入試「で」学ぶ楽しい歴史(10) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

(前回からの続き)

【南山大学】

●607年の遣隋使は、国書を受け取った( B )が怒ったというエピソードでよく知られている。( B )にとって「( C )」は自分のみであるから、この怒りは当然であろう。それでも、日本からの使者が無事に帰国し、cそれ以降も遣隋使を派遣できたのは、隋にも、日本との関係を保つメリットがあったからにほかならない。
 618年、隋が滅び、唐に代わった。日本からの使節派遣は続いたが、d両国や周辺諸国の情勢変化に応じて、遣隋使と遣唐使には、それぞれ特徴がみられた

(4)空欄BおよびCに入る語句の組み合わせとして正しいものを一つ選びなさい。

 ア B-文帝 C-大王  イ B-文帝 C-天子
 ウ B-煬帝 C-大王  エ B-煬帝 C-天子

これは小学生でも知っているエピソードです。『隋書』倭国伝に記載がみられるところです。

 日出づる処の天子
 日没する処の天子に書をいたす

塾の講師や学校の先生の中には、「日が出る」「日が沈む」という表現で、中国の皇帝が「沈む、とは失礼だろっ」と怒ったと説明しちゃう人がいますが、当時から「日が出る」は東、「日が沈む」は西、と、外交用語として表現されているので、ここに無礼は感じません。

ひょっとすると学校の先生や塾の講師もこのブログを読んでくださっているかもしれないので、授業のネタに使えるように、ちょっと細かく説明しておきますと…

この文書の作成者は仏教の造詣が深い人物が著したことがよくわかるのです。
しかも、読んでくれる相手も仏教を知っている人物である、ということを前提にしているものなのです。
宛名には「海西の菩薩天子」という言葉が使われており、煬帝を「菩薩天子」、仏教を栄えさせている名君、と、まずは持ち上げるところから入っています。
で、仏典の一つに『大智度論』というのがあるのですが、そこに

日出づる処は東
日没する処は西
日行く処は南
日行かざる処は北

と明記してあるんです。ここから引用しているので、この国書を読めば、「お、これは仏教のことを知っているヤツ(教養ある文化人)が書いているな。」とわかるんですよね。
(興味のある方は、東野浩之『書の古代史』『遣唐使船 東アジアのなかで』などをお読みください。このあたりのすぐれた研究がわかります。)

ですから煬帝はむしろ、ここは怒ったポイントではなく、感心したポイントだったかもしれません。怒りのポイントは「天子」という表現でした。

「天子」というのは、周囲が野蛮人ばかりの中にあって、文明の中心である「華」の中の一番えらい人(天命を受けた人)なので、“0nly 0ne”なんです。

「天子は二人はおらぬ! 野蛮人のくせに天子を称するかっ!」

と、皇帝さまはお怒りなのです。
この怒っている皇帝は、隋の二代目、煬帝です。(初代は隋の建国者楊堅、つまり文帝です。)
ですから、ここでは、「B-煬帝、C-天子」ということで正解は「エ」になりますね。

天子を称することによって、聖徳太子は、「対等の関係」を築こうとしたと説明されるところです。
怒りながらも、煬帝は日本との国交を重視しました。
煬帝は、朝鮮半島問題で苦慮していたところだったんですね。高句麗に遠征して失敗しているんです。
「遠くと交わりて近くを攻める」は兵法の常識。高句麗遠征のために背後の倭と結んでおく必要はありました。
そして倭(日本)も、600年に新羅に遠征していて朝鮮半島南部の支配権を確立したい(復活したい)と考えていたところですから、隋との接近は欠かせません。

でも、「対等の関係」を「築こうとした」ことと「対等の関係になれた」ということは別です。
あくまでも遣隋使の目的は、外交のみならず中国のすぐれた文化・制度の“輸入”をめざしていたものでした。

(5)下線部cについて、正しいものを次から一つ選べ。

ア 小野妹子は遣隋使として「日本」という国号を伝えた。
イ 渡来人の子孫である裴世清は、学問僧として、遣隋使に同行した。
ウ 遣隋使に同行した留学生の高向玄理は、帰国できず隋で死亡した。
エ 犬上御田鍬の派遣が、遣隋使の最後となった。

さて、いったい日本はいつから「日本」なのでしょう。
国内の史料ではああだこうだといろいろ議論されているのですが、あっさり、お隣の新羅の中の記録に(『新羅本紀』)

「670年、倭国が国号を日本と改めました。」

と書いています。わたしは7世紀後半から「日本」という名称が使用されたとシンプルに考えています。よって、選択肢「ア」は誤り、ということになります。
607年の遣隋使は小野妹子であると考えられていますが、答礼使として派遣されたのが裴世清でした。この人物は学問僧ではありませんし、ましてや渡来人の子孫でもありません。そもそも学問を学ぶための僧は、日本から派遣されるもんですからね。よって「イ」も誤りです。
高向玄理は、これで「たかむこのくろまろ」と読む人物です。帰国後、後に大化の改新のときに国博士の一人となった人物。帰国できずに死んだ、ということはありません。よって「ウ」も誤りです。
ちょっと歴史に詳しい小学生だと、え? 犬上御田鍬って、「最初の遣唐使」ではないの? と思うかもしれませんが、この人物は「最後の遣隋使でかつ最初の遣唐使」なんですよ。

(6)下線部dについて、正しいものを次から一つ選べ。

ア 遣隋使は、朝鮮半島の西沿岸を北上する航路をとったと推定されるが遣唐使は、当初、距離
 が短く安全な東シナ海を渡る航路をとった。
イ 遣隋使の時代は、隋に臣属する形式をとったが、遣唐使の時代は、対等で有効な関係を唐と
 築くことができた。
ウ 遣唐使の派遣回数は遣隋使よりも多かったが、8世紀になると、遣唐使は中断されることも
 あり、派遣の間隔は伸びた。
エ 遣隋使は「四つの船」と呼ばれる小型船で渡ったが、造船技術の発達により、遣唐使は、大
 船一隻で渡航するようになった。

さて、遣唐使の渡航ルートは、大学入試ではよく出題されるものです。
ざっくりと、

「北・中・南」

のルートがあって時代によって違った、と、まずはおぼえてください。
で、“到着地点”が、登州・蘇州・明州の三つだ、と、おぼえてください。

(北)難波津-登州
(中)難波津-蘇州
(南)難波津-明州

で、さらに、

 7世紀 北ルート
 8世紀前半 南ルート
 8世紀後半 中ルート

「北→南→中」の順番である、と、おぼえましょう。「朝鮮半島北上するルート」は遣唐使の「7世紀ルート」なんです。そして「東シナ海を渡る航路」は中ルートで、8世紀後半。つまり当初のルートではありません。よって「ア」は誤りとなります。
ちなみに南ルートは、沖縄や奄美を経由して北九州へ行く、というルートになります。
申しましたように「遣隋使」は臣属する形式をとっていません。よって「イ」も誤りです。
「四つの船」は遣唐使船のことです。よって「エ」も誤り、ということになります。

(遣唐使および遣唐使の停止に関しては拙著『超軽っ日本史』、『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しておきました。是非お読みください。)