こはにわ歴史堂のブログ -78ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

前にも述べましたが、こはにわは、歴史人物弁護士です。
誤解されていたり無実の罪をきせられている歴史上の人物を弁護したいと思うときがけっこうあります。

そんな人物の一人が、松永久秀です。

三大“戦国時代の梟雄”の一人と言われています。
一人は斎藤道三、一人は宇喜多直家、そしてもう一人がこの松永久秀です。

三人に共通することは、やはり戦国時代のキーワード、“下剋上”や“裏切り”ということでしょうか。
戦国時代の中でも、松永久秀は異彩を放つ一人です。

でも…
例によって、松永久秀も“江戸フィルター”を通じてずいぶんと歪められている人物の一人だと思うのです。
彼のエピソードの多くは、『常山紀談』などの江戸時代に著された記述をもとにされており、一次史料から描くことができる人物像とはずいぶんと違うことがわかっています。

松永久秀、極悪人伝説トップワンは、

 足利義輝将軍殺害事件

ではないでしょうか。
歴史上の事件としては“永禄の変”と呼ばれるものです。

足利義輝のいる二条御所を、三好三人衆とともに包囲し、「将軍に訴えるところあり」として攻め込み、義輝を殺害する…
義輝は、剣豪塚原卜から手ほどきをうけたほどの剣の達人で、追い詰められた将軍は、足利家に伝わる名刀を蔵から出させて部屋に集め、鞘から抜いて畳の上に突き立て、せまりくる兵たちを次から次へと斬り倒していく…

 お~ カッコいい~

となるような“剣豪将軍”エピソードを残しつつ、ついには力つきて殺害されてしまう… というような話が小説などではよく描かれています。

そもそも設定すべてが事実に反します。
義輝は、塚原卜伝から剣の手ほどきなど受けていませんし、当時の状況を記した史料(『山科言継卿記』など)では、将軍自ら戦った、などという記録は一行もなく、ただ「自尽」つまり自殺した、という記述しかありません。
この有名なエピソードは江戸時代の“物語”の中でしか登場しないのです。

最近の研究では次のようなことも明らかになりつつあります。
「将軍に訴えるところあり」というのは、口実ではなく、実際に「何かの訴え」があったようで、その話がうまく伝わらず押し問答となり、結果、兵たちが戦いを始めてしまい、その混乱の中で将軍が、「叛乱軍に包囲された。もはやこれまで。」と自害してしまった、という説も出てきています。つまり将軍を殺害するつもりはまったくなく、偶発的にそうなってしまった、という考え方です。
さらにさらに、この“永禄の変”には、松永久秀本人は参加していない、というかほぼ無関係であった、ということを知っていますか?
松永久秀の子、松永久通と三好三人衆の兵が御所を包囲したのであり、当時、久秀は大和に滞在していて“アリバイ”が成立しています。

どうやら、足利義輝は、足利義教のように、将軍親政を企図していたようなところがあり、自前の軍事力を準備しようとしていたようなフシがあります。松永久通や三好三人衆は、あくまでも「象徴将軍制」を維持したかったようで、それを諌めようとした「訴え」であったようなんです。

久通の父、久秀は、この事件をすぐに政治化します。
次の将軍として、義輝の弟で、出家していた一乗院覚慶を擁立しようと、松永久秀と覚慶が連絡をとりあっていたことが新たに発見された書状であきらかになりました。

なんとこの覚慶こそ、後の第15代将軍、足利義昭なのです。

従来は、覚慶は、興福寺に監禁されていたことになっていましたが、弟は殺害されているのに、覚慶は殺されていません。ほんとに監禁だったのか…

次期将軍のタマとして松永久秀は覚慶を温存しようとしていたフシがあるんです。

ひょっとすると、足利義栄を次期将軍に推す三好三人衆と、覚慶を立てようとする松永久秀が対立するようになったのではないでしょうか。

こう考えると、“永禄の変”の後、それまで盟友関係にあった三好三人衆と松永久秀が対立するようになったこともわかります。

ただ、覚慶の側近たち(細川藤孝ら)は、松永久秀の傀儡に覚慶がされるのをおそれて奈良から連れ出すことになりました。

変な話ですが、覚慶(足利義昭)自身は、それほど松永久秀のことが嫌いだったわけではないかもしれません。傀儡にしようとしていたとはいえ、次期将軍候補に自分を立てようとしていたわけですし、実際、織田信長が足利義昭を立てて京都に入ってきたときは、信長と連絡を取り合い、あっさりと信長の臣下になります。
しかも、厳密には信長の臣下になったのではなく、足利義昭の家臣になっているんですよ。

