幕末、多くの西欧人が江戸に訪れ、「日本の印象」を日記などに記しています。
彼らの“おどろき”の一つは、
この町は臭くないっ
ということでした。(ペリーもこのような印象を記しています。)
都市の糞尿は周辺の農村に“回収”されるシステムが確立されていて、江戸は糞尿の悪臭がしない世界的にも珍しい町であったようです。当時、パリやロンドンではアパートメントの室内のオマルに貯められた糞尿は窓から道路に捨てられ、放置されていました(大きな下水道は当時まだ無い)。
女性が道路側、男性が内側を歩く、というマナーは女性に糞尿がふりかからないようにするための“ジェントルマン”の心遣いだったのです。
(女性のハイヒールも、道路上の糞尿がスカートの裾を汚すのを避けるために生まれました。)
それからもう一つの“おどろき”は
女性の地位が高い…
ということでした。
「店の主人は、ほとんどが女性である」
「職人たちを女性が使役している」
確かに、“女将さん”は企業の支配人ですからね…
え? 江戸時代って封建制度で、「男尊女卑」で、女性の地位は低かったのでは?
と、考えがちです。
離婚も男から一方的にできた、なんて話もありますが、史料的には女性のほうから男性へ「三行半」(離縁状)をつきつけている例もあります。
参政権、ということに関しては女性の地位は低い、と、いえますが一般庶民の「家」の中での女性の地位は高い、というべきでしょう。“台所”つまり経済は女性が握っていました。
さてさて、中世の女性たちですが…
支配と税負担の原則は、
「人」→「土地」→「家」
と、古代、中世、近世、と、変化してきています。
租庸調は人に課せられる税、官物などは土地にかけられる税でした。
中世になると「家」が社会の単位となります。
平安時代には、夫婦は別居で、男が女の家に通う(妻問い婚)のが常態でしたが、鎌倉時代になると、女が男の「家」で同居する(嫁取り婚)ことが増えていきます。「嫁」という字はまさに、
「女」+「家」=「嫁」
なんですよね。
武士たちは、「家」と「家」のつながりで武士団を形成していきます。この“つながり”の元こそ婚姻にあったわけで、女性が大きな役割を果たしました。
武家では、よく「男子がいない家は絶える」といって男子を重視していたように思われがちですが、女子がいないと他家との“つながり”が無くなるので「女子がいない家は栄えない」ということになりました。
源頼朝の妻、北条政子は、父の反対をおしきって自らの意志で夫を選んでいます。
頼朝は、政子の家にしのんでいきます。平安スタイルですね。ところが政子は父の反対をおしきって頼朝の元に行きました。「妻問い」→「嫁取り」を象徴的にあらわしています。
北条家と源家をつないだのが政子。
武家では、「父」と「夫」を娘(妻)が結合させています。
武家の女性は、この時代、実家の姓を名乗ります。北条政子は結婚しても「源政子」ではなく「北条」のままなんですよ。
ただし、「政子」という名前は、位をもらってからの名前で、頼朝と結婚したときの名前は実は不明なんです。
昔、大河ドラマで「草燃える」というのがありました。めずらしく鎌倉時代の大河ドラマなんですが、その中で頼朝や父の北条時政が「政子」と呼ぶシーンがたくさんありましたが、ありえないことです。ひょっとすると、頼朝は「政子」と一回も呼びかけていないかもしれません。
女も、実家の領地を相続する権利を持ち、夫婦は、夫の土地、妻の土地の共同経営者でした。
妻が死んでも、その土地は夫のものにはなりません。
子どものものになります。
女性の地頭が認められていた(御成敗式目に明記されています)、というのもこういう背景があるからです。
一般庶民でも、もちろん女性はかなり「家」の中心にありました。
『一遍上人絵伝』は中世の人々の生活を知ることができる重要史料ですが、「市」ではあきらかに“女将さん”らしき人が店をしきっていて、お金を勘定しているのはみな女性です。
東京国立博物館にある「七十一番職人歌合」に百以上の職業が絵で紹介されていますが、その半分
近くが女性が仕事をしている様子が描かれています。
鎌倉末期から室町時代にかけて、「座」という同業者の組合が発達するのですが、室町時代の京都では、着物の帯の座をしきっていたのは亀屋五位女、という女性であったことがわかっています。
社寺にみられる女人禁制も、女そのものを禁じるというわではなく、血の穢れを避ける、という意味だけで、女に限らず、男であっても血の穢れ(刀や狩猟道具)を所持したままの参拝は禁止されていました。
そもそも室町時代には、女性は寺堂の造営、祭礼をしっかりと取りしきっていて、「女房座」などもふつうに存在していたのです。
北条政子や日野富子、というと、彼女たちの“個性”として扱われがちですが、そういう時代の背景がしっかりとあって、「強さ」を示していました。
家政、“台所”を担う女性の歴史は、脈々と江戸時代にも継続し、現在においても、家のサイフは妻が握っている、という家庭はけっこうありますからね。
日本の伝統だっ
日本の文化だっ
日本の歴史だっ
という名目で女性が差別されている文化を正当化される方がありますが、そんな人たちに限って、江戸時代にまでしかもどりません。
そういうのって、正しい歴史や文化、伝統の正しい理解とはいえませんね。
坂本龍馬ほど美化された歴史の英雄はいません。
いや、歴史上の人物で美化されたり歪曲されたりしていない人物は一人もいないと思います。
“江戸フィルター”
の話を以前にしたと思いますが、かならず時代の価値観、社会の流行などなどを通じて過去の人物像は歪められてしまいます。
小説、ドラマとして「楽しむ」のはかまいませんが、それを史実として鵜呑みにしてしまうと、小さなことが累積して歴史の全体像が「気が付けば」「知らないうちに」歪んでしまっている、ということが多々あります。
小説のおかげで、その人物がそうであった、と、思い込んでしまうのは仕方がないとしても、たった一人の人物の「おかげ」で歴史が動く、ということは、実際はあまりありません。
坂本龍馬
も、多くの史実でない話が累積して、すっかり実像が歪んでしまった人物の一人です。
誤解なさらないように。だから実像はたいしたことがない、という話ではないのです。
ほんとうの実績や歴史上の役割が隠されて虚像ばかりが実体であるかの誤解を避けたいだけです。
拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』でも説明しましたし、かつてテレビ朝日のQさまでお話ししたように、
薩長同盟
は、幕府を倒すための同盟ではなく、口約束だけで、“同盟文書”のようなものはなく、桂小五郎に対して坂本龍馬が裏書した書状があるだけです。
巷間知られている「薩長同盟」より以前から薩摩と長州は、“同盟”(米と銃を交換交易する)を結んでいました。
小説やドラマのように、たった一日の会合で(坂本龍馬が西郷隆盛と桂小五郎を説得して)同盟が成立したのではないのです。
とくに坂本龍馬の“性格”“人となり”に関してはほとんどが小説家の「空想」です。
坂本龍馬の「人物像」は、ほとんどが虚構なのを知っていましたか?
