本能寺の変には、不明なコトがけっこうあります。
まず、明智光秀本人はどうしていたのか?
え? そんなことわかっていないの? と思われるかもしれませんが、桂川を越えたところで部隊を三つに分けました。
斎藤利三、明智秀満などが兵を率いて洛中に入って本能寺を襲撃したことは確かなのですが、主将たる明智光秀がこのとき、どこにいて全体の指揮をとっていたのか、イマイチわかっていないのですよ。
本能寺の攻撃に参加していたのでしょうか?
それとも、信長の長男、信忠がたてこもる二条城を攻撃していたのでしょうか?
はたまた、別動隊を組織して“どこか”に向かっていたのでしょうか?
二つ目の不明なことは、小説やドラマでよく見られることなのですが、信長の“妻”で、斎藤道三の娘、いわゆる“濃姫”さんは本能寺に信長といっしょにいたのかどうか…
ちなみに大河ドラマでは、16回、本能寺で信長は死んでいるのですが、濃姫がいっしょに信長と死んでいるバージョン、存在がまったく無視されているバージョンの二つの設定がおこなわれています。
濃姫が本能寺にいて、そして信長といっしょに死んだのか、実はよくわかっていないんです。
ただ、最近の研究では、信長の死後、20年ほど生存していたことが確認されたので、夫婦そろって本能寺のの変で果てる、というのはドラマや小説の“演出”であって史実ではない、と、考えておいたほうがよいでしょう。
実は戦国大名の妻たち、娘たちは、案外と哀しい(というかひどい)扱いを受けていたケースが多いのです。たんに後継ぎを産み出す存在で、子どもが生まれなければ尼にされたり放逐されたりしていました。
その結果、子どもの生まれていない妻たちの、その存在や言動は記録上(歴史上)ほとんど出てこない場合が多いんです。
哀しいことに、ある時期から、濃姫は“消えて”しまうんですね…
というか、後継者を生んだ者が実質の「正室扱い」になる、というのがもともとの武家のしきたりでした。
たとえば有名な秀吉の妻、おねさんも、官位をもらって“北の政所”と呼ばれていましたが、最近の研究では、淀殿も“政所”と呼称されていた記録が発見されています。
従来考えられていた以上に、淀殿の地位は高かったことがわかってきました。
三つ目は、安土城はいったいどうなっていたか? ということです。
いや、たしか後に織田信雄によって火を放たれたのではなかったか?
いや、たしか雑兵や農民たちが略奪して出火したのではないか?
と、思っておられる方もいられますが、それは本能寺の変の後のことで、本能寺の変が起こったときはどうしていたの?? という話なんです。(ちなみに、現在の研究では織田信雄放火説は否定されています。)
本能寺の変の前、信長は岐阜城を出た後、安土城に入り、そうして本能寺に入りました。
安土城の守備をまかされていたのが、蒲生賢秀です。
ほんとに巷間言われているように、近畿地方は“軍事的な空白”だったのでしょうか。
信長は、兵も率いず、そんな移動をしていたのでしょうか。
実は、蒲生賢秀は、信長から1500の兵をあずかっていたのです。
ところが不思議なことに、変の報せを受けて、なぜか安土城を放棄し、自分の領地の日野城に移動します。
これもよくわからない行動で、戦術的にも、安土城のほうがはるかに堅城で、1500の兵が籠れば数日以上はもちこたえられるはずです。
戦略的にもこの撤退はおかしいのです。だって、信長の遺体も見つからず、信長の生死が確認できない段階で、なぜ、こんな動きをしたのか。
信長が討たれた、という確信を得て、自分の領地を守るために移動したということが考えられますが、実は蒲生賢秀は、三重県の松阪市にいた、織田信雄に救援要請をしていて、織田信雄は1万の兵を持って安土にむかっていたのです。
ずっと安土に待機していたらいいんですよ。
安土城に籠城する。
明智軍がやってきて包囲する。
そして戦っているうちに織田信雄軍が到着する。
反包囲して明智軍を叩く。
という、もっとも理想的な作戦展開が可能でした。
実際、蒲生賢秀はそう考えて援軍要請したはずなんですよね。
四つ目のよくわからないことは…
四国の長宗我部元親討伐のために、大坂には1万4000の兵がいたのです。
これらは戦闘準備を整えて集結していたのですから、即戦力です。
主将は織田信孝で、それを補佐していたのが丹羽長秀。
本能寺の変の報せで、半数の7000が逃亡した、というのです。
これもよくわからないところなんです。
彼らは、北陸の柴田勝家や、関東の滝川一益のように、具体的な“敵”に直面していたわけではないんですよ。
いったい“何を”おそれて逃亡したのか…
織田信長の息子が主将で、織田家の重臣、丹羽長秀が兵を率いているというのに、こんな逃亡事件がどうして起こったのか…
何度も言いますが、信長の遺体も見つからず、生死が不明な段階で(信長の生死がわからず様子見をしている大名たちもいたのに)なぜ動かなかったのか…
そして逃亡した兵7000はどこへ消えたのか…
なんだか、みんな「羽柴秀吉の登場」を待っていたかのようです。
あ、いや、誤解なさらないでください。
本能寺の変の黒幕が秀吉だった、という説を展開しようというのではないのです。
秀吉が“中国大返し”で率いていた兵は約2万。
山崎の戦いに参加していた光秀討伐軍は3万6000ほど。
単純に、四国討伐軍と合流するとこの“足し算”はうまくいきます。
7000の兵は実は逃亡しておらず、秀吉軍と合流してちゃんと戦っていたのではないでしょうか。
後に秀吉の天下が確定した後、秀吉は、討伐軍の主力が自分であったことを“強調”(誇張)するために、織田信孝、丹羽長秀の兵数を「低く表記させる」操作をしたのではないでしょうか…