小説や巷間言われるように、義昭は松永久秀を臣下にするのは反対であった、というのもちょっとおかしいような気がします。

将軍義輝に対しては、三好三人衆と松永久秀は同盟して対抗していたが、義輝の死後は、それぞれ義栄、義昭を立てて対立する。
三好三人衆と松永久秀は抗争する。
義昭は逃亡する。
その後、義昭を立てて織田信長がやってくる。
松永久秀は、信長と手を組んで三好三人衆を倒そうとする。

こういう流れだったような気がします。
わりと松永久秀の行動は一貫していると思いませんか?

ちなみに、松永久秀「極悪人伝説」第二弾は、三好三人衆との抗争中に

 東大寺大仏殿を放火した事件

ではないでしょうか。
基本的に「歴史の記録」は貴族と僧しか残していません。貴族や僧に対して反対する動きをしたものは悪く書かれるのが一般的です。
しかし、ルイス=フロイスの『日本史』によると、東大寺の大仏殿を放火したのは三好三人衆の軍にいたキリシタンの仕業であったとされています。
これが事実ならば、東大寺大仏殿の放火は、松永久秀の冤罪ということになります。

さて、松永久秀は、織田信長を裏切った、と、よく言われていますが、これもよく考えたら変な話です。

松永久秀は、足利義栄を推す三好三人衆と対抗した。
松永久秀は、足利義昭を立てた織田信長と手を組んだ。
松永久秀は、織田信長ではなく足利義昭の臣下になっている。

松永久秀は、織田信長が足利義昭を立てている間は信長に従っていますが、信長と義昭が対立するようになるにつれ、義昭側に立った動きをしています。

なんのことはない、松永久秀のほうが一貫した行動をとっていて、裏切っているのは織田信長のほうではないでしょうか。

・将軍足利義輝を殺害していない。
・大仏殿に放火していない。
・足利義昭との関係は悪くない。

どうも、戦国時代ファンの多くの方は、織田信長の立場からあの時代を見ている場合が多く、信長を軸として考えると、確かに多くの武将が信長を裏切り、乱を起こしているようですが、変わっているのは信長のほうがほとんどなんです。

もっとシンプルに、信長が変わったことが、多くの混乱の原因、と、考えたほうがスッキリします。

浅井長政は裏切ったんではなく、信長が方針を変えたんです。
朝倉を攻撃しないといっていたのに攻撃を始めた。
つまり裏切ったのは信長のほう。

松永久秀は裏切ったんではなく、信長が方針を変えたんです。
足利義昭を立てていたから手を組んでいたのに、足利義昭を追放した。
つまり裏切ったのは信長のほう。

明智光秀は裏切ったんではなく、信長が方針を替えたんです。
四国平定にあたって長宗我部元親と手を組んでいたのに、元親を討とうとした。
つまり裏切ったのは信長のほう。

本願寺だって、信長の要求(矢銭5000貫)を受け入れたんですよ。でも、後になって「本願寺を破却する」と言い出したのは信長のほうで、石山合戦の長期化の原因は信長にありました。

ものの見方の“軸”を変えると、いろいろなことが見えてくる、という話です。

恥ずかしながら、題名だけは聞いたことはあったのですが、まったく見る気はありませんでした。

シェフ?? 信長の料理人の話かな?