・もともとはあまり利発な少年ではなかった。
・十二歳になっても寝小便していた。
・友人から、イジメられても言い返すこともできない。
・文字をおぼえるのも苦手だった。
というのは史料的にな~んにも証明されていないことです。
坂崎紫瀾という人物が明治16年に書いた『汗血千里駒』という小説で書かれているだけのものなんです。それ以前の史料には一切出てこない逸話です。
小説やドラマにみられる「坂本龍馬」は、大器晩成で、子どものときは愚鈍な少年で、彼が志を得てやがて大人物となる、というストーリーになっています。
読者や視聴者にとっては「自分自身」や「自分の子ども」、「自分の身近な人物」と重ね合わせて作品に「入り込みやすい」設定ですが、事実ではありません。
坂本龍馬が江戸に出たのは大きな“志”を得たからではなく、土佐の郷士という貧乏武士の次男として家を出なくてはならなかったことが大きな理由です。(龍馬以外にも同じような境遇の若い武士はたくさんいました。)
彼が江戸に出たのは1853年ですから、ペリーの来航と「遭遇」しています。これが17才か18才の頃になります。
勝海舟という大物に出会って近代に目覚める、というのは1862年ですから26才くらいのことになります。
でも、江戸にいた10代のとき、もう一人の大物、佐久間象山の弟子になっています。
小説では、この10代のときには剣術にあけくれ、千葉道場のさな子との恋愛などが描かれている場合が多く、「信夫左馬之助」なる人物と絡む場面もありますが、この人物はまったくのフィクションで実在しません。
佐久間象山から西洋砲術を学び、土佐にもどってからも砲術研究家の徳弘孝蔵の弟子となって土佐の海岸で砲術の射撃訓練までやっています。
二十代で勝海舟から近代海軍を学んでいるだけでなく、すでに十代で佐久間象山から西洋砲術を学んているんです。
江戸から送った1853年の手紙には、
異国船が近づいています。
まもなく戦さとなるでしょう。
そのときは異国の首をとって土佐に帰って参ります。
と書かれていて、近代的な西洋の技術を学んで、それによって攘夷を実現する、という「合理的攘夷論」を佐久間象山から学んでいたことがわかります。
大器晩成どころか早期の段階で当時の最新思想を吸収していたことがわかります。
さて、「薩長同盟」と並んで、坂本龍馬の“業績”と考えられている大きなものは
「大政奉還」
でしょう。
ただ、この大政奉還、というのは、実は、「倒幕」を引き出すための、一つの「道具」だったと最近は考えられています。
西郷隆盛はこう構想しました。
土佐藩に「大政奉還」を勧めさせる。
しかし、徳川慶喜はそれを拒否する。
それを口実として幕府を倒す運動を展開する。
ところが誤算が生じます。
幕府がそれを受け入れようとしてしまう…
小説やドラマでは、坂本龍馬は、倒幕には反対で、大政奉還をさせて諸侯連合のようなものを築き上げる構想をしていたように描かれていますが、そんなことはありません。
龍馬は、桂小五郎への手紙の中で、「後藤を退けて、乾(後の板垣退助)を出す」という話をしています。
後藤は大政奉還派の人物で、乾退助は倒幕派。
坂本龍馬の真意は西郷隆盛と同じで「大政奉還を献策する、幕府が拒否する、それを口実に倒幕する」というプランに添って動いていたはずです。
実際、坂本龍馬は、1867年9月(大政奉還のほぼ直前)に長崎でオランダから1000挺以上の小銃、武器類を購入して土佐藩に売りつけています。
倒幕運動の準備を着々と工作しているんですよね。(実際、戊辰戦争のとき、この坂本が調達した武器類が土佐藩の軍事力の基礎となりました。)
大政奉還が成功したのは後藤象二郎の実績で、坂本龍馬は違う路線で動いていた、と考えるべきでしょう。小説やドラマで「坂本龍馬と徳川慶喜が大政奉還を実現させた」というような描かれ方をしているのは史実に添っているとはとても思えません。
近代を切り開いたのがなんでもかんでも坂本龍馬、というのは、あまりにひどいコジツケです。
最後に、有名な彼のエピソードを否定しておきたいと思います。
坂本龍馬が西郷隆盛に新しい政府の人事案を示したときのことです。
新政府のメンバーに坂本龍馬の名前が無いことを西郷が指摘すると坂本龍馬は一笑し、
世界の海援隊でもやりましょう
と豪快なことを言うてしまう。
お~ 龍馬、カッコイイ~!
と感動した読者や視聴者もおられるかもですが、これ、大正元年に書かれた逸話で、当時の史料では確認できない史料です。
三条実美に仕えていた尾崎三郎(新政府人事案を考えた人物)の回顧録の中では、ちゃんと参議に坂本龍馬の名前が入っていたそうです。
それどころか、その案をみた坂本龍馬は「手を打っておおいに喜んで」、
おい、これ、今日から実施しようぜ!
と、はしゃいだ、と、記されています。
こちらのほうが実際的で人間味があふれているエピソードだと思います。
(参考)
知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』
一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』
瑞山会編『維新土佐勤王史』
鹿児島県史料刊行会『桂久武日記』
宮地佐一郎『龍馬百話』『龍馬の手紙』
とくに一坂太郎氏の著作は断然おもしろいので是非、お読みください。
いや、歴史上の人物で美化されたり歪曲されたりしていない人物は一人もいないと思います。
“江戸フィルター”
の話を以前にしたと思いますが、かならず時代の価値観、社会の流行などなどを通じて過去の人物像は歪められてしまいます。
小説、ドラマとして「楽しむ」のはかまいませんが、それを史実として鵜呑みにしてしまうと、小さなことが累積して歴史の全体像が「気が付けば」「知らないうちに」歪んでしまっている、ということが多々あります。
小説のおかげで、その人物がそうであった、と、思い込んでしまうのは仕方がないとしても、たった一人の人物の「おかげ」で歴史が動く、ということは、実際はあまりありません。
坂本龍馬
も、多くの史実でない話が累積して、すっかり実像が歪んでしまった人物の一人です。
誤解なさらないように。だから実像はたいしたことがない、という話ではないのです。
ほんとうの実績や歴史上の役割が隠されて虚像ばかりが実体であるかの誤解を避けたいだけです。
拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』でも説明しましたし、かつてテレビ朝日のQさまでお話ししたように、
薩長同盟
は、幕府を倒すための同盟ではなく、口約束だけで、“同盟文書”のようなものはなく、桂小五郎に対して坂本龍馬が裏書した書状があるだけです。
巷間知られている「薩長同盟」より以前から薩摩と長州は、“同盟”(米と銃を交換交易する)を結んでいました。
小説やドラマのように、たった一日の会合で(坂本龍馬が西郷隆盛と桂小五郎を説得して)同盟が成立したのではないのです。
とくに坂本龍馬の“性格”“人となり”に関してはほとんどが小説家の「空想」です。
坂本龍馬の「人物像」は、ほとんどが虚構なのを知っていましたか?
