ゲルマン人の多くはアリウス派のキリスト教を信仰していました。
325年のニケーア公会議で三位一体説を説くアタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端となって以来、アリウス派の教えはゲルマン人へと広まっていたのです。
もちろん、古ゲルマンの多神教信仰も広がっていて、それらがキリスト教とも融合して独特の文化が生まれることにもなりました。(現在の西洋のお祭りの色々は、もともとキリスト教とは無関係なものが多いんですよ。)
教科書的には、フランク人もアリウス派であったような感じで説明されていますが、実際は古ゲルマンの多神教信仰者が多かったようです。
さて、フランク人はメロヴィング家から王を出しました。
その王が、クローヴィスです。
クローヴィスの妻は、カトリックを信仰していて、夫が“異端”の信仰をしているのが嫌でした。
ある時、アラマンニ人(ゲルマン人ではあるがケルトや他の民族とも混血していたらしい)との戦いで夫が負けてしまいました。で、アラマンニ人に城を包囲され、絶体絶命のピンチとなったときに、
「あなたカトリックに改宗しなさい。そうすれば神の御加護があります。」
と、夫に勧め、夫は改宗することを誓いました。
するとあら不思議。アラマンニ人を追い払い、その戦いに勝つことができましたぁ~ という“伝説”が残っています。
こうしてクローヴィスは、カトリックに改宗することになったそうなのですが…
まぁ、これはおそらく“物語”なのでしょう。でも、この「クローヴィスの改宗」には、クローヴィスの高度な戦略があったような気がします。
旧西ローマの住民の多くはアタナシウス派。
彼らを円滑に支配し、そしてまた協力を得るにはアタナシウス派に改宗したほうがよいのではないか? と、考えたのだと思います。
この“策”は大成功。フランク王国はたちまち旧西ローマ帝国の住民の支持を得て、どんどんと勢力を拡大していくことになります。
さて、メロヴィング家には、「宮宰」“マヨル=ドムス”というお仕事がありました。家計や人事を司る役目。
実は日本人は理解しやすく、これは「ご家老さま」のようなものと考えればよいんです。
やがて、王は飾りのようになり、宮宰が力を握っていく…
その宮宰はカロリング家から出ていました。
宮宰カール=マルテルのときでした。西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島に勢力を拡大していたイスラーム軍(ウマイヤ朝)が、ついにフランク王国に侵入してきたのです。
ただちに兵を集めたカール=マルテルは、トゥールで迎え撃とうとします。
しかし、イスラーム軍とは遭遇できず、進路を変え、ポワティエまで向かいました。その途中でイスラームの騎馬軍と遭遇したのです。
これがトゥール=ポワティエ間の戦い(732年)です。
真正面からぶつかった後、後退して低地に誘い込み、金銀財宝、食糧などをばらまいて、イスラーム兵たちが奪い合って追撃をやめたところ、ぐるっと反転包囲して弓を射かけて壊滅させた、と説明している“物語”もあります。
一方的に攻めながらも、かつてのローマの重装歩兵のように楯で防御して耐え続け、激戦の中で偶然にイスラーム軍の司令官の参謀を殺害することに成功してイスラーム軍が引き上げた、という“物語”もあります。
いずれにせよ、“キリスト教世界”へのイスラーム勢力の侵入を食い止めたのだ、と、ヨーロッパでは歴史的意義の深い戦いとして教えているものです。一時期、日本の教科書でもこのような説明がみられました。
さて、戦いの勝利は英雄を生み出しますし、敵は味方の団結を促します。
こうして宮宰カール=マルテルの声望は一気に高まり、フランク王国の実権はカロリング家にうつり、カール=マルテルの子、ピピンがフランク王国の国王に就任することになりました。
このとき、ローマ教皇がピピンが王位につくことを後押ししたので、ピピンはローマ教皇に“借り”ができてしまうことになります。
この“借り”をピピンは領地で返しました。ランゴバルト人たちをローマ周辺から追い払い、その一帯の地域(ラヴェンナ地方)をピピンはローマ教皇に献上したのでした。(「ピピンの寄進」)
こうして、ぐっとローマ教会とフランク王国は接近することになります。
ローマ教会は、東ローマ帝国のような強い国を西に出現させて、教会の保護者として東ローマ帝国とコンスタンティノープル教会に対抗しようと考えていました。
フランク王国は、旧西ローマ帝国の住民の支持を得て、他ゲルマン人や諸勢力を撃退するためにもローマ教会の協力が得たいところでした。
こうした両者の“思惑”は、“カールの戴冠”となって実現しました。
800年、クリスマスのミサに出席しようとしたカールを、教皇レオ3世が自ら出迎え、大聖堂の中で、西ローマ帝国の皇帝冠(といってももともとそのようなものがあったわけではないのですが)をカールに与え、西ローマ帝国の復活を宣言したのでした。
そんなことになることを聞かされていなかったカールは驚きました。
ローマ教皇の“サプライズ”だったようです。
教科書的には、キリスト教文化とローマ文化、ゲルマン文化が融合して、東ローマ帝国に対抗する“西ヨーロッパ世界”が成立した、と、説明してはいますが、これはもちろん後付けの説明であって、当時、カールはこの戴冠式に、ずいぶんと困惑していたようです。
え、いやいや、ローマ教皇に皇帝を任命する権限ないでしょ。
しかも、わたし、ミサに来ただけなんですけど…
「こんなことになるなら、わたしはミサなどに来なかった。」
と、側近にブツブツ言っていた、という“物語”も残っています。
しかし、実際、こうして西ヨーロッパは誕生しました。
現在のフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、ドイツの地域は「フランク帝国」としてまとめられたのです。
おもしろいですよね。
第二次世界大戦後、ヨーロッパ統合をめざしてECが発足したのですが、その発足当初の6ヶ国が上にあげた6ヶ国なんです。
かれらにとっては、ヨーロッパの再出発と統合は、「フランク帝国」の復活だったのかもしれませんね。