楽しい世界史1 ヨーロッパの成立 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

私の勤務している学校は、中高一貫校なので、歴史の授業は世界史の内容も、かなり深くまで説明しています。
中高一貫校の中学での世界史の授業でしている、ちょっと脱線気味の話も含めながら、楽しく世界史の話をしたいと思います。

現在、中2ではヨーロッパ世界の誕生の話をしています。

前3世紀にイタリア半島を統一したローマは、前2世紀には、ライバルだった通商都市国家カルタゴを戦争で破り(ポエニ戦争)、前1世紀には地中海周辺を支配し、そうして1世紀には最盛期を迎えることになりました。
でも、現在のヨーロッパすべてを支配できたわけではありません。
帝国の北辺は、深い森、広い草原が広がり、ローマになじまぬ世界が広がっていました。
ざっくり言うと、ライン川の東、ドナウ川の北、このあたりは、ローマになったりまたローマでなくなったり…
東ヨーロッパの、ハンガリーやルーマニアのあたりはちょうどグレーゾーンでもありました。
ルーマニアは「ローマ人の植民地」だったから“ローマニア”でルーマニア、と、呼称されているわけです。

帝国の北辺には、ケルト人と呼ばれる人たちが住んでいました。
ところが、そこにゲルマン人が、東から移動してきて、ケルト人を西へ追いやっていきました。
このときの移動の理由はさまざまです。
まず気候が変化したこと。寒冷化が進んだともいわれています。獲物をもとめて東へと移動していきました。
ケルトの人々はだんだんと端っこに追いやられていきます。イギリスでも、スコットランドやウェールズ、そしてアイルランドなどへケルトの人々がうつりすんでいったと考えられています。

ローマ帝国とゲルマン人が接するようになったのは1世紀。
ちょうどローマ帝国の最盛期でもありました。
五賢帝の最後、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は“哲人皇帝”とよばれるほど、ストア派の哲学を理解していた人物だから、さぞかし物静かな人かと思いきや、辺境でのゲルマン人との戦いを、けっこう直接指揮などもしていたようです。
『グラディエーター』という映画があります。最初の場面はローマ帝国辺境での異民族との対決の場面でしたが、あのときの皇帝がマルクス=アウレリウス=アントニヌスでした。

ゲルマン人たちは、何もいつも暴力的で、侵略的、というのではありません。
なかには、「すいません、働かせてください」と穏便に帝国領内に入ってくる人々もいて、やがて小作人や召使いなどの仕事もするようになる人たちもたくさんいました。
ローマの辺境では、さまざまな形の“接触”があったんです。

さて、ゲルマン人の移動が、大規模になったのは、背後から彼らを蹴っ飛ばした者たちがいたからです。それが

 フン人

でした。現在の研究では、ほぼ、かれらはかつて中国の周辺で中国への侵入を繰り返していた匈奴とよばれる遊牧騎馬民族であったとされています。

地球規模の民族のビリヤードが起こったわけです。
中国で匈奴が追い出される。匈奴(フン)がゲルマン人を追い出す…

「万里の長城」無くしてゲルマン人の移動無し

なんですよね。

フン人に圧迫されて移動をはじめた西ゴート人たちは、ドナウ川を越えて大挙してローマ帝国領内に移動してきました。
「かれらの移動をみとめる」という命令が発令された記録が残っていて、それが375年だったので、この年を「ゲルマン人の大移動の開始年」として学校教育で紹介します。
わたしも中学生のときは、「375年 ゲルマン人、みんなでG0!」とおぼえたものでした。