・もともとはあまり利発な少年ではなかった。
・十二歳になっても寝小便していた。
・友人から、イジメられても言い返すこともできない。
・文字をおぼえるのも苦手だった。
というのは史料的にな~んにも証明されていないことです。
坂崎紫瀾という人物が明治16年に書いた『汗血千里駒』という小説で書かれているだけのものなんです。それ以前の史料には一切出てこない逸話です。
小説やドラマにみられる「坂本龍馬」は、大器晩成で、子どものときは愚鈍な少年で、彼が志を得てやがて大人物となる、というストーリーになっています。
読者や視聴者にとっては「自分自身」や「自分の子ども」、「自分の身近な人物」と重ね合わせて作品に「入り込みやすい」設定ですが、事実ではありません。
坂本龍馬が江戸に出たのは大きな“志”を得たからではなく、土佐の郷士という貧乏武士の次男として家を出なくてはならなかったことが大きな理由です。(龍馬以外にも同じような境遇の若い武士はたくさんいました。)
彼が江戸に出たのは1853年ですから、ペリーの来航と「遭遇」しています。これが17才か18才の頃になります。
勝海舟という大物に出会って近代に目覚める、というのは1862年ですから26才くらいのことになります。
でも、江戸にいた10代のとき、もう一人の大物、佐久間象山の弟子になっています。
小説では、この10代のときには剣術にあけくれ、千葉道場のさな子との恋愛などが描かれている場合が多く、「信夫左馬之助」なる人物と絡む場面もありますが、この人物はまったくのフィクションで実在しません。
佐久間象山から西洋砲術を学び、土佐にもどってからも砲術研究家の徳弘孝蔵の弟子となって土佐の海岸で砲術の射撃訓練までやっています。
二十代で勝海舟から近代海軍を学んでいるだけでなく、すでに十代で佐久間象山から西洋砲術を学んているんです。
江戸から送った1853年の手紙には、
異国船が近づいています。
まもなく戦さとなるでしょう。
そのときは異国の首をとって土佐に帰って参ります。
と書かれていて、近代的な西洋の技術を学んで、それによって攘夷を実現する、という「合理的攘夷論」を佐久間象山から学んでいたことがわかります。
大器晩成どころか早期の段階で当時の最新思想を吸収していたことがわかります。
さて、「薩長同盟」と並んで、坂本龍馬の“業績”と考えられている大きなものは
「大政奉還」
でしょう。
ただ、この大政奉還、というのは、実は、「倒幕」を引き出すための、一つの「道具」だったと最近は考えられています。
西郷隆盛はこう構想しました。
土佐藩に「大政奉還」を勧めさせる。
しかし、徳川慶喜はそれを拒否する。
それを口実として幕府を倒す運動を展開する。
ところが誤算が生じます。
幕府がそれを受け入れようとしてしまう…
小説やドラマでは、坂本龍馬は、倒幕には反対で、大政奉還をさせて諸侯連合のようなものを築き上げる構想をしていたように描かれていますが、そんなことはありません。
龍馬は、桂小五郎への手紙の中で、「後藤を退けて、乾(後の板垣退助)を出す」という話をしています。
後藤は大政奉還派の人物で、乾退助は倒幕派。
坂本龍馬の真意は西郷隆盛と同じで「大政奉還を献策する、幕府が拒否する、それを口実に倒幕する」というプランに添って動いていたはずです。
実際、坂本龍馬は、1867年9月(大政奉還のほぼ直前)に長崎でオランダから1000挺以上の小銃、武器類を購入して土佐藩に売りつけています。
倒幕運動の準備を着々と工作しているんですよね。(実際、戊辰戦争のとき、この坂本が調達した武器類が土佐藩の軍事力の基礎となりました。)
大政奉還が成功したのは後藤象二郎の実績で、坂本龍馬は違う路線で動いていた、と考えるべきでしょう。小説やドラマで「坂本龍馬と徳川慶喜が大政奉還を実現させた」というような描かれ方をしているのは史実に添っているとはとても思えません。
近代を切り開いたのがなんでもかんでも坂本龍馬、というのは、あまりにひどいコジツケです。
最後に、有名な彼のエピソードを否定しておきたいと思います。
坂本龍馬が西郷隆盛に新しい政府の人事案を示したときのことです。
新政府のメンバーに坂本龍馬の名前が無いことを西郷が指摘すると坂本龍馬は一笑し、
世界の海援隊でもやりましょう
と豪快なことを言うてしまう。
お~ 龍馬、カッコイイ~!
と感動した読者や視聴者もおられるかもですが、これ、大正元年に書かれた逸話で、当時の史料では確認できない史料です。
三条実美に仕えていた尾崎三郎(新政府人事案を考えた人物)の回顧録の中では、ちゃんと参議に坂本龍馬の名前が入っていたそうです。
それどころか、その案をみた坂本龍馬は「手を打っておおいに喜んで」、
おい、これ、今日から実施しようぜ!
と、はしゃいだ、と、記されています。
こちらのほうが実際的で人間味があふれているエピソードだと思います。
(参考)
知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』
一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』
瑞山会編『維新土佐勤王史』
鹿児島県史料刊行会『桂久武日記』
宮地佐一郎『龍馬百話』『龍馬の手紙』
とくに一坂太郎氏の著作は断然おもしろいので是非、お読みください。
中世では「悪」という言葉は、現在の「悪」とは少し違う意味があります。
「超」という意味や「非」という意味がある言葉でもあります。
「なかなかのやり手だなぁ~」
という表現をすると、ホメているという一面もありますが、ちょっぴり、悪口が含まれていますよね。すぐれているが、ちょっとやりすぎかな… という「過」という意味がある言葉でもあります。
生徒たちには、
賢人はすべて悪人ではないが、悪人はすべて賢人である
という話をよくします。
過ぎた知恵、超えた知恵、そして知恵は、常識とは異なるもののを体現する力であるがゆえに非常識に見えてしまう発想でもあります。
『太平記』は、そういう人間の「悪」というものをよく伝える軍記物であるといえます。
「ばさら」は、『太平記』の中では、「悪」の本質と現象をうまく表現しているものでしょう。
もともとはサンスクリット語で、金剛、すなわちダイヤモンド、を意味とする言葉と考えられています(諸説あり)。
金剛石は、どんなものでも打ち砕く。よって常識破り、秩序の破壊、という意味が「ばさら」という言葉にこめられました。
常識をくつがえす、既存の秩序を破壊する…
そのためには、一切動じない「硬い」意志が必要になるわけです。
「ばさら」と呼ばれた人は、一見「変わり身」「裏切り」を示しますが、不動の「何か」を持っているのも確かです。
ブッダは
見よ
車輪が回る 車輪が回る
しかし見よ
車軸は動かない
という言葉を残しています。変わるためには変わらぬ何かをしっかり持たなくてはならない、という意味の言葉で、わたしはこの言葉が大好きです。
激しく回転する車輪の軸。それが『太平記』の悪とよばれた人々のような気がします。
佐々木道誉。
一見ものすごい非常識な人間として扱われています。寺社や貴族と対立し、他の武将ともときに協力し裏切りもしました。
鎌倉幕府打倒運動では軍事的活躍、というのはあまり史料的には確認できないのですが、光厳天皇や花園上皇をの身柄を拘束し、三種の神器を確保したのは、確か佐々木道誉であったと思います。
