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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

カール大帝。
やはり、ヨーロッパの元祖、というと変な表現かもしれませんが、ヨーロッパの国々の歴史の本では、確実に出てきて“遺業”を説明される人物です。
ですから、当然、それぞれの国がそれぞれの国の言葉で彼を表現します。

「カール」は“Karl”という表記ですとドイツ語になります。
フランス語で読めば「シャルル」。
英語ならば「チャールズ」。
スペイン語では「カルロス」。

現在40才以上の方ですと、中学校の教科書では「チャールズ大帝」と書かれていたことをおぼえている方もおられると思います。また、高校の教科書では「カール大帝」とは別にシャルルマーニュとわさわざ(  )付きで表記しているものもあります。

さて、フランク王国は“伝統的”に分割相続をしていたようです。つまり、子が三人いれば三つに分ける…
ただ、カールから次の世代への継承のときはちょっと変なことになりました。

カールには三人の子がいて、生前カールは三人の子に分けるよ、と、“遺言”していたようなんですが、なんせ彼が70才を越えるほど長寿だったもんで、814年にカールが死去したときには相続者はたった一人しか生き残っていませんでした。

その継承者がルートヴィヒです。これまたドイツ語ですが、別にフランス語でルイともいわれています。参考書などではルートヴィヒ(ルイ)と、これまた(  )付でフランス語表記もされています。

洋の東西を問わず、兄弟の相続って、何かしら“やっかいな”ことがおこるんですよね。でも、たいていは子どもたちが悪いというより親がケンカのタネを残してしまう…

ルートヴィヒには三人の子がいたので、フランクの伝統に従い、この三人に相続されることが決まりました。

長男ロタール
次男ピピン
三男ルートヴィヒ

で、まぁ、鎌倉時代の惣領制みたいに、いざ戦いとなるとロタールが指揮をとる、つまり皇帝となり、他は副帝としてフランク王国を統治する、みたいなことに決まったわけです。

ところがですね… ルートヴィヒの二番目の妻(後妻)との間に生まれたシャルルが生まれるんですよね。どうやらこの妻ユーディトを愛していたこともあり、シャルルを溺愛していて、この子にも相続させようとします。さらにややこしいことに次男ピピンが死んでしまう…

ルートヴィヒが死去すると、残ったロタール(以後ロタール1世)、ルートヴィヒ(以後ルートヴィヒ2世)、そして末っ子シャルル(以後シャルル2世)が相続争いをすることになります。

結局、843年、ヴェルダン条約が結ばれてこの三人が分割して相続することになります。

ロタール1世・中フランク
ルートヴィヒ2世・東フランク
シャルル2世・西フランク

その後、ロタール1世とその子が死去すると、ルートヴィヒ2世とシャルル2世は、中フランクのイタリア部分を残して、残りを二人で分けてしまいました(870年のメルセン条約)。

こうして、フランス・イタリア・ドイツの原型ができたと言われています。


むか~し、むかし、大河ドラマの『春日局』で、明智光秀の重臣、斎藤利三が、光秀から信長を討つことを明かされたとき、必死でそれを防ごうと説得した場面があったような気がします。

つまり斎藤利三は、謀反に反対していた、という設定でした。

話があちこち飛ぶようで申し訳ありませんが、四国の戦国大名で、コヤブ歴史堂でも取り上げた長宗我部元親、という人物がいます。
この人物は、四国平定を進めていて、“砂糖外交”を進めるなどして最初は信長に従う方針を立てていました。
また、信長への“接近”策として、この時代にありがちな政略結婚も進めていました。

明智光秀の重臣、斎藤利三の妹を元親は妻としており、さらに利三の兄の石谷頼辰の娘も、元親の嫡男である信親の妻となっていました。

交渉は成功して信長から「四国は切り取り次第」という約束もしてもらっていたはずなのですが…

1581年、信長は長宗我部元親に対して、「四国すべては与えない。土佐国と阿波国の半分だけの支配を認める」と通達するようになりました。
この変更の理由は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の中国攻めと関係があります。

長宗我部元親が対立していた阿波国の三好氏なのですが、秀吉は毛利の水軍に対抗するため、三好の水軍の協力を得ようとしていました。
このまま、長宗我部元親が三好を攻めると、三好が毛利と手を組んでしまい、中国攻めがさらに難しくなります。
信長は四国・中国の大局を判断して、元親に三好を討たせることをやめ、三好にも阿波国の支配を認めようと考えたようです。

