いっそ、本能寺の変にまつわる、奇説・珍説、ほぼ妄想のような話もあえて並べてみましょう。
まず第一は…
明智光秀、知らなかった説。
え、なんじゃそりゃ?
と、なりそうな話ですが… 実は前にお話しさせてもらった「本能寺の変・四国説」と関係があります。(「新発見の史料から 斎藤利三」をご覧ください。)
明智光秀の重臣、斎藤利三の妹は、長宗我部元親の妻でした。おまけに利三の兄、石谷頼辰の娘も、元親の嫡男、信親の妻。
斎藤ファミリーは、完全に長宗我部ファミリーでもありました。
最初は、信長は四国平定を長宗我部元親にまかせていたにもかかわらず、突然、方針を変更し、土佐と阿波国の半分しか認めない、と、言い出して、長宗我部元親がそれに強く反発するようになりました。斎藤利三は、元親を説得し、半ば、成功していたにもかかわらず、信長は、元親征伐の軍勢を出発させてしまおうとしました。
これに怒った斎藤利三が、中国方面の秀吉を援護するように命じられて丹波亀山城に集結している1万4000の兵を率いて本能寺を襲撃した、という説です。
つまり、明智光秀は、現場の戦闘指揮官斎藤利三に兵の運用をまかせていて、利三が兵を率いて出発したものの、行先が本能寺とは知らず、え? あれ? どゆこと? と、なっちゃった、というものです。
これは、本能寺の変の一ヶ月前に、明智光秀が「信長さまのおかげで今日がある。子子孫孫までこの恩を忘れてはならない」とまで書き記していて、信長への忠誠心がかなり高かったことがわかります。よって変を起こすなどとは理解できない、という“心情”から考えられた説です。
明智光秀ちょっとボケすぎ、ということになる説ですよね。
ボケすぎ、といえば、こういう説もあります。
明智光秀、本能寺にいるのが信長とは思わなかった説。
これは、明智軍の中に広がっていた“なぞの噂”を本当である、と、考え直した説です。
われわれは、徳川家康を倒すのだ。
つまり家康は、堺に滞在しているのではなく、本能寺に滞在していると“勘違いして”攻撃してしまった、という超オマヌケ説です。
前提として、信長が家康を謀殺しようとしていた、という考え方がなければもちろんこの説は成り立ちません。
さらに妄想に妄想を重ねて…
信長、謀殺するつもりが謀殺されちゃった説。
織田信長は、徳川家康を招いて堺に滞在させ、そこで家康を謀殺しようと計画します。
そしてそれを明智光秀に命じました。
明智光秀は、わかりました、と、兵を率いて堺に向かうとみせかけ、本能寺の信長を攻撃して殺してしまった、という説です。
もっと大胆に…
そもそも、み~んな作り話説。
羽柴秀吉が、信長を倒すために中国地方から兵を京都に進める。
そして信長を本能寺で倒してしまう。
信長を助けようと丹波亀山城から明智光秀が兵を率いてかけつける。
そうして秀吉と光秀が戦い、秀吉が光秀に勝つ。
勝者は歴史を書き換える特権を得ます。
そこまでの歴史を、すべ~て“捏造”して作り変えて「本能寺の変」というお話しをつくってしまった…
そしてそれを歴史として残してしまう…
ちょっと想像力があれば、まぁ、もう、なんとでも本能寺の変のシナリオは書けそうです。
事実は小説よりも奇なり
というならば、いまだ解明されていない、実際の「本能寺の変」の真相は、小説家や歴史ファンが思い描くような話ではけっしてない、ということになるかもしれませんね。