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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

ゲルマン人の多くはアリウス派のキリスト教を信仰していました。
325年のニケーア公会議で三位一体説を説くアタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端となって以来、アリウス派の教えはゲルマン人へと広まっていたのです。

もちろん、古ゲルマンの多神教信仰も広がっていて、それらがキリスト教とも融合して独特の文化が生まれることにもなりました。(現在の西洋のお祭りの色々は、もともとキリスト教とは無関係なものが多いんですよ。)

教科書的には、フランク人もアリウス派であったような感じで説明されていますが、実際は古ゲルマンの多神教信仰者が多かったようです。

さて、フランク人はメロヴィング家から王を出しました。
その王が、クローヴィスです。
クローヴィスの妻は、カトリックを信仰していて、夫が“異端”の信仰をしているのが嫌でした。

ある時、アラマンニ人(ゲルマン人ではあるがケルトや他の民族とも混血していたらしい)との戦いで夫が負けてしまいました。で、アラマンニ人に城を包囲され、絶体絶命のピンチとなったときに、

「あなたカトリックに改宗しなさい。そうすれば神の御加護があります。」

と、夫に勧め、夫は改宗することを誓いました。
するとあら不思議。アラマンニ人を追い払い、その戦いに勝つことができましたぁ~ という“伝説”が残っています。

こうしてクローヴィスは、カトリックに改宗することになったそうなのですが…

まぁ、これはおそらく“物語”なのでしょう。でも、この「クローヴィスの改宗」には、クローヴィスの高度な戦略があったような気がします。

旧西ローマの住民の多くはアタナシウス派。
彼らを円滑に支配し、そしてまた協力を得るにはアタナシウス派に改宗したほうがよいのではないか? と、考えたのだと思います。
この“策”は大成功。フランク王国はたちまち旧西ローマ帝国の住民の支持を得て、どんどんと勢力を拡大していくことになります。

さて、メロヴィング家には、「宮宰」“マヨル=ドムス”というお仕事がありました。家計や人事を司る役目。
実は日本人は理解しやすく、これは「ご家老さま」のようなものと考えればよいんです。
やがて、王は飾りのようになり、宮宰が力を握っていく…

その宮宰はカロリング家から出ていました。
宮宰カール=マルテルのときでした。西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島に勢力を拡大していたイスラーム軍(ウマイヤ朝)が、ついにフランク王国に侵入してきたのです。

ただちに兵を集めたカール=マルテルは、トゥールで迎え撃とうとします。
しかし、イスラーム軍とは遭遇できず、進路を変え、ポワティエまで向かいました。その途中でイスラームの騎馬軍と遭遇したのです。

これがトゥール=ポワティエ間の戦い(732年)です。

真正面からぶつかった後、後退して低地に誘い込み、金銀財宝、食糧などをばらまいて、イスラーム兵たちが奪い合って追撃をやめたところ、ぐるっと反転包囲して弓を射かけて壊滅させた、と説明している“物語”もあります。
一方的に攻めながらも、かつてのローマの重装歩兵のように楯で防御して耐え続け、激戦の中で偶然にイスラーム軍の司令官の参謀を殺害することに成功してイスラーム軍が引き上げた、という“物語”もあります。

いずれにせよ、“キリスト教世界”へのイスラーム勢力の侵入を食い止めたのだ、と、ヨーロッパでは歴史的意義の深い戦いとして教えているものです。一時期、日本の教科書でもこのような説明がみられました。

さて、戦いの勝利は英雄を生み出しますし、敵は味方の団結を促します。
こうして宮宰カール=マルテルの声望は一気に高まり、フランク王国の実権はカロリング家にうつり、カール=マルテルの子、ピピンがフランク王国の国王に就任することになりました。

このとき、ローマ教皇がピピンが王位につくことを後押ししたので、ピピンはローマ教皇に“借り”ができてしまうことになります。
この“借り”をピピンは領地で返しました。ランゴバルト人たちをローマ周辺から追い払い、その一帯の地域(ラヴェンナ地方)をピピンはローマ教皇に献上したのでした。(「ピピンの寄進」)

こうして、ぐっとローマ教会とフランク王国は接近することになります。

ローマ教会は、東ローマ帝国のような強い国を西に出現させて、教会の保護者として東ローマ帝国とコンスタンティノープル教会に対抗しようと考えていました。
フランク王国は、旧西ローマ帝国の住民の支持を得て、他ゲルマン人や諸勢力を撃退するためにもローマ教会の協力が得たいところでした。

