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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

いずれの御時にか
女御、更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに
いとやむごとなききはにはあらぬが
すぐれて時めき給ふありけり

で『源氏物語』は始まります。

どの帝の時代でしたか、女御や更衣がたくさん宮仕えしておられた中で、たいして身分が高くはない方で、格別に帝の寵愛を受けておられる方がいました。

当時の宮廷事情から考えると、この冒頭は、当時の貴族たちが読めば、現代の私たちが受ける印象とはまったくちがい、けっこうな“衝撃”を受ける内容だったんです。

まず、「女御、更衣」とはなんぞや? ということになるのですが、天皇の「後宮」に仕える女性の名称です。

後宮内では

 皇后
 中宮
 女御
 更衣

という序列がありました。
女御も更衣も天皇の寝所に侍する役割の女性で、「更衣」は文字通り、天皇のお着替えをお手伝いする、というところからこの名称があります。

「あまたさぶらひ給ひける…」

とありますが、どれだけ「たくさん」の女性たちがいたのでしょう。
多妻最多記録は、私の記憶が正しければ嵯峨天皇がお持ちになっていたはずで、30人の后がいたはずです。(名前が明確な者は29人くらいでしたでしょうか…)
当然、子どもの数も多く49人(うち男子が22人)。

天皇の後宮、というと権力を背景に、女性を多く集めて、さぞや楽しく相手をさせていたのだろうと、ついつい想像をたくましくしてしまうところですが、イスラーム帝国のスルタンや中国の皇帝の「ハーレム」や「後宮」とはずいぶんと性格が違いました。

平安時代の「帝の婚姻」は、欲望の充足ではなく、後継者を確保するための一夫多妻制で、天皇自身にほぼ選択権がない「婚姻」でした。

では、たくさん子どもをつくればよいのか? というと、それだけでは不十分です。
“だれ”を選ぶか、ということがポイントになります。

天皇になると、多くの貴族たちのサポートとコンセンサスを得て政事(まつりごと)を取り仕切らなくてはならりません。
つまり、貴族たち、とりわけ“有力な”貴族たちの支持と同意が得られるような子どもを後継者に選択しなくてはならないのです。

帝自身の欲望ではなく、実家の権勢によって妻を選ぶ、というのが“良識ある”天皇がすることでした。

ようするに天皇は“空気”を読まなくてはならないんですよね。
貴族たちは、その段階での貴族の権力バランスの中で、「ふさわしき家」の、「ふさわしき娘」を妻とし、「ふさわしき子ども」をつくってくれるように天皇を「見守っている」わけです。その視線を浴びながら夜の相手を選んでいく…

帝は、常に相手の女の実家の権勢を考えながら、その女と夜を過ごさなくてはならず、まぁ、太政大臣、左右大臣、大納言… と、その女の父の位階にふさわしくその女を扱う(具体的には寵愛する回数に序列をつける)ことが肝要になるわけです。

ところが!
よりにもよって、「いとやむごとなききはにはあらぬ」女に、この帝は、格別の寵愛を与えてしまったのです。

紫式部は、読者たる貴族たちへの衝撃を高めるために、この女性を「身分が低い」というだけでなく、「実家の父が亡くなっている」という設定までしてしまう念の入れようです。

 そんな女、寵愛する意味がないではないかっ!

と当時の貴族たちは、さぞかしびっくりしたことでしょう。

 うわ~ そら、あかん。大問題になるでぇ~ この話、どうなんのやろ…

と、この冒頭だけで、貴族の読者たちは、ぐっと入り込んで続きを読んでしまうわけです。

この女性は、桐壺に住居をたまわり、毎日毎日、帝の寵愛を受ける…

娘を後宮に入れて家の権力を維持、拡大しようとする貴族たち。
父から“重大な使命”を受けて帝の側に侍る娘たち。

そしてとうとう、二人の間には子どもができてしまう!

