わたしの勤務している私立中学では、国語科が「読書ノート」というものを生徒たちに用意しています。簡単に言うと読書したものを記録して、かんたんな感想を書く、というようなもののようです。読んだらそれを記して退出する… 続けていくとどんどん読んだ本の記録が増えていく、というもんです。
時々、社会や理科の先生のところにも、「何かおもしろい本は無いですか?」というように生徒がたずねてくるときがあります。
以前に、ひとりの生徒が、どういうわけだか「先生、『太平記』を持っていますか?」と来るではないですか。
え… た、たいへいき??
中学生の少女が『太平記』? と驚きましたが、「あ、あるよ。え? 読むの?」と、まぬけなことを言うてしまいましたが、その子は『太平記』を借りていったわけです。
じつは、同僚の社会の先生に、なんと! 阿倍野神社の禰宜をしておられる方がいるんですよ。
阿倍野神社といえば、北畠親房公、北畠顕家公がまつられている由緒正しき神社です。
友達数人と、阿倍野神社にお参りに行ってきたらしく、北畠顕家公の像の前で写真もとってきたりしていたようで、南北朝時代に興味を持ったようです。
歴史が好き、というと、たいていは、「幕末・維新」派と「戦国時代」派の二派に分かれますよね。
「源平」派や「南北朝」派って、あんまりいません。
「歴史」のファンを拡大するためには、「源平」「南北朝」にも興味を持っていただきたいところ…
大阪の阿倍野や天王寺といえば、よく考えれば『太平記』の世界では重要な場所です。
これも何かの縁というもの。これから時々、何回か、『太平記』の世界の話もしていきたいと思います。
『太平記』は鎌倉時代末から室町時代の初めまでの物語です。
史料、というより、歴史物語と考えてください。
鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が建武の新政を始め、それが失敗して南北朝の時代に突入する…
登場人物たちを紹介、と、言いたいのですが、ふと、「そういや『太平記』に出てくる人物の中で、誰が一番たくさん出てくるんだろう…」と思いました。
以前に、塩野七生さんが『ローマ人の物語』の中で、いったい誰のことを一番たくさん説明しているのかと思い、数えたことがあるんですが、なんと第一位は「カエサル」という名前でした。
全然違う時代の話でも、どっかで必ず「カエサル」が出てくるんですよ。
塩野さんは、ローマの歴史「を」書きたかったのではなく、ローマの歴史「で」カエサルの話をしたかったんですよ、絶対…
あ、話がそれてしまいました。
で、『太平記』です。
まぁ、おそらく第一位は「彼」だろうと考えて数えてみると、もう400を超えたので、数えるのをやめちゃいました。
堂々の第一位は
足利尊氏
これはまぁあたりまえですよね。
第二位は誰だと思います?
300超えは二人。え、尊氏にせまるのか? と、思うくらいの380は
新田義貞
『太平記』の中心は、なんと「足利尊氏と新田義貞」なんですよね。
そして、もう一人の300超えは、これは予想通りの
後醍醐天皇
です。後醍醐天皇と足利尊氏、そして新田義貞で話は進む…
200は超えるが300未満は三人です。
どうです? おもしろいでしょ。この名前の記述回数が、そのまま『太平記』の展開を示しているんですよ。
第四位が241の高師直、第五位が229の足利直義。そして第六位が201の足利義詮。
こうなると100超えだが200出てこない人たちが気になるところ…
169が楠木正成、119が脇屋(新田)義助、113が北条高時。あとは全員100未満…
「対立軸」の展開こそ『太平記』の展開ですよね。
・足利尊氏と新田義貞が争う。
・新田義貞の死後は、足利兄弟が争って観応の擾乱となる。
・この争いで南朝がもりかえす。
この三つが、『太平記』を読む(南北朝時代の迷路を出るための)通過ポイントだと思います。
そしてこの九人の話さえおさえれば、『太平記』はほぼ読んだことになるでしょうね。
鎌倉文化、というと、中学受験では、
・武家造
・東大寺金剛力士像
の二つがよく出てきます。え? 鎌倉仏教は? 禅宗では曹洞宗、臨済宗、で、おぼうさんが道元と栄西で… あ、一遍上人とかいたよね、あれは時宗だったかな… と、法然やら親鸞やら、鎌倉新仏教をたくさんおぼえた人もいるかもしれませんが、これらは高校入試や大学入試が必出で、なんと中学入試ではほぼ出ません。
高校入試でいうと、建築物が加わり、
・東大寺南大門(大仏様)
・円覚寺舎利殿(禅宗様)
え? だいぶつさま?? いえいえ、「だいぶつよう」と読みます。
40才以上の方ですと、「天竺様」と習った方が多いと思いますが、現在では「大仏様」と教科書では記載されているものがほとんどです。
同様に、円覚寺舎利殿も「唐様」と習った方も多いと思いますが、現在では「禅宗様」と教えるのがふつうです。
ついでに、円覚寺は「えんがくじ」で「えんかくじ」ではありません。これも塾の講師でも間違えて子どもに教えている人もいます。
ところで、円覚寺舎利殿って、鎌倉で(というか神奈川県で)唯一の「国宝」建築物だって知っていましたか?
