「情報」を握っている者が儲けることができるようになりますよね。
「あっちでは果実が不足していて高値だ」
「こっちでは果実が余っていて安値だ」
この「情報」を知っていると、同じ果実を一方で手に入れて、一方で売れば、その差額で利益が得られる。
こうしてかつての「閉じられた世界」という点と点が結ばれて、交易ネットワークが広がっていきます。
生産する農民 情報を握っている商人
いずれも中世ヨーロッパを彩る人たちです。
こうして「商業の復活」が実現しました。
ところが…
商業は「大きな一つの世界」になりつつあるのに、政治は分断されたままなんです。
たとえばフランス王国、というのはあるのだけれども、実際は地域には諸侯がいて、それぞれ政治的に閉じられた世界が複数存在して分断されています。
商人たちにとっては、こんなに「不便な」ことはありません。
その領地を通過するだけで通行税をとられたり、そういう領地に滞在するたびに税が加算されていく…
ああ、もう、諸侯じゃま! だれか、こんな細かい分立なくして一つにしてくれないかなぁ~
「統一」への期待感の高まりです。
どうです? これが後に、一つの世界に統一しようとする“力”、後に「絶対王政」を生み出す背景になっていたのがわかりますか?
実際、フランスでは、国王に、この分断された世界を統一させるために、商人たちがフランス王を支援していったのですよ。
ジャク=クールなどの大商人は、シャルル7世にフランスを統一させて「一つの商業圏」をつくらせて事業を拡大していきました。
さてさて、ふと思ったのですが…
「この考え方」を、日本の戦国時代から安土・桃山時代に適用してみたらおもしろいと思いませんか?
室町時代に、せっかく産業・商業が発達して「一つの世界」になっていたのに、戦国時代に入って、いろいろな大名の「閉じられた世界」に分断されてしまった…
諸大名は、地域の特色を生かした産業を発達させて、再び、これらの商品・農産物が日本中で取り引きされるようになっていった…
ところが…
商業は「大きな一つの世界」になりつつあるのに、政治は分断していたままなんです。
商人たちにとっては、こんなに「不便な」ことはありません。
その領地を通過するだけで通行税をとられたり、そういう領地に滞在するたびに税が加算されていく…
ああ、もう、諸大名じゃま! だれか、こんな細かい分立なくして一つにしてくれないかなぁ~
「統一」への期待感の高まりです。
そして織田信長の登場です。
最初は、堺の“利”をねらう他の大名たちと同じかと思って抵抗していたが、楽市楽座はおこなうし、関所は廃止していく…
「ひょっとしたら、信長に天下を統一させたほうが、一つの商業圏ができるのではないか…」
と、商人たちは途中から考え方を変えたとしたらどうでしょう。
堺は破壊されることなく、むしろ、信長のために積極的に支援するように方針を転換していきます。
そしてそれは豊臣秀吉に後継されました。
信長も秀吉も、商業を「発達させた」と説明される場合がありますが、あんがいと逆で、信長も秀吉も、商人たちによって(商業によって)「統一させられた」と考えてみてもおもしろいですね。
商人たちは、きっと、「信長や秀吉に天下をとらせてやったのだ」と思っていたのかもしれません。
その鉄砲や刀や兵糧、だれが用意してやったと思ってんの?
