本能寺の変1 虚像 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

本能寺の変。

 明智光秀が本能寺にいた織田信長を倒した。

いたってシンプルな事実です。

家臣が主人を倒す、いわゆる下剋上の話は数多あるにもかかわらず、この事件は、歴史の中ではかなりな特別扱いを受けている話です。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人については、いわゆる“江戸フィルター”を通して、実際の人物像がすっかりと歪められていることは確かです。

江戸時代の中期以降、戦国時代の出来事は、ほとんどが物語化されてしまい、ある時期、江戸時代に書かれた色々な話が、みんな“実話”であるという前提で、歴史が描かれてしまったことがあり、それが学校教育の場で(あるいは受験の塾で)、教師や講師がおもしろおかしく「説明」してしまい、新しい発見や事実がわかった後でも、自分が習ったことをそのまま次世代に語り継いでしまい(誤りが再生産され続けてしまい)いつまでたっても修正されずに現在に残っている、ということになっています。

明智光秀が、自分の領地を取り上げられて、かわりに次の征服地を与える、と、信長に言われた、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。

明智光秀が、人質として自分の母親(あるいは近親者)を差し出して降伏させた人物を信長が殺してしまったために、母親(あるいは近親者)が殺されてしまって信長を恨んだ、ということが史実である、と、思っている人、今でもいます。

もちろん、「敵は本能寺にあり!」と光秀は“宣言”などしていませんし、「長年の苦労がむくわれました」とつぶやいたら「おまえがどんな苦労をしたというのかっ」と信長の怒りをかって欄干に頭を打ちつけられた、などという話もありません。

明智光秀は比叡山延暦寺の焼き打ちを反対した、というのもほぼ作り話で、現在ではむしろ積極的に焼き打ちを計画して実行した、ということがわかりつつあります。

信長と光秀にまつわる、さまざまなエピソードの大部分が(小説として、あるいはテレビドラマなどでよく描かれているシーンが)、ほとんどは「演出」や「フィクション」なんです。

光秀は、丹波亀山城から、1万4000人ほどの兵を率いて、京都に入りました。
大軍だと気づかれると考えたのか、光秀は兵を三つに分けたといいます。
このうち、桂川を越えて洛中に入った兵は3000~4000。
丑寅の刻あたり… 夜中の三時から四時であったろうといわれています。

むろん、秀吉の救援にむかえには、まったくの逆方向ですが、兵たちは、別に不思議に思わなかったようです。そもそも末端の兵に、いちいちどこの誰を討つ、とはほとんど説明もしませんし、兵たちも穿鑿しません。
自分たちが信長を討った、ということを知らなかった兵も、ひょっとしたらいたかもしれません。

奇怪な“うわさ”も兵たちには広がっていました。

 信長さまの命令で、堺にいる徳川家康を討つらしいぞ。

このときの明智軍に従軍した兵士が江戸時代になって、こんなふうに回想したモノもあります。

本能寺と目と鼻の先にあった教会の宣教師たちは、本能寺の変を目の当たりにしていましたが、そのときの記録では、

 その日、軍事訓練をすることになっていた。
 だから本能寺の守備兵たちは、何も疑わずに明智の兵を中に入れた。

と、なっています。

物語的には、大軍が本能寺を包囲した、というような設定になっていますが、案外と、少数の兵が本能寺の周辺に静かに集まって、門番の兵士に「軍事訓練のために集まってきました。中へ入れてください。」と“説明”して入場した可能性もあります。

光秀によるこのクーデターは、実に、見事としか言いようがありません。

想像してみてください。
夜中とはいえ、埼玉県あたりに1万人以上の兵を終結させて、三つに分け、誰にも気づかれずに首相官邸に近づき、侵入して首相を殺害する…

現状の機会をフルに活用し、綿密な計画を立て、迅速に行動しなければ、まず成功しない“作戦”だといえます。
主と息があった部将、よく訓練された兵士と統率力のある現場指揮官。
これらがそろっていないと、ぜったいにうまくいきません。

いろいろな虚構と虚飾を取り払っても、この事実だけは動かせません。

これから何回かにわたって、いろいろな角度から本能寺の変の話をしてみたいと思います。