6月2日未明が本能寺の変です。
5月末から6月初め…
本能寺の変の“周辺”を探ると、このタイミング以外に信長を討つことはできない、という時機に明智光秀が動いたことがわかります。
まず、四国攻めの軍団。
彼らは現在の大阪にいました。
大将は神戸信孝。いわゆる織田信長の三男。
指揮官は丹羽長秀、副将格は三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄です。
三好康長は、四国の阿波国に地盤を持ち、織田信長と戦っていましたが、やがて臣従します。もともと長宗我部と対抗していて、四国攻めの案内役をつとめる予定であったともいえます。
蜂屋頼隆は、初めてその名を聞く人もいるかもしれませんが、当時は織田軍団の中では上位にいた人物で、荒木村重の乱のときは、村岡城攻めの前線指揮官もつとめています。石山本願寺攻めにも参加して、佐久間父子追放後は、和泉国の支配をまかされていました。
津田信澄は、明智光秀の娘婿にあたります。その点、細川藤孝の子、忠興と同じ… しかもなんと、織田信長の弟、織田信行の嫡男で、織田信長は伯父ではありますが、信長は弟信行を暗殺していますから、よく考えてみたら“父の敵”ともいえます。
5月29日、神戸信孝の軍は摂津の住吉に到着します。
津田と丹羽は大坂にいて、蜂屋は岸和田にいて、6月2日に集結する予定でしたからその兵力は三分されていたことがわかります。
なんせ大坂ですから、本能寺の変は、6月2日の午前には伝わりました。
近いといっても、その場に立てばわかりますが、大坂・住吉・岸和田ですし、何千の兵がすぐに動けるわけではありません。メールも電話も無い時代。まして京都までは50㎞以上離れています。
そう簡単には動けませんし、一か所に結集もしにくいところ…
情報が速い、ということも逆に災いします。
信長の死去、というのは、秘匿してしかるべきことです。特に軍事においては。
しかし京-大坂などは物流・交通・情報の大動脈です。たちまち伝わり、末端の兵士にまで広がります。
指揮官・幹部よりも先に兵が乱の情報を知りました。
情報統制の失敗の一つの型です。
情報は「大将→将→兵」でなければなりませんでした。
こうなるとかならずデマが生まれ、拡大・拡散していきます。
兵の逃亡、というのがあったとしたら、これが原因でしょう。
そして、主将クラスも、不安、に陥ります。
神戸信孝、丹羽長秀は、津田信澄が“光秀の娘婿”であることから、津田も光秀に内通していると考えて、津田信澄の居城を包囲し、これを討ち取りました。
この“混乱”から、神戸信孝、丹羽長秀らは動けませんでした。
次に、北陸攻めの軍団。
彼らは、越前から越中へ侵攻し、現在の富山県魚津市にある魚津城を攻めていました。
大将は柴田勝家。織田家の重臣中の重臣です。
上杉景勝が軍団を率いていましたが、魚津城を救援にむかったものの、手を出せず、信濃・下野芳名にいた織田軍が越後への侵入の動きがあったために兵を退かざるをえなくなりました。
柴田軍 VS 魚津城-上杉軍
という構図は、中国地方における
羽柴軍 VS 高松城-毛利軍
という構図によく似ています。
魚津城の主だった将たちが切腹し(十三将の切腹)、魚津城は陥落しました。
ここは勢いに乗るべきところ。まさに越後へ侵攻しようとしていた6月4日、「本能寺の変」の報せが届きました。
ここから柴田勝家の“北陸大返し”が始まりました。全軍を撤収させて、魚津城を放棄します。
部将の前田利家、佐々成政に越中を固めさせ、船で魚津から富山まで移動し、そこから自らの居城、越前北ノ庄までもどりました。
しかし、上杉軍の反攻めがあり、越中国の東部に“栓”をすることに時間がかかってしまいました。
「北陸-近江-京」は、物流・交通・情報の動脈でしたから、越中で食い止めないといっきに京まで押し返される危険がありました(実際、上杉氏には京まで攻め入る経済力も軍事力ももはやなかったのですが)。
ようやく態勢を整え、親族の柴田勝豊、柴田勝政を明智討伐軍として近江長浜にまで出撃させましたが、これが6月18日。すでに羽柴秀吉が明智光秀を討伐した後でした。
外交なき撤退の失敗です。
羽柴秀吉とよく似た状況にありながら、撤退を急いだものの、外交を怠ったために、背後を固めつつ反転する、ということをしてしまい、思い切った軍の展開ができませんでした。
前田利家と佐々成政は、黒田官兵衛、蜂須賀小六にはなれなかった、ということです。
次に関東攻めの軍団。
彼らは、実は「攻め」ていたのではありませんでした。
大将は滝川一益です。
武田氏を滅亡させたのち、滝川一益は信濃国と上野国をまかされました。