「話がちがうっ」と元親はかなり反発します。

今回発見された史料(手紙)は、この石谷家の文書全3巻47点の中から発見されたものです。

1581年、明智光秀はわざわざ石谷頼辰を土佐に派遣して説得させたことはすでにわかっていましたが、今回の手紙の発見でそれ以後のことも判明するようになりました。
1582年1月11日付の斎藤利三の手紙では、反発する元親を説得する使者を送ること、なんとか信長の指示に従うように依頼する話などが記されていたのです。

ところが、この説得工作が進んでいたにもかかわらず、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将とした四国征伐の準備が発令されてしまいました。
これが本能寺の変の一ヶ月前です。

そして今回発見された手紙の中に、5月21日付けのものがあったのです。
本能寺の変が6月2日ですから、わずか二週間ほど前のもの。
それは長宗我部元親から斎藤利三へ宛てた手紙でした。

「阿波国から兵を退きました。信長さまが甲州征伐から帰られたなら、指示に従います。」

おお! 説得工作は成功したではないか!
にもかかわらず、四国征伐の方針が変わらない…

さてさて、これを従来からある史料と突き合わせて考えるといったいどういうことになるのか…

『長宗我部元親記』

信孝さまの出陣直前、明智光秀は、斎藤利三が長宗我部元親さまのことを悩んでいる姿をみて、信長を討つことを心に決めた。

『山科言経卿日記』

斎藤利三、このたびの謀反では首謀者だ(謀反随一也)。

『宗及茶道日記』

山崎の戦いの後、利三は捕えられ、六条河原で処刑されたが、ただの打ち首ではなく、車裂きの刑となった。

かつての大河ドラマのように、斎藤利三は明智光秀の謀反を制止しようとしたのではなく、むしろ積極的に明智光秀に働きかけて、謀反を推進したのかもしれません。
宗及は茶人です。当時から斎藤利三が本能寺の変で主導的役割を果たしていたことは有名だったのでしょう。

5月29日には神戸信孝は1万4000の兵を整え終わり、なんと四国征伐の出発の日を

 6月2日

と決定していたのです…

この日こそ本能寺の変。
信長の四国征伐を阻止するために、明智光秀と斎藤利三が、本能寺を攻撃した、というのが「本能寺の変・四国説」なのです。

ただ…
何か「もう一つ」、この説には決定的な他の“理由”が必要なような気がします。

さらなる史料の発見を期待したいところですね。
四天王寺には、大阪市指定文化財はもちろん、さまざまな文物が「名宝」として保存されていて、年始には「新春・名宝展」というのが開催されます。
歴史ファンのみなさんには、是非訪れていただきたいイベントでもあります。

さて、大阪市指定文化財の中で、「戦国時代」の史料の目玉が二つ、四天王寺にはあります。
一つ目は、

「正親町天皇の綸旨」

です。

正親町天皇は第106代天皇。
フランシスコ=ザビエルが上京したときの天皇で、清貧・誠実の天皇、後奈良天皇の崩御にともなって天皇の位につかれた方です。

しかし当時は、朝廷の財政は無に等しく、三年間も正親町天皇は即位式を挙行できませんでした。
そこに手をさしのべたのが中国地方の戦国大名、毛利元就だったのです。
毛利家からの献金によって“一息”つくことができたのです。天皇は

 毛利家は皇室の親戚と同じ

と感じられ、従五位を授け、菊の文様、桐の文様を家紋として使用することを許可なさったくらいです。

いや、どうもこの御方、いろいろな人から助けてもらえる星の下にあったようで、第二の援助者があらわれました。それが石山本願寺です。本願寺の法主の顕如もまた多額の献金をおこない、

 本願寺は皇室の親戚と同じ

と感じられ、「門跡」の称号を与えられたほどです。

そして第三の援助者が登場します。それが織田信長でした。

信長の上洛は、「正親町天皇を守衛たてまつる」ということを名目としたものでした。
信長は、朝廷の財政をいっきに回復させ、そうして「過去の権威」を「現在の権威」へと回復していきます。

天皇は、信長の敵対勢力との“和議”の仲介を多数おこないます。

浅井・朝倉との戦い(1570年)
足利義昭の追放(1573年)

に関しても、正親町天皇が勅命を発して和議をさせました。
信長に、正倉院の宝物、蘭奢待の切り取りを許可し、さらには右大臣の位を与えたのも正親町天皇でした。

さて、信長は、石山本願寺を徹底的に攻め、さらには中国地方の毛利氏をも征服の対象としていました。
石山本願寺攻めでは、天王寺にある、現在の生玉町、あるいは茶臼山付近に“城”を築いてこれに対したといわれています。

 え、大坂に大坂城以前に城があったの?