本能寺の変が秀吉の陰謀だとはいいません。
しかし、その後、本能寺の変の“ディテール”をちょっぴり改竄するくらいのことはしているような気がします。
いやぁ~ おれが兵を率いて中国地方からもどってきたときは、四国軍は逃亡しているし、安土城は放棄されちゃってるし、たいへんだったんだぜ~
みたいな「自慢話」「ホラ話」が史実に混じり込んでいる可能性はあるんではないでしょうか。
飛鳥時代といいますと、たとえば中学入試では二つのことが重要です。
「聖徳太子」と「大化の改新」
中学入試では頻出テーマなのに(これが出ない中学入試問題はまずありません。)、大学入試になると、突然、出題率は低下し、出される部分はごく限られたところになります。
では、その限られたところはどこかといいますと、その判別のポイントは簡単で、
『日本書紀』だけに書かれている記述は出ない。
『日本書紀』だけでなく他の史料・遺跡でもそのことが確認できるものは出る。
ということです。
たとえば聖徳太子の政治に関しては、実は中国の『隋書』倭国伝のほうにも記述されていて、これによって客観化できる部分に関しては大学入試でもよく出されることになります。
【南山大学】
次の文を読み、下記の設問(1)~(6)に答えなさい。
●589年、隋が中国を統一した。ヤマト政権は、国内外の情勢を考慮し、a中国に再び使者を派遣するようになった。
(1)下線部aについて述べた文として誤っているものを一つ選びなさい。
ア 倭の五王の時代の後、約1世紀の間、中国との外交の記録はない。
イ 蘇我馬子が推古天皇を擁立し、厩戸皇子も政務にあたった。
ウ 蘇我馬子は、新羅に伽耶諸国を割譲した大伴氏を滅ぼした。
エ ヤマト政権は、伽耶諸国の回復を図ったが成功しなかった。
6世紀末、推古天皇が位につき、厩戸王と蘇我馬子による政治が始まりました。厩戸王はいわゆる聖徳太子のことです。中学受験では「聖徳太子」と表記され、大学入試では「厩戸王」あるいは「厩戸皇子」と表記するのが昨今ではふつうになりました。
さて、「倭の五王の時代」とは5世紀のことをさします。五人目の「武」が雄略天皇と考えられていて、『宋書』倭国伝によると、安東大将軍の称号を授けられた、ということになっています。
そこから次の『隋書』倭国伝の記述まで、120年ほど通交の記録がみられません。
日本の内政上・外交の混乱があったこと、中国のほうでも、南北朝時代の対立などが続いていたこと、などの理由で外交がなかった(あったとしても記録に残りにくい状況であった)と考えられます。
内政上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、大王位をめぐる諸豪族の対立。
外交上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、朝鮮半島南部の情勢をめぐる諸豪族の対立。
の、二つです。
武烈・継体の時代。
安閑・宣化の時代。
このときに大王位をめぐる混乱が続きます。(後には、『日本書紀』などによると、仏教の受け入れをめぐる蘇我・物部の対立が起こりました。)
また、朝鮮半島南部の諸地域(伽耶諸国)を、大伴金村が百済に割譲したことをめぐって大伴氏が失脚しています。(よって選択肢ウが誤り。)
そして新羅が朝鮮南部の伽耶諸国から日本の勢力を追い出してしまいます。(『日本書紀』では任那日本府が滅ぼされた、という記述になっています。)
(これより前には、新羅と結んだ北九州の筑紫の国造、磐井が反乱を起こしています。)
こういう内外の危機をなんとか克服し、新しい政治体制を確立しようとする動きが、推古天皇の擁立、厩戸王・蘇我氏による政治であったんですね。
「聖徳太子の政治」における外交は、中学入試では
遣隋使の派遣
ということで終わりなのですが、実は『日本書紀』などによると興味深い記述があります。
新羅によって滅ぼされた任那を回復するために、なんと推古天皇のときの600年、新羅征討軍を派遣していることになっています。
第一回目は成功しますが、第二回、第三回は計画だけに終わり、軍事作戦そのものも実行されず、伽耶諸国の回復は実現しませんでした(選択肢エは正しい)。
●遣隋使の派遣回数については、3~6回の間で説が分かれ、第1回の派遣を『( A )』に記載されている600年とする立場もある。b官僚機構の整備を目的とした制度の導入には、隋の影響があったかもしれない。
(2)空欄Aに入る語として正しいものを下記から一つ選びなさい。
ア 旧辞 イ 国記 ウ 三経義疏 エ 隋書
(3)下線部bに関して述べた次のX・Yについてその正しい組み合わせを一つ選びなさい。
X 官僚の忠誠心を喚起するために、冠位十二階の制を定め、父から子へその位階を引き継ぐこと を認めた。
Y 官僚の自覚を促すことを目的として、憲法十七条を定め、諸豪族間の「和」を強調し、仏教を 尊重するよう求めた。
倭と隋の通交に関しては、『隋書』倭国伝(設問(2)はエ)に記されています。かつては小野妹子の607年をもって最初の遣隋使と説明していたときもあったのですが、現在ではそのような表記は一切しませんし、学校でもそう説明しません。
さて、中学入試で出題される「聖徳太子」の目玉は四つあります。
「遣隋使の派遣」
「冠位十二階の制」
「十七条の憲法」
「法隆寺」
です。基本的に大学入試もこの枠組みです。
ちなみに「冠位十二階」については『隋書』の中にも記述がみられます。
