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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

鎌倉時代になり、承久の乱が終わると、基本的に大規模な国内戦争はなくなります。

戦争がなくなると、土地の所有がだいたい確定します。

稲のあとに麦を育てる二毛作が近畿地方から始まるようになりました。
肥料も、草木灰を利用するようになり、その他の農業技術の改良もあって、農業の生産が高まりました。

生産が増えると、余りが出ます。で、それらを足りない場所、つまり人口密集地域に持って行って換金する…
商人、運送業、物販などの非農業人口が増えていきます。

中国からもたらされた銭が日本でも使用されていきます。鎌倉時代中期は、銭を用いた売買が広がっていった時代でもありました。

荘園の荘官や名主たちは、余剰生産物の売買を通じて富をたくわえ、その資金でさらに土地を開いたり、まずしい武士たちや御家人たちから土地を買ったり、土地を失った武士たちを自分の武力として雇ったりして(源平の合戦で平氏の側にいた雑兵、承久の変で朝廷の側に立って土地を失った武士たちもいた。)新興の勢力として台頭する者も出てきました。

ですから、荘園・地頭といった、「秩序」の周辺にいた者たちでもあったので、荘園領主や地頭とも色々なもめ事を起こす場合もあり、よく訴訟に発展しました。
訴訟文の中で、彼らは「悪党」と表記されているため、これが彼らの呼称となります。

ただ、悪党たちは、現地の“顔役”のようなところもあり、荘園領主や地頭も、領主間のトラブルが起こると彼らを利用した場合もあり、いわば“必要悪”として地域に定着していくものもありました。

わたしは、これを「第二の武士」の誕生と考えています。
第一の誕生は、10世紀。
国司と荘園領主の関係の中で武士が生まれました。
それとよく似て、荘園領主と地頭の関係の中で、農民と武士の関係の中で“悪党”が生まれる…

鎌倉幕府→建武の新政→室町幕府

の流れは、「10世紀武士」と「14世紀武士」の、新・旧武士の再編過程だったような気がします。(このあたりの話は是非、拙著『超軽っ日本史』をお読みください。)

10世紀武士たちの不満
14世紀武士たちの台頭

これらを汲み取ってつなげたのが建武の新政で、それを踏み台にしたのが室町幕府…

楠木正成は“悪党”として教科書でも紹介されています。
楠木正成の家紋は、“菊水”ですよね。

「水の流れ」ですから、河内国を流れる多くの河川の水運に携わっていた、と、考えることもできますし、千早赤阪の「赤」は、水銀が出る地域の土の色でもありますから、当時産出していた水銀などの鉱産物を扱っていた豪族だったとも考えられます。

商いと運送業…

そういえば、後醍醐天皇を隠岐島から救出した名和長年の家紋は“帆掛け船”。
山陰地方の海運業(ひょっとしたら海賊だったかも)を営んでいたわけですから“海の悪党”だったともいえます。
播磨の赤松、大和国の山岳民たち…

彼らは商い、運送業、新興土地開発者として、旧来の枠外にいたために、“悪党”と呼ばれていたわけです。
かれらと、後醍醐天皇を結びつけたコトやモノは何だったのか…
そのあたりの話は次回、ということで。

(次回に続く)


 削り氷にあまづら入れて
 新しき金まりに入れたる

清少納言の『枕草子』に記されているこの一節、わたし、大好きなんですよ。
「削り氷」「金まり」という言葉の響き、なんか冷たさをよく伝えていていい感じではありませんか?