建武の新政では、塩冶高貞とともに、雑訴決断所の役人となっています。
しかし建武の親政に対する不満が高まるようになりました。
関東地方で、北条氏の反乱が起こると(中先代の乱)足利尊氏は兵を率いて関東にむかい、後醍醐天皇に逆らって(それが尊氏の本意であったかどうかは別として)恩賞を支給し、「独立」した動きを見せました。
それを討つべく、新田義貞が派遣されたのですが、箱根竹ノ下の戦いで、新田義貞は足利尊氏の軍に敗れます。
このとき、新田軍に従っていた塩冶高貞と佐々木道誉が尊氏側に「寝返った」ことによって足利尊氏側の勝利が決定的となりました。
最初から尊氏と内通していて、戦いの途中で裏切ることが決まっていた陰謀であった、とも言われています。
新田義貞って、どうもよく「この手」の失敗をするんですよね…
尊氏が北畠顕家の攻撃を受けて九州に逃れたときもそうです。
赤松円心
赤松円心は、後醍醐天皇を助けて建武の新政を実現するのに功績がありましたが、後に足利尊氏に同心し、今度は室町幕府の建設に与力します。
九州に逃れた尊氏を討つべく、新田義貞が派遣されるのですが、播磨の赤松円心は、新田義貞に対して
「わたしはもともと後醍醐天皇に従っていました。恩賞が不満で尊氏に味方していただけです。恩賞を十分いただければ新田さんに協力しますよ。」
と伝えます。それは好都合、では天皇に伺いをたてましょう、と、バカ正直にこの話を信じて後醍醐天皇と赤松円心の間の「とりつぎ役」をしてしまうんです。
これは赤松の「時間稼ぎ」の作戦で、尊氏が態勢を立て直すための時間を与えてしまうことにもなりました。
道誉にせよ、円心にせよ、「軸」は尊氏で、それを中心に激しく回転していた人物だったのでしょう。
そして最後は、高師直とその兄弟たち。
彼らの「悪」ぶりは、とにかく有名。
「天皇とか上皇とかめんどくせー かわりに木や金属の像でも使えばよいやんっ」
「恩賞が不足? だったら近くの寺や貴族の荘園を好きにしたらええねん」
おまけに人妻には手を出すし、当時の権威や伝統など、まったく無視…
かなり破天荒な人物として描かれています。
でも…
わたしが、高師直のことをちゃんと調べ直そうとした“きっかけ”は、おばの言葉でした。
おばは、お茶やお花だけでなく、書道の先生でもあり、お弟子さんもたくさんいた人なのですが…
師直さん、悪いお人やない。
こんな立派な字を書く人、悪い人やあらへん。
字は必ず人をあらわすんや。
きっと誠実で強い人やったはずやで。
確か真如寺だったかどっかに師直の直筆の書状か何かが残っていて、それを見てそう言うたはずなんです。
おばは古典には詳しかったですが、歴史そのものに詳しいわけではありませんでした。
おばやおじの世代(大正時代の人)は、戦前の教育のせいもあり、足利尊氏・高師直=「悪」というイメージが広がっていたので、たいていの人は、彼らを悪く言います。
おばもそう「教育」されていたのですが、どうも、その字を見ただけで、「ほんまはええ人やったんちゃうかな」と「根拠ない直感」で思ったようです。
だったら根拠を調べてみよう、と、高校生のときに高師直を詳しく調べてみました。
戦闘指揮官としてきわめて有能。
足利家に対して忠実。
尊氏の名代として汚れ役も引き受けている。
(会社の上司で嫌われている人って、実際はよく仕事をしている人でもありますよね。その人がいなくなってから、「ああ、あの人、ちゃんとやってたなぁ」と思える人物って、けっこういますよ。師直の嫌われ方って、そういう感じの嫌われ方のような気がします。)
後醍醐天皇が、昔の荘園を復活させながら武家と公家の合体した政治をしようとしているのをみて、
いや、無理でしょ。
だってそんなことしたら、荘園、領地、足らないし。
と、シンプルに考えていました。
「現実」をしっかり受け止めて武家政権の樹立をしようとしていたことは確かです。
そして何といっても戦闘方法の革命です。
武家にとって、「手柄」の証明は
首
でした。敵を倒す、首をとる、そしてそれを手柄の証とする…
でも、首を切り取る作業、けっこう手間がかかりますし、首を三つも四つも提げたまま戦う、というのはちょっと無理です。
しぜん、戦いの勢い、というのが削がれてしまいます。
わたしたちが「戦い」を想像するとき、近代以降の戦争を中世の戦いを「混同」してしまっています。統一された指揮系統のもとでの集団行動、というのは中世の戦いでは確立されていません。
高師直は、「恩賞記録係」をつくって従軍させ、首をとらなくても、倒した手柄をその係に報告して記録すればOKという方法を採用しました。
南北朝の争乱を通じて、近代戦の基礎が確立されたのです。
これもそれまでの「常識」を“うちやぶった”ことでした。
佐々木道誉、赤松円心、高師直…
彼らは手に触れる、常識、伝統、古き悪しきもの、を打ち砕いていった“ダイヤモンド”であったことは確かでしょう。
「超」という意味や「非」という意味がある言葉でもあります。
「なかなかのやり手だなぁ~」
という表現をすると、ホメているという一面もありますが、ちょっぴり、悪口が含まれていますよね。すぐれているが、ちょっとやりすぎかな… という「過」という意味がある言葉でもあります。
生徒たちには、
賢人はすべて悪人ではないが、悪人はすべて賢人である
という話をよくします。
過ぎた知恵、超えた知恵、そして知恵は、常識とは異なるもののを体現する力であるがゆえに非常識に見えてしまう発想でもあります。
『太平記』は、そういう人間の「悪」というものをよく伝える軍記物であるといえます。
「ばさら」は、『太平記』の中では、「悪」の本質と現象をうまく表現しているものでしょう。
もともとはサンスクリット語で、金剛、すなわちダイヤモンド、を意味とする言葉と考えられています(諸説あり)。
金剛石は、どんなものでも打ち砕く。よって常識破り、秩序の破壊、という意味が「ばさら」という言葉にこめられました。
常識をくつがえす、既存の秩序を破壊する…
そのためには、一切動じない「硬い」意志が必要になるわけです。
「ばさら」と呼ばれた人は、一見「変わり身」「裏切り」を示しますが、不動の「何か」を持っているのも確かです。
ブッダは
見よ
車輪が回る 車輪が回る
しかし見よ
車軸は動かない
という言葉を残しています。変わるためには変わらぬ何かをしっかり持たなくてはならない、という意味の言葉で、わたしはこの言葉が大好きです。
激しく回転する車輪の軸。それが『太平記』の悪とよばれた人々のような気がします。
佐々木道誉。
一見ものすごい非常識な人間として扱われています。寺社や貴族と対立し、他の武将ともときに協力し裏切りもしました。
鎌倉幕府打倒運動では軍事的活躍、というのはあまり史料的には確認できないのですが、光厳天皇や花園上皇をの身柄を拘束し、三種の神器を確保したのは、確か佐々木道誉であったと思います。
建武の新政では、塩冶高貞とともに、雑訴決断所の役人となっています。
しかし建武の親政に対する不満が高まるようになりました。
関東地方で、北条氏の反乱が起こると(中先代の乱)足利尊氏は兵を率いて関東にむかい、後醍醐天皇に逆らって(それが尊氏の本意であったかどうかは別として)恩賞を支給し、「独立」した動きを見せました。
それを討つべく、新田義貞が派遣されたのですが、箱根竹ノ下の戦いで、新田義貞は足利尊氏の軍に敗れます。