こうした両者の“思惑”は、“カールの戴冠”となって実現しました。

800年、クリスマスのミサに出席しようとしたカールを、教皇レオ3世が自ら出迎え、大聖堂の中で、西ローマ帝国の皇帝冠(といってももともとそのようなものがあったわけではないのですが)をカールに与え、西ローマ帝国の復活を宣言したのでした。
そんなことになることを聞かされていなかったカールは驚きました。
ローマ教皇の“サプライズ”だったようです。

教科書的には、キリスト教文化とローマ文化、ゲルマン文化が融合して、東ローマ帝国に対抗する“西ヨーロッパ世界”が成立した、と、説明してはいますが、これはもちろん後付けの説明であって、当時、カールはこの戴冠式に、ずいぶんと困惑していたようです。

え、いやいや、ローマ教皇に皇帝を任命する権限ないでしょ。
しかも、わたし、ミサに来ただけなんですけど…

「こんなことになるなら、わたしはミサなどに来なかった。」

と、側近にブツブツ言っていた、という“物語”も残っています。
しかし、実際、こうして西ヨーロッパは誕生しました。

現在のフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、ドイツの地域は「フランク帝国」としてまとめられたのです。

おもしろいですよね。
第二次世界大戦後、ヨーロッパ統合をめざしてECが発足したのですが、その発足当初の6ヶ国が上にあげた6ヶ国なんです。

かれらにとっては、ヨーロッパの再出発と統合は、「フランク帝国」の復活だったのかもしれませんね。

私の勤務している学校は、中高一貫校なので、歴史の授業は世界史の内容も、かなり深くまで説明しています。
中高一貫校の中学での世界史の授業でしている、ちょっと脱線気味の話も含めながら、楽しく世界史の話をしたいと思います。

現在、中2ではヨーロッパ世界の誕生の話をしています。

前3世紀にイタリア半島を統一したローマは、前2世紀には、ライバルだった通商都市国家カルタゴを戦争で破り(ポエニ戦争)、前1世紀には地中海周辺を支配し、そうして1世紀には最盛期を迎えることになりました。
でも、現在のヨーロッパすべてを支配できたわけではありません。
帝国の北辺は、深い森、広い草原が広がり、ローマになじまぬ世界が広がっていました。
ざっくり言うと、ライン川の東、ドナウ川の北、このあたりは、ローマになったりまたローマでなくなったり…
東ヨーロッパの、ハンガリーやルーマニアのあたりはちょうどグレーゾーンでもありました。
ルーマニアは「ローマ人の植民地」だったから“ローマニア”でルーマニア、と、呼称されているわけです。

帝国の北辺には、ケルト人と呼ばれる人たちが住んでいました。
ところが、そこにゲルマン人が、東から移動してきて、ケルト人を西へ追いやっていきました。
このときの移動の理由はさまざまです。
まず気候が変化したこと。寒冷化が進んだともいわれています。獲物をもとめて東へと移動していきました。
ケルトの人々はだんだんと端っこに追いやられていきます。イギリスでも、スコットランドやウェールズ、そしてアイルランドなどへケルトの人々がうつりすんでいったと考えられています。

ローマ帝国とゲルマン人が接するようになったのは1世紀。
ちょうどローマ帝国の最盛期でもありました。
五賢帝の最後、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は“哲人皇帝”とよばれるほど、ストア派の哲学を理解していた人物だから、さぞかし物静かな人かと思いきや、辺境でのゲルマン人との戦いを、けっこう直接指揮などもしていたようです。
『グラディエーター』という映画があります。最初の場面はローマ帝国辺境での異民族との対決の場面でしたが、あのときの皇帝がマルクス=アウレリウス=アントニヌスでした。

ゲルマン人たちは、何もいつも暴力的で、侵略的、というのではありません。
なかには、「すいません、働かせてください」と穏便に帝国領内に入ってくる人々もいて、やがて小作人や召使いなどの仕事もするようになる人たちもたくさんいました。
ローマの辺境では、さまざまな形の“接触”があったんです。