三十九段「あてなるもの」に収められているものです。

 あてなるもの

とは、“お上品なもの”というように訳されるのでしょうか。
「あてなり」とは“高貴である”という意味です。

平安時代、「夏に氷を食する」というのは、まさに“高貴な”“やんごとなき”人々でなければできないことでした。

中学生のときでしたか、この『枕草子』の一節を初めて読んだとき、「あ~ この時代の人もかき氷を食べてたんや~」と思ったのと同時に、「え… でも、氷、どうやってつくってたんやろ…」と思ってしまいました。

むろん製氷などこの時代はできません。
かんたんに申しますと、冬に降った雪やできた氷を、夏まで保存しておく、という方法をとっていたのです。(専用の池で凍らせたものを用いる場合もありました。)

「氷室(ひむろ)」という貯蔵穴に保存し、夏に取り出して都に運ぶ、というものでした。
氷室は、だいたい3mから4mくらいの深さに掘られていました。

ワラの上に氷をのせる、さらにワラやモミガラを周りに入れる、さらに氷をのせて、またワラをのせて… というようにワラやモミガラを断熱材として使用します。
で、さらに、穴の入り口には建屋を設け、雨などの侵入をふせぎます。

こうして冬の間に蓄えられた巨大な氷も、取り出して都に運ばれたときは、両手でかかえる程度の大きさに小さくなっていたようです。

さて、氷室はなんと“官営”で、「延喜式」に管理方法が明記されています。
主に近畿地方(大和・山城・河内など)約20ヶ所にあったようです。京都などでは、賀茂氷室町や衣笠氷室町など、氷室があったところが地名として現在に残っている場所もあります。

小刀で、シャコシャコと氷を薄く削り、金属製の碗に盛り、甘いシロップをかけて、さぁ、めしあがれ… よいですね~ 清少納言は「あてなるもの」として他に「水晶の数珠」を例としてあげています。

 わたしが上品だって思うモノはね、水晶の数珠と、金まりに盛ったかき氷よ。

なんて涼やかで美しい表現でしょう。
うわっ 急にかき氷が食べたくなってきました。

甘党向けの話だけではありませんよ。
いける口、の、みなさま向けの話もあります。

 水酒に漬して用ふ (『日本書紀』より)

お酒に氷を入れて飲んでいることがわかります。
お~ 奈良時代の貴族は、オンザロックでお酒を飲んでいたのですねっ
今も昔も、いっしょですなぁ~

そうそう、『源氏物語』にはおもしろい記述があります。

平安時代にも、現在の「お茶漬け」みたいなものがありました。
「湯漬け」「水漬け」というものです。

炊き立てのご飯にお湯をかけてサラサラといただく…
この「湯漬け」は冬に食べるものですが、夏には「水漬け」といって水をかけていただく…

「西川よりたてまつれる鮎」を調理して「大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつ食ふ」とあるんですよね~

鮎を肴に酒を飲む。
で、氷水でお茶漬けを食べる。
あ~ なんて贅沢でおいしそうなことか。さすが光源氏、やりますよね。

考えてみると、京都って、昔から暑いんですよね。
夏は暑くて冬は寒い。
この寒暖差を利用して、寒い冬にできた氷を暑い夏にいただく、ということで“調和”しているともいえます。

他にも「氷」にまつわるおもしろい話があります。
今も昔も同じだなぁ、というエピソードを紹介しますと…

にゃんたのマル秘ファイルでもおなじみの『小右記』には、

 寛仁二年 五月二十日 不耐苦熱飲氷水

「あつくるしくて耐えられずに氷水を飲みました。」とあります。

『宇津保物語』では、妊娠中の女一宮さん、食事が喉を通らなくて、かき氷ばかり食べてしまった、という記述がみられますし、『御堂関白記』では、「後一条天皇さんたら、かき氷ばっかり食べているもんだから、風邪ひいておなかこわしちゃったやん」と記されています。

暑いと食欲は出ない、で、あっさりした、冷たいものばかり食べちゃう、で、おなかこわしたり風邪ひいたり…

夏のひととき、身分も時空も違うのに、み~んなおんなじようなコトしてるんですよね。

みなさんもご注意ください。
こはにわからの、暑中お見舞いでした。



世に言う“中国大返し”、というと、大河ドラマでもお馴染み、本能寺の変のあとの“名場面”でもあります。
黒田官兵衛が、信長の死で悲嘆にくれている秀吉に「殿っ ついに殿が天下をとられるときがきましたぞ」と耳うちする…
まぁ、これも“江戸フィルター”のかかったフィクションに近いお話しなんですが、姫路から大坂まで、明智光秀の“想定”を越えたスピードで戻ってくる、という秀吉の大技は、フィクションでも何でもなく史実です。
この手の高速移動は、実は秀吉の得意技でもあり、賤ヶ岳の戦いのときでも、ものすごいスピードで移動し、有利なように布陣をします。

