江戸フィルター 人物像を歪めるもの | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

わたしは、時々、“江戸フィルター”という言葉を使います。
江戸時代を通じて、それ以前の、とくに戦国時代の人物たちが、実像とは違う形で後世に伝えられている、と、考えています。

では、どんな「江戸フィルター」があるんでしょうか。

まず第一は、17世紀後半からの「戦国遺風の排除」の風潮です。
文治政治が進められ、戦国時代の野蛮な風習が改められていくようになりました。
ところが、このことが逆に作用して、かえって戦国時代の遺風の誇張や脚色を引き起こしてしまいました。
お上の“統制”というアクションに対してはそれへの“反発”というリアクションが起こるのが世の常です。
「ばさら」の風潮が禁止されると、かえってより強く「ばさら」を表現してやるっ という意識が出るものですから、戦国時代の生き残りや、戦国時代に郷愁を感じている武士たちの間で、たとえば南北朝時代に活躍した「ばさら大名」に人気が出るようになります。
あからさまに戦国時代の大名たちをテーマにした演劇や講談ができない時代でしたから、『太平記』に出てくる人物たちがクローズアップされます。
「戦国時代の遺風」を禁止したい側からみれば、「ばさら」系の武将は「悪人」として紹介しますし、それに反発したい人々たちは「ばさら」系の武将をカッコよく描いた演劇、講談を催します。
「高師直」、「佐々木道誉」などの人物は、こういうそれぞれ異なった方向からの圧力を受けて、ずいぶんと実像とはかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。
(度々説明していますが、高師直などは、『忠臣蔵』の中で好色で下品な悪人に描かれてしまい、人々にずいぶんと誤った先入観を植え付けられたと思います。一次史料からだけで精査した高師直は、優秀な戦闘指揮官にして後世の管領職の基礎を築いた人物としか言いようがありません。)

第二は、第一と関連して「儒学」「武士道」という思想です。

朱子学の「忠」という思想が封建制度に利用されることになりました。

「自ら犠牲となって主君を守る」
「お家の再興を図ろうと努力する」

これら結末に悲劇をともなわせたストーリーは、「武士の美学」を確立していきます。
豪快であるが、まっすぐに主君に忠実であった立花道雪。
お家の再興に奔走し、自ら犠牲となっても主君のためにつくした山中鹿之助。
武士道のお手本、忠義のお手本、となるような人物を探し出し、その逸話を潤色、誇張する…
戦国時代には、江戸時代のような「武士の道徳」は確立されていなかったのにもかかわらず、戦国時代の武将たちも、江戸時代の道徳を行動原理にして活躍していたかのような説明がされて、ずいぶんと実像とかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。

第三は、「軍学」の流行です。

兵法を“売り”にする武士たちが浪人の中から多数あらわれ、生業として剣術などを指南するただけでなく、戦国時代の武将の「生き様」を、おもしろおかしく弟子たちに語る者もあらわれるようになります。
いわば机上の空論なのですが、過去の戦国大名の業績を、独特の術語(ターム)を駆使して説明するわけです。「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」などというありそうで何の根拠もない陣法が生み出され、昔の武将たちがあたかもそのような戦術で戦っていたかのように説明されていく…

軍事参謀ともいえる“軍師”は戦国時代には存在しなかったのに、『史記』や『三国志』その他の中国の古典に出てくる張良や陳平、諸葛孔明などを、日本の戦国時代の中でも「出現」させてしまい、山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などを、そのような人物であったかのように持ち上げてしまい、ずいぶんと実像とかけ離れた人物として後世に伝えられてしまいました。

第四は、「家訓」「家祖礼賛」です。

17世紀以降、それぞれの大名家で、自分の祖先などルーツを探ることが流行するとともに、戦国時代のいろいろな武将のグッズを集めたり肖像画を収集したりすることが流行しました。
当時の家臣たちを統制するために「家訓」なども設けるのですが、その“説得力”のために、昔の偉人を借りてきて、自分が言いたい説明を、その歴史上の人物に語らせてしまう、というようなことが出てきました。
内向きの説明ですから、けっこうホラ話が多く、

「実は、幕府があるのはうちの御先祖さまのおかげだ。」
「うちの御先祖さまは、家康公も一目おいていたんだ。」
「うちの御先祖さまが仕えていた戦国大名はもうちょっとで天下とってたんだぞ。」

