暴れる僧兵たち | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 わたしの思い通りにならないのは、鴨川の水、双六の賽、そして山法師だ。

とは、有名な白河法皇の「天下三不如意」です。
ここでいう山法師が、比叡山延暦寺の僧兵のことでした。

当時、僧兵は武力と威力を持っていました。

大寺院は、それぞれ荘園を持ち、その荘園を保守・管理するために一定の武力を必要としていました。平安中期以後の地方の治安の乱れもあり、「自分の土地は自分で守る」というところから、固有の武力を「自然な流れ」の中で保持するようになっていました。

もともとは寺院内の雑用、事務などをおこなっていた人々でしたが、10世紀ころには、荘園に進出してくる武士に対抗するために武装するようになってきました。

延暦寺・園城寺(三井寺)・興福寺・東大寺など当時はとくに有名で、台頭してきた武家に対抗するだけでなく、寺院間の対立の中でも僧兵たちは「活躍」することになります。

絵巻物などにみられる彼らの「武装」をみますと、まず、頭を裹頭(かとう)という白い布で包んでいることがわかります。そして腰には太刀を指し、手には薙刀を持っていて、足には高下駄を履いている、というのが“僧兵スタイル”の定番です。
後に細部には手が加えられますが、平安時代に描かれた絵巻物でもこのスタイルですから、ほぼ、平安時代から安土桃山時代まで、変わらぬスタイルであったような気がします。

裹頭を脱ぐとどうなっていたでしょうか。
僧だから、やはり剃髪している可能性もありますが、一説では剃髪はしていなかった、とも言われています。

さて、薙刀なのですが…
これ、どういう武器かわかりますか?
刀というのは、平安時代までは、両刃の直刀である場合が多かったのですが、10世紀以降、片刃で、反りの入ったいわゆる日本刀が普及し始めます。
と、同時に、やや短い片刃の反りが入った刀身に長い柄をつけた独特の形状をした薙刀が生まれました。
で、何につかう武器かといいますと、

 馬の脚を払う

武器でした。つまり、騎馬の兵たちに立ち向かうための武器で、比較的初心者でも扱いやすい武器といわれています。

 刀槍十年、長刀四年

という言葉があるのですが、刀や槍が一人前に扱えるようになるのには十年だが、薙刀は四年で扱えるようになる、という意味だそうです。(よって薙刀は後年、女性の武器となる)
ですから、僧兵というのは、基本的には戦闘のプロではなく、武術の心得のあまりない、寺に仕えている者が用いる武器としては、ごく自然なものだった、ということです。

騎馬兵と戦う… つまり武士たちと戦う、ということで馬術の心得が無い者が、馬上の武士に対抗するために用いた武器が薙刀、ということになります。
薙刀は当時、非武士たちの武器の象徴ともいえました。

さて、細かい話ですが、高下駄は、実は外でしゃがんで用便するときに、足がよごれないようにするための意味もあるものでした。
よって高下駄を常に履いている、ということは、長時間、外で(荘園などの境界、寺院の門前で)警備するためのスタイルでもありました。

武力だけでなく僧兵には威力もありました。
言うまでもなく、宗教的権威です。
僧兵が恐ろしいのではなく僧兵の背後の寺院が恐ろしいのです。
寺院や神社はそもそもが宗教施設です。僧を殺すと地獄に落ちる、というのはふつうに人々が信じていたことです。
比叡山は都の鎮護の寺院で、国家の安泰を祈禱する場所。
天皇、皇族、諸貴族そして末端の武士たちも、信仰心、というのはあるもので、ちょっとおいそれとは手が出しにくい、という気持ちもわかります。

そもそもが貴族や院も、寺院の軍事力を利用するときもあったので、いわば体制内の派閥争い的なところもあり、なかなか「思い通りにならない」ものでした。

平清盛は、たびたび、寺院や神社の僧兵や神人(神社の武装兵)と争いを起こしてきました。
「思い通りにしてやるっ」という強い意志を感じる対応をとるときもありましたが、なかなかうまく制御できないものでした。

天台座主の明雲が追放されるときに、武装した僧兵たちがこれを奪い返す、という事件があったのですが、このとき源頼政は僧兵に手を出せずに引き上げたりもしています。

清盛が安徳天皇を擁立した際、後白河院、高倉院を延暦寺と園城寺の僧兵が協力して「誘拐」しようとする事件も発生しています(未遂に終わりましたが)。

以仁王が挙兵したとき、彼を支援したのが園城寺の僧兵たちでした。
興福寺の支援を得ようと、大和にむかいますが、宇治平等院で平氏と戦います。

祇園祭の“山”の一つに浄妙山というのがあります。
宇治川の橋板を外して、平氏軍と以仁王軍が戦った場面がモチーフです。

浄妙という僧兵が先陣を切って戦おうと進み出たところ、後ろから来たやはり僧兵の一来が、

 悪(あ)しゅう候、浄妙坊!(すまんね浄妙坊、お先に!)

と、浄妙の頭上をひらりと飛び越えて先陣をとって平家の兵と戦った、という逸話を描いたものです。

ひらりと飛び越える、というと、五条の橋の上で戦った、弁慶と義経の逸話を思い出しますが、弁慶は一来のように身軽ではなく、ひらりと身をかわして飛んだのは義経のほうでした。

『平家物語』では、僧兵が随所にあらわれて活躍します。もし、お読みになるときは、ちょっと僧兵に注目してみてください。
平安末期の政権は、寺院と朝廷、武家のバランスの中で維持されており、そのバランスが崩れたときに“乱”が起こっているのがわかりますから。