「十七条の憲法」は、偽作だ、と、いう学者も一時はいましたし、聖徳太子は実在しない、という話も話題にはなりましたが、現在ではそれらの説明のあいまいさが指摘されて、「やはり存在していた」という説明に変わりつつあります。
ただ、十七条憲法の表現や中に書かれていることは後年に改変されていることは確かで、もとになった「役人の心得」は推古天皇の時代に間違いなくつくられていたと考えられています。
さて、「冠位十二階」のキモは、
・役人の位を明確にする(色や冠の形で明示する)。
・家柄にとらわれず能力で登用する。
という2点にありました。よってXの「父から子へその位階を引き継ぐ」ということは誤り、ということになります。
「十七条の憲法」は、役人の心得が記されたもので、現代でいう「憲法」とは異なります。
・「和」を大切にしなさい。
・天皇の命令にしたがいなさい。
・仏教をあつくうやまいなさい。
という3点が中学入試や高校入試でもおさえるべきポイントになります。よってYの文は正しい、ということになります。
ただ、「史料」は逆読みすることが大切になります。
「和」を大切にせよ、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、政治上の争いが絶えなかった時代であった、ということがわかります。
天皇の命令にしたがいなさい、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、天皇中心の中央集権体制が確立されていなかった、ということがわかります。
仏教をうやまいなさい、と。わざわざ記されているということは、まだ仏教が十分浸透していなかった、ということがわかります。
豪族の争いをおさめ、仏教という当時最新の思想を基にして、中央集権国家体制をつくっていこう、というのが推古・厩戸・蘇我政権のねらいであったということがわかります。
(次回に続く)
「聖徳太子」と「大化の改新」
中学入試では頻出テーマなのに(これが出ない中学入試問題はまずありません。)、大学入試になると、突然、出題率は低下し、出される部分はごく限られたところになります。
では、その限られたところはどこかといいますと、その判別のポイントは簡単で、
『日本書紀』だけに書かれている記述は出ない。
『日本書紀』だけでなく他の史料・遺跡でもそのことが確認できるものは出る。
ということです。
たとえば聖徳太子の政治に関しては、実は中国の『隋書』倭国伝のほうにも記述されていて、これによって客観化できる部分に関しては大学入試でもよく出されることになります。
【南山大学】
次の文を読み、下記の設問(1)~(6)に答えなさい。
●589年、隋が中国を統一した。ヤマト政権は、国内外の情勢を考慮し、a中国に再び使者を派遣するようになった。
(1)下線部aについて述べた文として誤っているものを一つ選びなさい。
ア 倭の五王の時代の後、約1世紀の間、中国との外交の記録はない。
イ 蘇我馬子が推古天皇を擁立し、厩戸皇子も政務にあたった。
ウ 蘇我馬子は、新羅に伽耶諸国を割譲した大伴氏を滅ぼした。
エ ヤマト政権は、伽耶諸国の回復を図ったが成功しなかった。
6世紀末、推古天皇が位につき、厩戸王と蘇我馬子による政治が始まりました。厩戸王はいわゆる聖徳太子のことです。中学受験では「聖徳太子」と表記され、大学入試では「厩戸王」あるいは「厩戸皇子」と表記するのが昨今ではふつうになりました。
さて、「倭の五王の時代」とは5世紀のことをさします。五人目の「武」が雄略天皇と考えられていて、『宋書』倭国伝によると、安東大将軍の称号を授けられた、ということになっています。
そこから次の『隋書』倭国伝の記述まで、120年ほど通交の記録がみられません。
日本の内政上・外交の混乱があったこと、中国のほうでも、南北朝時代の対立などが続いていたこと、などの理由で外交がなかった(あったとしても記録に残りにくい状況であった)と考えられます。
内政上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、大王位をめぐる諸豪族の対立。
外交上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、朝鮮半島南部の情勢をめぐる諸豪族の対立。
の、二つです。
武烈・継体の時代。
安閑・宣化の時代。
このときに大王位をめぐる混乱が続きます。(後には、『日本書紀』などによると、仏教の受け入れをめぐる蘇我・物部の対立が起こりました。)
また、朝鮮半島南部の諸地域(伽耶諸国)を、大伴金村が百済に割譲したことをめぐって大伴氏が失脚しています。(よって選択肢ウが誤り。)
そして新羅が朝鮮南部の伽耶諸国から日本の勢力を追い出してしまいます。(『日本書紀』では任那日本府が滅ぼされた、という記述になっています。)
(これより前には、新羅と結んだ北九州の筑紫の国造、磐井が反乱を起こしています。)
こういう内外の危機をなんとか克服し、新しい政治体制を確立しようとする動きが、推古天皇の擁立、厩戸王・蘇我氏による政治であったんですね。
「聖徳太子の政治」における外交は、中学入試では
遣隋使の派遣
ということで終わりなのですが、実は『日本書紀』などによると興味深い記述があります。
新羅によって滅ぼされた任那を回復するために、なんと推古天皇のときの600年、新羅征討軍を派遣していることになっています。
第一回目は成功しますが、第二回、第三回は計画だけに終わり、軍事作戦そのものも実行されず、伽耶諸国の回復は実現しませんでした(選択肢エは正しい)。
