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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 お呼びでございますか。

家康の参謀をつとめる本多正純が呼び出された。

 あほぅどもが、真田丸一つに手を焼いておる。
 なんとか手立てを考えよ。

 大筒(大砲のこと)を南蛮人どもより手配いたしております。
 これにて本丸を撃たせようと存じますが…

 ん? 本丸を? 真田丸ではなく?
 遠すぎて命中せぬぞ。だいたい音だけが大きくて、さほど効果があるとは…

やや不満そうな家康を前に、正純はにんまりと笑い、

 その、音だけ、が重要なのでございます。

幸村は、少なくとも、この戦いだけは勝利を確信できた。
天下の名城を背景に、自ら設計した真田丸によって、当代随一の武将徳川家康に、わずかな兵力で相対し、五分どころか勝とうとしている…
それは単なる一局面の勝利にしかすぎないが、男子としてこれほど痛快なことはない。

幸村は、戦術家という名の「芸術家」であった。彼の戦さは、もはや“芸”といってよい。
戦さは彼にとっては一つの作品であったのだ。

と、そのとき、大砲の巨大な音が大坂平野に響き渡った。

幸村は、はっと空を見上げた。
砲弾は、はるか頭上をこえて本丸のほうへと飛んでゆき、天守閣からは大きくそれて着弾した。
さらに二発、さらに三発と続いて大砲の音が響く…

 ふんっ ムダなことよ。
 そんなコケおどしに臆するのは、おんな子どもだけよ。

しかし…
幸村は重要なことを忘れていた。
大坂城の支配者は、その「おんな」と「子ども」であったのだ。

 修理(しゅり)! 修理を呼びゃれ! 和議じゃ! 和議じゃ!
 もう戦さは終わりにしやれ!

淀殿のヒステリックな声が本丸御殿に響き渡った。近くに大砲の弾が落ちるたび、地響きとともに御殿は大きく揺れ、そのつど、女たちの悲鳴がした。

 また始まったか…

淀殿に呼びつけられた大野治長は、平伏しながら頭を悩ませていた。
眼前の淀殿は完全に錯乱していた。

 こうなっては誰も手がつけられぬ…

なんとまったくバカげた話ではあるが、大砲の音に恐れおののき、和議をするハメになってしまったのである。

(次回に続く)
  あまりに見事だ…

無数の人夫たちによって、みるみる濠が埋められていく…

 古来こんな戦いがあったか…

幸村は空を見上げた。すいこまれそうなくらい澄んだ天が広がり、冷たいが実に心地よい風が吹き抜けていく。

 修理(しゅり)め、さぞかしあわてていることだろうよ。

幸村は、得意げに徳川家康との和睦を成立させたことを自慢していた大野修理(大野治長)の顔を思い出していた。
和睦の条件として外堀は徳川が、内堀は豊臣が埋めることになっていたハズだった。
ゆっくりと堀を埋めて時間稼ぎをする…
ところが徳川は、大量の人夫を動員し、あっという間に外堀を埋めてしまい、「御手伝い馳走いたし候」と内堀の工事も開始してしまった。

 今、大坂城のすべての濠が埋められていく…

冬の陣は、1614年11月に始まった。
徳川家康は大軍で大坂城を包囲したものの、あきらかに攻めあぐねていた。
とくに真田幸村が、その見事な戦術眼によって設営した橋頭堡とでもいうべき陣地、通称“真田丸”は、包囲する敵軍に突出する形で縄張り(設計)され、そこから効果的に繰り出される弓矢・鉄砲によって、あたかも吸血鬼のように包囲軍の兵たちの生き血をしぼりとっていた。

 あれはなんとかならんのかっ!

前線に視察に来ていた徳川家康は、さすが歴戦の老将である。ただちにあの真田丸一個が、全軍の包囲戦に大きな障害になっていることを見抜いていた。

 戦さが始まる前に、なぜ誰も気づかなかったのか。
 あんなところに陣地を作らせることを黙って見過ごすとは!
 そろいもそろって大タワケばかりじゃっ

退けば打って出て、おせば退き、真田丸からの銃撃によって兵たちがなぎたおされていく…
幸村の用兵の見事さに比べ、攻める自分の軍勢たちのあまりの愚かな戦さぶりに、家康はほとほと呆れ果てていた。

苛立つ家康の側に、父の不機嫌をおそれておろおろする秀忠とその家臣たちがいた。

 こいつがもっとしっかりしておれば、この齢で戦さ働きなんぞせずとも澄んだものを…
 だが、戦(いくさ)の時代はこれで最後だ。
 ここで決着をつければ政(まつりごと)の時代が来る。
 そうすれば、秀忠の周りにおる、戦さはできぬが役人としては有能なこやつらが役立つ時が来るというものだ。

家康には一つの計画があった。難攻不落の大坂城を、手品のように陥落させる大しかけが…
しかし、その計画も、このままでは幸村一人のために実現しない。

 本多正純を呼べっ!