と、思った程度で、気にもとめていなかったのですが、何気なくテレビを見ていると、おや、今時、時代劇はめずらしいな、と、思って観ることになったんです。

いやいや、荒唐無稽な設定ながら、豪華な俳優陣とすぐれた脚本というべきでしょうか、なかなか見応えがある番組になっていたので、すっかり見入ってしまいました。

個人的には、明智光秀役の稲垣五郎さん、なかなかよいと思いました。

ただ、明智光秀の生年については、近年では従来の説よりもずっと前にさかのぼり、一番古いものになると永正十二年ですから1515年生まれ… これだと、本能寺の変のときは67才の老人(この時代ならかなりの高齢者)になってしまいます。(従来の説でも55才ですからけっこうな年齢になっちゃいます。)

あとすばらしい演技だったのが、本願寺の顕如役の市川猿之助さん。
ものすごい迫力でした。主役の信長を食ってしまいそうなさすがの存在感でした。

並みいる戦国大名の中で、「信長のほんとうのライバル」、というのは私は顕如(大名じゃなく僧侶なんですけどね)だったと思っているんですよ。
だってよく考えてみると、武田にせよ、上杉にせよ、毛利やら長宗我部にせよ、けっきょく自分の部将たちにまかせて戦わせているじゃないですか。それに対して一向一揆と石山本願寺攻めは、信長自ら指揮して対応する場合も多く、わりと作戦に直接関与しています。
基本的に、各戦線は部将の裁量にまかせているんですが、石山本願寺攻めに関しては、かなりチェックが厳しく、佐久間父子など石山本願寺攻めの怠慢をかなり厳しく責められて解任されるし、荒木村重にしても、彼の家臣が石山本願寺に通じていたのではないか、という“事件”から対立することにもなっています。

けっこう楽しく視聴しました。

歴史の教師があんなもんをおもろいと言うのかっ

と、お叱りを受けそうですが、まぁカタいことは抜きにして楽しめばよいと思うんですよ。
また、見ていない方のために、ネタバレはしないようにしますね。

実は、「歴史」と「タイムスリップ」を組み合わせた話は、けっこう昔からあるんですよ。
古いところでは横山光輝さんの「時の行者」という漫画もありましたし、映画では、なんといっても「戦国自衛隊」が有名でした。
生徒から聞いたのですが、珍しく南北朝時代をネタにした漫画というか小説なんでしょうか、『キミノ名ヲ』?というのもあるらしいですね。今度機会があれば見てみたいような気がします。(少女マンガ? わたしが見てもよいようなもんでしょうか?)

タイムスリップで、現代人が過去の世界にもどってしまい、そこで歴史上の人物と出会い、奇しくも歴史の中で何やら重大な役割を果たしてしまう…
歴史を変えてはいけない、でも… という主人公の葛藤を描く、というのがだいたい共通したテーマのようです。

『時の行者』にせよ『戦国自衛隊』にせよ、織田信長がどうもよく取り上げられます。

タイムマシンがあったとして、昔にもどって出会いたい、という人物、どんな時代だったか見てみたい、という時代は、やはり戦国時代ということになるんでしょうか。

信長と料理人のエピソードでは有名な話があります。

京都で一番と評判の料理人に料理を作らせる。
しかし、マズい… 信長は怒ります。
推薦した人物も恥をかいてしまい、その料理人に「どういうことだ」となじってしまう。
するとその料理人は、「もう一度つくらせてほしい」という。
で、二度目の料理は、「うまいっ」と、信長はたいへん気に入った様子…
「どうして最初はマズいとおっしゃったのか?」という推薦人に対して、
「最初のがほんとうの京料理。でも信長様には薄口だったのでしょう。二度目は田舎風に濃い味付けにしました。」と返答した。

という話です。

ちょっと信長をバカにしたような話でもあるのですが、信長にすれば「ほんとうの京料理」なんかはどうでもよくて、「おれがうまいという料理さえ作ればよい」というところだったのでしょう。

ただ、信長は、食べ物にはこだわりがあったようです。
珍しいもの、新しいものが好きな人は、もちろん食べ物にもそういうことを求めます。

南蛮渡来の「お菓子」の「うまさ(あまさ)」に衝撃を受ける。
日本の果物とは違う南蛮渡来のバナナを食べてみる。

「またコンニャクか…」と、飽きた信長に「真っ赤なコンニャク」を出したところ、たいそうカンドーしたという話があって、現在の近江の赤コンニャクが生まれた、な~んて説もあるくらい…

祖母は、「食は職に通じる」とよく言うていて、「食べ物にこだわりのある人は出世する」という“哲学”を子どものときによく聞かされました。
美食家サヴァランも、「どんな食べ物を食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間かをあててみせるよ」と言うているくらいです。