●遣隋使の派遣回数については、3~6回の間で説が分かれ、第1回の派遣を『( A )』に記載されている600年とする立場もある。b官僚機構の整備を目的とした制度の導入には、隋の影響があったかもしれない。
(2)空欄Aに入る語として正しいものを下記から一つ選びなさい。
ア 旧辞 イ 国記 ウ 三経義疏 エ 隋書
(3)下線部bに関して述べた次のX・Yについてその正しい組み合わせを一つ選びなさい。
X 官僚の忠誠心を喚起するために、冠位十二階の制を定め、父から子へその位階を引き継ぐこと を認めた。
Y 官僚の自覚を促すことを目的として、憲法十七条を定め、諸豪族間の「和」を強調し、仏教を 尊重するよう求めた。
倭と隋の通交に関しては、『隋書』倭国伝(設問(2)はエ)に記されています。かつては小野妹子の607年をもって最初の遣隋使と説明していたときもあったのですが、現在ではそのような表記は一切しませんし、学校でもそう説明しません。
さて、中学入試で出題される「聖徳太子」の目玉は四つあります。
「遣隋使の派遣」
「冠位十二階の制」
「十七条の憲法」
「法隆寺」
です。基本的に大学入試もこの枠組みです。
ちなみに「冠位十二階」については『隋書』の中にも記述がみられます。
「十七条の憲法」は、偽作だ、と、いう学者も一時はいましたし、聖徳太子は実在しない、という話も話題にはなりましたが、現在ではそれらの説明のあいまいさが指摘されて、「やはり存在していた」という説明に変わりつつあります。
ただ、十七条憲法の表現や中に書かれていることは後年に改変されていることは確かで、もとになった「役人の心得」は推古天皇の時代に間違いなくつくられていたと考えられています。
さて、「冠位十二階」のキモは、
・役人の位を明確にする(色や冠の形で明示する)。
・家柄にとらわれず能力で登用する。
という2点にありました。よってXの「父から子へその位階を引き継ぐ」ということは誤り、ということになります。
「十七条の憲法」は、役人の心得が記されたもので、現代でいう「憲法」とは異なります。
・「和」を大切にしなさい。
・天皇の命令にしたがいなさい。
・仏教をあつくうやまいなさい。
という3点が中学入試や高校入試でもおさえるべきポイントになります。よってYの文は正しい、ということになります。
ただ、「史料」は逆読みすることが大切になります。
「和」を大切にせよ、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、政治上の争いが絶えなかった時代であった、ということがわかります。
天皇の命令にしたがいなさい、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、天皇中心の中央集権体制が確立されていなかった、ということがわかります。
仏教をうやまいなさい、と。わざわざ記されているということは、まだ仏教が十分浸透していなかった、ということがわかります。
豪族の争いをおさめ、仏教という当時最新の思想を基にして、中央集権国家体制をつくっていこう、というのが推古・厩戸・蘇我政権のねらいであったということがわかります。
(次回に続く)
本能寺の変に関しては、大きなものから小さなものまで、いろいろな“誤解”があります。
まず、ご存知の方も多いところから申しますと、本能寺は「寺」というよりも、城に近いようなものに改造されていた(1580年2月頃)、ということです。
単なるお寺に無防備に信長は“滞在”していたわけではありません。
森成利(蘭丸)らの側近と100人の兵たちが守備していた、と、いっしょにいたと考えられています。
それから、現在の「本能寺」(中京区寺町通御池下ル)は、信長が明智光秀によって討たれた「本能寺」ではない、ということです。
現在の本能寺は、もともとあった場所から、豊臣秀吉が1591年に移転させたもので、もともとは現在の六角通りより南、蛸薬師通りより北、烏丸通りより西、の地域(現在の市立堀河高校の校舎があるあたり)にあったんです。
このあたりは以前に発掘調査され、焼けた瓦なども発見されています。
小さな「誤解」も紹介しておきますと、本能寺の「能」という字は、実は「能」ではないんです。
これは“伝説”ですが…
本能寺は二度ほど焼き打ちされています。
やや歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、一回目は、16世紀前半にあった天文法華の乱のときで、延暦寺の僧兵によって焼き打ちされています。
そして二回目が、信長滞在中に明智光秀が攻撃した「本能寺の変」ということになります。
というわけで…
「能」という字には、「ヒ」という字が二つ入っていますよね。「ヒ」は「火」に通じる…
二度焼けたわけで、三度目にあってはいけない、ということで、現在の「本能寺」の「能」という字は、「火」を「去る」ということで、
「能」ではなく「ヒ」「ヒ」の部分を「去」という字
に変えられた、という伝説です。(もし機会があれば本能寺にお参りしてみてください。この字が用いられています。)
ところがですね、元・本能寺があった地域を発掘調査したときに瓦が見つかったと申しましたが、その瓦に刻まれていた「本能寺」の「能」という字の旁(つくり)の部分が、すでに「去」となっていたことがわかり、「火を去る」という意味をこめて字を変えた、というのはフィクションであったことがわかりました。
当時は、「能」という字ではなく、旁が「去」の字のほうが一般的だったようです。
