北畠顕家の大移動を支えたもの… | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

世に言う“中国大返し”、というと、大河ドラマでもお馴染み、本能寺の変のあとの“名場面”でもあります。
黒田官兵衛が、信長の死で悲嘆にくれている秀吉に「殿っ ついに殿が天下をとられるときがきましたぞ」と耳うちする…
まぁ、これも“江戸フィルター”のかかったフィクションに近いお話しなんですが、姫路から大坂まで、明智光秀の“想定”を越えたスピードで戻ってくる、という秀吉の大技は、フィクションでも何でもなく史実です。
この手の高速移動は、実は秀吉の得意技でもあり、賤ヶ岳の戦いのときでも、ものすごいスピードで移動し、有利なように布陣をします。

まさに『孫子』の兵法にあるように“疾きこと風の如し”です。

同じく『孫子』に書かれている表現で、

 兵は、拙くても速い、ということはありうるが、おそくてうまくいく、といことはありえない。

という言葉があります。

軍事は、少々雑でも速くが大切。遅くて成功することはない。

秀吉の中国大返しは、たしかに速かったのですが、兵の疲労や各隊の乱れはありました。しかし、この迅速さが戦略を決定づけました。

さて、この250年近く前、600㎞を16日間で大移動した軍団がありました。
関東から京都をめざして西進する足利尊氏を、背後から追尾して、急襲した北畠顕家率いる奥州軍です。

北畠顕家を祀っている(北畠親房も)神社が大阪にあります。
これが阿倍野神社です。
前にもちょっと申しましたが、なんとこの神社の禰宜さんがわたしの勤める学校で歴史を教えておられていて、いろいろ北畠顕家の話をうかがったことかあるんです。

あるらしい、と、歴史ファンの中では“噂”になっている、北畠顕家の「風林火山」の旗なのですが、実際に阿倍野神社には存在していて、しっかりと保全されているそうです。
紫色の日輪も描かれている、と、お話しを伺いました。なんせ、これも顕家公の御物ですから御神体に準ずるもの。そうやすやすとは公開できるものではないのでしょうが、まさに元祖、

 風林火山

の武将が北畠顕家、ということになるでしょうか。
父の北畠親房は後醍醐天皇の側近にして『神皇正統記』の著者。当代の知識人ですから、『孫子』の兵法書を知っていてもおかしくはなく、伝承では風林火山の御旗を「軍事にあたってはこれを心がけよ」と顕家に手渡した、そうです。

むろん、北畠顕家や楠木正成は、明治時代の“顕彰”から、いろいろな話は誇張されているのでしょうが、まったくの虚構ばかりではありません。

源平の合戦はもちろん、13世紀前半の承久の乱においても、坂東武者たちはかなりの大移動を、迅速に実現してきました。
これを可能にしたのが、

 巧みな騎馬技術

であったといわれています。

 まわしうち

といって、関東の武者は、騎馬の状態で、その場で馬に足ぶみをさせ、くるっと一回転させるという技術を持っていました。
たとえば馬上で、馬に乗ったまま、ぐるぐると一か所で回転できるものですから、一体に対して複数の騎馬兵に囲まれても、けっこう戦えました。
西国の武士たちは、まわしうちが苦手であったものが多く、騎馬で背後に回られてしまうと、なかなか苦戦したようです。

『平家物語』はもちろん、『太平記』においても関東の武者たちの馬の扱いが巧みであったことが読み取れる場面が散見できます。

武士たちは、鎧・甲を身に着け、太刀や弓矢をかついで馬にのるわけですから、馬もかなり疲弊します。
一日12㎞の行軍が限界である、というようなことを言われる方もおられます。

でも、関東や奥州の武士たちは、ぶっ続けで騎馬で走り通すことができました。
というのも、武士は一人で、二頭くらい馬を連れて移動していたのです。で、かわるがわる馬を乗り換えて進軍しました。

鎌倉時代の初期でそうでしたから、室町時代までには、騎馬技術も向上し、とくに東北地方にはたくさんの良馬が産出していたと思われます。
北畠顕家の大移動は、こうした奥州馬と、それをあやつる奥州武士たちに支えられていたと考えると、誇張であったとしもけっして虚構ではないように思います。

12月22日 奥州出発
翌1月 2日 鎌倉攻撃
 1月 6日 遠江国
 1月12日 近江国

北畠顕家の将としての才能ももちろんあったのでしょうが、彼を支えた武将たちがかなり優秀であったような気がします。
とくに南部師行という人物が、この大移動の立役者であったのではないでしょうか。

甲斐国出身といいますから、甲州でも馬の飼育をしていた可能性があり、後醍醐天皇の新政のときには、北畠顕家にしたがって多賀城(現在の宮城県)に入ります。

結城氏、伊達氏、南部氏の三氏は、北畠顕家の下、東北の行政をまかされていたのですが、南部師行が担当した場所が糠部郡(現在の岩手県北部から青森県)で、良質な馬の大産地でした。
奥州軍を支える兵馬は、南部師行が準備したと思います。
ただ、この大移動のときは従軍せず、顕家の留守をまもって東北に残っていました。

二度目の遠征のときは、顕家とともに上洛します。
そして、石津の戦いをむかえました。
少数ながら北畠顕家、南部師行は善戦しましたが、高師直軍に敗れて戦死します。(浜寺には顕家と師行を供養する碑が残っています。)

奥州→京都→奥州→堺

顕家の大返しの陰に南部の兵馬あり

というところでしょうか。