このとき、新田軍に従っていた塩冶高貞と佐々木道誉が尊氏側に「寝返った」ことによって足利尊氏側の勝利が決定的となりました。
最初から尊氏と内通していて、戦いの途中で裏切ることが決まっていた陰謀であった、とも言われています。
新田義貞って、どうもよく「この手」の失敗をするんですよね…
尊氏が北畠顕家の攻撃を受けて九州に逃れたときもそうです。
赤松円心
赤松円心は、後醍醐天皇を助けて建武の新政を実現するのに功績がありましたが、後に足利尊氏に同心し、今度は室町幕府の建設に与力します。
九州に逃れた尊氏を討つべく、新田義貞が派遣されるのですが、播磨の赤松円心は、新田義貞に対して
「わたしはもともと後醍醐天皇に従っていました。恩賞が不満で尊氏に味方していただけです。恩賞を十分いただければ新田さんに協力しますよ。」
と伝えます。それは好都合、では天皇に伺いをたてましょう、と、バカ正直にこの話を信じて後醍醐天皇と赤松円心の間の「とりつぎ役」をしてしまうんです。
これは赤松の「時間稼ぎ」の作戦で、尊氏が態勢を立て直すための時間を与えてしまうことにもなりました。
道誉にせよ、円心にせよ、「軸」は尊氏で、それを中心に激しく回転していた人物だったのでしょう。
そして最後は、高師直とその兄弟たち。
彼らの「悪」ぶりは、とにかく有名。
「天皇とか上皇とかめんどくせー かわりに木や金属の像でも使えばよいやんっ」
「恩賞が不足? だったら近くの寺や貴族の荘園を好きにしたらええねん」
おまけに人妻には手を出すし、当時の権威や伝統など、まったく無視…
かなり破天荒な人物として描かれています。
でも…
わたしが、高師直のことをちゃんと調べ直そうとした“きっかけ”は、おばの言葉でした。
おばは、お茶やお花だけでなく、書道の先生でもあり、お弟子さんもたくさんいた人なのですが…
師直さん、悪いお人やない。
こんな立派な字を書く人、悪い人やあらへん。
字は必ず人をあらわすんや。
きっと誠実で強い人やったはずやで。
確か真如寺だったかどっかに師直の直筆の書状か何かが残っていて、それを見てそう言うたはずなんです。
おばは古典には詳しかったですが、歴史そのものに詳しいわけではありませんでした。
おばやおじの世代(大正時代の人)は、戦前の教育のせいもあり、足利尊氏・高師直=「悪」というイメージが広がっていたので、たいていの人は、彼らを悪く言います。
おばもそう「教育」されていたのですが、どうも、その字を見ただけで、「ほんまはええ人やったんちゃうかな」と「根拠ない直感」で思ったようです。
だったら根拠を調べてみよう、と、高校生のときに高師直を詳しく調べてみました。
戦闘指揮官としてきわめて有能。
足利家に対して忠実。
尊氏の名代として汚れ役も引き受けている。
(会社の上司で嫌われている人って、実際はよく仕事をしている人でもありますよね。その人がいなくなってから、「ああ、あの人、ちゃんとやってたなぁ」と思える人物って、けっこういますよ。師直の嫌われ方って、そういう感じの嫌われ方のような気がします。)
後醍醐天皇が、昔の荘園を復活させながら武家と公家の合体した政治をしようとしているのをみて、
いや、無理でしょ。
だってそんなことしたら、荘園、領地、足らないし。
と、シンプルに考えていました。
「現実」をしっかり受け止めて武家政権の樹立をしようとしていたことは確かです。
そして何といっても戦闘方法の革命です。
武家にとって、「手柄」の証明は
首
でした。敵を倒す、首をとる、そしてそれを手柄の証とする…
でも、首を切り取る作業、けっこう手間がかかりますし、首を三つも四つも提げたまま戦う、というのはちょっと無理です。
しぜん、戦いの勢い、というのが削がれてしまいます。
わたしたちが「戦い」を想像するとき、近代以降の戦争を中世の戦いを「混同」してしまっています。統一された指揮系統のもとでの集団行動、というのは中世の戦いでは確立されていません。
高師直は、「恩賞記録係」をつくって従軍させ、首をとらなくても、倒した手柄をその係に報告して記録すればOKという方法を採用しました。
南北朝の争乱を通じて、近代戦の基礎が確立されたのです。
これもそれまでの「常識」を“うちやぶった”ことでした。
佐々木道誉、赤松円心、高師直…
彼らは手に触れる、常識、伝統、古き悪しきもの、を打ち砕いていった“ダイヤモンド”であったことは確かでしょう。
貴族たちの生活…
というと雅で華やかな生活を営んでいる、と考えがちですが、現代の生活からみれば、ずいぶんと驚きの一面があります。
食生活、性生活、精神生活… とくに「心の世界」については、現代人からみれば滑稽なものが多いのですが…
まぁ、でも、1000年後、現在の習俗が「歴史」となったとき、ずいぶんと変な慣習をわたしたちもきっとクソまじめにやっていると笑われると思うんですよね。
過去の常識は現在の非常識
現在の常識は未来の非常識
というのは歴史が教えてくれるところ…
貴族たちの精神生活をちょっと覗いてみましょうか。
よく引用されるのが藤原師輔『九条殿遺戒』です。
起床。招福のために、自分が生まれた時に属すると考えられる「星」の名前を七回唱える。
朝って、一日の始まりですから、一日の運勢、気になりますよね。朝のテレビ番組の定番、
「今日の星占い」
をみて、さぁ、学校に行こう、とか、仕事に向かおう、という人もいるので、この点、平安貴族も現代人も、あんまり変わらないかもしれません。
さて、歯磨き、の習慣は平安時代でもあります。
歯ブラシはありません。何を使うかというと、
楊枝(ようじ)
ですね。つまようじ、というのは古今東西存在していて、古代ローマ人も金属製のつまようじなどを使用していました。(つまようじ生産日本一の河内長野市には、“つまようじ博物館”とでもいうべき「つまようじ資料室」(株式会社広栄社)があります。是非、行ってみてください。)
その後、手洗いをして、神仏を祈ります。生まれ星を唱するほうが神仏より先、というのがおもしろいですね。
それから昨日の日記をつけます。平安貴族は、日記を一日の終わりにつけるのではなく、翌朝に昨日のできごとを書きました。
「一日」の時間間隔がちょっと現代と異なり、日の出をもって次の日が始まる、という感覚の時代でしたので、朝に「前日」の日記を書くのに違和感が少なかったと思います。
朝食はたいていは
お粥
でした。「朝粥」というのはもともとは中国の慣習だったようで、奈良時代からの貴族の朝食だったようです。
そして髪を整えてから
爪切り
です。「爪」には霊力があったと思われていました。洋の東西を問わず「爪」とか「髪」には霊力、呪力があったとされていて、西洋では悪魔が食べる、というものでした(魂を食べるのと同じ)。
その点、古代の日本でも、爪や髪は呪術によく使用されるもので、うっかり自分の爪や髪を相手に渡すと自分の魂を譲ってしまうのと同じで、爪と髪には自分の「個人情報」が詰まっていると思われていたようです。
でも、おもしろいですよね。DNA鑑定には爪や髪が用いられるのですから、あんがいと「自分の魂」が入っている、というのは正しいことかもしれません。
「爪切り」は、安易に切りません。
丑の日は手の爪
寅の日は足の爪
と切る日まできめられていました。丑は土の性、寅は火の性の日です。土にもどす、火で燃やす、ということで「処分」しました。
この時代は電気照明器具などありません。日が沈むと基本的には真っ暗…
明るいうちに日常生活の大部分をすませます。