さてさて、本能寺は、当時も現在も法華宗の寺院です(法華宗本門流)。
もちろん、日蓮を宗祖としているのですが、1413年に日隆が一派をなし、商人たちの援助を受けて、本能寺を建てました。(当時の表記は「本応寺」で、場所も下京区でした。)しかし、教派内の争いで、一時、この寺は破却されてしまい、日隆は、大阪や兵庫県に避難していたようです。
そして再び京都にもどり、再び本能寺を建てることになったのです。
で、先ほど説明した天文法華の乱で焼失してしまうのですが、翌年には再建されます。
日承という人物が本能寺8世になるのですが、この人がなかなか精力的な方で、各地に布教し、畿内はもちろん、北陸やら瀬戸内にまで本門流派を広げ、なんと種子島にも末寺を建てているのですよね…
どうやら、この日承さん、火薬と鉄砲の流通ルートにかなりのコネを持っていて、そんな理由から、織田信長が接近し、信長は日承に帰依しているんですよ。(無神論で、神も仏も信じていない、という信長像はつくられた虚像なんです。)
信長が大量の鉄砲を調達できたり、使用したりしているのは堺商人とのつながりだけでなく、この日承ルートをおさえていたことも大きいと考えられています。
また、本能寺が「要塞化」され、洛中における武器・弾薬庫になっていた理由もこれでわかります。
さらに想像をたくましくすれば、信長の遺体が、本能寺の変のときに発見されなかったのは、単に本能寺が“焼失”したのではなく、中にあった弾薬に引火して“爆発”したからでは、と、考えるのもおもしろいかもしれません。
まず、ご存知の方も多いところから申しますと、本能寺は「寺」というよりも、城に近いようなものに改造されていた(1580年2月頃)、ということです。
単なるお寺に無防備に信長は“滞在”していたわけではありません。
森成利(蘭丸)らの側近と100人の兵たちが守備していた、と、いっしょにいたと考えられています。
それから、現在の「本能寺」(中京区寺町通御池下ル)は、信長が明智光秀によって討たれた「本能寺」ではない、ということです。
現在の本能寺は、もともとあった場所から、豊臣秀吉が1591年に移転させたもので、もともとは現在の六角通りより南、蛸薬師通りより北、烏丸通りより西、の地域(現在の市立堀河高校の校舎があるあたり)にあったんです。
このあたりは以前に発掘調査され、焼けた瓦なども発見されています。
小さな「誤解」も紹介しておきますと、本能寺の「能」という字は、実は「能」ではないんです。
これは“伝説”ですが…
本能寺は二度ほど焼き打ちされています。
やや歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、一回目は、16世紀前半にあった天文法華の乱のときで、延暦寺の僧兵によって焼き打ちされています。
そして二回目が、信長滞在中に明智光秀が攻撃した「本能寺の変」ということになります。
というわけで…
「能」という字には、「ヒ」という字が二つ入っていますよね。「ヒ」は「火」に通じる…
二度焼けたわけで、三度目にあってはいけない、ということで、現在の「本能寺」の「能」という字は、「火」を「去る」ということで、
「能」ではなく「ヒ」「ヒ」の部分を「去」という字
に変えられた、という伝説です。(もし機会があれば本能寺にお参りしてみてください。この字が用いられています。)
ところがですね、元・本能寺があった地域を発掘調査したときに瓦が見つかったと申しましたが、その瓦に刻まれていた「本能寺」の「能」という字の旁(つくり)の部分が、すでに「去」となっていたことがわかり、「火を去る」という意味をこめて字を変えた、というのはフィクションであったことがわかりました。
当時は、「能」という字ではなく、旁が「去」の字のほうが一般的だったようです。
さてさて、本能寺は、当時も現在も法華宗の寺院です(法華宗本門流)。
もちろん、日蓮を宗祖としているのですが、1413年に日隆が一派をなし、商人たちの援助を受けて、本能寺を建てました。(当時の表記は「本応寺」で、場所も下京区でした。)しかし、教派内の争いで、一時、この寺は破却されてしまい、日隆は、大阪や兵庫県に避難していたようです。
そして再び京都にもどり、再び本能寺を建てることになったのです。
で、先ほど説明した天文法華の乱で焼失してしまうのですが、翌年には再建されます。
日承という人物が本能寺8世になるのですが、この人がなかなか精力的な方で、各地に布教し、畿内はもちろん、北陸やら瀬戸内にまで本門流派を広げ、なんと種子島にも末寺を建てているのですよね…
どうやら、この日承さん、火薬と鉄砲の流通ルートにかなりのコネを持っていて、そんな理由から、織田信長が接近し、信長は日承に帰依しているんですよ。(無神論で、神も仏も信じていない、という信長像はつくられた虚像なんです。)
信長が大量の鉄砲を調達できたり、使用したりしているのは堺商人とのつながりだけでなく、この日承ルートをおさえていたことも大きいと考えられています。
また、本能寺が「要塞化」され、洛中における武器・弾薬庫になっていた理由もこれでわかります。
さらに想像をたくましくすれば、信長の遺体が、本能寺の変のときに発見されなかったのは、単に本能寺が“焼失”したのではなく、中にあった弾薬に引火して“爆発”したからでは、と、考えるのもおもしろいかもしれません。
いっそ、本能寺の変にまつわる、奇説・珍説、ほぼ妄想のような話もあえて並べてみましょう。
まず第一は…
明智光秀、知らなかった説。
え、なんじゃそりゃ?