さて、ゲルマン人の移動が、大規模になったのは、背後から彼らを蹴っ飛ばした者たちがいたからです。それが

 フン人

でした。現在の研究では、ほぼ、かれらはかつて中国の周辺で中国への侵入を繰り返していた匈奴とよばれる遊牧騎馬民族であったとされています。

地球規模の民族のビリヤードが起こったわけです。
中国で匈奴が追い出される。匈奴(フン)がゲルマン人を追い出す…

「万里の長城」無くしてゲルマン人の移動無し

なんですよね。

フン人に圧迫されて移動をはじめた西ゴート人たちは、ドナウ川を越えて大挙してローマ帝国領内に移動してきました。
「かれらの移動をみとめる」という命令が発令された記録が残っていて、それが375年だったので、この年を「ゲルマン人の大移動の開始年」として学校教育で紹介します。
わたしも中学生のときは、「375年 ゲルマン人、みんなでG0!」とおぼえたものでした。

でも、実際は、それ以前より、なし崩し的にどんどん西ゴート人たちは入ってきていて、いわば追認する形で「許可」したようです。

さて、ここからいろいろなゲルマン人たちがローマ帝国内に移動を開始していきました。
イギリスには、アングロ・サクソン人が渡ります。かれらは七つの王国を建てました。
ヘプターキー(七王国)といいます。
イベリア半島には西ゴート人たちが自分たちの王国を建てました。
ライン川の東側にいたフランク人はライン川を超えてフランスの北部に入り、フランク王国を建てました。
エルベ川より東にいたブルグント人たちは、エルベ川を越え、さらにライン川を越えてフランス南東部に入り、王国を建てました。
ブルグント、という名称がフランス語となって“ブルゴーニュ”と表現されるようになりました。
北アフリカまで移動した人たちもいます。
ヴァンダル人です。かれらは帝国領内を通過していくとき、破壊と殺戮を繰り返したため、“野蛮人”のレッテルを貼られてしまいます。英語に残る「野蛮」“ヴァンダリズム”のもとになっちゃいました。
イタリアには東ゴート人が入ります。
そしてこの時期の、ゲルマン人の最後の移動となったのがランゴバルト人です。
彼らはイタリア北部、ポー川流域に入りました。
このあたりは、ロンバルディア地方、と、呼ばれていますが、これはランゴバルトという名前が由来の地名なんですよね。

地中海周辺を支配していたローマ帝国は(ゲルマン人の侵入も原因の一つですが)その巨大な体を維持できず、東西に分裂することになります。それが395年のことでした。

そうそう、ゲルマン人を蹴っ飛ばしたフン人たちはどうなったのか…
かれらは現在のハンガリーにまで侵入し、ここに帝国を築くことになります。
“フン”が侵入したから、この地が「フンの地」でハンガリーという名となった、という話がありましたが実はこれは誤りなんです(詳しい話は東ヨーロッパ史のところで)。

この帝国の王が、アッティラです。
ハンガリーの首都はブダペストですが、実は、ドナウ川を境にして、ブダ地区とペシュト地区に分かれています。ブダはアッティラの兄の名前(現在では後年のマジャール人の時代の名称であると考えらていますが、やはり人物由来と考えらています)。ペシュトは“台所”という意味でしょうか。
ブダ地区は政治の町で、ペシュト地区は商業がさかんで経済地区、というように現在でもなっているという話を聞いたことがあります。

さてさて、「共通の敵ができると団結できるの法則」です。

フンの侵入を撃退するために、西ローマ帝国軍とゲルマン諸族軍の連合軍が結成されました。
そして451年、カタラウヌムでフン軍とヨーロッパ連合軍が会戦します。
大激戦の末、ヨーロッパ連合軍が勝利し、フンはそれ以上の西進ができないくらい大打撃を受けてしまいました。
勝った連合軍側も壊滅的な被害を受けてしまい、ガリア地方(フランス)を維持する軍事力を西ローマ帝国は失ってしまったのです。
先ほどお話ししたフランク人は、この軍事的な空白地帯に楽々と移動、侵入してきたわけなんですよね。

さてさて、西ローマ帝国の領内に侵入したゲルマン人たちが次々と国を建てて、ついには475年、西ローマ帝国は滅亡することになりました。

西ローマ帝国を滅ぼしたのが、ゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルという人物でした。
ゲルマン人たちは、侵入したときに、ローマ帝国の小作人になったり召使いになったり、なかには下級官吏となる者もいるなど、このときもまた暴力的な侵入ばかりではありませんでした。
傭兵となっているゲルマン人もいて、軍の一部を担っていたかれらがクーデターを起こしたわけです。

