むか~し、むかし、大河ドラマの『春日局』で、明智光秀の重臣、斎藤利三が、光秀から信長を討つことを明かされたとき、必死でそれを防ごうと説得した場面があったような気がします。
つまり斎藤利三は、謀反に反対していた、という設定でした。
話があちこち飛ぶようで申し訳ありませんが、四国の戦国大名で、コヤブ歴史堂でも取り上げた長宗我部元親、という人物がいます。
この人物は、四国平定を進めていて、“砂糖外交”を進めるなどして最初は信長に従う方針を立てていました。
また、信長への“接近”策として、この時代にありがちな政略結婚も進めていました。
明智光秀の重臣、斎藤利三の妹を元親は妻としており、さらに利三の兄の石谷頼辰の娘も、元親の嫡男である信親の妻となっていました。
交渉は成功して信長から「四国は切り取り次第」という約束もしてもらっていたはずなのですが…
1581年、信長は長宗我部元親に対して、「四国すべては与えない。土佐国と阿波国の半分だけの支配を認める」と通達するようになりました。
この変更の理由は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の中国攻めと関係があります。
長宗我部元親が対立していた阿波国の三好氏なのですが、秀吉は毛利の水軍に対抗するため、三好の水軍の協力を得ようとしていました。
このまま、長宗我部元親が三好を攻めると、三好が毛利と手を組んでしまい、中国攻めがさらに難しくなります。
信長は四国・中国の大局を判断して、元親に三好を討たせることをやめ、三好にも阿波国の支配を認めようと考えたようです。
「話がちがうっ」と元親はかなり反発します。
今回発見された史料(手紙)は、この石谷家の文書全3巻47点の中から発見されたものです。
1581年、明智光秀はわざわざ石谷頼辰を土佐に派遣して説得させたことはすでにわかっていましたが、今回の手紙の発見でそれ以後のことも判明するようになりました。
1582年1月11日付の斎藤利三の手紙では、反発する元親を説得する使者を送ること、なんとか信長の指示に従うように依頼する話などが記されていたのです。
ところが、この説得工作が進んでいたにもかかわらず、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将とした四国征伐の準備が発令されてしまいました。
これが本能寺の変の一ヶ月前です。
そして今回発見された手紙の中に、5月21日付けのものがあったのです。
本能寺の変が6月2日ですから、わずか二週間ほど前のもの。
それは長宗我部元親から斎藤利三へ宛てた手紙でした。
「阿波国から兵を退きました。信長さまが甲州征伐から帰られたなら、指示に従います。」
おお! 説得工作は成功したではないか!
にもかかわらず、四国征伐の方針が変わらない…
さてさて、これを従来からある史料と突き合わせて考えるといったいどういうことになるのか…
『長宗我部元親記』
信孝さまの出陣直前、明智光秀は、斎藤利三が長宗我部元親さまのことを悩んでいる姿をみて、信長を討つことを心に決めた。
『山科言経卿日記』
斎藤利三、このたびの謀反では首謀者だ(謀反随一也)。
『宗及茶道日記』
山崎の戦いの後、利三は捕えられ、六条河原で処刑されたが、ただの打ち首ではなく、車裂きの刑となった。
かつての大河ドラマのように、斎藤利三は明智光秀の謀反を制止しようとしたのではなく、むしろ積極的に明智光秀に働きかけて、謀反を推進したのかもしれません。
宗及は茶人です。当時から斎藤利三が本能寺の変で主導的役割を果たしていたことは有名だったのでしょう。
5月29日には神戸信孝は1万4000の兵を整え終わり、なんと四国征伐の出発の日を
6月2日
と決定していたのです…
この日こそ本能寺の変。
信長の四国征伐を阻止するために、明智光秀と斎藤利三が、本能寺を攻撃した、というのが「本能寺の変・四国説」なのです。
ただ…
何か「もう一つ」、この説には決定的な他の“理由”が必要なような気がします。
さらなる史料の発見を期待したいところですね。