出世するかどうかは別にして、料理の嗜好はその人のキャラクターを反映するかもしれません。

以下は蛇足ですが…

信長は、徳川家康を堺に招待して、もてなしました。
その饗応役に最初に任じられたのが明智光秀。
俗説ですが、「腐った魚」を家康に出した、と、怒られた、という話があります。
家康の家来が腐った魚を殿に出された、と、信長に抗議した(チクった)ようです。

でも、ふと思ったのですが…
光秀の領地は近江。
ひょっとしたら光秀は「鮒ずし」をふるまったのかもしれません。
「鮒ずし」は延喜式にも記録が残る、歴史ある食べ物。
光秀にとっては、最高級の料理をふるまったつもりだったのでしょうが、“田舎者”の三河の武士たちには気に入らなかったのかもしれません。

この“誤解”が本能寺の変の遠因になっていたのだとしたら…
家康の口に鮒ずしがあっていたら歴史は変わっていたかも知れない、というお話しです。
コヤブ歴史堂では、今年が「大坂の役400年」であることを「記念」し、ここで活躍した武将を取り上げています。
塙団衛門、前田利常の他、次回も大坂の役にまつわるさまざまなお話しをしていきますのでどうかお楽しみに。

近年、戦国時代に関するさまざまな通説が覆されつつあります。

桶狭間の戦い、長篠の戦いなどのあり方はもちろん、小牧・長久手の戦いなども従来の考え方とは大きく評価が変わっています。
桶狭間の戦いは、今川義元が上洛をめざしての西進の結果でもなければ信長の奇襲でもありません。
長篠の戦いも大量の鉄砲の使用はなされましたが、有名な三段撃ちはおこなわれていません。
小牧・長久手の戦いも、後の天下人、家康の過大評価がおこなわれていることは間違いのないところでしょう。(このあたりのことは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』で色々紹介しています。是非お読みください。)

関ヶ原の戦いも、ずいぶんとおもしろおかしく誇張・脚色がなされていると思います。
石田三成と上杉景勝が「呼応」して徳川家康を挟撃しようとした“陰謀”も、上杉景勝の家老、直江兼続が徳川家康を挑発した「直江状」も、実在があやぶまれている話です。
小説などでは家康が、西軍の挙兵をあらかじめ待っていたかのように、東軍を率いて戦うような話になっていますが、西軍挙兵の報せを受けた家康が、実際は驚いて狼狽したことなどもわかっています。しばらく関東を動かなかったのも、単に「臆していた」だけだったのかもしれません。

大坂の役も、ほんとうに家康がいろいろな陰謀を張り巡らせたものだったのか、ほんとうに豊臣家を滅ぼすつもりだったのか、現在では疑問視されるようになってきました。

大坂の役に際して、豊臣方に味方した将兵の多くは、「豊臣家の存続」のために戦ったというより、むしろ豊臣家を滅ぼすきっかけをつくっており、自身の巧名のために豊臣家を利用していたような感じも否定できません。
片桐勝元や大野治長は豊臣家の存続を考えていた、ところが引き込んだ浪人や元大名たちが、「自身の売り込み」「徳川への復讐」などの理由から、片桐勝元らを追い出し、大野治長を抱き込んで(擁立というより、秀頼や淀殿を半ば人質のようにして)戦いを起こした、という見方があってもよいのではないか、ということです。

淀殿の評価も、わたしは、やや歪められたものだと考えている派です。
秀吉の正室、北の政所と淀殿が対立していた、というのも、巷間言われているほどではなかったような気がしてなりません。
“物語”としては、表の男の戦い、裏の女の戦い、という構図がおもしろいところですが、淀殿を歴史の主人公として“過大評価”するのはどうかな、と、考えざるをえません。
「女が政治に口出しするとろくなことはない」という儒学の封建的な偏見が含まれている逸話のような臭いもします。