え? 鎌倉といえば、京都に並ぶような古都でしょ? さぞかし「国宝」が多いのでは? と思った方も多いかもしれません。
鎌倉市で国宝というと、絵画は4点ほどあります。でも彫刻は鎌倉の大仏さま1件だけ。そして建造物は円覚寺舎利殿のみなんです。
まぁ、ここまでは、へぇ~ で、すむような話ですが、実は教科書から円覚寺舎利殿が消えつつあるんです。
東大寺南大門はあいかわらず大きく取り上げられているのですが…
実は、かつては「鎌倉時代」の代表建築物として教科書で必ずといっていいくらい掲載されていた円覚寺舎利殿なのですが…
これ、実は、室町時代の建物なんです。
円覚寺自体は鎌倉時代のもの、ということで問題は無いのです。
創建は1281年。開いた人は、北条時宗と僧の無学祖元。
このころ、蒙古襲来の二回目、つまり弘安の役が起こっているのですが、円覚寺では蒙古襲来で犠牲になった武士たちも、なんとモンゴルの兵たちも、分け隔てなく葬ったとされています。
ここなんですよね。日本の“よい文化”だと思いますよ。
日本は、死ねばみんな仏さま。
生前の極悪人でも、死ねば仏さまではないか、と、考える… ちゃんと手を合わせて葬る…
けっしてその極悪人を「崇拝している」のでもなく「賛美している」のでもないのですよ。
それとこれとは別、の死生観、が、あるんですよね。
おっと話がそれてしまいました。
円覚寺舎利殿が鎌倉時代のものではない??
いや、鎌倉時代の代表的な禅宗様でしょ、というツッコミがたくさん入りそうなんですが…
そもそも舎利殿がある塔頭(歴代住職の墓をまもるための寺院内寺院)、正続院は、後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石が建長寺の正続庵を移して建てたものなんです。
鎌倉末期から南北朝時代、と、いってもよいですよね。
そして舎利殿そのものは、もともと円覚寺にあったものではなく、尼寺だった太平寺(現在では廃寺)の仏殿の移築で、現在の研究では15世紀の建築物だと考えられているんです。
代表的な「鎌倉時代の禅宗様」でつくられた建物だが、建てられたのは室町時代…
実はこういう建築物、というのは、時代的あいまいさがあるために、○○時代の文化の建物、というように教科書で紹介するのをやめよう、となっています。
よって入試問題でも、出題頻度が著しく低下しました。
たとえば、有名な金閣。中学入試ではあいかわらず人気の出題率ですが、大学入試ではパタっと出題率が低下しました。
だってあれ、一回燃えて、国宝指定を解除され、昭和になって「再建」された建物でしょ。
室町時代の北山文化の“概念”で再建されているといえますが、でも、あきらかに建築物としては昭和のモノですよね。(金閣は意外かもですが国宝ではないんです。)
ちょっとレベルをあげて言うと、西本願寺の飛雲閣、も、そういう扱いになってきました。
かつては、聚楽第の遺構だと考えられていた時期もあり、桃山文化を代表する建築物、として今でも紹介されてはいるんですが、どうやら建てられた時期は江戸初期の建築物で(増築された部分はかなり後年で1795年頃であることがわかっている)、寛永期に建てられたとものと建築史家の多くは推定するようになりました。
よってこれまた、パタっと入試では出なくなってしまいました。
京都を代表する「三閣」のうち、「金閣」・「飛雲閣」の「教科書的地位」がずいぶんと揺らいでしまいました。
では、残りの「銀閣」は安泰なのか?
たしかに、銀閣は、中学入試、高校入試、大学入試を通じて出題率は低下していません。
ただ… 「銀閣」という名称は、「金閣」と対比されて江戸時代に呼ばれるようになった名称で、建てた足利義政本人も、室町時代の人々も「銀閣」とは読んでいません。
2007年の調査で、最初から銀箔など貼られていないことも確認済(黒い漆が塗布されていたことがわかっている)。
ですから、「室町時代の、東山文化を代表する『銀閣』」と呼ぶのはなんだかビミョ~な感じです。
銀閣は「慈照寺観音殿」と教科書では記されるものが増えて銀閣の呼称はあくまでも通称として紹介する教科書も出てきました。
あ、ちなみに、金閣は「鹿苑寺舎利殿」。
金閣も「舎利殿」なんですよね。
・武家造
・東大寺金剛力士像
の二つがよく出てきます。え? 鎌倉仏教は? 禅宗では曹洞宗、臨済宗、で、おぼうさんが道元と栄西で… あ、一遍上人とかいたよね、あれは時宗だったかな… と、法然やら親鸞やら、鎌倉新仏教をたくさんおぼえた人もいるかもしれませんが、これらは高校入試や大学入試が必出で、なんと中学入試ではほぼ出ません。
高校入試でいうと、建築物が加わり、
・東大寺南大門(大仏様)
・円覚寺舎利殿(禅宗様)
え? だいぶつさま?? いえいえ、「だいぶつよう」と読みます。
40才以上の方ですと、「天竺様」と習った方が多いと思いますが、現在では「大仏様」と教科書では記載されているものがほとんどです。
同様に、円覚寺舎利殿も「唐様」と習った方も多いと思いますが、現在では「禅宗様」と教えるのがふつうです。
ついでに、円覚寺は「えんがくじ」で「えんかくじ」ではありません。これも塾の講師でも間違えて子どもに教えている人もいます。
ところで、円覚寺舎利殿って、鎌倉で(というか神奈川県で)唯一の「国宝」建築物だって知っていましたか?
