こんなに変わった歴史教科書2 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 

「四大文明」というが「四大河文明」とは言わなくなりました。

 

メソポタミア・エジプト・インド・中国を「四大文明」と説明します。もちろん、文明はこの四つだけではありませんが、あくまでも代表的な「四つ」として紹介する、という形になっています。

授業では、「この四つだけでは無いんだよ」と説明した上で、それぞれの話が始まります。

四十歳以上の方ならば、「四大河文明」と「河川」と関連付けて説明します。

そのため、インド文明は「インダス文明」、中国文明は「黄河文明」とかつては説明しました。いまでも、間違いではありませんが、「インドの文明」として、インダス川流域に紀元前2500年ころから出現したインダス文明に限定せず、紀元前1500年以降にガンジス川にまで支配が達したことを受けて、大きく「インドの文明」と括るようになりました

ちなみに、かつては紀元前1500年に北方遊牧民のアーリヤ人が「侵入」した、と説明していましたが、「侵入」を「進入」と表記するようになりました。

「侵入」だと、インダス文明をアーリヤ人が「滅ぼした」かのような誤解を与えてしまいますし、しかもかつてはアーリヤ人がインダス文明を滅ぼした、というように説明していた時もあったのですが、現在では、インダス文明の衰退後、アーリヤ人が「進入」したことがわかっています。アーリヤ人がインダス文明を滅ぼしたわけではありません。

中国文明の場合は、「黄河・長江流域にも文明が成立した」というように、黄河流域だけでなく、長江流域の文明にも言及するようになっています。よって「黄河文明」と限定することはなくなりました。

エジプト文明の「ピラミッド」の扱いも、昔とはずいぶん変わりました。

「エジプトはナイルの賜物」とその著『歴史』で書いたヘロドトスが、「ピラミッドは10万人の奴隷が20年かけて造った」と記していたこともあり、長くピラミッドは王の墓で、奴隷が造営したもの、と考えられてきました。

ところが、クルト=メンデルスゾーンという学者が論文を著して以降、この考え方が大きく変わっています。

奴隷労働によって建てられたのではなく、報酬(ビールやパン)を与えた農民による労働によって造られた、というように考えられるようになりました。ピラミッド造りは「公共事業」としての側面が強かった、という考え方です。

ピラミッドを造るための村に残された人々の日記からも、お祭り行事のように楽しんでピラミッド造りに参加していたことがわかるようになりました。

ただ、農閑期の失業対策、とまで断言していいかどうかは、議論の余地が残されていますが、奴隷による強制労働の成果、という説明は現在ではしません