飛鳥時代といいますと、たとえば中学入試では二つのことが重要です。
「聖徳太子」と「大化の改新」
中学入試では頻出テーマなのに(これが出ない中学入試問題はまずありません。)、大学入試になると、突然、出題率は低下し、出される部分はごく限られたところになります。
では、その限られたところはどこかといいますと、その判別のポイントは簡単で、
『日本書紀』だけに書かれている記述は出ない。
『日本書紀』だけでなく他の史料・遺跡でもそのことが確認できるものは出る。
ということです。
たとえば聖徳太子の政治に関しては、実は中国の『隋書』倭国伝のほうにも記述されていて、これによって客観化できる部分に関しては大学入試でもよく出されることになります。
【南山大学】
次の文を読み、下記の設問(1)~(6)に答えなさい。
●589年、隋が中国を統一した。ヤマト政権は、国内外の情勢を考慮し、a中国に再び使者を派遣するようになった。
(1)下線部aについて述べた文として誤っているものを一つ選びなさい。
ア 倭の五王の時代の後、約1世紀の間、中国との外交の記録はない。
イ 蘇我馬子が推古天皇を擁立し、厩戸皇子も政務にあたった。
ウ 蘇我馬子は、新羅に伽耶諸国を割譲した大伴氏を滅ぼした。
エ ヤマト政権は、伽耶諸国の回復を図ったが成功しなかった。
6世紀末、推古天皇が位につき、厩戸王と蘇我馬子による政治が始まりました。厩戸王はいわゆる聖徳太子のことです。中学受験では「聖徳太子」と表記され、大学入試では「厩戸王」あるいは「厩戸皇子」と表記するのが昨今ではふつうになりました。
さて、「倭の五王の時代」とは5世紀のことをさします。五人目の「武」が雄略天皇と考えられていて、『宋書』倭国伝によると、安東大将軍の称号を授けられた、ということになっています。
そこから次の『隋書』倭国伝の記述まで、120年ほど通交の記録がみられません。
日本の内政上・外交の混乱があったこと、中国のほうでも、南北朝時代の対立などが続いていたこと、などの理由で外交がなかった(あったとしても記録に残りにくい状況であった)と考えられます。
内政上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、大王位をめぐる諸豪族の対立。
外交上の混乱とは、いわゆる「6世紀の危機」の一つ、朝鮮半島南部の情勢をめぐる諸豪族の対立。
の、二つです。
武烈・継体の時代。
安閑・宣化の時代。
このときに大王位をめぐる混乱が続きます。(後には、『日本書紀』などによると、仏教の受け入れをめぐる蘇我・物部の対立が起こりました。)
また、朝鮮半島南部の諸地域(伽耶諸国)を、大伴金村が百済に割譲したことをめぐって大伴氏が失脚しています。(よって選択肢ウが誤り。)
そして新羅が朝鮮南部の伽耶諸国から日本の勢力を追い出してしまいます。(『日本書紀』では任那日本府が滅ぼされた、という記述になっています。)
(これより前には、新羅と結んだ北九州の筑紫の国造、磐井が反乱を起こしています。)
こういう内外の危機をなんとか克服し、新しい政治体制を確立しようとする動きが、推古天皇の擁立、厩戸王・蘇我氏による政治であったんですね。
「聖徳太子の政治」における外交は、中学入試では
遣隋使の派遣
ということで終わりなのですが、実は『日本書紀』などによると興味深い記述があります。
新羅によって滅ぼされた任那を回復するために、なんと推古天皇のときの600年、新羅征討軍を派遣していることになっています。
第一回目は成功しますが、第二回、第三回は計画だけに終わり、軍事作戦そのものも実行されず、伽耶諸国の回復は実現しませんでした(選択肢エは正しい)。
●遣隋使の派遣回数については、3~6回の間で説が分かれ、第1回の派遣を『( A )』に記載されている600年とする立場もある。b官僚機構の整備を目的とした制度の導入には、隋の影響があったかもしれない。
(2)空欄Aに入る語として正しいものを下記から一つ選びなさい。
ア 旧辞 イ 国記 ウ 三経義疏 エ 隋書
(3)下線部bに関して述べた次のX・Yについてその正しい組み合わせを一つ選びなさい。
X 官僚の忠誠心を喚起するために、冠位十二階の制を定め、父から子へその位階を引き継ぐこと を認めた。
Y 官僚の自覚を促すことを目的として、憲法十七条を定め、諸豪族間の「和」を強調し、仏教を 尊重するよう求めた。
倭と隋の通交に関しては、『隋書』倭国伝(設問(2)はエ)に記されています。かつては小野妹子の607年をもって最初の遣隋使と説明していたときもあったのですが、現在ではそのような表記は一切しませんし、学校でもそう説明しません。
さて、中学入試で出題される「聖徳太子」の目玉は四つあります。
「遣隋使の派遣」
「冠位十二階の制」
「十七条の憲法」
「法隆寺」
です。基本的に大学入試もこの枠組みです。
ちなみに「冠位十二階」については『隋書』の中にも記述がみられます。
「十七条の憲法」は、偽作だ、と、いう学者も一時はいましたし、聖徳太子は実在しない、という話も話題にはなりましたが、現在ではそれらの説明のあいまいさが指摘されて、「やはり存在していた」という説明に変わりつつあります。
ただ、十七条憲法の表現や中に書かれていることは後年に改変されていることは確かで、もとになった「役人の心得」は推古天皇の時代に間違いなくつくられていたと考えられています。
さて、「冠位十二階」のキモは、
・役人の位を明確にする(色や冠の形で明示する)。
・家柄にとらわれず能力で登用する。
という2点にありました。よってXの「父から子へその位階を引き継ぐ」ということは誤り、ということになります。
「十七条の憲法」は、役人の心得が記されたもので、現代でいう「憲法」とは異なります。
・「和」を大切にしなさい。
・天皇の命令にしたがいなさい。
・仏教をあつくうやまいなさい。
という3点が中学入試や高校入試でもおさえるべきポイントになります。よってYの文は正しい、ということになります。
ただ、「史料」は逆読みすることが大切になります。
「和」を大切にせよ、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、政治上の争いが絶えなかった時代であった、ということがわかります。
天皇の命令にしたがいなさい、と、わざわざ記されているということは飛鳥時代は、まだ、天皇中心の中央集権体制が確立されていなかった、ということがわかります。
仏教をうやまいなさい、と。わざわざ記されているということは、まだ仏教が十分浸透していなかった、ということがわかります。
豪族の争いをおさめ、仏教という当時最新の思想を基にして、中央集権国家体制をつくっていこう、というのが推古・厩戸・蘇我政権のねらいであったということがわかります。
(次回に続く)