というような感じです。
これらが文書として残ってしまうと、史実と勘違いされてしまい、小説家や明治時代の歴史家などが改めて本にしてしまって、ず~っとほんまの話だと思われてしまった、ということです。

徳川氏は、武田氏が滅亡したとき、旧武田氏の家臣たちを多く召し抱えました。
さらに関東へ移封後は、旧北条氏の家臣たちを多く召し抱えました。
三河以来の家来、甲州出身の家来、旧北条氏の家来… 家臣たちの中にも派閥が生まれ、ついつい「張り合い」というのが出てきます。

三河武士たちは他の家臣たちが知らない家康像を自慢し、誇張します。
甲州武士は、かつて家康をも破った武田信玄を自慢し、誇張します。
旧北条氏の家来たちは、自分の御先祖さまが上杉謙信と戦ったことを自慢し、誇張します。

この流れの中で、武田信玄、上杉謙信、すげ~ぞ、という話が生まれます。
甲州武士も、ライバルが偉大であるほうが信玄さまの偉大さも強調できますから、上杉謙信には敬意を払いますし、上杉謙信派も、ライバルが偉大なほうが謙信さまの偉大さも強調できますから、武田信玄には敬意を払います。

川中島の合戦での陣形や陣法、信玄・謙信の一騎打ちまでが、あたかも史実であるかのように流布されてしまいました。

また戦国時代の武将のグッズなどを大名が買いあさるようになると、それにつけこんだニセモノ、コピー商品も大量に出回ります。
刀や槍はもちろん、茶道具まで、皆戦国大名誰々の由来のもの、となっていきます。
肖像画も、情報伝達力が無い時代ですから、昔のふる~い肖像画が見つかれば、これは戦国武将の誰々の絵です、とか言って売りつけるわけです。
これらは、インチキの戦国時代の武将像を補完するモノになってしまいました。

第五は、江戸の庶民文化の発展の中で、急速に広がった「歴史物語」「講談」です。

ようするに、おもしろく興味が出るように、そしてときに哀しくはかない物語として、虚構・誇張をおりまぜていく…

今川義元が京都をめさざして上洛する。
織田信長は少数の兵を率いて桶狭間の今川義元を奇襲する。

これらは江戸時代の“歴史物語”の話です。
義元は京都をめざして上洛もしていませんし、信長は少数で出撃して、嵐の中を奇襲攻撃などしかけてはいません。

長篠の戦いでは信長は鉄砲の三段撃ちなんかしていませんし、家康は、大坂の役のとき、外堀だけを埋めるとウソをついて内堀まで埋めてしまった、なんてこともしていません。

みんなこれらが史実であると思っている人、どれだけたくさんいることか…
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)

以下は蛇足ですが…
黒田官兵衛に関する「江戸フィルター」の例を紹介しましょう。

● 小寺政職が「天下をとるのは誰じゃ?」と聞くと官兵衛は「信長でございます。」と答えた。
● 織田信長に謁見した官兵衛は中国攻めの作戦を説明する。信長はこれに感動し、中国攻めを決断する。

これらは江戸時代、貝原益軒がまとめた『黒田家譜』(1688年)に記された話です。

● 本能寺の変の報せを聞いてうろたえる秀吉に、「殿っ 御武運が開けましたぞ」と囁いた。

これは江戸時代の『老人雑話』(1660年頃?)に記されている話です。

● 秀吉が「次に天下をとるのは誰だと思う? 官兵衛だ。」と言ったのを聞いて身の危険を感じて引退した。

これは江戸時代の『名将言行録』(1854~69年)に記されている話です。

● 関ヶ原の戦い後、息子の長政が「家康公がわたしの右手をとって礼を言われました。」と言うと「そのときお前の左手は何をしていた?(どうして左手で刀を持ち、家康を刺し殺さなかったのだ?)」と言った。

これは江戸時代の『故郷物語』(1829年)に記されている話です。

● 関ヶ原の戦い後、「もう少し長く石田三成が戦っていてくれたら、九州をまとめて攻め上り、家康と決戦したのに」と言った。

これは江戸時代の『常山紀談』(1770年)に記されている話です。

これらは一級史料(当時の史料)では何一つ確認できない、史実ではない、あるいは史実とはかけ離れた話ばかりなのです。