本能寺の変には、不明なコトがけっこうあります。
まず、明智光秀本人はどうしていたのか?
え? そんなことわかっていないの? と思われるかもしれませんが、桂川を越えたところで部隊を三つに分けました。
斎藤利三、明智秀満などが兵を率いて洛中に入って本能寺を襲撃したことは確かなのですが、主将たる明智光秀がこのとき、どこにいて全体の指揮をとっていたのか、イマイチわかっていないのですよ。
本能寺の攻撃に参加していたのでしょうか?
それとも、信長の長男、信忠がたてこもる二条城を攻撃していたのでしょうか?
はたまた、別動隊を組織して“どこか”に向かっていたのでしょうか?
二つ目の不明なことは、小説やドラマでよく見られることなのですが、信長の“妻”で、斎藤道三の娘、いわゆる“濃姫”さんは本能寺に信長といっしょにいたのかどうか…
ちなみに大河ドラマでは、16回、本能寺で信長は死んでいるのですが、濃姫がいっしょに信長と死んでいるバージョン、存在がまったく無視されているバージョンの二つの設定がおこなわれています。
濃姫が本能寺にいて、そして信長といっしょに死んだのか、実はよくわかっていないんです。
ただ、最近の研究では、信長の死後、20年ほど生存していたことが確認されたので、夫婦そろって本能寺のの変で果てる、というのはドラマや小説の“演出”であって史実ではない、と、考えておいたほうがよいでしょう。
実は戦国大名の妻たち、娘たちは、案外と哀しい(というかひどい)扱いを受けていたケースが多いのです。たんに後継ぎを産み出す存在で、子どもが生まれなければ尼にされたり放逐されたりしていました。
その結果、子どもの生まれていない妻たちの、その存在や言動は記録上(歴史上)ほとんど出てこない場合が多いんです。
哀しいことに、ある時期から、濃姫は“消えて”しまうんですね…
というか、後継者を生んだ者が実質の「正室扱い」になる、というのがもともとの武家のしきたりでした。
たとえば有名な秀吉の妻、おねさんも、官位をもらって“北の政所”と呼ばれていましたが、最近の研究では、淀殿も“政所”と呼称されていた記録が発見されています。
従来考えられていた以上に、淀殿の地位は高かったことがわかってきました。
三つ目は、安土城はいったいどうなっていたか? ということです。
いや、たしか後に織田信雄によって火を放たれたのではなかったか?
いや、たしか雑兵や農民たちが略奪して出火したのではないか?
と、思っておられる方もいられますが、それは本能寺の変の後のことで、本能寺の変が起こったときはどうしていたの?? という話なんです。(ちなみに、現在の研究では織田信雄放火説は否定されています。)
本能寺の変の前、信長は岐阜城を出た後、安土城に入り、そうして本能寺に入りました。
安土城の守備をまかされていたのが、蒲生賢秀です。
ほんとに巷間言われているように、近畿地方は“軍事的な空白”だったのでしょうか。
信長は、兵も率いず、そんな移動をしていたのでしょうか。
実は、蒲生賢秀は、信長から1500の兵をあずかっていたのです。
ところが不思議なことに、変の報せを受けて、なぜか安土城を放棄し、自分の領地の日野城に移動します。
これもよくわからない行動で、戦術的にも、安土城のほうがはるかに堅城で、1500の兵が籠れば数日以上はもちこたえられるはずです。
戦略的にもこの撤退はおかしいのです。だって、信長の遺体も見つからず、信長の生死が確認できない段階で、なぜ、こんな動きをしたのか。
信長が討たれた、という確信を得て、自分の領地を守るために移動したということが考えられますが、実は蒲生賢秀は、三重県の松阪市にいた、織田信雄に救援要請をしていて、織田信雄は1万の兵を持って安土にむかっていたのです。
ずっと安土に待機していたらいいんですよ。
安土城に籠城する。
明智軍がやってきて包囲する。
そして戦っているうちに織田信雄軍が到着する。
反包囲して明智軍を叩く。
という、もっとも理想的な作戦展開が可能でした。
実際、蒲生賢秀はそう考えて援軍要請したはずなんですよね。
四つ目のよくわからないことは…
四国の長宗我部元親討伐のために、大坂には1万4000の兵がいたのです。
これらは戦闘準備を整えて集結していたのですから、即戦力です。
主将は織田信孝で、それを補佐していたのが丹羽長秀。
本能寺の変の報せで、半数の7000が逃亡した、というのです。
これもよくわからないところなんです。
彼らは、北陸の柴田勝家や、関東の滝川一益のように、具体的な“敵”に直面していたわけではないんですよ。
いったい“何を”おそれて逃亡したのか…
織田信長の息子が主将で、織田家の重臣、丹羽長秀が兵を率いているというのに、こんな逃亡事件がどうして起こったのか…
何度も言いますが、信長の遺体も見つからず、生死が不明な段階で(信長の生死がわからず様子見をしている大名たちもいたのに)なぜ動かなかったのか…
そして逃亡した兵7000はどこへ消えたのか…
なんだか、みんな「羽柴秀吉の登場」を待っていたかのようです。
あ、いや、誤解なさらないでください。
本能寺の変の黒幕が秀吉だった、という説を展開しようというのではないのです。
秀吉が“中国大返し”で率いていた兵は約2万。
山崎の戦いに参加していた光秀討伐軍は3万6000ほど。
単純に、四国討伐軍と合流するとこの“足し算”はうまくいきます。
7000の兵は実は逃亡しておらず、秀吉軍と合流してちゃんと戦っていたのではないでしょうか。
後に秀吉の天下が確定した後、秀吉は、討伐軍の主力が自分であったことを“強調”(誇張)するために、織田信孝、丹羽長秀の兵数を「低く表記させる」操作をしたのではないでしょうか…
本能寺の変が秀吉の陰謀だとはいいません。
しかし、その後、本能寺の変の“ディテール”をちょっぴり改竄するくらいのことはしているような気がします。
いやぁ~ おれが兵を率いて中国地方からもどってきたときは、四国軍は逃亡しているし、安土城は放棄されちゃってるし、たいへんだったんだぜ~
みたいな「自慢話」「ホラ話」が史実に混じり込んでいる可能性はあるんではないでしょうか。