(次回に続く)
鎌倉幕府に対する挙兵、というと…
近畿地方の場合ですと、有名なところでは、護良親王と楠木正成、それから播磨の赤松、といったところでしょうか…

後醍醐天皇、そして護良親王といった天皇と皇族。
これらと「悪党」がどのようにしてつながったのか… 今でも謎な部分が多いんですよね。

明治時代に楠木正成が“忠臣の鏡”として顕彰されるようになり、彼の言動はかなり美化されるようになりました。
挙兵前の楠木一族については、ほんとにわからないことだらけなんです。

近畿地方には、もともと皇族や院の荘園が昔からたくさんありました。
地元の人々と都の貴族や皇族を「つなぐ場」というと、寺院や神社が多いんですよ。
信仰の場、というのは庶民と貴族の接点になりやすい… もちろん彼らが親しく会話ができるわけではありませんが、宮中奥深くに暮している“やんごとなき人々”も、自ら足を運んでお参りにやってきます。「代参」といって、使者を代わりによこす、という方法もありますが、やっぱり信仰篤き人となると自ら足を運びたいもの…
記録には残りませんが、「おしのび」で都から出てきてお参りする、という皇族や貴族はけっこういたハズです。

楠木一族の勢力範囲には、

 観心寺

という寺院があります。ここは“大覚寺統”の寺院で、楠木正成は幼きころ、この寺で学問をしていた、という“伝説”があります。

そしてもう一つ、楠木一族の勢力範囲にある寺院で

 金剛寺

という寺院があります。この寺と関係が深い僧に、文観、という僧がいるんですが、これが後醍醐天皇に仕えて、天皇に密教の濃厚な影響を与えたのではないか、と、言われている人物です。

教科書でもおなじみの「後醍醐天皇像」は、天皇の御姿を描いた肖像画なのですが、現在、清浄光寺(神奈川県)に所蔵されている重要文化財です。
この御姿、真言密教の法服を着ておられて手には空海さんが持っているような金剛杵を持っておられるのがわかります。天皇は、真言密教とも深い関わりがありました。

さて、この文観が、「寺院コネクション」を用いて、播磨国や大和国の有力者や豪族、河内国の悪党たちをうま~くつなげて、固有の軍事力を持たない後醍醐天皇の下に集めることに一役買ったのではないか、と、考えられています。

地方の寺院は、地元の有力者とのつながりが深く(地方の豪族はけっこう学問・修行のために地元の寺に子を預けている場合が多く、自身もその寺で育っている場合もある)、「誰か地方にすぐれたの人材はいないか」と探索するコネクションにもなっていたのです。

後醍醐天皇の皇子、護良親王は、強烈な個性の持ち主でした。比叡山延暦寺の座主をつとめて還俗し、倒幕運動をすすめました。
比叡山コネクションで、関係寺院とのつながりの深い大和や河内の豪族などの力を集めることができたのかもしれません。

「寺院」「神社」というのは、あの世とこの世をつなぐ場なのですが…

身分の上の者と下の者をつなぐ場、でもあったようです。
わたしは、時々、“江戸フィルター”という言葉を使います。
江戸時代を通じて、それ以前の、とくに戦国時代の人物たちが、実像とは違う形で後世に伝えられている、と、考えています。