まさに『孫子』の兵法にあるように“疾きこと風の如し”です。

同じく『孫子』に書かれている表現で、

 兵は、拙くても速い、ということはありうるが、おそくてうまくいく、といことはありえない。

という言葉があります。

軍事は、少々雑でも速くが大切。遅くて成功することはない。

秀吉の中国大返しは、たしかに速かったのですが、兵の疲労や各隊の乱れはありました。しかし、この迅速さが戦略を決定づけました。

さて、この250年近く前、600㎞を16日間で大移動した軍団がありました。
関東から京都をめざして西進する足利尊氏を、背後から追尾して、急襲した北畠顕家率いる奥州軍です。

北畠顕家を祀っている(北畠親房も)神社が大阪にあります。
これが阿倍野神社です。
前にもちょっと申しましたが、なんとこの神社の禰宜さんがわたしの勤める学校で歴史を教えておられていて、いろいろ北畠顕家の話をうかがったことかあるんです。

あるらしい、と、歴史ファンの中では“噂”になっている、北畠顕家の「風林火山」の旗なのですが、実際に阿倍野神社には存在していて、しっかりと保全されているそうです。
紫色の日輪も描かれている、と、お話しを伺いました。なんせ、これも顕家公の御物ですから御神体に準ずるもの。そうやすやすとは公開できるものではないのでしょうが、まさに元祖、

 風林火山

の武将が北畠顕家、ということになるでしょうか。
父の北畠親房は後醍醐天皇の側近にして『神皇正統記』の著者。当代の知識人ですから、『孫子』の兵法書を知っていてもおかしくはなく、伝承では風林火山の御旗を「軍事にあたってはこれを心がけよ」と顕家に手渡した、そうです。

むろん、北畠顕家や楠木正成は、明治時代の“顕彰”から、いろいろな話は誇張されているのでしょうが、まったくの虚構ばかりではありません。

源平の合戦はもちろん、13世紀前半の承久の乱においても、坂東武者たちはかなりの大移動を、迅速に実現してきました。
これを可能にしたのが、

 巧みな騎馬技術

であったといわれています。

 まわしうち

といって、関東の武者は、騎馬の状態で、その場で馬に足ぶみをさせ、くるっと一回転させるという技術を持っていました。
たとえば馬上で、馬に乗ったまま、ぐるぐると一か所で回転できるものですから、一体に対して複数の騎馬兵に囲まれても、けっこう戦えました。
西国の武士たちは、まわしうちが苦手であったものが多く、騎馬で背後に回られてしまうと、なかなか苦戦したようです。

『平家物語』はもちろん、『太平記』においても関東の武者たちの馬の扱いが巧みであったことが読み取れる場面が散見できます。

武士たちは、鎧・甲を身に着け、太刀や弓矢をかついで馬にのるわけですから、馬もかなり疲弊します。
一日12㎞の行軍が限界である、というようなことを言われる方もおられます。

でも、関東や奥州の武士たちは、ぶっ続けで騎馬で走り通すことができました。
というのも、武士は一人で、二頭くらい馬を連れて移動していたのです。で、かわるがわる馬を乗り換えて進軍しました。

鎌倉時代の初期でそうでしたから、室町時代までには、騎馬技術も向上し、とくに東北地方にはたくさんの良馬が産出していたと思われます。
北畠顕家の大移動は、こうした奥州馬と、それをあやつる奥州武士たちに支えられていたと考えると、誇張であったとしもけっして虚構ではないように思います。

12月22日 奥州出発
翌1月 2日 鎌倉攻撃
 1月 6日 遠江国
 1月12日 近江国

北畠顕家の将としての才能ももちろんあったのでしょうが、彼を支えた武将たちがかなり優秀であったような気がします。
とくに南部師行という人物が、この大移動の立役者であったのではないでしょうか。