帝はこの子を天皇にしたくても絶対にできません。さすがにここは“空気”を読むわけです。
この子に“源”の姓を与えて臣籍に降下させました。この子が

 光源氏

です。
結局皇太子となって次の天皇となったのは光源氏の兄(正妻が生んだ異母兄)でした。

これらは、彼らの苛立ちと嫉妬が織りなす昼ドラ的なドロドロ愛憎劇ではなく、貴族たちの宮廷における権力構造を揺るがす政治問題でもあったのです。

さらに付けて加えるならば…
まったくの「ありえない」話ならば、読者の貴族たちは、「そんなばかな話があるかいな」と笑って見向きもしないのですが、これを読んだとたん、

「うわ… これ、こんな話、あるねんなぁ~」

と、同時にみんな思ったはずなんです。

10世紀末、ときの帝は一条天皇。
一条天皇が寵愛していた女性が、

 定子

でした。しかし、彼女の実家はやや力が傾きはじめていた…
父の関白、藤原道隆が死に、そして次に関白となった叔父の道兼も死んでしまう。
そして権勢はあの、

 藤原道長

の手にうつってしまう。
道長は、自分の娘、彰子を一条天皇の後宮に入れます。

一条天皇は“空気”を読まなくてはなりませんでした。
ところが定子との間には敦康親王という皇子が生まれていて、一条天皇はこの子を天皇にしたい…
でも… 一条天皇は“空気”を読んで、彰子との間に生まれた敦成(あつひら)親王を皇太子に任命しなければなりませんでした。
そして敦成親王が、後一条天皇となったのです。(敦康親王は才能豊かな人物で、この後、政治から離れて風雅の道を極めますが20才という若さで死んでしまいました。)

もうおわかりですよね。

 桐壺更衣=定子
 光源氏 =敦康親王

に、めっちゃかぶってしまうんです。

よく『源氏物語』の光源氏は、藤原道長をモデルにした、なんて話がありますが、わたしはまったくそうは思いません。
藤原道長が「やったこと」がモデルになった、と、言うべきだと思っています。
 わたしの思い通りにならないのは、鴨川の水、双六の賽、そして山法師だ。

とは、有名な白河法皇の「天下三不如意」です。
ここでいう山法師が、比叡山延暦寺の僧兵のことでした。

当時、僧兵は武力と威力を持っていました。

大寺院は、それぞれ荘園を持ち、その荘園を保守・管理するために一定の武力を必要としていました。平安中期以後の地方の治安の乱れもあり、「自分の土地は自分で守る」というところから、固有の武力を「自然な流れ」の中で保持するようになっていました。

もともとは寺院内の雑用、事務などをおこなっていた人々でしたが、10世紀ころには、荘園に進出してくる武士に対抗するために武装するようになってきました。

延暦寺・園城寺(三井寺)・興福寺・東大寺など当時はとくに有名で、台頭してきた武家に対抗するだけでなく、寺院間の対立の中でも僧兵たちは「活躍」することになります。

絵巻物などにみられる彼らの「武装」をみますと、まず、頭を裹頭(かとう)という白い布で包んでいることがわかります。そして腰には太刀を指し、手には薙刀を持っていて、足には高下駄を履いている、というのが“僧兵スタイル”の定番です。
後に細部には手が加えられますが、平安時代に描かれた絵巻物でもこのスタイルですから、ほぼ、平安時代から安土桃山時代まで、変わらぬスタイルであったような気がします。

裹頭を脱ぐとどうなっていたでしょうか。
僧だから、やはり剃髪している可能性もありますが、一説では剃髪はしていなかった、とも言われています。

さて、薙刀なのですが…
これ、どういう武器かわかりますか?
刀というのは、平安時代までは、両刃の直刀である場合が多かったのですが、10世紀以降、片刃で、反りの入ったいわゆる日本刀が普及し始めます。
と、同時に、やや短い片刃の反りが入った刀身に長い柄をつけた独特の形状をした薙刀が生まれました。
で、何につかう武器かといいますと、

 馬の脚を払う

武器でした。つまり、騎馬の兵たちに立ち向かうための武器で、比較的初心者でも扱いやすい武器といわれています。

 刀槍十年、長刀四年

という言葉があるのですが、刀や槍が一人前に扱えるようになるのには十年だが、薙刀は四年で扱えるようになる、という意味だそうです。(よって薙刀は後年、女性の武器となる)
ですから、僧兵というのは、基本的には戦闘のプロではなく、武術の心得のあまりない、寺に仕えている者が用いる武器としては、ごく自然なものだった、ということです。

騎馬兵と戦う… つまり武士たちと戦う、ということで馬術の心得が無い者が、馬上の武士に対抗するために用いた武器が薙刀、ということになります。
薙刀は当時、非武士たちの武器の象徴ともいえました。