では、どんな「江戸フィルター」があるんでしょうか。

まず第一は、17世紀後半からの「戦国遺風の排除」の風潮です。
文治政治が進められ、戦国時代の野蛮な風習が改められていくようになりました。
ところが、このことが逆に作用して、かえって戦国時代の遺風の誇張や脚色を引き起こしてしまいました。
お上の“統制”というアクションに対してはそれへの“反発”というリアクションが起こるのが世の常です。
「ばさら」の風潮が禁止されると、かえってより強く「ばさら」を表現してやるっ という意識が出るものですから、戦国時代の生き残りや、戦国時代に郷愁を感じている武士たちの間で、たとえば南北朝時代に活躍した「ばさら大名」に人気が出るようになります。
あからさまに戦国時代の大名たちをテーマにした演劇や講談ができない時代でしたから、『太平記』に出てくる人物たちがクローズアップされます。
「戦国時代の遺風」を禁止したい側からみれば、「ばさら」系の武将は「悪人」として紹介しますし、それに反発したい人々たちは「ばさら」系の武将をカッコよく描いた演劇、講談を催します。
「高師直」、「佐々木道誉」などの人物は、こういうそれぞれ異なった方向からの圧力を受けて、ずいぶんと実像とはかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。
(度々説明していますが、高師直などは、『忠臣蔵』の中で好色で下品な悪人に描かれてしまい、人々にずいぶんと誤った先入観を植え付けられたと思います。一次史料からだけで精査した高師直は、優秀な戦闘指揮官にして後世の管領職の基礎を築いた人物としか言いようがありません。)

第二は、第一と関連して「儒学」「武士道」という思想です。

朱子学の「忠」という思想が封建制度に利用されることになりました。

「自ら犠牲となって主君を守る」
「お家の再興を図ろうと努力する」

これら結末に悲劇をともなわせたストーリーは、「武士の美学」を確立していきます。
豪快であるが、まっすぐに主君に忠実であった立花道雪。
お家の再興に奔走し、自ら犠牲となっても主君のためにつくした山中鹿之助。
武士道のお手本、忠義のお手本、となるような人物を探し出し、その逸話を潤色、誇張する…
戦国時代には、江戸時代のような「武士の道徳」は確立されていなかったのにもかかわらず、戦国時代の武将たちも、江戸時代の道徳を行動原理にして活躍していたかのような説明がされて、ずいぶんと実像とかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。

第三は、「軍学」の流行です。

兵法を“売り”にする武士たちが浪人の中から多数あらわれ、生業として剣術などを指南するただけでなく、戦国時代の武将の「生き様」を、おもしろおかしく弟子たちに語る者もあらわれるようになります。
いわば机上の空論なのですが、過去の戦国大名の業績を、独特の術語(ターム)を駆使して説明するわけです。「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」などというありそうで何の根拠もない陣法が生み出され、昔の武将たちがあたかもそのような戦術で戦っていたかのように説明されていく…

軍事参謀ともいえる“軍師”は戦国時代には存在しなかったのに、『史記』や『三国志』その他の中国の古典に出てくる張良や陳平、諸葛孔明などを、日本の戦国時代の中でも「出現」させてしまい、山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などを、そのような人物であったかのように持ち上げてしまい、ずいぶんと実像とかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。

第四は、「家訓」「家祖礼賛」です。

17世紀以降、それぞれの大名家で、自分の祖先などルーツを探ることが流行するとともに、戦国時代のいろいろな武将のグッズを集めたり肖像画を収集したりすることが流行しました。
当時の家臣たちを統制するために「家訓」なども設けるのですが、その“説得力”のために、昔の偉人を借りてきて、自分が言いたい説明を、その歴史上の人物に語らせてしまう、というようなことが出てきました。
内向きの説明ですから、けっこうホラ話が多く、

「実は、幕府があるのはうちの御先祖さまのおかげだ。」
「うちの御先祖さまは、家康公も一目おいていたんだ。」
「うちの御先祖さまが仕えていた戦国大名はもうちょっとで天下とってたんだぞ。」

というような感じです。
これらが文書として残ってしまうと、史実と勘違いされてしまい、小説家や明治時代の歴史家などが改めて本にしてしまって、ず~っとほんまの話だと思われてしまった、ということです。

徳川氏は、武田氏が滅亡したとき、旧武田氏の家臣たちを多く召し抱えました。
さらに関東へ移封後は、旧北条氏の家臣たちを多く召し抱えました。
三河以来の家来、甲州出身の家来、旧北条氏の家来… 家臣たちの中にも派閥が生まれ、ついつい「張り合い」というのが出てきます。

三河武士たちは他の家臣たちが知らない家康像を自慢し、誇張します。
甲州武士は、かつて家康をも破った武田信玄を自慢し、誇張します。
旧北条氏の家来たちは、自分の御先祖さまが上杉謙信と戦ったことを自慢し、誇張します。

