本能寺の変3 誤解 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

本能寺の変に関しては、大きなものから小さなものまで、いろいろな“誤解”があります。

まず、ご存知の方も多いところから申しますと、本能寺は「寺」というよりも、城に近いようなものに改造されていた(1580年2月頃)、ということです。
単なるお寺に無防備に信長は“滞在”していたわけではありません。
森成利(蘭丸)らの側近と100人の兵たちが守備していた、と、いっしょにいたと考えられています。

それから、現在の「本能寺」(中京区寺町通御池下ル)は、信長が明智光秀によって討たれた「本能寺」ではない、ということです。
現在の本能寺は、もともとあった場所から、豊臣秀吉が1591年に移転させたもので、もともとは現在の六角通りより南、蛸薬師通りより北、烏丸通りより西、の地域(現在の市立堀河高校の校舎があるあたり)にあったんです。
このあたりは以前に発掘調査され、焼けた瓦なども発見されています。

小さな「誤解」も紹介しておきますと、本能寺の「能」という字は、実は「能」ではないんです。

これは“伝説”ですが…
本能寺は二度ほど焼き打ちされています。
やや歴史に詳しい方ならご存知だと思いますが、一回目は、16世紀前半にあった天文法華の乱のときで、延暦寺の僧兵によって焼き打ちされています。
そして二回目が、信長滞在中に明智光秀が攻撃した「本能寺の変」ということになります。

というわけで…
「能」という字には、「ヒ」という字が二つ入っていますよね。「ヒ」は「火」に通じる…
二度焼けたわけで、三度目にあってはいけない、ということで、現在の「本能寺」の「能」という字は、「火」を「去る」ということで、

 「能」ではなく「ヒ」「ヒ」の部分を「去」という字

に変えられた、という伝説です。(もし機会があれば本能寺にお参りしてみてください。この字が用いられています。)

ところがですね、元・本能寺があった地域を発掘調査したときに瓦が見つかったと申しましたが、その瓦に刻まれていた「本能寺」の「能」という字の旁(つくり)の部分が、すでに「去」となっていたことがわかり、「火を去る」という意味をこめて字を変えた、というのはフィクションであったことがわかりました。

当時は、「能」という字ではなく、旁が「去」の字のほうが一般的だったようです。

さてさて、本能寺は、当時も現在も法華宗の寺院です(法華宗本門流)。
もちろん、日蓮を宗祖としているのですが、1413年に日隆が一派をなし、商人たちの援助を受けて、本能寺を建てました。(当時の表記は「本応寺」で、場所も下京区でした。)しかし、教派内の争いで、一時、この寺は破却されてしまい、日隆は、大阪や兵庫県に避難していたようです。
そして再び京都にもどり、再び本能寺を建てることになったのです。

で、先ほど説明した天文法華の乱で焼失してしまうのですが、翌年には再建されます。

日承という人物が本能寺8世になるのですが、この人がなかなか精力的な方で、各地に布教し、畿内はもちろん、北陸やら瀬戸内にまで本門流派を広げ、なんと種子島にも末寺を建てているのですよね…

どうやら、この日承さん、火薬と鉄砲の流通ルートにかなりのコネを持っていて、そんな理由から、織田信長が接近し、信長は日承に帰依しているんですよ。(無神論で、神も仏も信じていない、という信長像はつくられた虚像なんです。)
信長が大量の鉄砲を調達できたり、使用したりしているのは堺商人とのつながりだけでなく、この日承ルートをおさえていたことも大きいと考えられています。
また、本能寺が「要塞化」され、洛中における武器・弾薬庫になっていた理由もこれでわかります。
さらに想像をたくましくすれば、信長の遺体が、本能寺の変のときに発見されなかったのは、単に本能寺が“焼失”したのではなく、中にあった弾薬に引火して“爆発”したからでは、と、考えるのもおもしろいかもしれません。