というわけです。
前にも申しましたように、一部高校内容の世界史が含まれていて、
11世紀ごろ、ヨーロッパでは、「商業が復活した」という言い方をします。
どういうことか、ざつくりと説明しますと…
1~4世紀まで、ローマ帝国という「一つの世界」がありました。
スペインもフランスもイタリアも北アフリカも“ローマ”だったわけです。
「一つの世界」ですから、大きな広い世界の中で暮らし、交易や取引の規模もたいへん大きなものでした。
「道」で結ばれ、帝国が治安も保障し、商人たちや人々は安心して取引と生活を営んでいました。
しかし、4世紀になると、ローマ帝国は東西に分裂します。
そして西の世界にはゲルマン人たちが入ってきました。
西ヨーロッパには、ゲルマン人の小国家が乱立し、とたんに治安も悪くなり、遠隔地との取り引きや交易は事実上できなくなっていきました。
8世紀、ようやくフランク王国が西ヨーロッパを統一したかと思ったらすぐにまた、東・中・西の三つに分裂…
9世紀には、新たにノルマン人(ヴァイキング)が侵入して沿岸部(交易の拠点)をおそい、かつては「一つ」だった商業圏はズタズタに分断されてしまいました。
戦乱の中で、王は手がらを立てた者に土地を与えて忠誠を約束させて諸侯とします。諸侯はまた、手がらを立てた自分の家来にも土地を与えて騎士とします。
王-諸侯-騎士
という封建制度とその身分が生まれるようになりました。
王国といっても実際は、諸侯の領地(荘園)が各地に分立し、町は、戦乱と外敵に備えて城壁を築きます。
ヨーロッパの地名に、「~ブルク」や「~シュタット」というのが多いのは、これらが「城」や「壁で囲まれた」という意味があるからです。
それぞれが「閉じられた世界」になってしまいました。
外の世界とは、できるだけつきあわないようになってしまう…
治安も悪く、交易にも出られません。
『進撃の巨人』というコミックがありますが、まさに外敵に備えて城を築いて、内なる世界で暮らしている、というような感じになってしまいました。
「大きな一つの世界」から「小さな閉じられた世界」になってしまいました。
経済的には逆行です。
ローマの時代には、貨幣もつくられ、遠隔地貿易がさかんでしたが、中世ヨーロッパでは、閉じられた世界の中での自給自足がおこなわれ、貨幣なども使われなくなってしまいました。
ところが10世紀に入ると、戦乱もおさまり、外敵の侵入も防がれ、ようやく治安も回復されるようになりました。
諸侯が自立して政治的・社会的に安定してくると、農業生産も高まり、人口も増え、農作物や手工業品が「余る」ようになりました。
すると「交易」が始まります。
「閉じられた世界」はそれぞれに特色ある産業を成長させていました。
「うちは小麦をたくさんつくっている」
「うちは果実をたくさんつくっている」
「うちはワインやビールがたくさんある」
「うちはブタやウシをたくさん飼っている」
自分のところに無くて隣に有るものは買う。
自分のところに有って隣に無いものは売る。
「じゃ、おれが運んでやるわ」という運送業も登場することになります。
それから、こういう状態が生まれると、「情報」を握っている者が儲けることができるようになりますよね。
「あっちでは果実が不足していて高値だ」
「こっちでは果実が余っていて安値だ」
この「情報」を知っていると、同じ果実を一方で手に入れて、一方で売れば、その差額で利益が得られる。
こうしてかつての「閉じられた世界」という点と点が結ばれて、交易ネットワークが広がっていきます。
生産する農民 情報を握っている商人
いずれも中世ヨーロッパを彩る人たちです。
こうして「商業の復活」が実現しました。
ところが…
商業は「大きな一つの世界」になりつつあるのに、政治は分断されたままなんです。
たとえばフランス王国、というのはあるのだけれども、実際は地域には諸侯がいて、それぞれ政治的に閉じられた世界が複数存在して分断されています。
商人たちにとっては、こんなに「不便な」ことはありません。
その領地を通過するだけで通行税をとられたり、そういう領地に滞在するたびに税が加算されていく…
ああ、もう、諸侯じゃま! だれか、こんな細かい分立なくして一つにしてくれないかなぁ~
「統一」への期待感の高まりです。
どうです? これが後に、一つの世界に統一しようとする“力”、後に「絶対王政」を生み出す背景になっていたのがわかりますか?
実際、フランスでは、国王に、この分断された世界を統一させるために、商人たちがフランス王を支援していったのですよ。
ジャク=クールなどの大商人は、シャルル7世にフランスを統一させて「一つの商業圏」をつくらせて事業を拡大していきました。
さてさて、ふと思ったのですが…
「この考え方」を、日本の戦国時代から安土・桃山時代に適用してみたらおもしろいと思いませんか?