え? 鎌倉といえば、京都に並ぶような古都でしょ? さぞかし「国宝」が多いのでは? と思った方も多いかもしれません。
鎌倉市で国宝というと、絵画は4点ほどあります。でも彫刻は鎌倉の大仏さま1件だけ。そして建造物は円覚寺舎利殿のみなんです。
まぁ、ここまでは、へぇ~ で、すむような話ですが、実は教科書から円覚寺舎利殿が消えつつあるんです。
東大寺南大門はあいかわらず大きく取り上げられているのですが…
実は、かつては「鎌倉時代」の代表建築物として教科書で必ずといっていいくらい掲載されていた円覚寺舎利殿なのですが…
これ、実は、室町時代の建物なんです。
円覚寺自体は鎌倉時代のもの、ということで問題は無いのです。
創建は1281年。開いた人は、北条時宗と僧の無学祖元。
このころ、蒙古襲来の二回目、つまり弘安の役が起こっているのですが、円覚寺では蒙古襲来で犠牲になった武士たちも、なんとモンゴルの兵たちも、分け隔てなく葬ったとされています。
ここなんですよね。日本の“よい文化”だと思いますよ。
日本は、死ねばみんな仏さま。
生前の極悪人でも、死ねば仏さまではないか、と、考える… ちゃんと手を合わせて葬る…
けっしてその極悪人を「崇拝している」のでもなく「賛美している」のでもないのですよ。
それとこれとは別、の死生観、が、あるんですよね。
おっと話がそれてしまいました。
円覚寺舎利殿が鎌倉時代のものではない??
いや、鎌倉時代の代表的な禅宗様でしょ、というツッコミがたくさん入りそうなんですが…
そもそも舎利殿がある塔頭(歴代住職の墓をまもるための寺院内寺院)、正続院は、後醍醐天皇の勅命で夢窓疎石が建長寺の正続庵を移して建てたものなんです。
鎌倉末期から南北朝時代、と、いってもよいですよね。
そして舎利殿そのものは、もともと円覚寺にあったものではなく、尼寺だった太平寺(現在では廃寺)の仏殿の移築で、現在の研究では15世紀の建築物だと考えられているんです。
代表的な「鎌倉時代の禅宗様」でつくられた建物だが、建てられたのは室町時代…
実はこういう建築物、というのは、時代的あいまいさがあるために、○○時代の文化の建物、というように教科書で紹介するのをやめよう、となっています。
よって入試問題でも、出題頻度が著しく低下しました。
たとえば、有名な金閣。中学入試ではあいかわらず人気の出題率ですが、大学入試ではパタっと出題率が低下しました。
だってあれ、一回燃えて、国宝指定を解除され、昭和になって「再建」された建物でしょ。
室町時代の北山文化の“概念”で再建されているといえますが、でも、あきらかに建築物としては昭和のモノですよね。(金閣は意外かもですが国宝ではないんです。)
ちょっとレベルをあげて言うと、西本願寺の飛雲閣、も、そういう扱いになってきました。
かつては、聚楽第の遺構だと考えられていた時期もあり、桃山文化を代表する建築物、として今でも紹介されてはいるんですが、どうやら建てられた時期は江戸初期の建築物で(増築された部分はかなり後年で1795年頃であることがわかっている)、寛永期に建てられたとものと建築史家の多くは推定するようになりました。
よってこれまた、パタっと入試では出なくなってしまいました。
京都を代表する「三閣」のうち、「金閣」・「飛雲閣」の「教科書的地位」がずいぶんと揺らいでしまいました。
では、残りの「銀閣」は安泰なのか?
たしかに、銀閣は、中学入試、高校入試、大学入試を通じて出題率は低下していません。
ただ… 「銀閣」という名称は、「金閣」と対比されて江戸時代に呼ばれるようになった名称で、建てた足利義政本人も、室町時代の人々も「銀閣」とは読んでいません。
2007年の調査で、最初から銀箔など貼られていないことも確認済(黒い漆が塗布されていたことがわかっている)。
ですから、「室町時代の、東山文化を代表する『銀閣』」と呼ぶのはなんだかビミョ~な感じです。
銀閣は「慈照寺観音殿」と教科書では記されるものが増えて銀閣の呼称はあくまでも通称として紹介する教科書も出てきました。
あ、ちなみに、金閣は「鹿苑寺舎利殿」。
金閣も「舎利殿」なんですよね。
われらがコヤブ歴史堂の主管、コヤブさんがなんばグランド花月で、「小籔大説教」というイベントをおこなわれました。
実は、わたしも観に行ったんですよ。
予定では2時間半でしたが、なんと3時間もトークがあり、いや、まぁ楽しかったの何の…
このイベントに参加した人たちの“小籔さんとの御約束”で、ネット上でどんな話があったのか、ということは具体的に流してはいけないことになっているので、この場では詳細は申しません。
ただ、ただ、コヤブさんのトークおよびゲストの芸人さんとのやりとりの楽しい時間でした。
コヤブさんの哲学は、「コヤブ歴史堂」の中のトークでもわかるようにブレることなく、ズバっとまっすぐ直球。
なんというか… コヤブ歴史堂でもゲストで来られたことがある千鳥のノブさんなのですが、コヤブさんとの絡みが実におもしろい。
千鳥のお二人がゲストのとき、ほんとに楽しいんですよね。
そしてまたプラン9の浅越ゴエさん。ここでは書けませんが、コヤブさんとのちょっとしたやりとりなんですが、コヤブさんの激辛カレーに入った生卵のように、うま~く味わいをマイルドにして食べやすくしてくれるんですよね。ちょっとした一言をうま~く挟む…
そして、コヤブ歴史堂のコントでもおなじみの、今別府さん。あの人、わたしツボなんですよ。
これは是非、第2弾を期待したいところです。
さて、トークの中で「売れている人、活躍している人は、みんな異常者なんですよっ」という話がありました。(何か一つの部分あるいは複数の部分のどこかが特別に秀でている、という意味です。)マネなんてできないし、追いつく追い越すなんてそんな甘いもんではない。
ちょっと、この部分にわたしはすごく共鳴しました。
よくよく考えれば、歴史上の人物、とくに教科書に取り上げられている人物は、みな「異常者」です。
歴史の人物から学ぶ、なんてことをよく言いますが、はっきりいって、無理!