と、思われる方も多いと思いますが、『信長公記』では

「四天王寺砦」

と記されています。
四天王寺は高台にあるので、本願寺(現在の大阪城の場所にあった)を攻めるには戦略的に最適の地でした。

本願寺との戦いで、1576年、四天王寺の伽藍は焼失してしまいました。
正親町天皇は、四天王寺焼失の話を聞き、「聖徳太子建立の、国家安泰祈願の寺院の焼失は戦乱を長引かせる原因になる」と深く嘆かれ、綸旨を発せられました。
この綸旨が四天王寺に残っているのです。

 就今度摂州錯乱
 四天王寺伽藍以下悉以廻録
 誠被害歎思食者也…

綸旨を発して全国から募金を集めて再建するように、と、命令されたのでした。

そして四天王寺に残る、もう一つの戦国時代の史料の目玉が1578年に発された

 「織田信長の禁制」

です。禁制、とは、当該地における軍勢の乱暴・狼藉を禁止したもので、信長は寺社や都市に頻繁に発しています。
この二年前に伽藍が焼失していて、この時期、四天王寺周辺での合戦はみられていません。

先に説明した「正親町天皇の綸旨」を受けて、信長は

禁制 天王寺境内

一 軍勢甲乙人等乱妨狼藉事
一 伐採竹木事
一 刈取麦事 付放火事

という禁制を出し、六十石を四天王寺にあてがいました。

この時期、正親町天皇は、石山本願寺との和議を信長にすすめていた(信長が正親町天皇を利用して和議を進めていた)ので、本願寺周辺の治安維持と平和の回復、そして四天王寺の再建を進めていることがわかる重要史料です。

さて、本能寺の変、は、戦国時代(あるいは日本史上)最大の謎といわれているものです。

本能寺の“黒幕”説の一つに、なんと正親町天皇の名前があがっているのを知っていますか?

自分を天皇の位につけてくれた毛利家を信長は倒そうとしている。
朝廷が苦しいときに助けてくれた本願寺を信長は倒そうとしている。
よってこれらと信長の和議をなんとかして進めようとしていた…

しかし本願寺は攻めつぶされ、毛利も攻撃されようとしている…
天皇の位も子の誠仁親王に譲らされるのではないか…

信長にすれば毛利を攻めるにあたって毛利が立てた天皇が存在していては都合が悪い。
信長にすれば本願寺を攻めるにあたっては本願寺が支援した天皇が存在していては都合が悪い。

それまでの方針を一新するためにも天皇を変更するほうがよいのではないか… と信長が考えていてもおかしくはありません。

こうしたことから正親町天皇が暗躍して本能寺の変を起こさせたのではないか…

これが「正親町天皇黒幕説」の背景となっています。

でも、確かに正親町天皇は毛利にも本願寺にも世話にはなりましたが、現在世話になっているのは信長なんです。
「ああ、なんとか、みんな仲良くしてほしいなぁ~」とお悩みになっていたことは確かでしょうが、だからといって本能寺の変の“黒幕”とまで言うのはちょっとどうかなぁ~ と、わたしは思っています。

戦国時代にあって、「みんな、なかよく!」をうったえつづけた苦悩の天皇さまだったような気がします。

(お知らせ)
なんと、9/19~11/9にかけて、四天王寺「秋季・名宝展」が開催されます。
大坂冬の陣から400年を記念して、今回紹介した正親町天皇と織田信長の二つの史料を公開するだけでなく、天正~慶長にかけての“寺宝”がいっきに公開される予定です。

そして今回紹介した、「織田信長の禁制」の実物史料に推されている朱印は、なななんと、あの、

 天下布武

の朱印ですよ。戦国時代ファン、信長ファンのみなさん必見ですよ。
是非、観に来てください。
後醍醐天皇による倒幕運動…

天皇を、台風の目のごとく、行く筋もの流れを持つ渦の中心と考えるか、流れ出た行く筋もの河川が後醍醐天皇のもとに注ぎ込んだと考えるか…
倒幕から建武の新政の時期はこの二つの考え方があります。
ちなみにわたしは後者だと考えているんですよ。

護良親王。
鎌倉末期の中でも異彩を放つ人物です。

子どものころ、おじから不思議な話を聞いたことがあります。

「京都の三千院に、護良親王の長刀があるんやけどな… あんまり知られてないんよ。」

ふ~ん。

という薄い反応しか当時の私にはできませんでした。護良親王が後醍醐天皇のお子さんで、鎌倉幕府を滅ぼすために戦った人物である、ということは知っていましたがそれと「三千院の長刀」とどう結びつくのかさっぱりわからず…