室町時代に、せっかく産業・商業が発達して「一つの世界」になっていたのに、戦国時代に入って、いろいろな大名の「閉じられた世界」に分断されてしまった…
諸大名は、地域の特色を生かした産業を発達させて、再び、これらの商品・農産物が日本中で取り引きされるようになっていった…
ところが…
商業は「大きな一つの世界」になりつつあるのに、政治は分断していたままなんです。
商人たちにとっては、こんなに「不便な」ことはありません。
その領地を通過するだけで通行税をとられたり、そういう領地に滞在するたびに税が加算されていく…
ああ、もう、諸大名じゃま! だれか、こんな細かい分立なくして一つにしてくれないかなぁ~
「統一」への期待感の高まりです。
そして織田信長の登場です。
最初は、堺の“利”をねらう他の大名たちと同じかと思って抵抗していたが、楽市楽座はおこなうし、関所は廃止していく…
「ひょっとしたら、信長に天下を統一させたほうが、一つの商業圏ができるのではないか…」
と、商人たちは途中から考え方を変えたとしたらどうでしょう。
堺は破壊されることなく、むしろ、信長のために積極的に支援するように方針を転換していきます。
そしてそれは豊臣秀吉に後継されました。
信長も秀吉も、商業を「発達させた」と説明される場合がありますが、あんがいと逆で、信長も秀吉も、商人たちによって(商業によって)「統一させられた」と考えてみてもおもしろいですね。
商人たちは、きっと、「信長や秀吉に天下をとらせてやったのだ」と思っていたのかもしれません。
その鉄砲や刀や兵糧、だれが用意してやったと思ってんの?
というわけです。
中学三年生の授業で、江戸時代の文化の話をします。
だいたい中学生には、元禄文化と化政文化を教えればよいのですが、本校は六年一貫教育の学校ですので、一部高校の日本史の内容を取り入れ、桃山文化と寛永期の文化を説明した上で(寛永期の文化と元禄文化を区別して)、元禄・化政の二大文化の話をしていきます。
わたしは文化史の授業のときは、だいたい以下の話をしています。
・文化は水と同じで高いところから低いところへと流れる。
これは、古代の日本の文化の話をするときによく言うことです。
古墳文化や飛鳥文化、白鳳文化も天平文化も、中国からの影響を受けますから、すぐれた文化が日本に流入してくる…
「下流にいると、上流のすぐれた文化がみな伝わって層のように重なるんだよ。」
と、日本の文化が中国や朝鮮だけでなく、シルクロードを通じて伝わった西方の文化の影響を受けていることを具体的な例(正倉院の宝物はもちろん、北魏や南梁などの様式の仏像、新羅の仏像など)をとりあげて説明したりもします。
・文化は、音叉のように、同じ響きに共鳴して伝わる。
という話もします。
安土桃山時代、というのは、脱仏教の文化です。それまでの文化は何らかの形で仏教の影響を受けてきました。
だって小学生や中学生が習うそれ以前の文化は、たいていは、建築物は寺院、彫刻は仏像、絵画も宗教絵画、というものが多数を占めているでしょ?
桃山文化から、突然に人間味をおびてくる。
新興の商人、新興の大名、新しい力が民衆の中からも湧き上がりつつある時代…
こういうときは、「そういう空気」を持つ文化と共鳴して伝わるわけです。
天守閣は、南蛮人の伝えた教会建築の影響を受けますが、天上の神に近づこうとする力と、当時の上昇志向の気持ちとが共鳴し合って、天下人が、地上に君臨する象徴として(支配の力を示すものとして)城郭建築の中心となりました。
千利休も、キリスト教の聖杯の儀式をみて、「いただいて」「茶碗をまわして」飲む、という茶道の作法をつくり出しました。
キリスト教の厳かな精神世界の深さ、千利休が共鳴して茶道に取り入れたのです。
さてさて、そして元禄文化と化政文化…
もちろん、一方が5代綱吉の時代、一方が11代家斉の時代、一方が上方で、一方が江戸、という「対比的」説明もいたしますが、わたしは、
「で」の文化と「を」の文化の違いがある、と、思っているんです。
たとえば、近松門左衛門。
かれは「心中物」と呼ばれる作品を残しています。
この世で結ばれぬ二人の男女が、せめてあの世で結ばれましょう、と、手に手をとって死んでいく…
では、なぜ「この世」では結ばれぬのか?