その人が、ものすごく特別だからこそ歴史に名を残しているのであって、大多数の凡人には参考にもならないし、マネなどとうていできませんよね。
卑弥呼。
女性でたくみに占いやまじないをして30あまりの国を統合し、邪馬台国をまとめる。
それがおとなりの中国にまで記録されている。
こんなこと、他に誰かしましたか?
聖徳太子。
それまでのばらばらな豪族連合のヤマト政権を中国のような集権国家にまとめようとする。
当時の常識をうちやぶって、冠位十二階とかを定めてしまう。
こんなこと、他に誰かしましたか?
中大兄皇子と中臣鎌足。
大勢力の蘇我氏をたおし、混乱を収束させて、律令政治の基礎を築く。
それまでとちがう国家の作りの方向性を明確にしてしまう。
こんなこと、他に誰かしましたか?
聖武天皇。
東大寺を建て、なんと大仏なんかを国家というか人民の力を結集して造立してしまう。
ピラミッドと同じで、奴隷や強制を用いて造ったものではありません。
多くの人々の力を結集する、人としての力を持っていないとそんな事業、推進できません。
こんなこと、他に誰かしましたか?
源頼朝、後醍醐天皇、足利尊氏、足利義満、足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…
教科書に取り上げられている人物は、みな、その時代、他に誰も同じことをしていない業績をしているんです。
特別な、たった一人、なんです。
これは、その時代の“異常”、つきぬけている、あるいは次の時代を先取り、切り開き、次の時代の常識をつくった人ばかり…
同時代の大多数の中の特別な人。
学校の授業などでは、あまりに淡々と、こんなことをしました、こういう人でした、ふ~ん… と、なってしまうような説明が為されているかもですが、わたしは、もっともっと、その人たちの特殊性、時代の中の異常さを強調してもよいんじゃないかな、と、思っています。
コヤブ歴史堂で取り上げる人物…
できるだけ、その人たちの「つきぬけっぷり」を、これからもどんどん説明していきたいと思っています。
実は、わたしも観に行ったんですよ。
予定では2時間半でしたが、なんと3時間もトークがあり、いや、まぁ楽しかったの何の…
このイベントに参加した人たちの“小籔さんとの御約束”で、ネット上でどんな話があったのか、ということは具体的に流してはいけないことになっているので、この場では詳細は申しません。
ただ、ただ、コヤブさんのトークおよびゲストの芸人さんとのやりとりの楽しい時間でした。
コヤブさんの哲学は、「コヤブ歴史堂」の中のトークでもわかるようにブレることなく、ズバっとまっすぐ直球。
なんというか… コヤブ歴史堂でもゲストで来られたことがある千鳥のノブさんなのですが、コヤブさんとの絡みが実におもしろい。
千鳥のお二人がゲストのとき、ほんとに楽しいんですよね。
そしてまたプラン9の浅越ゴエさん。ここでは書けませんが、コヤブさんとのちょっとしたやりとりなんですが、コヤブさんの激辛カレーに入った生卵のように、うま~く味わいをマイルドにして食べやすくしてくれるんですよね。ちょっとした一言をうま~く挟む…
そして、コヤブ歴史堂のコントでもおなじみの、今別府さん。あの人、わたしツボなんですよ。
これは是非、第2弾を期待したいところです。
さて、トークの中で「売れている人、活躍している人は、みんな異常者なんですよっ」という話がありました。(何か一つの部分あるいは複数の部分のどこかが特別に秀でている、という意味です。)マネなんてできないし、追いつく追い越すなんてそんな甘いもんではない。
ちょっと、この部分にわたしはすごく共鳴しました。
よくよく考えれば、歴史上の人物、とくに教科書に取り上げられている人物は、みな「異常者」です。
歴史の人物から学ぶ、なんてことをよく言いますが、はっきりいって、無理!
その人が、ものすごく特別だからこそ歴史に名を残しているのであって、大多数の凡人には参考にもならないし、マネなどとうていできませんよね。
卑弥呼。
女性でたくみに占いやまじないをして30あまりの国を統合し、邪馬台国をまとめる。
それがおとなりの中国にまで記録されている。
こんなこと、他に誰かしましたか?
聖徳太子。
それまでのばらばらな豪族連合のヤマト政権を中国のような集権国家にまとめようとする。
当時の常識をうちやぶって、冠位十二階とかを定めてしまう。
こんなこと、他に誰かしましたか?
中大兄皇子と中臣鎌足。
大勢力の蘇我氏をたおし、混乱を収束させて、律令政治の基礎を築く。
それまでとちがう国家の作りの方向性を明確にしてしまう。
こんなこと、他に誰かしましたか?
聖武天皇。
東大寺を建て、なんと大仏なんかを国家というか人民の力を結集して造立してしまう。
ピラミッドと同じで、奴隷や強制を用いて造ったものではありません。
多くの人々の力を結集する、人としての力を持っていないとそんな事業、推進できません。
こんなこと、他に誰かしましたか?