甲斐国出身といいますから、甲州でも馬の飼育をしていた可能性があり、後醍醐天皇の新政のときには、北畠顕家にしたがって多賀城(現在の宮城県)に入ります。

結城氏、伊達氏、南部氏の三氏は、北畠顕家の下、東北の行政をまかされていたのですが、南部師行が担当した場所が糠部郡(現在の岩手県北部から青森県)で、良質な馬の大産地でした。
奥州軍を支える兵馬は、南部師行が準備したと思います。
ただ、この大移動のときは従軍せず、顕家の留守をまもって東北に残っていました。

二度目の遠征のときは、顕家とともに上洛します。
そして、石津の戦いをむかえました。
少数ながら北畠顕家、南部師行は善戦しましたが、高師直軍に敗れて戦死します。(浜寺には顕家と師行を供養する碑が残っています。)

奥州→京都→奥州→堺

顕家の大返しの陰に南部の兵馬あり

というところでしょうか。



6月2日。
これが本能寺の変が起こった日です。

その前日の6月1日、本能寺で茶会が開かれていた、といわれています。

山科大納言の日記に「六月一日 数刻御雑談 茶子・茶これあり」と記されています。
参加者がまた豪華。

関白・太政大臣・左右大臣・内大臣(兼務を含む)はもちろん、前関白・前内大臣も参加し、四位以上の貴族は全員参加しています。
茶人としては、島井宗室が参加していますが、この人物は博多商人でもあります。
島井宗室は何といっても大友宗麟など北九州の大名とはかなりのコネがある人物。この人物が参加している、ということは、中国・四国に対する次なる“外交”が展開しつつあったことがわかります。

ところがですね…
不思議なことに、信長の後継者、織田信忠がすぐ近くの妙覚寺にいるのに参加していないんです。
それだけではありません。
茶会だというのに、織田家の茶頭役の津田宗及はおらず、千利休もいません。

何をしていたかというと、堺で徳川家康の接待を信長から命じられています。

本能寺で開かれている茶会は、天皇以外の宮廷が総引っ越ししているかのようなものなのに、茶頭役は家康を接待している…

もちろん、信長にとって家康が“重要人物”であったことがわかるわけですが、なんとなく、違和感を受けます。

そしてこの茶会のために、本能寺には岐阜城、安土城から信長自慢の茶器・茶道具が40点近く集められていました。(「御茶湯道具目録」より)もちろん、すべて名品中の名品。
信長は、島井宗室にこれらを見せて、彼を“歓迎”したのでしょう。(茶人にとって亭主から自慢の茶道具をみせられる、というのはある意味名誉なことでした。)

ところがですね。
山科大納言の記録なのですが… 先入観なく、虚心にこの「数刻御雑談茶子茶これあり」という一文をみると、これ、ほんとに「茶会」開催されていたのかな…
と、疑問に思うんですよ。
茶頭役の津田宗及がいない、というのも、ずっとひっかかっているんです。

で、おもしろい記事がイエズス会の記録(「イエズス会日本年報」)に残っていました。この茶道具および茶器の数々に関して

 「三河の領主や諸侯に見せるため」

と記されているんです。

六月一日にも、茶事はおこなわれたかもしれませんが、むしろ、その翌日、つまり六月二日に「大茶会」を計画していた、と、考えるとどうでしょう。

さらに本願寺の書記の宇野主水は

 「信長の上洛を知って、家康はあわてて京に向かおうとした。」

と記録しているんですよ。

・六月一日に茶器を集めて島井宗室に見せている。
・茶頭役の津田宗及そして千利休は堺で家康を接待している。
・信長は、家康や諸侯に茶器・茶道具を見せようと計画している。
・茶会は六月一日ではなく六月二日に計画していた。
・よって、六月一日の茶事には織田信忠が参加していない。
・家康は、信長の上洛を知らなかった。

これらを総合して、めっちゃ、おもしろい珍説を言ってしまいますね。

信長、家康の接待のしめくくりとして、サプライズパーティーを計画していたんじゃないでしょうか?