20世紀の戦国時代像は、21世紀に入ってから大きく変わろうとしていることは確かです。
武将には、二種類あるといわれています。

将の将たる将
兵の将たる将

前者は、いわゆる大将というもので、配下の部将を指揮する司令官。
後者は、大将の命令を受けて、兵たちを統率していく現場指揮官。

五月十七日と三十一日は太田道灌と立花道雪の二人をそれぞれ取り上げました。
二人に共通することの第一は、

 兵の将たる将

であるということでしょう。
それぞれ太田道灌が上杉定正、立花道雪が大友宗麟、という東西の戦国大名の部将として活躍し、いずれも個性的で、カリスマ性があり、兵卒に人気があって、兵を自らの手足のように動かすことができました。

彼らの逸話は、江戸時代の“戦国時代ブーム”の中で、多くの武士たちの間に広がっていきました。
江戸時代も17世紀末になると戦国時代の遺風は禁止され、文治主義の時代となりました。
よって机上や書物の中でのみ「古き良き時代」が語られるようになり、戦国時代が物語化していくことになったのです。

『名将言行録』や『常山紀談』、その他の説話集などは、みな、武士の教育や教訓に利用されたフィクションがたくさん盛り込まれています。
モトになった話は存在したでしょうが、当然、色々加工がなされています。

ただ、おもしろい話、というだけでなく、実は巧みに「対比」されて語られる仕掛けがみられるものもあり、一見、時代も場所も異なる、太田道灌と立花道雪には「武士の心得ておくべき教訓」の対比が仕込まれている逸話があります。

まず、「道灌」と「道雪」という名前(号)です。

「灌」は水、雨など、水を注ぐという意味の文字。
「雪」は雪ですよね。

道灌の場合は、道中、雨に降られたときに、蓑を借りようとして山吹の花をさしだされた、という逸話(「実の(蓑)一つだに無きぞかなしき」という歌を知らなかったことを恥じて和歌を勉強した)というところから「道灌」という号を名乗ったという話もありますが、一方が「道に水」、一方が「道に雪」という対比がおもしろいところです。
立花道雪は、「道に雪がつもると、雪は溶けるまでそこを動かない」ので、「一人の主君にいったん仕えたら死ぬまで主君を変えない」ということから道雪と号した、といわれています。

主君との関係においても二人は対比されます。

道灌は主君に裏切られ殺される。
有能な部下が無能な主君にねたまれた、という話。

道雪は主君に対する忠義を貫いて死ぬ。
無能な主君を支えて支え抜いた、という話。

番組でもとりあげましたが、共通して「猿」の逸話が出てきます。

足利義政は、凶暴な猿を部下に相手をさせて、その困った反応をみて喜んでいました。
それに対して太田道灌は、あらかじめ義政の猿の飼育係を買収して、猿を自分になつかせておいて(折檻して痛めつけておどしておいて)、猿が道灌をおそれるようにしておきます。
猿に襲われて困る道灌を見ようとしていた義政は、道灌の威に猿が屈したと思い、感心した、といいます。
“策士”としての道灌を物語るエピソードでした。

それに対して道雪はめっちゃストレート。
大友宗麟は、凶暴な猿を部下に相手をさせて、その困った反応をみて喜んでいました。
それに対して立花道雪。猿が飛びかかってきたところ、鉄扇で一撃してその猿をつぶして殺してしまいました。「こんなバカなことはやめなさいっ」と説教する、というわけです。

中国の『史記』などにも、主君を戒める臣下の“姿”が描かれていますが、まさにこの二例のようなケースです。
一つは知恵でやりこめる、もう一つはストレートにありのままに訴える…

太田道灌は前者で、立花道雪は後者。

道灌、道雪。二人のエピソードを読んだ江戸時代の武士たちは、自分のキャラクターに合わせて、おれは道灌タイプだな、おれは道雪がいいな、と、武士のあり方、生き方を“選択”したことでしょう。
ただ、どちらのエピソードも、「主に仕えるのはまことに難しいものだ」ということを痛感させられるところが多いかもしれません。

『名将言行録』『常山紀談話』、その他の逸話集。何やら重なった、同じようなエピソードがあるのですが、よくよく読んでみてください。
読み手の年齢、立場、境遇に合わせて、いろいろ適合できるように工夫されていることがわかります。
フィクションがほとんどかもしれませんが、何かしらの史実を、読み手のニーズに合うように作り変えて構成しているものがあって、対比させて考えていくとよりおもしろく読めると思います。