さて、細かい話ですが、高下駄は、実は外でしゃがんで用便するときに、足がよごれないようにするための意味もあるものでした。
よって高下駄を常に履いている、ということは、長時間、外で(荘園などの境界、寺院の門前で)警備するためのスタイルでもありました。

武力だけでなく僧兵には威力もありました。
言うまでもなく、宗教的権威です。
僧兵が恐ろしいのではなく僧兵の背後の寺院が恐ろしいのです。
寺院や神社はそもそもが宗教施設です。僧を殺すと地獄に落ちる、というのはふつうに人々が信じていたことです。
比叡山は都の鎮護の寺院で、国家の安泰を祈禱する場所。
天皇、皇族、諸貴族そして末端の武士たちも、信仰心、というのはあるもので、ちょっとおいそれとは手が出しにくい、という気持ちもわかります。

そもそもが貴族や院も、寺院の軍事力を利用するときもあったので、いわば体制内の派閥争い的なところもあり、なかなか「思い通りにならない」ものでした。

平清盛は、たびたび、寺院や神社の僧兵や神人(神社の武装兵)と争いを起こしてきました。
「思い通りにしてやるっ」という強い意志を感じる対応をとるときもありましたが、なかなかうまく制御できないものでした。

天台座主の明雲が追放されるときに、武装した僧兵たちがこれを奪い返す、という事件があったのですが、このとき源頼政は僧兵に手を出せずに引き上げたりもしています。

清盛が安徳天皇を擁立した際、後白河院、高倉院を延暦寺と園城寺の僧兵が協力して「誘拐」しようとする事件も発生しています(未遂に終わりましたが)。

以仁王が挙兵したとき、彼を支援したのが園城寺の僧兵たちでした。
興福寺の支援を得ようと、大和にむかいますが、宇治平等院で平氏と戦います。

祇園祭の“山”の一つに浄妙山というのがあります。
宇治川の橋板を外して、平氏軍と以仁王軍が戦った場面がモチーフです。

浄妙という僧兵が先陣を切って戦おうと進み出たところ、後ろから来たやはり僧兵の一来が、

 悪(あ)しゅう候、浄妙坊!(すまんね浄妙坊、お先に!)

と、浄妙の頭上をひらりと飛び越えて先陣をとって平家の兵と戦った、という逸話を描いたものです。

ひらりと飛び越える、というと、五条の橋の上で戦った、弁慶と義経の逸話を思い出しますが、弁慶は一来のように身軽ではなく、ひらりと身をかわして飛んだのは義経のほうでした。

『平家物語』では、僧兵が随所にあらわれて活躍します。もし、お読みになるときは、ちょっと僧兵に注目してみてください。
平安末期の政権は、寺院と朝廷、武家のバランスの中で維持されており、そのバランスが崩れたときに“乱”が起こっているのがわかりますから。




以前にコヤブ歴史堂で取り上げたものと、NHKの大河ドラマを比較したことがあります。

大河ドラマではあまりとりあげられないが、コヤブ歴史堂ではよくとりあげられるもの。
大河ドラマではよくとりあげられるが、コヤブ歴史堂ではあまりとりあげられないもの。

前者が「平安時代」で後者が「幕末・維新」です。

一般に歴史ファンの方々は「戦国」「幕末・維新」派が多く、「平安時代」派は少ないようです。
コヤブ歴史堂では、人気がある時代だけではなく、みなさんがあまり興味が無さそうな時代の人々にも積極的にスポットを当てていきたいな、と、思っています。

そんなわけで、次回は「平安貴族」のネタなのですが…

ちょっと貴族たちの生活がわかりやすくなるように、いろいろな「貴族の周辺」の話をしていきたいと思っています。

まずは「牛車」。

貴族たちにとっては、「自動車」みたいなもんです。

たかが、乗り物、と、思うなかれ。
わざわざ、『延喜式』の中で、「牛車の作法」が規定されているくらい、牛車は特別な乗り物でした。

まず、貴族たちが牛にひかれて都を移動している様をみるだけで、いろいろなことがわかります。

まず、貴族が牛車に乗っていると、その両脇に「付き人」が並びます。この付き人のことを

 車副

「くるまぞひ」と言います。おもしろいことに車副は「女性が乗っている」ときのほうが人数が多いのが特徴です。
親王や左右大臣ですら14人なのですが、天皇の娘さまには20人が付きます。