「ちょ、みんな本能寺に集まっておけ。おれ、上洛していること、家康にはないしょね。で、家康が来たら大茶会ね。」

ということになっていたとしたら…

わたしは、家康って、あんがい人のいいおじさんだったような気がするんですよ。
家康は先を見通していて、陰謀をはりめぐらせて、したたかだった、なんて、後の時代につくられた虚像じゃないかとずっと思っているんです。

「え? 信長さま、上洛していたの? ちょ、あいさつ行かないとっ」

と、あわてて京都にむかったら本能寺の変が起こったという報せを受けた。

「うわっ えらいこっちゃ 逃げないとっ」

家康が黒幕だ、とか、信長が家康を謀殺しようとしていた、という説は、少なくともこの“茶会”のことを考えると、ない、と、わたしは思います。

軍事という「武」の面ばかりから本能寺の変を描写するだけでなく、文化という「文」の面から本能寺の変を眺めてみると、いろいろおもしろいことが想像できると思います。
(前回からの続き)

【南山大学】

●607年の遣隋使は、国書を受け取った( B )が怒ったというエピソードでよく知られている。( B )にとって「( C )」は自分のみであるから、この怒りは当然であろう。それでも、日本からの使者が無事に帰国し、cそれ以降も遣隋使を派遣できたのは、隋にも、日本との関係を保つメリットがあったからにほかならない。
 618年、隋が滅び、唐に代わった。日本からの使節派遣は続いたが、d両国や周辺諸国の情勢変化に応じて、遣隋使と遣唐使には、それぞれ特徴がみられた

(4)空欄BおよびCに入る語句の組み合わせとして正しいものを一つ選びなさい。

 ア B-文帝 C-大王  イ B-文帝 C-天子
 ウ B-煬帝 C-大王  エ B-煬帝 C-天子

これは小学生でも知っているエピソードです。『隋書』倭国伝に記載がみられるところです。

 日出づる処の天子
 日没する処の天子に書をいたす

塾の講師や学校の先生の中には、「日が出る」「日が沈む」という表現で、中国の皇帝が「沈む、とは失礼だろっ」と怒ったと説明しちゃう人がいますが、当時から「日が出る」は東、「日が沈む」は西、と、外交用語として表現されているので、ここに無礼は感じません。

ひょっとすると学校の先生や塾の講師もこのブログを読んでくださっているかもしれないので、授業のネタに使えるように、ちょっと細かく説明しておきますと…

この文書の作成者は仏教の造詣が深い人物が著したことがよくわかるのです。
しかも、読んでくれる相手も仏教を知っている人物である、ということを前提にしているものなのです。
宛名には「海西の菩薩天子」という言葉が使われており、煬帝を「菩薩天子」、仏教を栄えさせている名君、と、まずは持ち上げるところから入っています。
で、仏典の一つに『大智度論』というのがあるのですが、そこに

日出づる処は東
日没する処は西
日行く処は南
日行かざる処は北

と明記してあるんです。ここから引用しているので、この国書を読めば、「お、これは仏教のことを知っているヤツ(教養ある文化人)が書いているな。」とわかるんですよね。
(興味のある方は、東野浩之『書の古代史』『遣唐使船 東アジアのなかで』などをお読みください。このあたりのすぐれた研究がわかります。)

ですから煬帝はむしろ、ここは怒ったポイントではなく、感心したポイントだったかもしれません。怒りのポイントは「天子」という表現でした。

「天子」というのは、周囲が野蛮人ばかりの中にあって、文明の中心である「華」の中の一番えらい人(天命を受けた人)なので、“0nly 0ne”なんです。

「天子は二人はおらぬ! 野蛮人のくせに天子を称するかっ!」

と、皇帝さまはお怒りなのです。
この怒っている皇帝は、隋の二代目、煬帝です。(初代は隋の建国者楊堅、つまり文帝です。)
ですから、ここでは、「B-煬帝、C-天子」ということで正解は「エ」になりますね。

