6月2日。
これが本能寺の変が起こった日です。
その前日の6月1日、本能寺で茶会が開かれていた、といわれています。
山科大納言の日記に「六月一日 数刻御雑談 茶子・茶これあり」と記されています。
参加者がまた豪華。
関白・太政大臣・左右大臣・内大臣(兼務を含む)はもちろん、前関白・前内大臣も参加し、四位以上の貴族は全員参加しています。
茶人としては、島井宗室が参加していますが、この人物は博多商人でもあります。
島井宗室は何といっても大友宗麟など北九州の大名とはかなりのコネがある人物。この人物が参加している、ということは、中国・四国に対する次なる“外交”が展開しつつあったことがわかります。
ところがですね…
不思議なことに、信長の後継者、織田信忠がすぐ近くの妙覚寺にいるのに参加していないんです。
それだけではありません。
茶会だというのに、織田家の茶頭役の津田宗及はおらず、千利休もいません。
何をしていたかというと、堺で徳川家康の接待を信長から命じられています。
本能寺で開かれている茶会は、天皇以外の宮廷が総引っ越ししているかのようなものなのに、茶頭役は家康を接待している…
もちろん、信長にとって家康が“重要人物”であったことがわかるわけですが、なんとなく、違和感を受けます。
そしてこの茶会のために、本能寺には岐阜城、安土城から信長自慢の茶器・茶道具が40点近く集められていました。(「御茶湯道具目録」より)もちろん、すべて名品中の名品。
信長は、島井宗室にこれらを見せて、彼を“歓迎”したのでしょう。(茶人にとって亭主から自慢の茶道具をみせられる、というのはある意味名誉なことでした。)
ところがですね。
山科大納言の記録なのですが… 先入観なく、虚心にこの「数刻御雑談茶子茶これあり」という一文をみると、これ、ほんとに「茶会」開催されていたのかな…
と、疑問に思うんですよ。
茶頭役の津田宗及がいない、というのも、ずっとひっかかっているんです。
で、おもしろい記事がイエズス会の記録(「イエズス会日本年報」)に残っていました。この茶道具および茶器の数々に関して
「三河の領主や諸侯に見せるため」
と記されているんです。
六月一日にも、茶事はおこなわれたかもしれませんが、むしろ、その翌日、つまり六月二日に「大茶会」を計画していた、と、考えるとどうでしょう。
さらに本願寺の書記の宇野主水は
「信長の上洛を知って、家康はあわてて京に向かおうとした。」
と記録しているんですよ。
・六月一日に茶器を集めて島井宗室に見せている。
・茶頭役の津田宗及そして千利休は堺で家康を接待している。
・信長は、家康や諸侯に茶器・茶道具を見せようと計画している。
・茶会は六月一日ではなく六月二日に計画していた。
・よって、六月一日の茶事には織田信忠が参加していない。
・家康は、信長の上洛を知らなかった。
これらを総合して、めっちゃ、おもしろい珍説を言ってしまいますね。
信長、家康の接待のしめくくりとして、サプライズパーティーを計画していたんじゃないでしょうか?
「ちょ、みんな本能寺に集まっておけ。おれ、上洛していること、家康にはないしょね。で、家康が来たら大茶会ね。」
ということになっていたとしたら…
わたしは、家康って、あんがい人のいいおじさんだったような気がするんですよ。
家康は先を見通していて、陰謀をはりめぐらせて、したたかだった、なんて、後の時代につくられた虚像じゃないかとずっと思っているんです。
「え? 信長さま、上洛していたの? ちょ、あいさつ行かないとっ」
と、あわてて京都にむかったら本能寺の変が起こったという報せを受けた。
「うわっ えらいこっちゃ 逃げないとっ」
家康が黒幕だ、とか、信長が家康を謀殺しようとしていた、という説は、少なくともこの“茶会”のことを考えると、ない、と、わたしは思います。
軍事という「武」の面ばかりから本能寺の変を描写するだけでなく、文化という「文」の面から本能寺の変を眺めてみると、いろいろおもしろいことが想像できると思います。