と、なりそうな話ですが… 実は前にお話しさせてもらった「本能寺の変・四国説」と関係があります。(「新発見の史料から 斎藤利三」をご覧ください。)
明智光秀の重臣、斎藤利三の妹は、長宗我部元親の妻でした。おまけに利三の兄、石谷頼辰の娘も、元親の嫡男、信親の妻。
斎藤ファミリーは、完全に長宗我部ファミリーでもありました。
最初は、信長は四国平定を長宗我部元親にまかせていたにもかかわらず、突然、方針を変更し、土佐と阿波国の半分しか認めない、と、言い出して、長宗我部元親がそれに強く反発するようになりました。斎藤利三は、元親を説得し、半ば、成功していたにもかかわらず、信長は、元親征伐の軍勢を出発させてしまおうとしました。
これに怒った斎藤利三が、中国方面の秀吉を援護するように命じられて丹波亀山城に集結している1万4000の兵を率いて本能寺を襲撃した、という説です。
つまり、明智光秀は、現場の戦闘指揮官斎藤利三に兵の運用をまかせていて、利三が兵を率いて出発したものの、行先が本能寺とは知らず、え? あれ? どゆこと? と、なっちゃった、というものです。
これは、本能寺の変の一ヶ月前に、明智光秀が「信長さまのおかげで今日がある。子子孫孫までこの恩を忘れてはならない」とまで書き記していて、信長への忠誠心がかなり高かったことがわかります。よって変を起こすなどとは理解できない、という“心情”から考えられた説です。
明智光秀ちょっとボケすぎ、ということになる説ですよね。
ボケすぎ、といえば、こういう説もあります。
明智光秀、本能寺にいるのが信長とは思わなかった説。
これは、明智軍の中に広がっていた“なぞの噂”を本当である、と、考え直した説です。
われわれは、徳川家康を倒すのだ。
つまり家康は、堺に滞在しているのではなく、本能寺に滞在していると“勘違いして”攻撃してしまった、という超オマヌケ説です。
前提として、信長が家康を謀殺しようとしていた、という考え方がなければもちろんこの説は成り立ちません。
さらに妄想に妄想を重ねて…
信長、謀殺するつもりが謀殺されちゃった説。
織田信長は、徳川家康を招いて堺に滞在させ、そこで家康を謀殺しようと計画します。
そしてそれを明智光秀に命じました。
明智光秀は、わかりました、と、兵を率いて堺に向かうとみせかけ、本能寺の信長を攻撃して殺してしまった、という説です。
もっと大胆に…
そもそも、み~んな作り話説。
羽柴秀吉が、信長を倒すために中国地方から兵を京都に進める。
そして信長を本能寺で倒してしまう。
信長を助けようと丹波亀山城から明智光秀が兵を率いてかけつける。
そうして秀吉と光秀が戦い、秀吉が光秀に勝つ。
勝者は歴史を書き換える特権を得ます。
そこまでの歴史を、すべ~て“捏造”して作り変えて「本能寺の変」というお話しをつくってしまった…
そしてそれを歴史として残してしまう…
ちょっと想像力があれば、まぁ、もう、なんとでも本能寺の変のシナリオは書けそうです。
事実は小説よりも奇なり
というならば、いまだ解明されていない、実際の「本能寺の変」の真相は、小説家や歴史ファンが思い描くような話ではけっしてない、ということになるかもしれませんね。
まず第一は…
明智光秀、知らなかった説。
え、なんじゃそりゃ?