この流れの中で、武田信玄、上杉謙信、すげ~ぞ、という話が生まれます。
甲州武士も、ライバルが偉大であるほうが信玄さまの偉大さも強調できますから、上杉謙信には敬意を払いますし、上杉謙信派も、ライバルが偉大なほうが謙信さまの偉大さも強調できますから、武田信玄には敬意を払います。

川中島の合戦での陣形や陣法、信玄・謙信の一騎打ちまでが、あたかも史実であるかのように流布されてしまいました。

また戦国時代の武将のグッズなどを大名が買いあさるようになると、それにつけこんだニセモノ、コピー商品も大量に出回ります。
刀や槍はもちろん、茶道具まで、皆戦国大名誰々の由来のもの、となっていきます。
肖像画も、情報伝達力が無い時代ですから、昔のふる~い肖像画が見つかれば、これは戦国武将の誰々の絵です、とか言って売りつけるわけです。
これらは、インチキの戦国時代の武将像を補完するモノになってしまいました。

第五は、江戸の庶民文化の発展の中で、急速に広がった「歴史物語」「講談」です。

ようするに、おもしろく興味が出るように、そしてときに哀しくはかない物語として、虚構・誇張をおりまぜていく…

今川義元が京都をめさざして上洛する。
織田信長は少数の兵を率いて桶狭間の今川義元を奇襲する。

これらは江戸時代の“歴史物語”の話です。
義元は京都をめざして上洛もしていませんし、信長は少数で出撃して、嵐の中を奇襲攻撃などしかけてはいません。

長篠の戦いでは信長は鉄砲の三段撃ちなんかしていませんし、家康は、大坂の役のとき、外堀だけを埋めるとウソをついて内堀まで埋めてしまった、なんてこともしていません。

みんなこれらが史実であると思っている人、どれだけたくさんいることか…
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)

以下は蛇足ですが…
黒田官兵衛に関する「江戸フィルター」の例を紹介しましょう。

● 小寺政職が「天下をとるのは誰じゃ?」と聞くと官兵衛は「信長でございます。」と答えた。
● 織田信長に謁見した官兵衛は中国攻めの作戦を説明する。信長はこれに感動し、中国攻めを決断する。

これらは江戸時代、貝原益軒がまとめた『黒田家譜』(1688年)に記された話です。

● 本能寺の変の報せを聞いてうろたえる秀吉に、「殿っ 御武運が開けましたぞ」と囁いた。

これは江戸時代の『老人雑話』(1660年頃?)に記されている話です。

● 秀吉が「次に天下をとるのは誰だと思う? 官兵衛だ。」と言ったのを聞いて身の危険を感じて引退した。

これは江戸時代の『名将言行録』(1854~69年)に記されている話です。

● 関ヶ原の戦い後、息子の長政が「家康公がわたしの右手をとって礼を言われました。」と言うと「そのときお前の左手は何をしていた?(どうして左手で刀を持ち、家康を刺し殺さなかったのだ?)」と言った。

これは江戸時代の『故郷物語』(1829年)に記されている話です。

● 関ヶ原の戦い後、「もう少し長く石田三成が戦っていてくれたら、九州をまとめて攻め上り、家康と決戦したのに」と言った。

これは江戸時代の『常山紀談』(1770年)に記されている話です。

これらは一級史料(当時の史料)では何一つ確認できない、史実ではない、あるいは史実とはかけ離れた話ばかりなのです。
6月2日未明が本能寺の変です。

5月末から6月初め…

本能寺の変の“周辺”を探ると、このタイミング以外に信長を討つことはできない、という時機に明智光秀が動いたことがわかります。

まず、四国攻めの軍団。
彼らは現在の大阪にいました。
大将は神戸信孝。いわゆる織田信長の三男。
指揮官は丹羽長秀、副将格は三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄です。
三好康長は、四国の阿波国に地盤を持ち、織田信長と戦っていましたが、やがて臣従します。もともと長宗我部と対抗していて、四国攻めの案内役をつとめる予定であったともいえます。
蜂屋頼隆は、初めてその名を聞く人もいるかもしれませんが、当時は織田軍団の中では上位にいた人物で、荒木村重の乱のときは、村岡城攻めの前線指揮官もつとめています。石山本願寺攻めにも参加して、佐久間父子追放後は、和泉国の支配をまかされていました。
津田信澄は、明智光秀の娘婿にあたります。その点、細川藤孝の子、忠興と同じ… しかもなんと、織田信長の弟、織田信行の嫡男で、織田信長は伯父ではありますが、信長は弟信行を暗殺していますから、よく考えてみたら“父の敵”ともいえます。