「古く腐って倒れた西ローマという巨木に、あたかも毒キノコのようにゲルマン諸国家が生えてきた」と説明した歴史家がいたのですが、一面の正しさを説明しています。

“キノコ”というのは、あくまでも旧西ローマ帝国の組織や社会に寄生しているにすぎない、という比喩です。
“毒”というのは、旧西ローマ帝国の人々にとっての話で、当時、ゲルマン人たちは、4世紀に異端とされたアリウス派のキリスト教を信仰していた、ということです。
アタナシウス派の多い、旧西ローマ帝国の人々にとっては、これは受け入れがたいとまでは言えないかもしれませんが、忌み嫌うべきことでした。

一方、東ローマ帝国は、皇帝権力の強い専制国家を維持しており、キリスト教も東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会と、旧西ローマ帝国のローマ教会に、大きく二分されてしまっていました。
東西ローマ帝国の分裂はそのままキリスト教世界の東西分裂になっていたのです。

東は政治的にまとまった強い国家の世界。
西は分裂した小国家群の地域で、しかも異端のアリウス派が蔓延している…
ローマ教会は“危機感”を抱いていました。

そんなとき! 西側のゲルマン人の世界で大きな動きがみられるようになりました。
それは…
(次回に続く)
みなさんは、無欲の人、というとどういう人物を想像しますか?

古き昭和の時代…
有力な政治家のところには、多くの人々が陳情にやってきます。
とうぜん、そういう人たちからの“贈り物”も多いし、そういう人たちを“接待”しなければならないときもある…

 よっしゃよっしゃ、おれにまかせとけっ

と、贈り物は平気で受け取ってしまうけれども、何一つ自分のものにはしないで部下に気前よく
ばらまいてしまうし、寄付もどんどんしてしまう…
ちょっと資金が足らないのですが、と、相談されれば、

 お~ いくらいるんだ、そんだけでいいのか、じゃあこれだけ持って行けっ

と、求められた金額の倍ほど出してしまう…

 いや~ “無欲の人”だな

と感心してしまう。

優秀な官僚のところには、多くの人々が事情の説明にやってきます。
とうぜん、そういう人たちからの“贈り物”も多いし、“接待”されるときもある…

 いや、そんなものは受け取れない

と、ツテもコネもカネも一切受け付けず、要件は何だ、そんなことならお断り、と毅然とした態度。
ちょっと困った事態が出来しました、と、相談されれば、

 うむ どういうことか、説明しろ

と、じっくり丁寧に考えて、見事な判断を次々と下していく…
どうもありがとうございます。これはお礼ですが… と、言われても

 そんなものはいらぬ

と、あっさりと断る…

 いや~ “無欲な人”だな

と感心してしまう。

わたしは、前者が足利尊氏、後者がその弟の足利直義だ、と、思うんです。
二人とも武・政のために“無欲”ではあったけれど、その表現方法がそれぞれまったく違っていた、と、思います。

学術的な尊氏、直義の“関係”は、わたくしなどがいちいち説明するまでもなく、佐藤進一先生の『南北朝の動乱』(中央公論社)でとっくのむかしに明確にされていて、

 尊氏-政所・恩賞方・侍所
 直義-安堵方・引付方・問注所

というように、尊氏が武家の主従関係・軍事を分掌し、直義が統治・政治を分掌する…
尊氏-軍事、直義-政治の役割分担をしていた、というわけです。
これは現在でも、教科書的理解として、大学入試でもおさえるべき大切なポイントとなっています。さきほど説明した二人のキャラクターともぴったり一致します。

が、しかし… キャラクターといえば…

尊氏の“性格”をここに加えて分析する必要があると思うんですよね。
ハッキリ言ってしまうと、尊氏は、「病んでいた」のではないか、ということなんです。
現在の精神医学的説明でいうと、「躁・尊氏」と「鬱・尊氏」の二重人格がくるくると彼の表面に出てきているのではないか、そしてそれが、初期の室町幕府に大きな影響を与えているのではないか、ということです。

「躁・尊氏」の戦闘は、まったく“無敵”です。
カリスマ性が100%発揮され、周囲の武士たちも「躁」状態となる…
『太平記』の記述をみても、戦場での彼には解決できない問題は何一つ出てきません。

 師直! どこだ!