と、なりそうな話ですが… 実は前にお話しさせてもらった「本能寺の変・四国説」と関係があります。(「新発見の史料から 斎藤利三」をご覧ください。)
明智光秀の重臣、斎藤利三の妹は、長宗我部元親の妻でした。おまけに利三の兄、石谷頼辰の娘も、元親の嫡男、信親の妻。
斎藤ファミリーは、完全に長宗我部ファミリーでもありました。
最初は、信長は四国平定を長宗我部元親にまかせていたにもかかわらず、突然、方針を変更し、土佐と阿波国の半分しか認めない、と、言い出して、長宗我部元親がそれに強く反発するようになりました。斎藤利三は、元親を説得し、半ば、成功していたにもかかわらず、信長は、元親征伐の軍勢を出発させてしまおうとしました。
これに怒った斎藤利三が、中国方面の秀吉を援護するように命じられて丹波亀山城に集結している1万4000の兵を率いて本能寺を襲撃した、という説です。
つまり、明智光秀は、現場の戦闘指揮官斎藤利三に兵の運用をまかせていて、利三が兵を率いて出発したものの、行先が本能寺とは知らず、え? あれ? どゆこと? と、なっちゃった、というものです。
これは、本能寺の変の一ヶ月前に、明智光秀が「信長さまのおかげで今日がある。子子孫孫までこの恩を忘れてはならない」とまで書き記していて、信長への忠誠心がかなり高かったことがわかります。よって変を起こすなどとは理解できない、という“心情”から考えられた説です。
明智光秀ちょっとボケすぎ、ということになる説ですよね。
ボケすぎ、といえば、こういう説もあります。
明智光秀、本能寺にいるのが信長とは思わなかった説。
これは、明智軍の中に広がっていた“なぞの噂”を本当である、と、考え直した説です。
われわれは、徳川家康を倒すのだ。
つまり家康は、堺に滞在しているのではなく、本能寺に滞在していると“勘違いして”攻撃してしまった、という超オマヌケ説です。
前提として、信長が家康を謀殺しようとしていた、という考え方がなければもちろんこの説は成り立ちません。
さらに妄想に妄想を重ねて…
信長、謀殺するつもりが謀殺されちゃった説。
織田信長は、徳川家康を招いて堺に滞在させ、そこで家康を謀殺しようと計画します。
そしてそれを明智光秀に命じました。
明智光秀は、わかりました、と、兵を率いて堺に向かうとみせかけ、本能寺の信長を攻撃して殺してしまった、という説です。
もっと大胆に…
そもそも、み~んな作り話説。
羽柴秀吉が、信長を倒すために中国地方から兵を京都に進める。
そして信長を本能寺で倒してしまう。
信長を助けようと丹波亀山城から明智光秀が兵を率いてかけつける。
そうして秀吉と光秀が戦い、秀吉が光秀に勝つ。
勝者は歴史を書き換える特権を得ます。
そこまでの歴史を、すべ~て“捏造”して作り変えて「本能寺の変」というお話しをつくってしまった…
そしてそれを歴史として残してしまう…
ちょっと想像力があれば、まぁ、もう、なんとでも本能寺の変のシナリオは書けそうです。
事実は小説よりも奇なり
というならば、いまだ解明されていない、実際の「本能寺の変」の真相は、小説家や歴史ファンが思い描くような話ではけっしてない、ということになるかもしれませんね。
本能寺の変。
明智光秀が本能寺にいた織田信長を倒した。
いたってシンプルな事実です。
家臣が主人を倒す、いわゆる下剋上の話は数多あるにもかかわらず、この事件は、歴史の中ではかなりな特別扱いを受けている話です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人については、いわゆる“江戸フィルター”を通して、実際の人物像がすっかりと歪められていることは確かです。
江戸時代の中期以降、戦国時代の出来事は、ほとんどが物語化されてしまい、ある時期、江戸時代に書かれた色々な話が、みんな“実話”であるという前提で、歴史が描かれてしまったことがあり、それが学校教育の場で(あるいは受験の塾で)、教師や講師がおもしろおかしく「説明」してしまい、新しい発見や事実がわかった後でも、自分が習ったことをそのまま次世代に語り継いでしまい(誤りが再生産され続けてしまい)いつまでたっても修正されずに現在に残っている、ということになっています。
明智光秀が、自分の領地を取り上げられて、かわりに次の征服地を与える、と、信長に言われた、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。
明智光秀が、人質として自分の母親(あるいは近親者)を差し出して降伏させた人物を信長が殺してしまったために、母親(あるいは近親者)が殺されてしまって信長を恨んだ、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。
もちろん、「敵は本能寺にあり!」と光秀は“宣言”などしていませんし、「長年の苦労がむくわれました」とつぶやいたら「おまえがどんな苦労をしたというのかっ」と信長の怒りをかって欄干に頭を打ちつけられた、などという話もありません。
明智光秀は比叡山延暦寺の焼き打ちを反対した、というのもほぼ作り話で、現在ではむしろ積極的に焼き打ちを計画して実行した、ということがわかりつつあります。
信長と光秀にまつわる、さまざまなエピソードの大部分が(小説として、あるいはテレビドラマなどでよく描かれているシーンが)、ほとんどは「演出」や「フィクション」なんです。
光秀は、丹波亀山城から、1万4000人ほどの兵を率いて、京都に入りました。
大軍だと気づかれると考えたのか、光秀は兵を三つに分けたといいます。
このうち、桂川を越えて洛中に入った兵は3000~4000。
丑寅の刻あたり… 夜中の三時から四時であったろうといわれています。
むろん、秀吉の救援にむかえには、まったくの逆方向ですが、兵たちは、別に不思議に思わなかったようです。そもそも末端の兵に、いちいちどこの誰を討つ、とはほとんど説明もしませんし、兵たちも穿鑿しません。