長じて、中学・高校となっても、三千院に護良親王の長刀がある、というような話も聞かず、そんな重要なものなら展示でもされているのかとも思っていましたが、そんなものがあったような感じもなく…

ところが1997年、この長刀が新聞にとりあげられていたんですよ!
三千院で護良親王の長刀が“発見”されたらしい…
と、いっても実は三千院では前から展示していたらしいのですが、なんだかニセモノの臭いがプンプンしていたらしく、あんまりちゃんと展示されていなかったようなんですよね。

発見ではなく、ちゃんと“鑑定”に出したら鎌倉時代中期の長刀であることがわかったようです。

刀剣には魔性がある、とは、よく言われるところで、じっと見つめていると、何やら深~いところに引きずり込まれるような、不思議な(妖しげな)感覚にとらわれます。
ましてや護良親王のものだと思うと、その感覚はなおいっそう強いものとなります。

護良親王は比叡山の天台座主でもあり、還俗して武者たちを率いて倒幕運動を展開しました。
近畿の山中を放浪しつつ、反幕府勢力(悪党たち)を糾合し、幕府滅亡後は、征夷大将軍(兵部卿兼任)となった、皇族や僧とはかけ離れた武勇の人物でした。

さて、護良親王、で、検索すると、きまって出てくる肖像画があります。

四人の武者の絵。

一人は馬上。
三人は徒歩。

馬上の人物が護良親王なのですが、この絵がなかなかに「おそろしげ」な感じがする…
まず率いている武者たち。
それぞれ三種の武器を持っており、長刀・太刀・槍…

肖像画には意味があります。
長刀は、僧兵あるいは寺社の傭兵。
太刀は、武士たち。
そして槍は、野盗や山岳民などの兵。
などを“象徴”していると思うのです。

三人の徒歩の武者たちの顔はいずれもおそろしげで、むしろ下品な印象もあります。
こういう者どもを率いて親王は戦いを展開していたんでしょう。

楠木正成や赤松一族は、現在の研究では護良親王派であったのではないか、と、考えられています。親王が失脚した後、新政内で二人の地位が著しく低下していることからも、そのように考えるほうが自然な感じがします。

さて、馬上の人物…
異質なほど色白で、そうして弓の弦をくわえている、という構図が印象的です。

以下は伝説ですが…
山中を部下と放浪していたときのことです。山伏というか修験者に身をやつしてある村を通りかかりました。
その村の長らしい人物が、母が病で苦しんでいます、なんとか助けてもらえませんか、と、訴え出てきました。
修行僧たちは、法力で病を癒す力がある、と、思われていた時代です。
親王は、その村の長の屋敷に行き、そうして病に苦しむ村の長の母の枕元で、お経を誦しました。

そのお経の見事さ、朗々とした声の響きに村の長はおどろきます。
いや、「修行僧とも思えぬ透き通るような白い顔」(修験者は日焼けしてたいていは浅黒い)と漂う気品から、村の長は、この御方はただものではないと考えていたのですが、そのことを確信しました。

なんとそのお経の効き目はバツグンで、母の病はたちまち癒された、といいます。
「いったいどういう御方でございましょう。」と問う村の長に、従者の一人が正体を明かします。

「前の天台座主にして、帝の親王であらせられる。」

村の長は、おどろき平伏し、一族および村をあげて親王を支援するようになった、という伝説があります。
そして娘を親王に嫁がせ、以後、親王はこの娘を寵愛することになりました。
史実が伝説かは不明なところも多いのですが、この娘が「雛鶴姫」。
後に、親王が謀殺されたとき、親王の首をかかえて都に届けようとした女性がこの人である、ということです(このあたりは諸説あるのですが…)。

 修行僧とも思えぬ透き通るような白い顔

荒武者どもを率いる馬上の人物は、まさにこのお顔、というところでしょうか…

 弓弦をくわえる(なめる)親王

この肖像画の親王の目は、三人の徒歩武者とはまったく違う、まるで死をみつめているかのような妖しい描かれ方をしています。
後の“悲劇”を予感させるような…

護良親王は、足利尊氏と対立し、尊氏暗殺計画を立てた、ということで捕縛され、鎌倉に送られて土牢に監禁された、といわれています。

北条高時の子、時行が鎌倉で反乱を起こしました。
そうして鎌倉を攻撃し、足利尊氏の弟、直義が防戦するものの破れてしまいます。

時行は“執権”の子であり、護良親王は前の“征夷大将軍”。

もし、護良親王が北条時行に捕えられて、親王を“将軍”とし、時行自ら“執権”を称すれば、宮将軍を擁立した前・鎌倉幕府の復活が実現してしまいます。
いや、建武の新政への不満から、鎌倉幕府への回帰をもとめている武士たちもたくさんいたわけで、擁立された人物が後醍醐天皇の親王となれば、この反乱は、成功する可能性もありました。