身分の差やしきたりの差、家と家の問題などなど、当時の封建道徳が二人の愛を引き裂いているんですよね。
つまり、近松門左衛門は、心中物「を」書きたかったのではなく、心中物「で」封建道徳を批判したかったのです。
その作品「で」、何か“普遍的課題”を人々に投げかけている、という「文化」なんですよ。
彼の作品の中には、その作品「で」徳川と豊臣の対立と、豊臣の滅亡を描いているよね、幕府批判しているよな、ということがわかる作品もあります。
一言も、幕府の批判や徳川などの言葉を用いず、「批判」したり「評価」したりしている…
絵画もそうです。女性「で」女性の美しさを伝える… 女性が目的ではなく、それによって日本の美や当時の人々の美意識を伝えようとしている作品が多い…
これに対して、化政期の文化はあきらかに「を」の文化なのです。
その作品自体「を」読者や見る者に味わってほしい、楽しんでほしい、悲しんでほしい…
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、上田秋成の『雨月物語』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などは、作品そのもの「を」楽しむという性質が濃厚です。
で、あるがゆえに、精神性が高いとか人間性を描いている、という評が元禄文化の説明にみられ、享楽的で庶民的という評が化政文化の説明にみられるのです。
絵画も小説も、男女の愛そのもの「を」描く… エロであったりタブーであったり…
木版印刷術の普及、紙などの大量生産、社会的分業の進展によって、町人の収入が増え、文化を楽しめるようになり、よってますます「売れる作品」が好まれるようになり、業者も作家に「売れる」作品を要求していく…
文化の庶民化と享楽化を批判している話ではありません。
人口の多数をしめる人々が安価に手に入れられる文物が広がると、さらにそれを普及するための技術が開発されて、商品開発が進んでいくことも確かです。
コヤブ歴史堂で、“江戸のインテリジェンス”と題してずいぶんと低俗な話をとりあげましたが、それもまた人々の歴史を語る上で、目をそむけてはいけないところなんです。
「ひろくうすく」の文化は、経済を活性化させます。
明白に、元禄期よりも化政期のほうが日本の経済規模は拡大していました。
文化の誕生に必要な三要素は、
心の余裕 お金の余裕 時間の余裕
です。
この「三つの余裕」が、どの階層にまで広がるかによって、文化の性質が変わっていきます。
貴族→武士→上流市民→庶民
江戸時代にむけて、「歴史」を「国民全体」で動かす時代へとむかっていったといえそうです。
だいたい中学生には、元禄文化と化政文化を教えればよいのですが、本校は六年一貫教育の学校ですので、一部高校の日本史の内容を取り入れ、桃山文化と寛永期の文化を説明した上で(寛永期の文化と元禄文化を区別して)、元禄・化政の二大文化の話をしていきます。
わたしは文化史の授業のときは、だいたい以下の話をしています。
・文化は水と同じで高いところから低いところへと流れる。
これは、古代の日本の文化の話をするときによく言うことです。
古墳文化や飛鳥文化、白鳳文化も天平文化も、中国からの影響を受けますから、すぐれた文化が日本に流入してくる…
「下流にいると、上流のすぐれた文化がみな伝わって層のように重なるんだよ。」
と、日本の文化が中国や朝鮮だけでなく、シルクロードを通じて伝わった西方の文化の影響を受けていることを具体的な例(正倉院の宝物はもちろん、北魏や南梁などの様式の仏像、新羅の仏像など)をとりあげて説明したりもします。
・文化は、音叉のように、同じ響きに共鳴して伝わる。
という話もします。
安土桃山時代、というのは、脱仏教の文化です。それまでの文化は何らかの形で仏教の影響を受けてきました。
だって小学生や中学生が習うそれ以前の文化は、たいていは、建築物は寺院、彫刻は仏像、絵画も宗教絵画、というものが多数を占めているでしょ?