でも、実際は、それ以前より、なし崩し的にどんどん西ゴート人たちは入ってきていて、いわば追認する形で「許可」したようです。

さて、ここからいろいろなゲルマン人たちがローマ帝国内に移動を開始していきました。
イギリスには、アングロ・サクソン人が渡ります。かれらは七つの王国を建てました。
ヘプターキー(七王国)といいます。
イベリア半島には西ゴート人たちが自分たちの王国を建てました。
ライン川の東側にいたフランク人はライン川を超えてフランスの北部に入り、フランク王国を建てました。
エルベ川より東にいたブルグント人たちは、エルベ川を越え、さらにライン川を越えてフランス南東部に入り、王国を建てました。
ブルグント、という名称がフランス語となって“ブルゴーニュ”と表現されるようになりました。
北アフリカまで移動した人たちもいます。
ヴァンダル人です。かれらは帝国領内を通過していくとき、破壊と殺戮を繰り返したため、“野蛮人”のレッテルを貼られてしまいます。英語に残る「野蛮」“ヴァンダリズム”のもとになっちゃいました。
イタリアには東ゴート人が入ります。
そしてこの時期の、ゲルマン人の最後の移動となったのがランゴバルト人です。
彼らはイタリア北部、ポー川流域に入りました。
このあたりは、ロンバルディア地方、と、呼ばれていますが、これはランゴバルトという名前が由来の地名なんですよね。

地中海周辺を支配していたローマ帝国は(ゲルマン人の侵入も原因の一つですが)その巨大な体を維持できず、東西に分裂することになります。それが395年のことでした。

そうそう、ゲルマン人を蹴っ飛ばしたフン人たちはどうなったのか…
かれらは現在のハンガリーにまで侵入し、ここに帝国を築くことになります。
“フン”が侵入したから、この地が「フンの地」でハンガリーという名となった、という話がありましたが実はこれは誤りなんです(詳しい話は東ヨーロッパ史のところで)。

この帝国の王が、アッティラです。
ハンガリーの首都はブダペストですが、実は、ドナウ川を境にして、ブダ地区とペシュト地区に分かれています。ブダはアッティラの兄の名前(現在では後年のマジャール人の時代の名称であると考えらていますが、やはり人物由来と考えらています)。ペシュトは“台所”という意味でしょうか。
ブダ地区は政治の町で、ペシュト地区は商業がさかんで経済地区、というように現在でもなっているという話を聞いたことがあります。

さてさて、「共通の敵ができると団結できるの法則」です。

フンの侵入を撃退するために、西ローマ帝国軍とゲルマン諸族軍の連合軍が結成されました。
そして451年、カタラウヌムでフン軍とヨーロッパ連合軍が会戦します。
大激戦の末、ヨーロッパ連合軍が勝利し、フンはそれ以上の西進ができないくらい大打撃を受けてしまいました。
勝った連合軍側も壊滅的な被害を受けてしまい、ガリア地方(フランス)を維持する軍事力を西ローマ帝国は失ってしまったのです。
先ほどお話ししたフランク人は、この軍事的な空白地帯に楽々と移動、侵入してきたわけなんですよね。

さてさて、西ローマ帝国の領内に侵入したゲルマン人たちが次々と国を建てて、ついには475年、西ローマ帝国は滅亡することになりました。

西ローマ帝国を滅ぼしたのが、ゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルという人物でした。
ゲルマン人たちは、侵入したときに、ローマ帝国の小作人になったり召使いになったり、なかには下級官吏となる者もいるなど、このときもまた暴力的な侵入ばかりではありませんでした。
傭兵となっているゲルマン人もいて、軍の一部を担っていたかれらがクーデターを起こしたわけです。

「古く腐って倒れた西ローマという巨木に、あたかも毒キノコのようにゲルマン諸国家が生えてきた」と説明した歴史家がいたのですが、一面の正しさを説明しています。

“キノコ”というのは、あくまでも旧西ローマ帝国の組織や社会に寄生しているにすぎない、という比喩です。
“毒”というのは、旧西ローマ帝国の人々にとっての話で、当時、ゲルマン人たちは、4世紀に異端とされたアリウス派のキリスト教を信仰していた、ということです。
アタナシウス派の多い、旧西ローマ帝国の人々にとっては、これは受け入れがたいとまでは言えないかもしれませんが、忌み嫌うべきことでした。

一方、東ローマ帝国は、皇帝権力の強い専制国家を維持しており、キリスト教も東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会と、旧西ローマ帝国のローマ教会に、大きく二分されてしまっていました。
東西ローマ帝国の分裂はそのままキリスト教世界の東西分裂になっていたのです。

東は政治的にまとまった強い国家の世界。
西は分裂した小国家群の地域で、しかも異端のアリウス派が蔓延している…
ローマ教会は“危機感”を抱いていました。

そんなとき! 西側のゲルマン人の世界で大きな動きがみられるようになりました。
それは…
(次回に続く)