源頼朝、後醍醐天皇、足利尊氏、足利義満、足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…
教科書に取り上げられている人物は、みな、その時代、他に誰も同じことをしていない業績をしているんです。
特別な、たった一人、なんです。
これは、その時代の“異常”、つきぬけている、あるいは次の時代を先取り、切り開き、次の時代の常識をつくった人ばかり…
同時代の大多数の中の特別な人。
学校の授業などでは、あまりに淡々と、こんなことをしました、こういう人でした、ふ~ん… と、なってしまうような説明が為されているかもですが、わたしは、もっともっと、その人たちの特殊性、時代の中の異常さを強調してもよいんじゃないかな、と、思っています。
コヤブ歴史堂で取り上げる人物…
できるだけ、その人たちの「つきぬけっぷり」を、これからもどんどん説明していきたいと思っています。
六月二十八日に放送予定の人物は、塙団右衛門です。
たいへんおもしろい回になっているので、是非、ご覧ください。
といっても、一部の戦国武将ファンでなければ、知らないなぁ… という方もいるかもしれません。
もちろん、どんな人物かは、是非、番組をご覧いただくとして、塙団右衛門さんの魅力をよく知っていただくために、彼の活躍した関ヶ原の戦いから大坂の役の話をしておきたいと思います。
まぁ、「予習」だと思って軽く読んでいただければと思います。
関ヶ原の戦いは1600年にはじまった「天下分け目の戦い」です。
豊臣秀吉が天下を統一しましたが、秀吉の死後、幼い彼の子、秀頼を補佐することをめぐって、天下は徳川家康派と、反徳川派に分かれます。
こうして、現在の岐阜県で、東軍・西軍に分かれて決戦することになりました。
「東軍」は徳川家康およびその支持者の大名たち。
「西軍」は石田三成および反徳川の大名たち。
戦いは「東軍」の勝利となり、天下の実権は徳川家康にうつりました。
しかしこの段階では、家康は、形の上では、秀頼の家来です。家康は、あくまでも秀頼に逆らう逆臣たちを関ヶ原の戦いでやっつける、という形で関ヶ原で戦いました。
こういう立場をフルに活用し、西軍に味方した大名の多くをとりづぶし、領地を奪って東軍の大名に与えただけでなく、豊臣家の直轄地も自分に味方した者たちに「秀頼さまのためによく働いた。これは秀頼さまからのプレゼントだ」という形式で分け与えて、豊臣家の力を大きく削ぎ落していきました。
結果、豊臣家は、大坂城とその周辺を所有する“一大名”程度に転落することになります。
豊臣家側は、“危機感”をつのらせます。
このままでは滅ぼされてしまうのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
なにせ、関ヶ原の戦いで負けた元大名たちや浪人たちはたくさんいます。一方に失業者がいて、一方で求人が出ていれば、みな、自然と大坂に集まってくるようになりました。
しかし、これはかえって徳川側の“警戒感”を高めてしまいます。
もう一度乱を起こすのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
徳川方は、大坂城を囲むように、姫路城や名古屋城、伊賀上野城などをつくって警戒態勢を整えるようになりました。
豊臣側は当然反発し、さらなる軍事力の増強をはかる…
これ以上は危険だ、ということで、とうとう戦争が始まることになります。
これが世にいう、“大坂の役”です。
大坂の役に関しては、江戸時代を通じて、おもしろおかしく仕立てられた話があるので、いくつかその“誤解”を解いておきたいと思います。
まず第一に。
「方広寺鐘銘事件」ですが、あれは徳川家康が、僧の崇伝と仕組んだ陰謀ではありません。
小説では、ごていねいにも、五山の僧たちに手をまわした上で、これは「豊臣を君として楽しみ、家康の間に安という文字を入れて二つに分けるという呪いの文字だ」と、「君臣豊楽」「国家安康」という部分にケチをつけたということになっています。
「ひどいコジツケだ」と子どものころに、おもしろおかしく言われた方もおられるかもですが、そうではありません。
この銘をつくった清韓という僧は、ほんとうにこの銘の中に「豊臣」と「家康」という名前を入れたのです。
これは「かくし題」という方法で、清韓自身が「お祝いの意味をこめて家康の名前を入れました」と説明しています。
けっして無理矢理コジツケて読んだのではないですよ。
でも、当時の慣習から考えても、ずいぶんと失礼なやり口で、豊臣は姓なのに、家康は名です。これだけでも無礼なのですが、名を割る(安という字を間に入れる)というのはちょっとけしからんことです。
むしろ、これは豊臣側が徳川側に対してケンカを売る口実にしたともいえることなのです。
挑発したのは徳川ではなく豊臣だったといえるかもしれません。
第二に。
家康が、いったん和睦してから堀を埋めてそうして二度目の戦いで大坂城を滅ぼす、という方法は生前、秀吉が家康に教えた、という話があるのですが、これは完全にフィクションです。
当時の一級史料にこのような記録はなく、江戸時代の終わりのころのお芝居の脚本などでみられる「つくり話」です。
第三に。
冬の陣と夏の陣では、戦いの状況は異なっている、ということです。
冬の陣は大坂城を「包囲して」戦っていますが、夏の陣は「野戦」で、大坂方は北、徳川方は南に分かれて陣を置いて戦った「南北戦争」であったということです。
夏の陣では大坂城は包囲されていません。
おもしろいのは、冬の陣で家康は本陣を天王寺の茶臼山に構えていたのですが、夏の陣のときは真田幸村が本陣を構えています。ですからそれより南で両軍は激突したことになります。
そして第四に。
