光秀の失敗 二つの手紙 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒しました。

世界史上、見事に成功した軍事クーデターの一つです。
前にも申しましたが、埼玉県あたりに結集した1万4000人の兵を率いて夜明け前に首都に侵入し、首相官邸を包囲して首相を取り逃がすことなく殺害する…
こんなこと、そう簡単にはできません。

本能寺を包囲した兵は3000ほどであったとも言われていますが、本能寺そのものは城塞化されていましたから、実際の「襲撃」には、もっと隠密裏の行動や、事前に何らかの“謀事”がなければそんなにうまくはいかなかったはずです。

大軍を動かすことの不自然さがなかった。
御茶会の予定があったこと、軍事演習の予定があったこと、四国出兵直前であったこと、中国遠征に信長が出撃する予定であったことなど、洛中の人々にとって兵が移動していることに“違和感”をおぼえなかった小さい理由が、いくつか重なっていた、ということもあったのかもしれません。

ドラマや小説のように、大軍で包囲した、というより、何らかの理由で堂々と門をくぐることができて、そこから襲撃にいたった、という可能性もあります。
(実際、将軍足利義輝が殺害されたときと同じような感じであった可能性もあります。)

本能寺の変にせよ、赤穂浪士の討ち入りにせよ、小説や演劇、テレビドラマの中での“演出”として、やや大げさに表現されてきた可能性も否定できません。

ともあれ、明智光秀は信長とその嫡男の信忠を、本能寺および二条御所(後の二条城)で討ち果たすことに成功しました。

一般的によく説明される光秀の失敗を並べますと、

・信長・信忠の「首」を確保できなかった。
・羽柴秀吉が想定していたよりも速く引き返してきた(中国大返し)。
・筒井順慶、細川藤孝が「協力」してくれなかった。
・徳川家康を討ち取ることができなかった。
・摂津の大名(中川・高山・織部など)を味方にできなかった。

というようなことがあげられています。

「中国大返し」の話は前にしたので、今回はその他のところを…

光秀の失敗の「謎」でもあるのですが、光秀は、織田信長、織田信忠もの“遺体”や“首”を得ることができていないのですよね。
首を示して「確かに討ち取った」ということを宣伝する…

なぜ、「そうしなかった」のでしょうか… いや、死体が見つからなかったからでしょ? ということなのですが、

 偽首

を用意するくらいのハッタリがあってもよいんですよね。それらしい首を用意できなかったものか…

まぁ、諸事情からそうできなかったとしても、もっと「情報操作」に心をくだく必要があった、とはよくいわれるところです。
畿内の諸衆が光秀に呼応しなかったのは、「信長の死」が十分確認できていなかったから「様子見」をした、ということだと思うんです。

細川藤孝・忠興父子は、忠興の嫁が光秀の娘のお玉(細川ガラシア)です。
光秀は、この二人は味方になってくれると思っていたようですが、実際は彼らは動きませんでした。藤孝は、髷を切り落とし信長の死をいたむ、という形式(殉ずるという形)で「隠居」してしまい、忠興に嫁を軟禁させる、ということをしています。

小説やドラマでは、細川父子は光秀との関係を断ちきった、先を読んで秀吉に協力した、と、考えられていますが、これはちょっとかいかぶりすぎだと思います。
細川藤孝は、光秀と秀吉、どちらが勝ってもどちらにでも味方できる「言い訳」を用意したのだと思います。
光秀が優勢で、勝ったとしたら、「光秀の娘が敵にわたって人質にされてはいけないので隠しておきました」と説明できるからです。
ようするに形勢がハッキリするまで、距離をおいておこう、という処世術です。
これに対して光秀は“哀願”とでもいうべき手紙を細川父子に送っています。

「わたしは天下に執着しない。これはみな、婿の細川忠興のためにやったこと。天下が定まればわたしは引退し、天下はすべて婿殿に譲ります。(だからお願いだから味方して!)」

でも… これ、助力を求める手紙としても“失敗”だと思うんです。
こんな手紙もらったら、ハッキリいって「引き」ませんか? え… ちょっとちょっと… うち、巻き込まないでよ、と、なりそうな表現ですよね。
光秀の自信の無さも伝わりますし、「え、味方したらヤバいんじゃないかな」と思わせてしまうような手紙になってしまっています。

大和の筒井順慶の場合も同様に、形勢が明確になるまで様子を見ようとしているような感じです。

ちなみに、筒井順慶は、兵を率いて「洞ヶ峠」で様子見はしていません。
確かに、洞ヶ峠は見晴しがたいへんよく、どっちが勝つか、ここで眺めていそ~な場所ですが、そういう行動は筒井順慶はしていません。

摂津の諸大名は、秀吉の情報操作にしっかりと乗っかっています。

「信長さまも信忠さまも膳所に避難されている。このとき福富秀勝の比類なき活躍をみせた。」

こういう手紙を秀吉は発しています。

さっきの光秀の手紙とはまったく違い、説得力があります。

ウソは「具体的」でなければいけません。ウソを堂々と言ってのけるためには「具体例」が必要なんですよね。
「膳所にいる」「福富秀勝の比類なき活躍」など「さもありそうな」具体的な場所、人名を明記しています。(福富秀勝は信長の側近の一人。武勇にすぐれ危機的な状況に強いという当時評判が高かった人物です。)

これ、「信長さまは家来の活躍で生きています。」というだけの手紙ならリアリティにかけて「ああ、とりつくろっているだけだな」という印象を与えてしまいますよね。

秀吉のこの手紙を書いた人物は(秀吉本人かもしれませんが)、かなりレベルの高い「ウソつき」だと思います。

手紙というのは、書いてあるコトが伝わるのではなく、そのコトが意味することが伝わるものなのです。
相手がそれを読んでどう「想像するか」というところが大切なのです。
光秀が細川父子に送った手紙では、「天下を譲る」ということが伝わったのではなく「だいぶおいつめられているな」ということが伝わってしまいました。
一方、秀吉の手紙は、「信長が無事」ということを読み手が想像しやすい具体例があげられていますよね。

何がどう伝わったのか…

このあたりに光秀の失敗があったと思います。