政治的嗅覚のするどい足利直義は、この“事態”と“未来予想”を十分できました。

こうして護良親王は、直義に遣わされた淵辺義博によって殺される、ということになります。

で、先の“雛鶴姫”の話です。
当時、護良親王の子を宿していたといわれています。
雛鶴は、斬られた親王の首を抱き、現在の横浜市の戸塚にある井戸で首を洗い清めた、と、いわれています。

妊婦が愛する人の血まみれの首をかかえて井戸で洗う…

おそろしげでもあり哀しげな光景であった、と、いえます。
後醍醐天皇は大覚寺統ではない、な~んていうと、多くの歴史の先生に怒られます。

両統迭立の原則で、大覚寺統と持明院統から“交互”に天皇が立てられることが決まった、とは、以前に申しました。
でも、正確にはそうではなく、「交互に院政ができるように」バトンを渡していく、というのが正しいと思います。

亀山(大)→後宇多(大)→伏見(持)→後伏見(持)

で、後伏見は次に後宇多が院政ができるように、後宇多の子に天皇の位を譲ります。
この子が後二条天皇です。(そして後二条天皇の子が邦良親王です。)

で、ゆくゆくは後二条が上皇となり、その子(邦良親王)が天皇となるはずだったのですが、後二条天皇が若くして死んでしまったのです…
で、持明院統の花園天皇が位につき、皇太子は大覚寺統から選ばれることになりました。

後宇多上皇は困ってしまいました。邦良親王はまだ幼子。
そこで、後二条天皇の弟、尊治親王を呼び、

「花園天皇の次はおまえが皇太子だが、あくまでも邦良親王が次の天皇だからな。邦良親王が大きくなるまでの“中継の”天皇だからな。」

と、言い含めます。
で、後宇多上皇は死んでしまいました。

ここから話がややこしくなっていきます。

当然、持明院統のほうは「皇太子はこっちから選んでよね」と後醍醐天皇にせまります。
一方、大覚寺統の公家たちからは、「早く邦良親王に位を譲ってください。」と言われてしまいます。

持明院統の公家も、大覚寺統の公家も、早く後醍醐天皇の「次」を決めたい…
そしてお互いに鎌倉幕府に「後醍醐天皇に次を決めさせて、さっさとやめさせてほしい」と申し入れするようになったのです。

つまり後醍醐天皇は持明院統でないことはもちろん、大覚寺統でもないんですよね。

後醍醐天皇の強烈な個性はここに作られたものではないでしょうか…

 おれは正統な天皇だっ!!

本来、その位にあるべきではない人がその位になったとき…
その人は、より今までの人以上にその位にふさわしい人間であろうとして、過剰にふるまってしまいます。

後鳥羽上皇も神器の一つが欠けた(壇ノ浦の戦いで剣が紛失している)天皇だと陰口を言われ続けて「天皇にふさわしくない」とされていました。
「そんなことはないっ」と力を入れすぎて、承久の乱を起こしてしまう…

後醍醐天皇も、より「天皇」であろうとしてふるまっていたような気がしてしかたありません。

ところで、倒幕前から「建武の新政」は始まっていた、というのを知っていましたか?

後醍醐天皇は、大覚寺統の公家からも持明院統の公家からも側近を選ばず、まったく新しい人事をおこないました。そして次々と改革政治を進めていく。

・記録所を設置する。
・新しく関所をつくることを禁止する。
・京都の酒の価格は公定価格とする。
・京都に米市場を設けて米価を公定価格とする。
・酒屋役という新税を設ける。

当時、浸透しつつあった「貨幣経済」に着目しているわけで、この点、貨幣経済との深いかかわりの中で成長してきた“悪党”とも接近していくきっかけとなったと考えると、後の楠木正成や名和長年らとの関わりも説明がつきます。
(“悪党”の話はいずれまた念入りに…)

「倒幕」というのも、この一連の改革の一つで、後醍醐天皇の中では、倒幕した後に新しい政治を始めたという意識はなかったと思いますよ。

後醍醐天皇は持明院統でも大覚寺統でもない、「後醍醐天皇統」をつくろうとしていたのかもしれませんね。
(南北朝の争乱はかなりくわしく拙著『超軽つ日本史』で紹介しています。是非お読みください。)