入浴
も、精神生活の大切な部分。肉体の浄化よりも精神の浄化という意味が濃い時代ですから、毎日は入りません。
「日を選んで」だいたい5日に1回くらいのペースでした。
一日に入ると短命になるから避ける
八日に入ると長命になるから吉
十八日に入るとものを盗まれるから避ける
午の日は女は入ってはいけない。愛嬌を失うから。
亥の日は男は入ってはいけない。屈辱的なことを受けるから。
もう、なんじゃこりゃ、という理由がいっぱいあります。
こんなことを大真面目にやっていたものだから、当時の貴族たちは、精神生活こそが日常生活だと考えていたのでしょう。
藤原保忠は、菅原道真の怨霊をおそれ、「くびらの大将」と僧が誦経のときに言った言葉を「くびられる(首をしめられて殺される)」と聞き間違えてショック死しました。
占いで、かつて天皇が死んだことがある卦が出たのをみた藤原道長は、ショックで泣いてしまい、その理由を知った一条天皇は「え、おれ、死ぬの…」と思い込んでほんとうに死んでしまいました。
生活の一部、いやそのものが占いやまじないであった貴族たちにしてみれば、現代で言えば、医師から余命宣告されたのと等しい(精神的なものであるがゆえにもっとインパクトがあったかも)意味があったようです。
さて、ちょっとおもしろい占いを紹介します。みなさんもやってみますか?
夕占
というのがあります。「ゆうけ」と読みます。
なに、いたって簡単な方法ですよ。
夕方、人通りの多い場所、交差点に立って、行き交う人たちの会話をよ~く聞くのです。
ただそれだけ。
天は、人の口をかりて意を告げる、という考えかたがありました。
くだらぬ噂話、何気ない会話… そこから「何か天の意が漏れ聞こえる」と判断するのです。
う~ん… なんだかネットの掲示板をながめて一喜一憂している現代人と同じような感じです。
さて、この時代「占い」は当たりました。というか、占いやまじないを利用すると、人の動きが手に取るようにわかります。
だって、占いのとーりに人は動いているわけですから、相手の生まれ月、日などがわかると、その人はそれに合わせて行動しているからです。
今日は風呂は入らない
今日は家にこもっている
今日はきっとこういうことをする。
それがわかれば、その人を「操る」「利用する」場合によっては殺してしまう、ということも可能なんですよね。貴族たちが生年月日、姓名を秘密にするのも当然でした。
平安貴族に「ねぇ、あなたの星座、なに?」なんてのは絶対聞いてはいけないタブーです。
さて、さきほどの「夕占」です。
辻に行けば、夕占をしている男や女は、すぐわかりました。
手のこんだことを考えるならば、その人を「動かす」「操る」ことが簡単にできるのがわかるでしょう。エキストラを雇って辻を往来させ、夕占をしている人に“情報”を与えていけばよいんです。きっとその人はそれが“天の意”だと思ってそのように行動します。
ネットの世界のステルスマーケティングと、同じということになりますね。
というと雅で華やかな生活を営んでいる、と考えがちですが、現代の生活からみれば、ずいぶんと驚きの一面があります。
食生活、性生活、精神生活… とくに「心の世界」については、現代人からみれば滑稽なものが多いのですが…
まぁ、でも、1000年後、現在の習俗が「歴史」となったとき、ずいぶんと変な慣習をわたしたちもきっとクソまじめにやっていると笑われると思うんですよね。
過去の常識は現在の非常識
現在の常識は未来の非常識
というのは歴史が教えてくれるところ…
貴族たちの精神生活をちょっと覗いてみましょうか。
よく引用されるのが藤原師輔『九条殿遺戒』です。
起床。招福のために、自分が生まれた時に属すると考えられる「星」の名前を七回唱える。
朝って、一日の始まりですから、一日の運勢、気になりますよね。朝のテレビ番組の定番、
「今日の星占い」
をみて、さぁ、学校に行こう、とか、仕事に向かおう、という人もいるので、この点、平安貴族も現代人も、あんまり変わらないかもしれません。
さて、歯磨き、の習慣は平安時代でもあります。
歯ブラシはありません。何を使うかというと、
楊枝(ようじ)
ですね。つまようじ、というのは古今東西存在していて、古代ローマ人も金属製のつまようじなどを使用していました。(つまようじ生産日本一の河内長野市には、“つまようじ博物館”とでもいうべき「つまようじ資料室」(株式会社広栄社)があります。是非、行ってみてください。)
その後、手洗いをして、神仏を祈ります。生まれ星を唱するほうが神仏より先、というのがおもしろいですね。
それから昨日の日記をつけます。平安貴族は、日記を一日の終わりにつけるのではなく、翌朝に昨日のできごとを書きました。
「一日」の時間間隔がちょっと現代と異なり、日の出をもって次の日が始まる、という感覚の時代でしたので、朝に「前日」の日記を書くのに違和感が少なかったと思います。
朝食はたいていは
お粥
でした。「朝粥」というのはもともとは中国の慣習だったようで、奈良時代からの貴族の朝食だったようです。
そして髪を整えてから
爪切り
です。「爪」には霊力があったと思われていました。洋の東西を問わず「爪」とか「髪」には霊力、呪力があったとされていて、西洋では悪魔が食べる、というものでした(魂を食べるのと同じ)。
その点、古代の日本でも、爪や髪は呪術によく使用されるもので、うっかり自分の爪や髪を相手に渡すと自分の魂を譲ってしまうのと同じで、爪と髪には自分の「個人情報」が詰まっていると思われていたようです。
でも、おもしろいですよね。DNA鑑定には爪や髪が用いられるのですから、あんがいと「自分の魂」が入っている、というのは正しいことかもしれません。
「爪切り」は、安易に切りません。
丑の日は手の爪
寅の日は足の爪
と切る日まできめられていました。丑は土の性、寅は火の性の日です。土にもどす、火で燃やす、ということで「処分」しました。
この時代は電気照明器具などありません。日が沈むと基本的には真っ暗…
明るいうちに日常生活の大部分をすませます。
入浴
も、精神生活の大切な部分。肉体の浄化よりも精神の浄化という意味が濃い時代ですから、毎日は入りません。
「日を選んで」だいたい5日に1回くらいのペースでした。
一日に入ると短命になるから避ける
八日に入ると長命になるから吉
十八日に入るとものを盗まれるから避ける
午の日は女は入ってはいけない。愛嬌を失うから。
亥の日は男は入ってはいけない。屈辱的なことを受けるから。
もう、なんじゃこりゃ、という理由がいっぱいあります。
こんなことを大真面目にやっていたものだから、当時の貴族たちは、精神生活こそが日常生活だと考えていたのでしょう。
藤原保忠は、菅原道真の怨霊をおそれ、「くびらの大将」と僧が誦経のときに言った言葉を「くびられる(首をしめられて殺される)」と聞き間違えてショック死しました。
占いで、かつて天皇が死んだことがある卦が出たのをみた藤原道長は、ショックで泣いてしまい、その理由を知った一条天皇は「え、おれ、死ぬの…」と思い込んでほんとうに死んでしまいました。
生活の一部、いやそのものが占いやまじないであった貴族たちにしてみれば、現代で言えば、医師から余命宣告されたのと等しい(精神的なものであるがゆえにもっとインパクトがあったかも)意味があったようです。
さて、ちょっとおもしろい占いを紹介します。みなさんもやってみますか?