桃山文化から、突然に人間味をおびてくる。
新興の商人、新興の大名、新しい力が民衆の中からも湧き上がりつつある時代…
こういうときは、「そういう空気」を持つ文化と共鳴して伝わるわけです。
天守閣は、南蛮人の伝えた教会建築の影響を受けますが、天上の神に近づこうとする力と、当時の上昇志向の気持ちとが共鳴し合って、天下人が、地上に君臨する象徴として(支配の力を示すものとして)城郭建築の中心となりました。
千利休も、キリスト教の聖杯の儀式をみて、「いただいて」「茶碗をまわして」飲む、という茶道の作法をつくり出しました。
キリスト教の厳かな精神世界の深さ、千利休が共鳴して茶道に取り入れたのです。
さてさて、そして元禄文化と化政文化…
もちろん、一方が5代綱吉の時代、一方が11代家斉の時代、一方が上方で、一方が江戸、という「対比的」説明もいたしますが、わたしは、
「で」の文化と「を」の文化の違いがある、と、思っているんです。
たとえば、近松門左衛門。
かれは「心中物」と呼ばれる作品を残しています。
この世で結ばれぬ二人の男女が、せめてあの世で結ばれましょう、と、手に手をとって死んでいく…
では、なぜ「この世」では結ばれぬのか?
身分の差やしきたりの差、家と家の問題などなど、当時の封建道徳が二人の愛を引き裂いているんですよね。
つまり、近松門左衛門は、心中物「を」書きたかったのではなく、心中物「で」封建道徳を批判したかったのです。
その作品「で」、何か“普遍的課題”を人々に投げかけている、という「文化」なんですよ。
彼の作品の中には、その作品「で」徳川と豊臣の対立と、豊臣の滅亡を描いているよね、幕府批判しているよな、ということがわかる作品もあります。
一言も、幕府の批判や徳川などの言葉を用いず、「批判」したり「評価」したりしている…
絵画もそうです。女性「で」女性の美しさを伝える… 女性が目的ではなく、それによって日本の美や当時の人々の美意識を伝えようとしている作品が多い…
これに対して、化政期の文化はあきらかに「を」の文化なのです。
その作品自体「を」読者や見る者に味わってほしい、楽しんでほしい、悲しんでほしい…
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、上田秋成の『雨月物語』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などは、作品そのもの「を」楽しむという性質が濃厚です。
で、あるがゆえに、精神性が高いとか人間性を描いている、という評が元禄文化の説明にみられ、享楽的で庶民的という評が化政文化の説明にみられるのです。
絵画も小説も、男女の愛そのもの「を」描く… エロであったりタブーであったり…
木版印刷術の普及、紙などの大量生産、社会的分業の進展によって、町人の収入が増え、文化を楽しめるようになり、よってますます「売れる作品」が好まれるようになり、業者も作家に「売れる」作品を要求していく…
文化の庶民化と享楽化を批判している話ではありません。
人口の多数をしめる人々が安価に手に入れられる文物が広がると、さらにそれを普及するための技術が開発されて、商品開発が進んでいくことも確かです。
コヤブ歴史堂で、“江戸のインテリジェンス”と題してずいぶんと低俗な話をとりあげましたが、それもまた人々の歴史を語る上で、目をそむけてはいけないところなんです。
「ひろくうすく」の文化は、経済を活性化させます。
明白に、元禄期よりも化政期のほうが日本の経済規模は拡大していました。
文化の誕生に必要な三要素は、
心の余裕 お金の余裕 時間の余裕
です。
この「三つの余裕」が、どの階層にまで広がるかによって、文化の性質が変わっていきます。
貴族→武士→上流市民→庶民
江戸時代にむけて、「歴史」を「国民全体」で動かす時代へとむかっていったといえそうです。