天子を称することによって、聖徳太子は、「対等の関係」を築こうとしたと説明されるところです。
怒りながらも、煬帝は日本との国交を重視しました。
煬帝は、朝鮮半島問題で苦慮していたところだったんですね。高句麗に遠征して失敗しているんです。
「遠くと交わりて近くを攻める」は兵法の常識。高句麗遠征のために背後の倭と結んでおく必要はありました。
そして倭(日本)も、600年に新羅に遠征していて朝鮮半島南部の支配権を確立したい(復活したい)と考えていたところですから、隋との接近は欠かせません。

でも、「対等の関係」を「築こうとした」ことと「対等の関係になれた」ということは別です。
あくまでも遣隋使の目的は、外交のみならず中国のすぐれた文化・制度の“輸入”をめざしていたものでした。

(5)下線部cについて、正しいものを次から一つ選べ。

ア 小野妹子は遣隋使として「日本」という国号を伝えた。
イ 渡来人の子孫である裴世清は、学問僧として、遣隋使に同行した。
ウ 遣隋使に同行した留学生の高向玄理は、帰国できず隋で死亡した。
エ 犬上御田鍬の派遣が、遣隋使の最後となった。

さて、いったい日本はいつから「日本」なのでしょう。
国内の史料ではああだこうだといろいろ議論されているのですが、あっさり、お隣の新羅の中の記録に(『新羅本紀』)

「670年、倭国が国号を日本と改めました。」

と書いています。わたしは7世紀後半から「日本」という名称が使用されたとシンプルに考えています。よって、選択肢「ア」は誤り、ということになります。
607年の遣隋使は小野妹子であると考えられていますが、答礼使として派遣されたのが裴世清でした。この人物は学問僧ではありませんし、ましてや渡来人の子孫でもありません。そもそも学問を学ぶための僧は、日本から派遣されるもんですからね。よって「イ」も誤りです。
高向玄理は、これで「たかむこのくろまろ」と読む人物です。帰国後、後に大化の改新のときに国博士の一人となった人物。帰国できずに死んだ、ということはありません。よって「ウ」も誤りです。
ちょっと歴史に詳しい小学生だと、え? 犬上御田鍬って、「最初の遣唐使」ではないの? と思うかもしれませんが、この人物は「最後の遣隋使でかつ最初の遣唐使」なんですよ。

(6)下線部dについて、正しいものを次から一つ選べ。

ア 遣隋使は、朝鮮半島の西沿岸を北上する航路をとったと推定されるが遣唐使は、当初、距離
 が短く安全な東シナ海を渡る航路をとった。
イ 遣隋使の時代は、隋に臣属する形式をとったが、遣唐使の時代は、対等で有効な関係を唐と
 築くことができた。
ウ 遣唐使の派遣回数は遣隋使よりも多かったが、8世紀になると、遣唐使は中断されることも
 あり、派遣の間隔は伸びた。
エ 遣隋使は「四つの船」と呼ばれる小型船で渡ったが、造船技術の発達により、遣唐使は、大
 船一隻で渡航するようになった。

さて、遣唐使の渡航ルートは、大学入試ではよく出題されるものです。
ざっくりと、

「北・中・南」

のルートがあって時代によって違った、と、まずはおぼえてください。
で、“到着地点”が、登州・蘇州・明州の三つだ、と、おぼえてください。

(北)難波津-登州
(中)難波津-蘇州
(南)難波津-明州

で、さらに、

 7世紀 北ルート
 8世紀前半 南ルート
 8世紀後半 中ルート

「北→南→中」の順番である、と、おぼえましょう。「朝鮮半島北上するルート」は遣唐使の「7世紀ルート」なんです。そして「東シナ海を渡る航路」は中ルートで、8世紀後半。つまり当初のルートではありません。よって「ア」は誤りとなります。
ちなみに南ルートは、沖縄や奄美を経由して北九州へ行く、というルートになります。
申しましたように「遣隋使」は臣属する形式をとっていません。よって「イ」も誤りです。
「四つの船」は遣唐使船のことです。よって「エ」も誤り、ということになります。

(遣唐使および遣唐使の停止に関しては拙著『超軽っ日本史』、『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しておきました。是非お読みください。)