夕占
というのがあります。「ゆうけ」と読みます。
なに、いたって簡単な方法ですよ。
夕方、人通りの多い場所、交差点に立って、行き交う人たちの会話をよ~く聞くのです。
ただそれだけ。
天は、人の口をかりて意を告げる、という考えかたがありました。
くだらぬ噂話、何気ない会話… そこから「何か天の意が漏れ聞こえる」と判断するのです。
う~ん… なんだかネットの掲示板をながめて一喜一憂している現代人と同じような感じです。
さて、この時代「占い」は当たりました。というか、占いやまじないを利用すると、人の動きが手に取るようにわかります。
だって、占いのとーりに人は動いているわけですから、相手の生まれ月、日などがわかると、その人はそれに合わせて行動しているからです。
今日は風呂は入らない
今日は家にこもっている
今日はきっとこういうことをする。
それがわかれば、その人を「操る」「利用する」場合によっては殺してしまう、ということも可能なんですよね。貴族たちが生年月日、姓名を秘密にするのも当然でした。
平安貴族に「ねぇ、あなたの星座、なに?」なんてのは絶対聞いてはいけないタブーです。
さて、さきほどの「夕占」です。
辻に行けば、夕占をしている男や女は、すぐわかりました。
手のこんだことを考えるならば、その人を「動かす」「操る」ことが簡単にできるのがわかるでしょう。エキストラを雇って辻を往来させ、夕占をしている人に“情報”を与えていけばよいんです。きっとその人はそれが“天の意”だと思ってそのように行動します。
ネットの世界のステルスマーケティングと、同じということになりますね。
いつの時代でも(というかひょっとしたら『源氏物語』が源流なのかもしれませんが)、“禁断の恋”というのは恋愛小説のテーマに欠かせないものとなっています。
光源氏自身、三つの「密通」を経験しています。
相手は、人妻、他人の婚約者、そして義母…
今から考えると、かなりスキャンダラスなものです。
日本にはかつて姦通罪、というのがありました。明治時代の刑法が戦前まではずっと使用されてきました。確か、お隣の韓国では現在でも存在しているはずです。(ただ、日本のそれは、妻の不義を罰するものですが韓国の場合は、妻・夫いずれが不義を働いても処罰の対象となっています。)
最初の密通は、光源氏が十七歳のとき…
お相手は、空蝉。
受領階級(地方の長官)の人妻でした。方違えで訪れた家にいた人妻に声をかけ、一夜をともにする。
空蝉を抱きかかえて寝所に連れて行こうとするとき、侍女に見つかるのですが、「明日の朝にこの人を迎えに来なさい」と言ってのけてしまう。
侍女はおろおろするばかりで、はい、としか言いようがありません。
理由は… 身分が違い過ぎるからですね。臣籍に降下しているとはいえ、光源氏は帝の皇子。わずか十七歳で中将ですから。
ただ、これはあきらかに姦通ということになります。
当時の法律ではどういう「罪」になるのか… そもそも姦通罪が平安時代にあったのか…
養老律には姦通の罪が明記されています。よって法的には有罪。
ですが… この養老律の姦通罪は、ほとんど適用された形跡がありません。
まして身分の高い貴族たちの中で、しかも合意があれば、どうやらこの法律は「無視」されていたような感じです。
そもそも律令は、最初は中国の制度をそのまま日本に移植したもので、使用しているうちに、日本の慣習などに適合しないことがわかってきました。
とくに家族制度に関するところでは、まったく奈良・平安の貴族たちの生活とは整合しない部分があったのです。
男が女の家に通って関係を持つ。
そうして「妻」となっても妻は実家で暮らす。
子が生まれたら、その子は妻の実家で育つ。
つまり、極端に言うと、相手が誰であろうが、娘に生まれた子は、その家の子、として育つわけです。
密通を罪とするのは、男系を重視する社会(日本の場合は「家」の制度を重視する武家社会)になってからのことで、武家では、その家を男子が継ぐことから、妻が夫以外の子を為すと、その家系に混乱をきたすからです。
律令制度の元祖の古代中国もそうで、律には姦通罪が明記されていたわけです。
(武家社会となった江戸時代でも、一見男尊女卑のような気がしますが、結婚してからも妻の財産は妻のもので、離婚すれば妻は自分のもともとの財産を持って帰ってしまいました。この点、女系社会の伝統は武家の世になってからも実質的には継承されていたといえます。)
では、貴族社会の女系・母系社会では姦通罪は、あってなきもの、であったので、『源氏物語』の「帚木」の場面は、読者にとってはスキャンダラスな「密通」ではなかったのでしょうか?