后が22人、女御が16人、更衣には10人となっています。

「造り」もなかなか豪華で、大納言以上だと「黄金造り」といって金箔キラキラの牛車に乗ることが認められていました。

牛車は都を往来するときに制限はありませんでしたが、大内裏への乗り入れは禁止。
三位以上の者でも親王でも、宮城門前で降りて徒歩で中に入って行かなくてはなりませんでした。

ただ、例外があり、それが

 牛車の宣旨

と呼ばれるものです。勅許(天皇の許可)があれば、大内裏の中の宮門の前まで牛車で乗り付けてもよいことになっていました。
(他にも輦車(てぐるま)という乗り物があり、これは牛車の「牛」が「人」になっているようなもので、これも天皇の勅許(輦車の宣旨)が必要。)

たしか『源氏物語』の中で、三十そこそこの光源氏がこの「牛車の宣旨」をもらい、冷泉帝から牛車で参内・退出するように命じられる、という場面があります。
四十歳未満の者は、原則、牛車の宣旨を受けても辞退するのが慣例なのですが、さすがは光源氏。
牛車で宮門に乗り付けました。

牛車の宣旨は長く天皇に仕えた「老臣」を「いたわる」目的で出されるのがフツーです。
実際は四十歳未満の者が牛車の宣旨を受けた例は少なかったはずです。

さて、以前にコヤブ歴史堂で、「源義仲」を取り上げたときに、牛車の乗り方がおそまつで、貴族にバカにされちゃう話を紹介しました。
牛車の乗り降りって、どういうことになっていたのでしょうか…

実は高校生などが学校で使う「古典の便覧」(『新国語便覧』第一学習社)にも書かれています。

 後から乗って前から降りる

です。番組では『平家物語』の「猫間」の場面を採用させていただきましたが、ここで義仲が「牛車の後から乗って後から降りて」陰でバカにされていた、というエピソードがありました。

慣習を知らない田舎者、と、笑われることになったわけです。

ちょっと滑稽な絵だったでしょうね。乗り降りする時には榻(しじ)という踏み台を用意するのですが、従者たちは前から降りると思って前に榻を用意して跪いて待っている… あれ? 降りてこないな、と、思ったら、後ろから飛び降りちゃった… ええぇ~ マジですかっ と、なったんだと思います。

そんな義仲さんですから、きっと牛車の車内の作法も知らなかったと思います。

牛車内では着座の場所まで「序列」がありました。

身分が高い人から「前・右→前・左→後・左→後・右」という反時計回りに身分の高い者順に着座していきます。
身分の高い者が最初に乗って、最初に降りる、ということになるわけですね。

以下は蛇足ですが…

さて、知らない人もいるかもしれませんが、天皇は牛車に乗りません。

 輦輿

といって、人が担ぐ「輿」にお乗りになられます。

平治の乱のときでした。
藤原信頼・源義朝らは後白河法皇や二条天皇の身柄を確保していました。ここから、二条天皇を「救出」するときに、天皇を女装させ、「女性用の乗り物」に乗せて脱出を図る、という場面があるのですが、この「女性用の乗り物」が「牛車」でした。

『平治物語絵巻』にも「二条帝六波羅行幸」の絵がありますが牛車にお乗りになっておられるのがわかります。

当時の習慣ですと、「天皇は牛車に乗らない」という先入観があります。ましてや女性の乗る牛車に天皇が乗っておられる、とは、警固の兵たちも気づかなかったことでしょう。
女装していた、というより、当時の慣習を破って天皇を牛車に載せているからこそこの脱出は成功したのだと思います。


明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒しました。

世界史上、見事に成功した軍事クーデターの一つです。
前にも申しましたが、埼玉県あたりに結集した1万4000人の兵を率いて夜明け前に首都に侵入し、首相官邸を包囲して首相を取り逃がすことなく殺害する…
こんなこと、そう簡単にはできません。

本能寺を包囲した兵は3000ほどであったとも言われていますが、本能寺そのものは城塞化されていましたから、実際の「襲撃」には、もっと隠密裏の行動や、事前に何らかの“謀事”がなければそんなにうまくはいかなかったはずです。