と、叫び、的確な作戦指示を与える。執事の高師直は戦闘指揮の天才でしたから、大筋を説明されるだけで尊氏の意図が読み取れる男でした。
そして見事に危機を脱出し、いっきに逆転に持ち込んでしまう…
「尊氏-師直」の無敵コンビとなるわけです。

が、しかし…
「鬱・尊氏」は、二つの反応を示します。
一つは「ひきこもり」症状。もうわたしはすべてを捨てる、出家する!
もう一つは、人に対する好き嫌いが思いっきり出てきて、前言撤回、過去の失敗を持ち出して部下を責めなじる…
そして自分に嫌気がそして、切腹する、引退だっ

 兄上 ここはひとつこうしては…

と、弟の直義が出てきてなだめて説明して、おまかせあれ、と、尊氏の気持ちが変わるまで、正常な判断ができるときの尊氏がおこなうことを代行していく…

「鬱・尊氏」が戦場で出ると敗退するし、「躁・尊氏」が政治で出るとムチャクチャになる…

この師直、直義と、「躁・尊氏」と「鬱・尊氏」の組み合わせの「混乱」と「解決」が、『太平記』の展開だと思うんですよね。
そう思って、彼らの動向を追っていくと、難しい迷路のような南北朝時代の混乱がちょっぴり整理できると思います。
(直義・尊氏の性格と観応の擾乱については拙著『超軽っ日本史』に詳しく説明していますので、機会があればごらんください。)
『太平記』にみられる一連の乱の発端の発端…
それが天皇家の分裂、大覚寺統と持明院統の対立です。

そもそも持明院統と大覚寺統って何??

ということですが…

第88代後嵯峨天皇のときに、話がややこしくなりました。
後嵯峨天皇には母の違う子がいて、兄は久仁親王、その弟が恒仁親王です。

4年の在位ののち、久仁親王に位を譲ります。この久仁親王が後深草天皇です。

 後嵯峨上皇-後深草天皇

という状況で「院政」が開始されました。ところがどうも、後嵯峨天皇はもう一人の子、恒仁親王を寵愛しており、この子を天皇にしたかったようで、後深草天皇に、恒仁親王に天皇の位を譲らせてしまいました。この恒仁天皇が亀山天皇です。

 後嵯峨上皇-(後深草親王)-亀山天皇

という上皇二人、でも一人は院政ができず、という状況になりました。(平安末期の鳥羽上皇・崇徳上皇・後白河天皇とよく似た状況です。“乱”の臭いがぷんぷんしますよね。)

それでも後深草上皇は、自分の子、煕仁親王が皇族の中では年長なので、亀山天皇の次の皇太子は煕仁親王が指名されると思っていました。
ところが、後嵯峨天皇は、亀山天皇の子で、生後8ヶ月の赤ん坊を「次の天皇はこの子ね」と宣言してしまうのです。この赤ん坊の皇太子が世仁親王です。

はぁ?! どゆこと??

と、なりますよね…

後深草上皇が“不満”なまま、後嵯峨上皇が死去してしまう…

さぁ、対立の始まりです。

後深草上皇-煕仁親王 VS 亀山天皇-世仁親王

です。

後深草上皇が、持明院殿(もともとは鎮守府将軍藤原基頼の邸宅内の持仏堂の名前)に居住したことから、後深草上皇の子孫を持明院統と称するようになりました。
そして亀山天皇が嵯峨の大覚寺の再興をおこなって出家後ここで院政をおこなったことから、亀山天皇の子孫を大覚寺統と称するようになったのです。

けっきょく幕府が仲裁し、世仁親王が皇太子として認められ、亀山天皇は世仁親王に位を譲りました。この世仁親王が後宇多天皇となります。

 亀山上皇-後宇多天皇

で、幕府は以後、だいたい十年くらいをめどにして、交互に天皇を出したらよろしいがな、と、裁定したわけです。これを両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。

そしてこの後宇多天皇こそが

 後醍醐天皇の父

ということになるのです。

後深草と亀山の兄弟喧嘩…

『太平記』は、やはり根っこから兄弟対立が軸なんですねぇ~
本日は、コヤブ歴史堂の収録があったのですが、それが終わってから映画を観てきました。

「超高速!参勤交代」

です。

いやいや、思っていた以上に楽しかったです。
もちろん史実に合わないところもありますが、それはまぁ“時代劇”というもの。カタイところは抜きにして、十分楽しめましたから、みなさんも是非、観に行ってください。

さて、もちろんネタバレになってはいけませんので、ストーリーに関しては触れませんので、まだ観てない方も、安心してお読みくださいな。

むしろ、まだこの映画を観ておられない方のための、なんというか参考になるお話しをしてみたいと思うんです。

そもそも「参勤交代」がどんな制度がわかっていないと、この話そのもののおもしろさは半減です。

江戸時代、三代将軍徳川家光は、大名が守るべききまりである武家諸法度に、新しい制度を組み入れました。それが参勤交代という制度です。(1635年のことでした。)