冬の陣の和睦の条件として、外堀「だけ」を埋めるという約束だったのに、徳川方が内堀まで埋めてしまった、という有名なエピソードですが、これはまったくのウソです。
講和の条件は、「城」に関しては
・城郭は、本丸だけ残す。
・二の丸と三の丸はつぶす。
と定められ、
・二の丸をつぶして内堀を埋めるのは豊臣側。
・三の丸をつぶして外堀を埋めるのは徳川側。
と、取り決められました。
豊臣側は、これだけの大きな城の工事だから、三年はかかるだろう、ゆっくり時間かせぎをして力の回復を図ればよい、と、考えていて、工事そのものを“サボタージュ”しました。
これに対して徳川側は、超高速で工事を進め、あっという間に三の丸をつぶして外堀を埋めました。
「こっちは終わったのでそっちを手伝いましょう」と、二の丸のとりつぶしと堀の埋め立てを“手伝い”、年内に“完了”させたのです。
「うめる・うめない」の陰謀はなく、「はやい・おそい」の問題でした。
この話が、ゆがめられて民間に伝わったのが上記のエピソードだったのです。
(このあたりの話は拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく書いているので興味のある方は是非お読みください。)
さてさて、塙団右衛門だけではありません。大坂の役で“活躍した”武将たちのお話しは、これからもコヤブ歴史堂でとりあげていくつもりです。
どうかお楽しみにしてくださいね。
たいへんおもしろい回になっているので、是非、ご覧ください。
といっても、一部の戦国武将ファンでなければ、知らないなぁ… という方もいるかもしれません。
もちろん、どんな人物かは、是非、番組をご覧いただくとして、塙団右衛門さんの魅力をよく知っていただくために、彼の活躍した関ヶ原の戦いから大坂の役の話をしておきたいと思います。
まぁ、「予習」だと思って軽く読んでいただければと思います。
関ヶ原の戦いは1600年にはじまった「天下分け目の戦い」です。
豊臣秀吉が天下を統一しましたが、秀吉の死後、幼い彼の子、秀頼を補佐することをめぐって、天下は徳川家康派と、反徳川派に分かれます。
こうして、現在の岐阜県で、東軍・西軍に分かれて決戦することになりました。
「東軍」は徳川家康およびその支持者の大名たち。
「西軍」は石田三成および反徳川の大名たち。
戦いは「東軍」の勝利となり、天下の実権は徳川家康にうつりました。
しかしこの段階では、家康は、形の上では、秀頼の家来です。家康は、あくまでも秀頼に逆らう逆臣たちを関ヶ原の戦いでやっつける、という形で関ヶ原で戦いました。
こういう立場をフルに活用し、西軍に味方した大名の多くをとりづぶし、領地を奪って東軍の大名に与えただけでなく、豊臣家の直轄地も自分に味方した者たちに「秀頼さまのためによく働いた。これは秀頼さまからのプレゼントだ」という形式で分け与えて、豊臣家の力を大きく削ぎ落していきました。
結果、豊臣家は、大坂城とその周辺を所有する“一大名”程度に転落することになります。
豊臣家側は、“危機感”をつのらせます。
このままでは滅ぼされてしまうのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
なにせ、関ヶ原の戦いで負けた元大名たちや浪人たちはたくさんいます。一方に失業者がいて、一方で求人が出ていれば、みな、自然と大坂に集まってくるようになりました。
しかし、これはかえって徳川側の“警戒感”を高めてしまいます。
もう一度乱を起こすのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
徳川方は、大坂城を囲むように、姫路城や名古屋城、伊賀上野城などをつくって警戒態勢を整えるようになりました。
豊臣側は当然反発し、さらなる軍事力の増強をはかる…
これ以上は危険だ、ということで、とうとう戦争が始まることになります。
これが世にいう、“大坂の役”です。
大坂の役に関しては、江戸時代を通じて、おもしろおかしく仕立てられた話があるので、いくつかその“誤解”を解いておきたいと思います。
まず第一に。
「方広寺鐘銘事件」ですが、あれは徳川家康が、僧の崇伝と仕組んだ陰謀ではありません。
小説では、ごていねいにも、五山の僧たちに手をまわした上で、これは「豊臣を君として楽しみ、家康の間に安という文字を入れて二つに分けるという呪いの文字だ」と、「君臣豊楽」「国家安康」という部分にケチをつけたということになっています。
「ひどいコジツケだ」と子どものころに、おもしろおかしく言われた方もおられるかもですが、そうではありません。
この銘をつくった清韓という僧は、ほんとうにこの銘の中に「豊臣」と「家康」という名前を入れたのです。
これは「かくし題」という方法で、清韓自身が「お祝いの意味をこめて家康の名前を入れました」と説明しています。
けっして無理矢理コジツケて読んだのではないですよ。
でも、当時の慣習から考えても、ずいぶんと失礼なやり口で、豊臣は姓なのに、家康は名です。これだけでも無礼なのですが、名を割る(安という字を間に入れる)というのはちょっとけしからんことです。
むしろ、これは豊臣側が徳川側に対してケンカを売る口実にしたともいえることなのです。
挑発したのは徳川ではなく豊臣だったといえるかもしれません。
第二に。
家康が、いったん和睦してから堀を埋めてそうして二度目の戦いで大坂城を滅ぼす、という方法は生前、秀吉が家康に教えた、という話があるのですが、これは完全にフィクションです。
当時の一級史料にこのような記録はなく、江戸時代の終わりのころのお芝居の脚本などでみられる「つくり話」です。
第三に。
冬の陣と夏の陣では、戦いの状況は異なっている、ということです。
