大坂の役の話 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

六月二十八日に放送予定の人物は、塙団右衛門です。

たいへんおもしろい回になっているので、是非、ご覧ください。
といっても、一部の戦国武将ファンでなければ、知らないなぁ… という方もいるかもしれません。
もちろん、どんな人物かは、是非、番組をご覧いただくとして、塙団右衛門さんの魅力をよく知っていただくために、彼の活躍した関ヶ原の戦いから大坂の役の話をしておきたいと思います。
まぁ、「予習」だと思って軽く読んでいただければと思います。

関ヶ原の戦いは1600年にはじまった「天下分け目の戦い」です。
豊臣秀吉が天下を統一しましたが、秀吉の死後、幼い彼の子、秀頼を補佐することをめぐって、天下は徳川家康派と、反徳川派に分かれます。
こうして、現在の岐阜県で、東軍・西軍に分かれて決戦することになりました。

「東軍」は徳川家康およびその支持者の大名たち。
「西軍」は石田三成および反徳川の大名たち。

戦いは「東軍」の勝利となり、天下の実権は徳川家康にうつりました。

しかしこの段階では、家康は、形の上では、秀頼の家来です。家康は、あくまでも秀頼に逆らう逆臣たちを関ヶ原の戦いでやっつける、という形で関ヶ原で戦いました。
こういう立場をフルに活用し、西軍に味方した大名の多くをとりづぶし、領地を奪って東軍の大名に与えただけでなく、豊臣家の直轄地も自分に味方した者たちに「秀頼さまのためによく働いた。これは秀頼さまからのプレゼントだ」という形式で分け与えて、豊臣家の力を大きく削ぎ落していきました。
結果、豊臣家は、大坂城とその周辺を所有する“一大名”程度に転落することになります。

豊臣家側は、“危機感”をつのらせます。
このままでは滅ぼされてしまうのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
なにせ、関ヶ原の戦いで負けた元大名たちや浪人たちはたくさんいます。一方に失業者がいて、一方で求人が出ていれば、みな、自然と大坂に集まってくるようになりました。

しかし、これはかえって徳川側の“警戒感”を高めてしまいます。
もう一度乱を起こすのではないか…
不安は“軍事力”の増強以外、ぬぐえません。
徳川方は、大坂城を囲むように、姫路城や名古屋城、伊賀上野城などをつくって警戒態勢を整えるようになりました。

豊臣側は当然反発し、さらなる軍事力の増強をはかる…

これ以上は危険だ、ということで、とうとう戦争が始まることになります。
これが世にいう、“大坂の役”です。

大坂の役に関しては、江戸時代を通じて、おもしろおかしく仕立てられた話があるので、いくつかその“誤解”を解いておきたいと思います。

まず第一に。
「方広寺鐘銘事件」ですが、あれは徳川家康が、僧の崇伝と仕組んだ陰謀ではありません。
小説では、ごていねいにも、五山の僧たちに手をまわした上で、これは「豊臣を君として楽しみ、家康の間に安という文字を入れて二つに分けるという呪いの文字だ」と、「君臣豊楽」「国家安康」という部分にケチをつけたということになっています。
「ひどいコジツケだ」と子どものころに、おもしろおかしく言われた方もおられるかもですが、そうではありません。
この銘をつくった清韓という僧は、ほんとうにこの銘の中に「豊臣」と「家康」という名前を入れたのです。
これは「かくし題」という方法で、清韓自身が「お祝いの意味をこめて家康の名前を入れました」と説明しています。
けっして無理矢理コジツケて読んだのではないですよ。
でも、当時の慣習から考えても、ずいぶんと失礼なやり口で、豊臣は姓なのに、家康は名です。これだけでも無礼なのですが、名を割る(安という字を間に入れる)というのはちょっとけしからんことです。
むしろ、これは豊臣側が徳川側に対してケンカを売る口実にしたともいえることなのです。
挑発したのは徳川ではなく豊臣だったといえるかもしれません。

第二に。
家康が、いったん和睦してから堀を埋めてそうして二度目の戦いで大坂城を滅ぼす、という方法は生前、秀吉が家康に教えた、という話があるのですが、これは完全にフィクションです。
当時の一級史料にこのような記録はなく、江戸時代の終わりのころのお芝居の脚本などでみられる「つくり話」です。

第三に。
冬の陣と夏の陣では、戦いの状況は異なっている、ということです。
冬の陣は大坂城を「包囲して」戦っていますが、夏の陣は「野戦」で、大坂方は北、徳川方は南に分かれて陣を置いて戦った「南北戦争」であったということです。
夏の陣では大坂城は包囲されていません。
おもしろいのは、冬の陣で家康は本陣を天王寺の茶臼山に構えていたのですが、夏の陣のときは真田幸村が本陣を構えています。ですからそれより南で両軍は激突したことになります。

そして第四に。
冬の陣の和睦の条件として、外堀「だけ」を埋めるという約束だったのに、徳川方が内堀まで埋めてしまった、という有名なエピソードですが、これはまったくのウソです。

講和の条件は、「城」に関しては

・城郭は、本丸だけ残す。
・二の丸と三の丸はつぶす。

と定められ、

・二の丸をつぶして内堀を埋めるのは豊臣側。
・三の丸をつぶして外堀を埋めるのは徳川側。

と、取り決められました。

豊臣側は、これだけの大きな城の工事だから、三年はかかるだろう、ゆっくり時間かせぎをして力の回復を図ればよい、と、考えていて、工事そのものを“サボタージュ”しました。
これに対して徳川側は、超高速で工事を進め、あっという間に三の丸をつぶして外堀を埋めました。
「こっちは終わったのでそっちを手伝いましょう」と、二の丸のとりつぶしと堀の埋め立てを“手伝い”、年内に“完了”させたのです。
「うめる・うめない」の陰謀はなく、「はやい・おそい」の問題でした。
この話が、ゆがめられて民間に伝わったのが上記のエピソードだったのです。
(このあたりの話は拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく書いているので興味のある方は是非お読みください。)

さてさて、塙団右衛門だけではありません。大坂の役で“活躍した”武将たちのお話しは、これからもコヤブ歴史堂でとりあげていくつもりです。
どうかお楽しみにしてくださいね。