5月29日、神戸信孝の軍は摂津の住吉に到着します。
津田と丹羽は大坂にいて、蜂屋は岸和田にいて、6月2日に集結する予定でしたからその兵力は三分されていたことがわかります。

なんせ大坂ですから、本能寺の変は、6月2日の午前には伝わりました。

近いといっても、その場に立てばわかりますが、大坂・住吉・岸和田ですし、何千の兵がすぐに動けるわけではありません。メールも電話も無い時代。まして京都までは50㎞以上離れています。
そう簡単には動けませんし、一か所に結集もしにくいところ…

情報が速い、ということも逆に災いします。
信長の死去、というのは、秘匿してしかるべきことです。特に軍事においては。
しかし京-大坂などは物流・交通・情報の大動脈です。たちまち伝わり、末端の兵士にまで広がります。

指揮官・幹部よりも先に兵が乱の情報を知りました。
情報統制の失敗の一つの型です。
情報は「大将→将→兵」でなければなりませんでした。

こうなるとかならずデマが生まれ、拡大・拡散していきます。
兵の逃亡、というのがあったとしたら、これが原因でしょう。
そして、主将クラスも、不安、に陥ります。
神戸信孝、丹羽長秀は、津田信澄が“光秀の娘婿”であることから、津田も光秀に内通していると考えて、津田信澄の居城を包囲し、これを討ち取りました。

この“混乱”から、神戸信孝、丹羽長秀らは動けませんでした。

次に、北陸攻めの軍団。
彼らは、越前から越中へ侵攻し、現在の富山県魚津市にある魚津城を攻めていました。
大将は柴田勝家。織田家の重臣中の重臣です。

上杉景勝が軍団を率いていましたが、魚津城を救援にむかったものの、手を出せず、信濃・下野芳名にいた織田軍が越後への侵入の動きがあったために兵を退かざるをえなくなりました。

柴田軍 VS 魚津城-上杉軍

という構図は、中国地方における

羽柴軍 VS 高松城-毛利軍

という構図によく似ています。

魚津城の主だった将たちが切腹し(十三将の切腹)、魚津城は陥落しました。

ここは勢いに乗るべきところ。まさに越後へ侵攻しようとしていた6月4日、「本能寺の変」の報せが届きました。
ここから柴田勝家の“北陸大返し”が始まりました。全軍を撤収させて、魚津城を放棄します。
部将の前田利家、佐々成政に越中を固めさせ、船で魚津から富山まで移動し、そこから自らの居城、越前北ノ庄までもどりました。
しかし、上杉軍の反攻めがあり、越中国の東部に“栓”をすることに時間がかかってしまいました。
「北陸-近江-京」は、物流・交通・情報の動脈でしたから、越中で食い止めないといっきに京まで押し返される危険がありました(実際、上杉氏には京まで攻め入る経済力も軍事力ももはやなかったのですが)。

ようやく態勢を整え、親族の柴田勝豊、柴田勝政を明智討伐軍として近江長浜にまで出撃させましたが、これが6月18日。すでに羽柴秀吉が明智光秀を討伐した後でした。

外交なき撤退の失敗です。

羽柴秀吉とよく似た状況にありながら、撤退を急いだものの、外交を怠ったために、背後を固めつつ反転する、ということをしてしまい、思い切った軍の展開ができませんでした。

前田利家と佐々成政は、黒田官兵衛、蜂須賀小六にはなれなかった、ということです。

次に関東攻めの軍団。
彼らは、実は「攻め」ていたのではありませんでした。
大将は滝川一益です。

武田氏を滅亡させたのち、滝川一益は信濃国と上野国をまかされました。
関東の北条氏と織田氏は、この時期、友好関係にありました。
孫子の兵法書にもあるように、「遠くと交じりて近くを攻める」という手法です。甲斐・信濃をおさえていた武田氏を挟撃するために北条氏と“仲よく”する必要があったからです。

武田攻めのときに滝川一益は武将として戦っていましたが、当時に、“申次”といって北条氏を担当する外交官でもありました。信濃だけでなく上野方面をおさえたのは、言うまでもなく信長の戦略です。