冬の陣は大坂城を「包囲して」戦っていますが、夏の陣は「野戦」で、大坂方は北、徳川方は南に分かれて陣を置いて戦った「南北戦争」であったということです。
夏の陣では大坂城は包囲されていません。
おもしろいのは、冬の陣で家康は本陣を天王寺の茶臼山に構えていたのですが、夏の陣のときは真田幸村が本陣を構えています。ですからそれより南で両軍は激突したことになります。
そして第四に。
冬の陣の和睦の条件として、外堀「だけ」を埋めるという約束だったのに、徳川方が内堀まで埋めてしまった、という有名なエピソードですが、これはまったくのウソです。
講和の条件は、「城」に関しては
・城郭は、本丸だけ残す。
・二の丸と三の丸はつぶす。
と定められ、
・二の丸をつぶして内堀を埋めるのは豊臣側。
・三の丸をつぶして外堀を埋めるのは徳川側。
と、取り決められました。
豊臣側は、これだけの大きな城の工事だから、三年はかかるだろう、ゆっくり時間かせぎをして力の回復を図ればよい、と、考えていて、工事そのものを“サボタージュ”しました。
これに対して徳川側は、超高速で工事を進め、あっという間に三の丸をつぶして外堀を埋めました。
「こっちは終わったのでそっちを手伝いましょう」と、二の丸のとりつぶしと堀の埋め立てを“手伝い”、年内に“完了”させたのです。
「うめる・うめない」の陰謀はなく、「はやい・おそい」の問題でした。
この話が、ゆがめられて民間に伝わったのが上記のエピソードだったのです。
(このあたりの話は拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく書いているので興味のある方は是非お読みください。)
さてさて、塙団右衛門だけではありません。大坂の役で“活躍した”武将たちのお話しは、これからもコヤブ歴史堂でとりあげていくつもりです。
どうかお楽しみにしてくださいね。
『平家物語』には色々な怪異が描かれています。
前に紹介した平経正の、琵琶に合わせて舞う白龍の話なども、ある意味、怪異かもしれませんが、今回はちょっと恐ろしげな話を…
清盛は、貴族たちの反対を押し切って、都を平安京から福原(神戸市)へうつすことを強行しました。世に言う“福原遷都”です。
さて、その遷都をした夜のことでした。
清盛の前に“大首”があらわれます。
大首という妖怪は、文字通り、巨大な顔だけの妖怪で、多くの場合、女です。
真っ赤な口を大きく開けて、ぬらぬらと舌なめずりをしながら清盛を見つめていた…
さらに怪異は続きます。
福原の岡本の御所でのことでした。突然、夜中に大きな木が倒れる音が響き渡りました。
「な、なんだ、なんだ何事だ?!」
と、驚く清盛… すると同時に何十人もの人が、いっせいに笑うような騒ぐような声もしたのです。
翌朝、御所の周辺を調べてみても、木が倒れているわけでもない…
もともと山を切り開いて造成した場所なので、すでに大木は切られて無い…
貴族の一人が不思議な夢を見ます。
神々の集会で、厳島神社の神さまが退場し、八幡大菩薩が前に進み出て、「平氏にあずけられていた剣を今度は私が引き受けましょう。」と申し出る。そしてそれに続いて春日大社の神さまが、「では、その次はわたくしが。」と申し出る…
厳島神社の神は「平氏の守護神」、八幡大菩薩は「源氏の守護神」。平氏から源氏への交替を隠喩している、というわけです。
清盛の飼っている大事な馬の尻尾の中に、鼠が巣をつくって子どもを産んだ、という怪異も報告されるようになります。
人々は“噂”をしあいました。
福原に都を造るときに、どうもうまく造れなかった。
きっと土地の神さまや川の神さまがお怒りだと考えた清盛が、「人柱」(いけにえ)として何十人もの村人を殺して生き埋めにしたそうだ。きっとその祟りに違いない。
「何をばかなことをっ」
と、平清盛は強気でした。
そんなある日の朝、清盛が庭をみると、数多くの髑髏がかたかた、ぶるぶるとふるえながら庭いっぱに広がっているではありませんか!
目玉だけがそれぞれ生きているように、ぎょろぎょろと清盛を睨んでいる…
「な、な、なんだこれは!? 誰か! 誰かおらんか!」
と、叫べども誰も来ない…
やがて髑髏は一つに集まり、巨大な髑髏となって大きな目玉が清盛を睨む。
しかし、清盛、この物怪に対して、逆にグッと睨み返したというからさすがです。
髑髏はどろどろと解けて消え失せてしまいました。
清盛が見たわけではないのですが…
清盛の死でも、怪異は続きます。
清盛の屋敷に“何者か”がたずねてきました。
応対したのは妻の時子。
見るとその“客人”は、牛の頭と馬の頭を持った二人(二匹?)の怪物…
「われらは地獄からの使者である。清盛殿をお迎えに参った。」
彼らはいわゆる地獄の卒にして閻魔大王の使い、牛頭馬頭(ごすめず)たちでした。
「何を申す。清盛さまは、日々精進され、信仰厚き御方。地獄などには参りませぬぞ。」
と、時子が言うと、
「何を言うか。清盛殿は、東大寺の焼き打ちを命じたであろう。よって無間地獄行きが決まっておるのだ。」
見よ、と、指さすと門前に、御簾に「無」と書かれた車が止められている。
「まもなく、あれは、無間地獄、と記されるのじゃ。」
というところで、時子は、はっと目が覚めた、という夢オチの話でした。
そもそも、最初の“大首”という妖怪の話は、僧の身で戒律を破った者のところにあらわれるという怪物で、出家していた清盛を批判するために用意されたものでしょう。
大木の倒れる音は、山を切り開いて造られた都を山の神が呪っている、という話にしたかったのでしょうし、数多くの人々の笑い声は、人柱にされたという人々の怨霊、とでも言いたいのでしょう。
馬の尻尾に鼠が巣をつくる… なんのこっちゃと思いますが、陰陽五行で、馬(午)は火の性、それに対して鼠(子)は水の性。水は火を衰えさせる… 平家の勢いがそがれていく、という寓話にちゃんとなっているんですよね。
