武将には、二種類あるといわれています。
将の将たる将
兵の将たる将
前者は、いわゆる大将というもので、配下の部将を指揮する司令官。
後者は、大将の命令を受けて、兵たちを統率していく現場指揮官。
五月十七日と三十一日は太田道灌と立花道雪の二人をそれぞれ取り上げました。
二人に共通することの第一は、
兵の将たる将
であるということでしょう。
それぞれ太田道灌が上杉定正、立花道雪が大友宗麟、という東西の戦国大名の部将として活躍し、いずれも個性的で、カリスマ性があり、兵卒に人気があって、兵を自らの手足のように動かすことができました。
彼らの逸話は、江戸時代の“戦国時代ブーム”の中で、多くの武士たちの間に広がっていきました。
江戸時代も17世紀末になると戦国時代の遺風は禁止され、文治主義の時代となりました。
よって机上や書物の中でのみ「古き良き時代」が語られるようになり、戦国時代が物語化していくことになったのです。
『名将言行録』や『常山紀談』、その他の説話集などは、みな、武士の教育や教訓に利用されたフィクションがたくさん盛り込まれています。
モトになった話は存在したでしょうが、当然、色々加工がなされています。
ただ、おもしろい話、というだけでなく、実は巧みに「対比」されて語られる仕掛けがみられるものもあり、一見、時代も場所も異なる、太田道灌と立花道雪には「武士の心得ておくべき教訓」の対比が仕込まれている逸話があります。
まず、「道灌」と「道雪」という名前(号)です。
「灌」は水、雨など、水を注ぐという意味の文字。
「雪」は雪ですよね。
道灌の場合は、道中、雨に降られたときに、蓑を借りようとして山吹の花をさしだされた、という逸話(「実の(蓑)一つだに無きぞかなしき」という歌を知らなかったことを恥じて和歌を勉強した)というところから「道灌」という号を名乗ったという話もありますが、一方が「道に水」、一方が「道に雪」という対比がおもしろいところです。
立花道雪は、「道に雪がつもると、雪は溶けるまでそこを動かない」ので、「一人の主君にいったん仕えたら死ぬまで主君を変えない」ということから道雪と号した、といわれています。
主君との関係においても二人は対比されます。
道灌は主君に裏切られ殺される。
有能な部下が無能な主君にねたまれた、という話。
道雪は主君に対する忠義を貫いて死ぬ。
無能な主君を支えて支え抜いた、という話。
番組でもとりあげましたが、共通して「猿」の逸話が出てきます。
足利義政は、凶暴な猿を部下に相手をさせて、その困った反応をみて喜んでいました。
それに対して太田道灌は、あらかじめ義政の猿の飼育係を買収して、猿を自分になつかせておいて(折檻して痛めつけておどしておいて)、猿が道灌をおそれるようにしておきます。
猿に襲われて困る道灌を見ようとしていた義政は、道灌の威に猿が屈したと思い、感心した、といいます。
“策士”としての道灌を物語るエピソードでした。
それに対して道雪はめっちゃストレート。
大友宗麟は、凶暴な猿を部下に相手をさせて、その困った反応をみて喜んでいました。
それに対して立花道雪。猿が飛びかかってきたところ、鉄扇で一撃してその猿をつぶして殺してしまいました。「こんなバカなことはやめなさいっ」と説教する、というわけです。
中国の『史記』などにも、主君を戒める臣下の“姿”が描かれていますが、まさにこの二例のようなケースです。
一つは知恵でやりこめる、もう一つはストレートにありのままに訴える…
太田道灌は前者で、立花道雪は後者。
道灌、道雪。二人のエピソードを読んだ江戸時代の武士たちは、自分のキャラクターに合わせて、おれは道灌タイプだな、おれは道雪がいいな、と、武士のあり方、生き方を“選択”したことでしょう。
ただ、どちらのエピソードも、「主に仕えるのはまことに難しいものだ」ということを痛感させられるところが多いかもしれません。
『名将言行録』『常山紀談話』、その他の逸話集。何やら重なった、同じようなエピソードがあるのですが、よくよく読んでみてください。
読み手の年齢、立場、境遇に合わせて、いろいろ適合できるように工夫されていることがわかります。
フィクションがほとんどかもしれませんが、何かしらの史実を、読み手のニーズに合うように作り変えて構成しているものがあって、対比させて考えていくとよりおもしろく読めると思います。