上杉氏を攻めるための布石でした。実際、北陸から柴田勝家が侵攻していましたから、信濃・上野から越後侵攻をすれば(いや、侵攻するフリをする、いわゆる牽制するだけで)、上杉は二方面作戦を強いられて滅亡することはほぼ間違いありませんでした。

一方、関東の豪族たち… 上野国に信長の代官ともいうべき人物が入ってきたのです。周辺の国人たちは、自らの立ち位置を思案するようになりました。なんせ、あの武田家を滅亡させた“力”を持つ織田信長です。「自分たちも滅ぼされるのではないか」と感じていました。
滝川一益は、そういう“空気”を読み取り、国人たちの本領安堵を認める、と、発令したのです。

われもわれもと北関東の国人たちは滝川一益のもとに人質持参で集まってきました。
関東地方の多くの豪族が織田信長の直参になりたいと申し出るようになり、滝川一益は、関東を“奉行”し始めていくことになります。
しかし、このことを北条氏は内心「にがにがしく」思っていたようで、危機感もつのらせていました。

この状況で、本能寺の変の報せが伝わりました。

滝川一益は、この「情報」の扱いを思慮します。家臣たちは秘匿しましょう、と、申し出ましたが、「秘密にしても、いずれ情報が伝わる。別のルートから彼らに情報が伝わると、不信に思われてしまう。それならば私自らが彼らに真実を伝えるべきであろう」とし、豪族たちを集めて本能寺の変を伝えることにしました。
「大将→将→兵」の情報統制、ということで言えば、滝川一益の判断は間違いではありません。

情報操作のない情報統制は破たんします。

中国攻めをしていた秀吉は、外交した後、反転攻撃を開始しましたが、諸兵、諸将には「信長公は本能寺にて遭難されたが生きておられる。われらはその救出に向かって謀反人、明智光秀を討つのだっ」と宣言しています。

中国大返しは

情報統制-外交-情報操作

が、見事に機能した軍事行動でした。

滝川一益は、諸豪族を集めて“ウソ”をつけばよかったのですよ。
「本能寺の変が起こったが信長公は生きておられる。」くらいのことを言い、なんなら「岐阜城にもどられ、このドサクサに関東地方に乱が起こらないか、こちらに3万の兵を派遣されたところだ」くらいのハッタリをかまし、「今から信長公を迎えにいく、みなもついて参れ」と言えばよかったんですよね…

実際、秀吉の中国大返しのとき、本能寺の変で動揺していた摂津の豪族たち(高山右近・中川清秀ら)は、秀吉のこの話に乗って秀吉軍に合流しているんです。

加工しない情報を提供した滝川一益は、たいへんな目にあいます。
というか、過信していたのでしょうね。自分が「虎の威をかる狐」にすぎないことをわすれていた。
目の前の滝川一益に、恭順していた諸豪族は、背後の織田信長をおそれていただけにすぎなかったのです。

滝川一益が、“正直に”諸将・諸豪族に本能寺の変を伝えたのが6月10日。
なんの余裕か、11日には長昌寺で能を興行して上州の豪族も招待しています。

北条氏直は、さっそく「仮面外交」を展開しました。11日付の滝川一益宛に「信長公が斃れても、今まで通りの誼を通じたい」という書状を送っていますが、その翌日の12日には領内に兵の総動員令を発動しています。

そして北関東でも、反乱が起こり始めます。
そして武田氏の旧領地内でも、旧武田氏の家臣たちが騒擾を起こしました。

この鎮圧に奔走しているスキに北条が兵を集中し、6月16日、いっきに織田勢力を関東から一掃する大作戦に出ました。動員された兵はなんと5万。

こうして神流川の戦いが展開されました。

滝川一益が動員したのは1万2000ほど。
一益自ら2800の兵で、北条氏直率いる2万3000を急襲するなどしましたが、多勢に無勢、さんざんに打ち破られました。

そして領地がある伊勢にむけて逃げ帰ることなりました。
滝川一益の“関東大返し”は、大逃避行となったのです。

み~んな大返しをしているのに成功だったのは秀吉だけ、ということになります。

光秀にとって、秀吉が迅速に帰ってきたことが想定外だったのではありません。
秀吉が、毛利との外交を成功させ、信長の死、という情報を統制したことが想定外だったのです。

中国大返しの「速さ」以外の部分をよく意識して大河ドラマや小説を楽しんでほしいと思います。