大軍を動かすことの不自然さがなかった。
御茶会の予定があったこと、軍事演習の予定があったこと、四国出兵直前であったこと、中国遠征に信長が出撃する予定であったことなど、洛中の人々にとって兵が移動していることに“違和感”をおぼえなかった小さい理由が、いくつか重なっていた、ということもあったのかもしれません。

ドラマや小説のように、大軍で包囲した、というより、何らかの理由で堂々と門をくぐることができて、そこから襲撃にいたった、という可能性もあります。
(実際、将軍足利義輝が殺害されたときと同じような感じであった可能性もあります。)

本能寺の変にせよ、赤穂浪士の討ち入りにせよ、小説や演劇、テレビドラマの中での“演出”として、やや大げさに表現されてきた可能性も否定できません。

ともあれ、明智光秀は信長とその嫡男の信忠を、本能寺および二条御所(後の二条城)で討ち果たすことに成功しました。

一般的によく説明される光秀の失敗を並べますと、

・信長・信忠の「首」を確保できなかった。
・羽柴秀吉が想定していたよりも速く引き返してきた(中国大返し)。
・筒井順慶、細川藤孝が「協力」してくれなかった。
・徳川家康を討ち取ることができなかった。
・摂津の大名(中川・高山・織部など)を味方にできなかった。

というようなことがあげられています。

「中国大返し」の話は前にしたので、今回はその他のところを…

光秀の失敗の「謎」でもあるのですが、光秀は、織田信長、織田信忠もの“遺体”や“首”を得ることができていないのですよね。
首を示して「確かに討ち取った」ということを宣伝する…

なぜ、「そうしなかった」のでしょうか… いや、死体が見つからなかったからでしょ? ということなのですが、

 偽首

を用意するくらいのハッタリがあってもよいんですよね。それらしい首を用意できなかったものか…

まぁ、諸事情からそうできなかったとしても、もっと「情報操作」に心をくだく必要があった、とはよくいわれるところです。
畿内の諸衆が光秀に呼応しなかったのは、「信長の死」が十分確認できていなかったから「様子見」をした、ということだと思うんです。

細川藤孝・忠興父子は、忠興の嫁が光秀の娘のお玉(細川ガラシア)です。
光秀は、この二人は味方になってくれると思っていたようですが、実際は彼らは動きませんでした。藤孝は、髷を切り落とし信長の死をいたむ、という形式(殉ずるという形)で「隠居」してしまい、忠興に嫁を軟禁させる、ということをしています。

小説やドラマでは、細川父子は光秀との関係を断ちきった、先を読んで秀吉に協力した、と、考えられていますが、これはちょっとかいかぶりすぎだと思います。
細川藤孝は、光秀と秀吉、どちらが勝ってもどちらにでも味方できる「言い訳」を用意したのだと思います。
光秀が優勢で、勝ったとしたら、「光秀の娘が敵にわたって人質にされてはいけないので隠しておきました」と説明できるからです。
ようするに形勢がハッキリするまで、距離をおいておこう、という処世術です。
これに対して光秀は“哀願”とでもいうべき手紙を細川父子に送っています。

「わたしは天下に執着しない。これはみな、婿の細川忠興のためにやったこと。天下が定まればわたしは引退し、天下はすべて婿殿に譲ります。(だからお願いだから味方して!)」

でも… これ、助力を求める手紙としても“失敗”だと思うんです。
こんな手紙もらったら、ハッキリいって「引き」ませんか? え… ちょっとちょっと… うち、巻き込まないでよ、と、なりそうな表現ですよね。
光秀の自信の無さも伝わりますし、「え、味方したらヤバいんじゃないかな」と思わせてしまうような手紙になってしまっています。

大和の筒井順慶の場合も同様に、形勢が明確になるまで様子を見ようとしているような感じです。

ちなみに、筒井順慶は、兵を率いて「洞ヶ峠」で様子見はしていません。
確かに、洞ヶ峠は見晴しがたいへんよく、どっちが勝つか、ここで眺めていそ~な場所ですが、そういう行動は筒井順慶はしていません。