関東の北条氏と織田氏は、この時期、友好関係にありました。
孫子の兵法書にもあるように、「遠くと交じりて近くを攻める」という手法です。甲斐・信濃をおさえていた武田氏を挟撃するために北条氏と“仲よく”する必要があったからです。
武田攻めのときに滝川一益は武将として戦っていましたが、当時に、“申次”といって北条氏を担当する外交官でもありました。信濃だけでなく上野方面をおさえたのは、言うまでもなく信長の戦略です。
上杉氏を攻めるための布石でした。実際、北陸から柴田勝家が侵攻していましたから、信濃・上野から越後侵攻をすれば(いや、侵攻するフリをする、いわゆる牽制するだけで)、上杉は二方面作戦を強いられて滅亡することはほぼ間違いありませんでした。
一方、関東の豪族たち… 上野国に信長の代官ともいうべき人物が入ってきたのです。周辺の国人たちは、自らの立ち位置を思案するようになりました。なんせ、あの武田家を滅亡させた“力”を持つ織田信長です。「自分たちも滅ぼされるのではないか」と感じていました。
滝川一益は、そういう“空気”を読み取り、国人たちの本領安堵を認める、と、発令したのです。
われもわれもと北関東の国人たちは滝川一益のもとに人質持参で集まってきました。
関東地方の多くの豪族が織田信長の直参になりたいと申し出るようになり、滝川一益は、関東を“奉行”し始めていくことになります。
しかし、このことを北条氏は内心「にがにがしく」思っていたようで、危機感もつのらせていました。
この状況で、本能寺の変の報せが伝わりました。
滝川一益は、この「情報」の扱いを思慮します。家臣たちは秘匿しましょう、と、申し出ましたが、「秘密にしても、いずれ情報が伝わる。別のルートから彼らに情報が伝わると、不信に思われてしまう。それならば私自らが彼らに真実を伝えるべきであろう」とし、豪族たちを集めて本能寺の変を伝えることにしました。
「大将→将→兵」の情報統制、ということで言えば、滝川一益の判断は間違いではありません。
情報操作のない情報統制は破たんします。
中国攻めをしていた秀吉は、外交した後、反転攻撃を開始しましたが、諸兵、諸将には「信長公は本能寺にて遭難されたが生きておられる。われらはその救出に向かって謀反人、明智光秀を討つのだっ」と宣言しています。
中国大返しは
情報統制-外交-情報操作
が、見事に機能した軍事行動でした。
滝川一益は、諸豪族を集めて“ウソ”をつけばよかったのですよ。
「本能寺の変が起こったが信長公は生きておられる。」くらいのことを言い、なんなら「岐阜城にもどられ、このドサクサに関東地方に乱が起こらないか、こちらに3万の兵を派遣されたところだ」くらいのハッタリをかまし、「今から信長公を迎えにいく、みなもついて参れ」と言えばよかったんですよね…
実際、秀吉の中国大返しのとき、本能寺の変で動揺していた摂津の豪族たち(高山右近・中川清秀ら)は、秀吉のこの話に乗って秀吉軍に合流しているんです。
加工しない情報を提供した滝川一益は、たいへんな目にあいます。
というか、過信していたのでしょうね。自分が「虎の威をかる狐」にすぎないことをわすれていた。
目の前の滝川一益に、恭順していた諸豪族は、背後の織田信長をおそれていただけにすぎなかったのです。
滝川一益が、“正直に”諸将・諸豪族に本能寺の変を伝えたのが6月10日。
なんの余裕か、11日には長昌寺で能を興行して上州の豪族も招待しています。
北条氏直は、さっそく「仮面外交」を展開しました。11日付の滝川一益宛に「信長公が斃れても、今まで通りの誼を通じたい」という書状を送っていますが、その翌日の12日には領内に兵の総動員令を発動しています。
そして北関東でも、反乱が起こり始めます。
そして武田氏の旧領地内でも、旧武田氏の家臣たちが騒擾を起こしました。
この鎮圧に奔走しているスキに北条が兵を集中し、6月16日、いっきに織田勢力を関東から一掃する大作戦に出ました。動員された兵はなんと5万。
こうして神流川の戦いが展開されました。
滝川一益が動員したのは1万2000ほど。
一益自ら2800の兵で、北条氏直率いる2万3000を急襲するなどしましたが、多勢に無勢、さんざんに打ち破られました。
そして領地がある伊勢にむけて逃げ帰ることなりました。
滝川一益の“関東大返し”は、大逃避行となったのです。
み~んな大返しをしているのに成功だったのは秀吉だけ、ということになります。
光秀にとって、秀吉が迅速に帰ってきたことが想定外だったのではありません。
秀吉が、毛利との外交を成功させ、信長の死、という情報を統制したことが想定外だったのです。
中国大返しの「速さ」以外の部分をよく意識して大河ドラマや小説を楽しんでほしいと思います。