ちなみに、髑髏の妖怪は“目競”という妖怪で、この清盛との“対決”が後の「にらめっ子」という童の遊びになったのだ、という説があります。
世に、清盛の三大悪行は、後白河法皇の幽閉・東大寺焼き打ち・福原遷都と言われています。
院の近臣、仏教勢力、貴族の三大勢力を敵に回しているわけですから、これらの人々の怨嗟はかなり深いと言わなければなりません。
遷都が嫌な貴族、批判的な僧たちが、遷都をやめさせたい、都をもどしたい、でも、権力者の清盛には面と向かって逆らえないし、モノ申せない…
彼らがつくり出した“デマ”がこれらの妖怪、怪異の話です。
古代、呪いや怨霊、妖怪の話は、けっこう権力者を批判するときに利用する“意見表明”法なんですよね。
弱者の強者への批判が、妖怪・怪異を生み出している、と、考えるとなかなかおもしろいかもしれません。
前に紹介した平経正の、琵琶に合わせて舞う白龍の話なども、ある意味、怪異かもしれませんが、今回はちょっと恐ろしげな話を…
清盛は、貴族たちの反対を押し切って、都を平安京から福原(神戸市)へうつすことを強行しました。世に言う“福原遷都”です。
さて、その遷都をした夜のことでした。
清盛の前に“大首”があらわれます。
大首という妖怪は、文字通り、巨大な顔だけの妖怪で、多くの場合、女です。
真っ赤な口を大きく開けて、ぬらぬらと舌なめずりをしながら清盛を見つめていた…
さらに怪異は続きます。
福原の岡本の御所でのことでした。突然、夜中に大きな木が倒れる音が響き渡りました。
「な、なんだ、なんだ何事だ?!」
と、驚く清盛… すると同時に何十人もの人が、いっせいに笑うような騒ぐような声もしたのです。
翌朝、御所の周辺を調べてみても、木が倒れているわけでもない…
もともと山を切り開いて造成した場所なので、すでに大木は切られて無い…
貴族の一人が不思議な夢を見ます。
神々の集会で、厳島神社の神さまが退場し、八幡大菩薩が前に進み出て、「平氏にあずけられていた剣を今度は私が引き受けましょう。」と申し出る。そしてそれに続いて春日大社の神さまが、「では、その次はわたくしが。」と申し出る…
厳島神社の神は「平氏の守護神」、八幡大菩薩は「源氏の守護神」。平氏から源氏への交替を隠喩している、というわけです。
清盛の飼っている大事な馬の尻尾の中に、鼠が巣をつくって子どもを産んだ、という怪異も報告されるようになります。
人々は“噂”をしあいました。
福原に都を造るときに、どうもうまく造れなかった。
きっと土地の神さまや川の神さまがお怒りだと考えた清盛が、「人柱」(いけにえ)として何十人もの村人を殺して生き埋めにしたそうだ。きっとその祟りに違いない。
「何をばかなことをっ」
と、平清盛は強気でした。
そんなある日の朝、清盛が庭をみると、数多くの髑髏がかたかた、ぶるぶるとふるえながら庭いっぱに広がっているではありませんか!
目玉だけがそれぞれ生きているように、ぎょろぎょろと清盛を睨んでいる…
「な、な、なんだこれは!? 誰か! 誰かおらんか!」
と、叫べども誰も来ない…
やがて髑髏は一つに集まり、巨大な髑髏となって大きな目玉が清盛を睨む。
しかし、清盛、この物怪に対して、逆にグッと睨み返したというからさすがです。
髑髏はどろどろと解けて消え失せてしまいました。
清盛が見たわけではないのですが…
清盛の死でも、怪異は続きます。
清盛の屋敷に“何者か”がたずねてきました。
応対したのは妻の時子。
見るとその“客人”は、牛の頭と馬の頭を持った二人(二匹?)の怪物…
「われらは地獄からの使者である。清盛殿をお迎えに参った。」
彼らはいわゆる地獄の卒にして閻魔大王の使い、牛頭馬頭(ごすめず)たちでした。
「何を申す。清盛さまは、日々精進され、信仰厚き御方。地獄などには参りませぬぞ。」
と、時子が言うと、
「何を言うか。清盛殿は、東大寺の焼き打ちを命じたであろう。よって無間地獄行きが決まっておるのだ。」
見よ、と、指さすと門前に、御簾に「無」と書かれた車が止められている。
「まもなく、あれは、無間地獄、と記されるのじゃ。」
というところで、時子は、はっと目が覚めた、という夢オチの話でした。
そもそも、最初の“大首”という妖怪の話は、僧の身で戒律を破った者のところにあらわれるという怪物で、出家していた清盛を批判するために用意されたものでしょう。
大木の倒れる音は、山を切り開いて造られた都を山の神が呪っている、という話にしたかったのでしょうし、数多くの人々の笑い声は、人柱にされたという人々の怨霊、とでも言いたいのでしょう。
馬の尻尾に鼠が巣をつくる… なんのこっちゃと思いますが、陰陽五行で、馬(午)は火の性、それに対して鼠(子)は水の性。水は火を衰えさせる… 平家の勢いがそがれていく、という寓話にちゃんとなっているんですよね。
ちなみに、髑髏の妖怪は“目競”という妖怪で、この清盛との“対決”が後の「にらめっ子」という童の遊びになったのだ、という説があります。
世に、清盛の三大悪行は、後白河法皇の幽閉・東大寺焼き打ち・福原遷都と言われています。
院の近臣、仏教勢力、貴族の三大勢力を敵に回しているわけですから、これらの人々の怨嗟はかなり深いと言わなければなりません。
遷都が嫌な貴族、批判的な僧たちが、遷都をやめさせたい、都をもどしたい、でも、権力者の清盛には面と向かって逆らえないし、モノ申せない…
彼らがつくり出した“デマ”がこれらの妖怪、怪異の話です。
古代、呪いや怨霊、妖怪の話は、けっこう権力者を批判するときに利用する“意見表明”法なんですよね。
弱者の強者への批判が、妖怪・怪異を生み出している、と、考えるとなかなかおもしろいかもしれません。