参勤交代、というのは、二字熟語、「参勤」と「交代」の二つから成り立っていて、「参勤」とは、大名が自分の領地から江戸に向かうことで、「交代」とは江戸から自分の領地に帰ることです。

家光は、諸大名を将軍の家来である、と、考え、大名の妻と子どもは、ずっと江戸に住ませました。
いわゆる人質、ということです。
で、大名本人は、一年ごとに、領地と江戸を往ったり来たりさせる、というものです。
大名の妻と子どもは人質として江戸に住ませて、大名は毎年将軍にあいさつに来いっ というわけですね。

徳川幕府の権威を高めながら、大名を統制する、という制度です。

大名たちは、ですから江戸にも「屋敷」を所有していました。
国元と江戸、二元生活を強いられるわけですから、諸大名の出費は大きく、藩財政支出の50%以上が参勤交代および江戸在住の費用となりました。
つまり、幕府が大名を統制する、というのは経済的な負担を与える、ということに他ならず、規模も様式も一定の「規格」が定められていました。

8代将軍徳川吉宗は、参勤交代の制度を再整備した将軍で、10万石クラスの大名ですと、騎馬10人・足軽80人・中間(荷物を運ぶ人夫)150人と定めていました。
(各大名の動向を探らせる“隠密”というのも、実は徳川吉宗がつくった制度でもあるんですよ。)

大名は1万石以上の領地を持つ武士のことですから、最小大名でも、騎馬は1人、足軽8名、中間15名のだいたい25名くらいはそろえないとけませんでした。
ところが、各大名には「見栄」があるので、1万石クラスの大名でも、だいたい倍の人数をそろえるのが普通でしたから、最低50人くらいの行列となります。
ちなみに最大100万石の加賀前田氏の場合は4000人くらいの行列になったようです。

時代劇では、大名行列が通過するとき、人々は「土下座」して通過を待っていて、行列は「下にぃ~ 下にぃ~」という掛け声を出しているように描かれていますが、これはちょっと間違いです。

「下にぃ~ 下にぃ~」の掛け声は尾張藩と紀州藩の2藩だけです。
他の大名家の場合は

 よけろぉ~ よけろぉ~

が、一般的でした。そして人々も土下座などしません。道を譲るだけでOKでした。
そしてまた、「飛脚」と「産婆さん」だけは、大名行列の前を横切っても、立ち止まらなくても許されるという“特権”がありました。
「産婆さん」が認められている、というのがおもしろいところですよね。

大名行列は、大名の権威を示すものでもありましたから、基本的に「見せびらかす」というものでした。
ですから「参勤」の場合ですと、出発のときと、江戸に入るときは、行軍速度をめちゃくちゃゆっくり、奴などに毛やりなどをふるわせたり舞わせたりして人々にわざと注目されるような所作をしていました。
みなさんがイメージする「大名行列」がこれだと思うのですが、これは出発と江戸に入るとき、そして街道ごとにある宿場に入ったときだけのことで、移動中はそんなことはしていません。むしろ、隊列も組まず、早歩きで(場合によっては駆け足で)進行していきました。
荷物を運ぶ中間たちも、国元からぞろぞろ連れて行くのではなく、宿場ごとであらかじめ雇っておいて、荷物を担がせる、というケースがほとんどでした。

宿場に入ると威儀を整え、通過すると、はい、さっさと行くでぇ~ と、進んでいくのが大名行列の実態でした。

さてさて、この映画は、“ある理由”で、10日はかかる日程の距離を、わずか5日で江戸に着かなくてはならなくなった大名の話です。
どうやって“超高速”で行くのか、果たして成功したのか? 是非、映画館に足を運んで楽しんで来てください。

え?
ほんとにふつうの倍以上の速さで行った大名行列ってあったのですかって?

実際にあった「超高速!参勤交代」の記録ですが…

加賀前田藩は、江戸まで120里といいますから480㎞の距離をだいたい12泊13日かけて参勤しておりました。
四代藩主、前田光高は、なんと、6泊7日、ふだんの半分の日数で(ふだんの倍の速度で)江戸までいきました。
これが実際にあった江戸時代の「超高速!参勤交代」の記録となっています。