自分たちが信長を討った、ということを知らなかった兵も、ひょっとしたらいたかもしれません。
奇怪な“うわさ”も兵たちには広がっていました。
信長さまの命令で、堺にいる徳川家康を討つらしいぞ。
このときの明智軍に従軍した兵士が江戸時代になって、こんなふうに回想したモノもあります。
本能寺と目と鼻の先にあった教会の宣教師たちは、本能寺の変を目の当たりにしていましたが、そのときの記録では、
その日、軍事訓練をすることになっていた。
だから本能寺の守備兵たちは、何も疑わずに明智の兵を中に入れた。
と、なっています。
物語的には、大軍が本能寺を包囲した、というような設定になっていますが、案外と、少数の兵が本能寺の周辺に静かに集まって、門番の兵士に「軍事訓練のために集まってきました。中へ入れてください。」と“説明”して入場した可能性もあります。
光秀によるこのクーデターは、実に、見事としか言いようがありません。
想像してみてください。
夜中とはいえ、埼玉県あたりに1万人以上の兵を終結させて、三つに分け、誰にも気づかれずに首相官邸に近づき、侵入して首相を殺害する…
現状の機会をフルに活用し、綿密な計画を立て、迅速に行動しなければ、まず成功しない“作戦”だといえます。
主と息があった部将、よく訓練された兵士と統率力のある現場指揮官。
これらがそろっていないと、ぜったいにうまくいきません。
いろいろな虚構と虚飾を取り払っても、この事実だけは動かせません。
これから何回かにわたって、いろいろな角度から本能寺の変の話をしてみたいと思います。
明智光秀が本能寺にいた織田信長を倒した。
いたってシンプルな事実です。
家臣が主人を倒す、いわゆる下剋上の話は数多あるにもかかわらず、この事件は、歴史の中ではかなりな特別扱いを受けている話です。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人については、いわゆる“江戸フィルター”を通して、実際の人物像がすっかりと歪められていることは確かです。
江戸時代の中期以降、戦国時代の出来事は、ほとんどが物語化されてしまい、ある時期、江戸時代に書かれた色々な話が、みんな“実話”であるという前提で、歴史が描かれてしまったことがあり、それが学校教育の場で(あるいは受験の塾で)、教師や講師がおもしろおかしく「説明」してしまい、新しい発見や事実がわかった後でも、自分が習ったことをそのまま次世代に語り継いでしまい(誤りが再生産され続けてしまい)いつまでたっても修正されずに現在に残っている、ということになっています。
明智光秀が、自分の領地を取り上げられて、かわりに次の征服地を与える、と、信長に言われた、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。
明智光秀が、人質として自分の母親(あるいは近親者)を差し出して降伏させた人物を信長が殺してしまったために、母親(あるいは近親者)が殺されてしまって信長を恨んだ、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。
もちろん、「敵は本能寺にあり!」と光秀は“宣言”などしていませんし、「長年の苦労がむくわれました」とつぶやいたら「おまえがどんな苦労をしたというのかっ」と信長の怒りをかって欄干に頭を打ちつけられた、などという話もありません。
明智光秀は比叡山延暦寺の焼き打ちを反対した、というのもほぼ作り話で、現在ではむしろ積極的に焼き打ちを計画して実行した、ということがわかりつつあります。
信長と光秀にまつわる、さまざまなエピソードの大部分が(小説として、あるいはテレビドラマなどでよく描かれているシーンが)、ほとんどは「演出」や「フィクション」なんです。
光秀は、丹波亀山城から、1万4000人ほどの兵を率いて、京都に入りました。
大軍だと気づかれると考えたのか、光秀は兵を三つに分けたといいます。
このうち、桂川を越えて洛中に入った兵は3000~4000。
丑寅の刻あたり… 夜中の三時から四時であったろうといわれています。
むろん、秀吉の救援にむかえには、まったくの逆方向ですが、兵たちは、別に不思議に思わなかったようです。そもそも末端の兵に、いちいちどこの誰を討つ、とはほとんど説明もしませんし、兵たちも穿鑿しません。
自分たちが信長を討った、ということを知らなかった兵も、ひょっとしたらいたかもしれません。
奇怪な“うわさ”も兵たちには広がっていました。
信長さまの命令で、堺にいる徳川家康を討つらしいぞ。
このときの明智軍に従軍した兵士が江戸時代になって、こんなふうに回想したモノもあります。
本能寺と目と鼻の先にあった教会の宣教師たちは、本能寺の変を目の当たりにしていましたが、そのときの記録では、
その日、軍事訓練をすることになっていた。
だから本能寺の守備兵たちは、何も疑わずに明智の兵を中に入れた。
と、なっています。
物語的には、大軍が本能寺を包囲した、というような設定になっていますが、案外と、少数の兵が本能寺の周辺に静かに集まって、門番の兵士に「軍事訓練のために集まってきました。中へ入れてください。」と“説明”して入場した可能性もあります。
光秀によるこのクーデターは、実に、見事としか言いようがありません。
想像してみてください。
夜中とはいえ、埼玉県あたりに1万人以上の兵を終結させて、三つに分け、誰にも気づかれずに首相官邸に近づき、侵入して首相を殺害する…
現状の機会をフルに活用し、綿密な計画を立て、迅速に行動しなければ、まず成功しない“作戦”だといえます。
主と息があった部将、よく訓練された兵士と統率力のある現場指揮官。
これらがそろっていないと、ぜったいにうまくいきません。
いろいろな虚構と虚飾を取り払っても、この事実だけは動かせません。
これから何回かにわたって、いろいろな角度から本能寺の変の話をしてみたいと思います。