今回は、まぁ、だからそれがどうした、という話なのですが…

平忠盛-平清盛-平重盛

の三代には、ある家庭内の共通点があるんですよ。気が付いた人は、それなりの平家ツウかもしれませんね。

平忠盛には複数の妻とその子がいました。

祇園女御の妹-清盛
藤原宗子  -家盛・頼盛

平清盛にも複数の妻とその子がいました。

高階基章の娘-重盛・基盛
平時子   -宗盛・知盛

平重盛にもまた複数の妻とその子がいました。

官女    -維盛
藤原経子  -清経・有盛・師盛
藤原親盛の娘-資盛


忠盛の最初の妻は死に、後妻をむかえています。
清盛の最初の妻は死に、後妻をむかえています。
重盛の最初の妻は死に、後妻をむかえています。

平氏嫡流の三代そろって、妻に先立たれ後妻をむかえている…
わりとめずらしいケースだと思うんですよね。

で、何というか… 
後妻の正室は継室というのですが、前妻よりも後妻のほうが実家の身分が高い、というような感じがします。
そしてこのことが、平家の「家庭問題」の原因となり、それが三代続いて色々とややこしい“事情”をもたらしているともいえるんです。

忠盛の後妻、藤原宗子とはいわゆる“池禅尼”のことです。
清盛は、生母に死なれており、よりによって祇園闘乱事件なんぞを起こすものだから、次男ながら家盛が平家の棟梁となる可能性がたいへん高くなりました。
ところが病死してしまい、清盛が忠盛の後継者となりました。
もし、家盛が生きていたら… 清盛の“天下”はなかったかもしれません。

池禅尼といえば、平治の乱で負けた源義朝の子、頼朝の助命嘆願したことでも有名で、ゆえにその子、頼盛は平氏滅亡後も源頼朝に厚遇された、という“伝説”が生まれます。(実際は助命嘆願は別人がしたようで、都の貴族に顔が広かった頼盛を頼朝が利用しようとしたからだともいわれています。)

清盛の妻、高階基章の娘も、ちょっとややこしい話はあるのですが、高階家をのぼっていくと、あの紫式部にたどりつく、と、いえなくもありません。重盛は紫式部の子孫?ということになってしまいます。
ところが、重盛も生母に死なれており、後妻がかの有名な平時子。
重盛が父の清盛よりも先に死んだことも原因ですが、維盛や資盛が清盛の後継者となりえなかったのは、年齢の問題もありますが、やはり宗盛の母が平時子だったことが重要な意味があったような気がします。

重盛の最初の妻にいたっては、「官女」ということです。
その女性との間に生まれた子が維盛です。
軍団の長として活躍しながらも、父の後継とはなりえなかった、母の身分が低かったから、ともいえるかもしれません。
実際、殿下乗合事件(貴族に対して資盛の家来が無礼を働いた事件)のとき、平資盛のことが「嫡男」と記録されていることから、重盛は後継者を維盛ではなく資盛にするつもり(あるいはしていた)可能性が大です。

資盛の母、藤原親盛の娘は“二条院内侍”のことです。
親盛は従五位下下総守で、関東下総での親平氏勢力となっていましたが、頼朝に従った千葉氏によって一族は滅亡させられています。
重盛の正室は実は藤原経子で、清経は重盛の三男、有盛は四男、師盛は五男ということになります。

それにしても…
しかし、この重盛の一族(小松家)は、『平家物語』ではなかなかの悲劇の一族として描かれています。
平家の都落ち以後、悲嘆にくれていた清経は豊後で入水自殺…
一の谷の戦いのころ、維盛は那智で入水自殺…
一の谷の戦いでは、わずか14才で師盛が討死…

清経の死
維盛の死

資盛は、このことを知った愛人建礼門院右京大夫より慰めの文をもらいました。
しかし、その返し文には

 あるほどが
 あるにもあらぬ
 うちになほ
 かく憂きことを
 見るぞかなしき

という歌をしたためて右京大夫に送りました。

「生きていることが生きていることにもならないこの世にあって、おまけにこんなつらい目にあうとは哀しいことです。」

この手紙が右京大夫への資盛の最後の文となりました。

そして壇ノ浦の戦い…

資盛は、残った弟の有盛と、従弟にあたる平行盛と三人、手に手をとって入水しました。