摂津の諸大名は、秀吉の情報操作にしっかりと乗っかっています。

「信長さまも信忠さまも膳所に避難されている。このとき福富秀勝の比類なき活躍をみせた。」

こういう手紙を秀吉は発しています。

さっきの光秀の手紙とはまったく違い、説得力があります。

ウソは「具体的」でなければいけません。ウソを堂々と言ってのけるためには「具体例」が必要なんですよね。
「膳所にいる」「福富秀勝の比類なき活躍」など「さもありそうな」具体的な場所、人名を明記しています。(福富秀勝は信長の側近の一人。武勇にすぐれ危機的な状況に強いという当時評判が高かった人物です。)

これ、「信長さまは家来の活躍で生きています。」というだけの手紙ならリアリティにかけて「ああ、とりつくろっているだけだな」という印象を与えてしまいますよね。

秀吉のこの手紙を書いた人物は(秀吉本人かもしれませんが)、かなりレベルの高い「ウソつき」だと思います。

手紙というのは、書いてあるコトが伝わるのではなく、そのコトが意味することが伝わるものなのです。
相手がそれを読んでどう「想像するか」というところが大切なのです。
光秀が細川父子に送った手紙では、「天下を譲る」ということが伝わったのではなく「だいぶおいつめられているな」ということが伝わってしまいました。
一方、秀吉の手紙は、「信長が無事」ということを読み手が想像しやすい具体例があげられていますよね。

何がどう伝わったのか…

このあたりに光秀の失敗があったと思います。

幸村は呆然とした…

  和議だと?

これはいったい何なのだ…
悔しい、のでもない、馬鹿げている、とも思わない… 憤りがあるのでもない…

あたかも芸術家が自分の心血を注いで創り上げた作品が無視されたような、何とも言えない寂寥を幸村は感じていた。

どうだ、と見せた芸術作品が無視されたような、というか、その作品を理解できる感性を持ち合わせている者が身近に誰もいない… 彼はそんな思いでいたのかもしれない。

皮肉なことに彼の“作品”の理解者は、敵側の徳川家康しかいなかったのだ。

が、しかし、彼は絶望したのではなかった。
もともと彼の頭の中に「この戦いの後」があったわけでは、正直、ないのである。

天下がすでに定まろうとしている。
豊臣家が、過去の栄光にしがみついて、いかに淀殿がヒステリックに叫んでも、もはや豊臣の天下にもどるわけがないのだ。

 で、あるのに…
 なぜ、わたしは戦うのだ…

もはやこれは豊臣の戦いではない、私の戦いだ。
芸術家が作品を世に残すように、「幸村の戦さ」を世に残す…

幸村は、死して名を残す、という道を選んだのである。

次々と埋められていく濠を眺めながら、幸村の頭の中には「次なる作品」が描かれていた。

そしてもう一人。
次々と埋められていく濠を眺めながら、静かに笑うものがいた。

徳川家康である。

和議では、外堀は徳川が、内堀は豊臣が、それぞれ埋める、ということが取り決められていたはずであった。

そうはいかぬ。
濠の埋め立てをできるだけ長引かせようというのであろうが…

 見よ、内堀を埋めるのに手間取っておられるようだ。
 外堀を埋めた後、内堀を埋めることをお手伝い申し上げよ。

かくして兵士の流血による戦さによってではなく、ただの土木工事によって勝敗が決せられようとしていた。

いや、勝敗は決したのである。

翌年、徳川家康は、再び、大坂征討の大軍を派遣した。
しかし、そこには、「城」はなかった…

包囲するべき城も、守って籠るべき城ももはやなかったのだ。

兵力差は歴然としており、戦闘、というより、集団的虐殺が始まろうとしていた。

幸村の率いる真田軍団は、その戦乱の中で、ぴくりとも動かなかった。
黒い鎧に緋色の直垂に身を固めたその一隊は、誰一人声を出さず、馬すら息を凝らして幸村の出撃の合図を待っているかのようであった。

幸村はたった一点を見つめて無言で馬を駆って飛び出した。
彼の率いる軍団は、幸村の体の一部のように、何のためらいもなく彼につき従って一斉に出撃したのである…
徳川家康の首一つを求めて、家康の本陣にむかって、なさがら“黒き疾風”の如く、他の何ものにも目もくれず、駆けて駆けて駆け抜けた…

  真田幸村戦死の地

大坂は天王寺の安居神社。
ここにこう記された碑が立てられている。

乱戦の中、彼はここで斃れたどうか…
いずれにせよ、彼の死とともに、戦国武将の時代は終わりを告げたのである。

(完)