国文系の研究者のみなさんは、平安時代の貴族たちには恋愛のタブーがあまりなく、おおらかであった、という立場の方々が多いようです。
よって、空蝉が光源氏と一夜をともにした後、光源氏との関係を“拒否”し続けたのは、「人妻」であるのに関係を続けることへの罪悪感からではなく、身分の差からくる「わたしにはあなたさまとは釣り合いません」という気持ちからである、と、説明されるケースが多いようです。
実際、わたしが学生時代、一般教養で受けた『源氏物語』の講義では、教授がそのような話をされていた記憶があります。
ただ、空蝉は「わたしが実家にいるときに光源氏さまにお声をかけていただいていればどれほどうれしかったことか…」と述べているんですよね。
身分の違いが大きいことは否定しませんが、やっぱり人妻であるのに他の男と関係していることに後ろめたさを感じてたんではないかな、と、思うんですよ。
法律で禁止されているから不倫しないのか。
道徳に反するから不倫しないのか。
法律や道徳(律令や儒学)という「後天的」「人為的」なものを取り去って、残った純粋な気持ちでも「人妻だから他の男とは関係しない」という気持ちを持つ人はあるような気がするんですが…
法律で禁止されていなくても道徳的に問題なくても、自分のポリシーに反することは人はしないと思うんですよ。
それはさておき…
申しましたように、基本的に古代の日本は、「婿取婚」であったことから、娘が生んだ子は実家で育ち、娘が生んだ子はその家の子である、という考え方があり、これが地方などにいくとけっこう顕著にあらわれている場合が多いのです。
地方に高貴な人物がやってくる。
地方の有力者の家に宿泊する。
すると当主は、自分の娘にその人物の「お世話」をさせる、ということがけっこうみられました。
それどころか、自分の妻にその人物の「お世話」をさせる、ということもあったんです。
受領、つまり地方官というのは、都では出世ができぬ(能力的な劣っているということではなく家柄として出世に限界がある)貴族たちが多く、「位よりも財」「財はあるけれど位がない」というケースがよくありました。
中央の高貴な人との「つながり」を持ち、場合によっては都にもどされて昇進、それがかなわずとも、財では得られぬ高貴な血を自らの家に流入することができる…
また中央の貴族でも、政争に敗れたり落ちぶれたりした場合は、中央との関係を深めたいと思っている地方の受領に娘をやって、その受領の「財」の援助を得ようとする者もいました。
空蝉の実家も、それなりの家柄だったようですが落ちぶれてしまい、「位は無いけれど金はある」受領の後妻となっていた、という設定でした。夫には先妻との間に自分とたいして齢の違わない娘もいる、というオマケ付きでしたが、地方の受領の家にはこういうパターンの妻たちがけっこういたようです。
実家が落ちぶれたために、位は低いが金持ちの受領の妻あるいは後妻となった女性、そしてそういう女性たちには、どこか「高貴な人」を憧れる気持ちがないとはいえない…
『源氏物語』は貴族の社会にかなり広がっていましたから、こういう女性たちの読者たちは、自分の境遇と照らし合わせて「帚木」の帖をどうなることかと気をもみながら読んでいたかもしれません。
しかし、空蝉は光源氏にはなびかない…
え~ なんてもったいないっ
わたしならOKなのにぃ~
と、歯がゆい思いをして読んでいた読者もいたかも…
で、あるとしたら、やはり紫式部は一流の作家ですね。
読者に「どうしてどうして」「あ~ じれったいっ」と思わせる演出はたいしたものだと言わねばなりません。
光源氏自身、三つの「密通」を経験しています。
相手は、人妻、他人の婚約者、そして義母…
今から考えると、かなりスキャンダラスなものです。
日本にはかつて姦通罪、というのがありました。明治時代の刑法が戦前まではずっと使用されてきました。確か、お隣の韓国では現在でも存在しているはずです。(ただ、日本のそれは、妻の不義を罰するものですが韓国の場合は、妻・夫いずれが不義を働いても処罰の対象となっています。)
最初の密通は、光源氏が十七歳のとき…
お相手は、空蝉。
受領階級(地方の長官)の人妻でした。方違えで訪れた家にいた人妻に声をかけ、一夜をともにする。
空蝉を抱きかかえて寝所に連れて行こうとするとき、侍女に見つかるのですが、「明日の朝にこの人を迎えに来なさい」と言ってのけてしまう。
侍女はおろおろするばかりで、はい、としか言いようがありません。
理由は… 身分が違い過ぎるからですね。臣籍に降下しているとはいえ、光源氏は帝の皇子。わずか十七歳で中将ですから。
ただ、これはあきらかに姦通ということになります。
当時の法律ではどういう「罪」になるのか… そもそも姦通罪が平安時代にあったのか…
養老律には姦通の罪が明記されています。よって法的には有罪。
ですが… この養老律の姦通罪は、ほとんど適用された形跡がありません。
まして身分の高い貴族たちの中で、しかも合意があれば、どうやらこの法律は「無視」されていたような感じです。
そもそも律令は、最初は中国の制度をそのまま日本に移植したもので、使用しているうちに、日本の慣習などに適合しないことがわかってきました。
とくに家族制度に関するところでは、まったく奈良・平安の貴族たちの生活とは整合しない部分があったのです。
男が女の家に通って関係を持つ。
そうして「妻」となっても妻は実家で暮らす。
子が生まれたら、その子は妻の実家で育つ。
つまり、極端に言うと、相手が誰であろうが、娘に生まれた子は、その家の子、として育つわけです。
密通を罪とするのは、男系を重視する社会(日本の場合は「家」の制度を重視する武家社会)になってからのことで、武家では、その家を男子が継ぐことから、妻が夫以外の子を為すと、その家系に混乱をきたすからです。
律令制度の元祖の古代中国もそうで、律には姦通罪が明記されていたわけです。
(武家社会となった江戸時代でも、一見男尊女卑のような気がしますが、結婚してからも妻の財産は妻のもので、離婚すれば妻は自分のもともとの財産を持って帰ってしまいました。この点、女系社会の伝統は武家の世になってからも実質的には継承されていたといえます。)
では、貴族社会の女系・母系社会では姦通罪は、あってなきもの、であったので、『源氏物語』の「帚木」の場面は、読者にとってはスキャンダラスな「密通」ではなかったのでしょうか?
国文系の研究者のみなさんは、平安時代の貴族たちには恋愛のタブーがあまりなく、おおらかであった、という立場の方々が多いようです。
よって、空蝉が光源氏と一夜をともにした後、光源氏との関係を“拒否”し続けたのは、「人妻」であるのに関係を続けることへの罪悪感からではなく、身分の差からくる「わたしにはあなたさまとは釣り合いません」という気持ちからである、と、説明されるケースが多いようです。
実際、わたしが学生時代、一般教養で受けた『源氏物語』の講義では、教授がそのような話をされていた記憶があります。
ただ、空蝉は「わたしが実家にいるときに光源氏さまにお声をかけていただいていればどれほどうれしかったことか…」と述べているんですよね。
身分の違いが大きいことは否定しませんが、やっぱり人妻であるのに他の男と関係していることに後ろめたさを感じてたんではないかな、と、思うんですよ。
法律で禁止されているから不倫しないのか。
道徳に反するから不倫しないのか。
法律や道徳(律令や儒学)という「後天的」「人為的」なものを取り去って、残った純粋な気持ちでも「人妻だから他の男とは関係しない」という気持ちを持つ人はあるような気がするんですが…
法律で禁止されていなくても道徳的に問題なくても、自分のポリシーに反することは人はしないと思うんですよ。
それはさておき…
申しましたように、基本的に古代の日本は、「婿取婚」であったことから、娘が生んだ子は実家で育ち、娘が生んだ子はその家の子である、という考え方があり、これが地方などにいくとけっこう顕著にあらわれている場合が多いのです。
地方に高貴な人物がやってくる。
地方の有力者の家に宿泊する。
すると当主は、自分の娘にその人物の「お世話」をさせる、ということがけっこうみられました。
それどころか、自分の妻にその人物の「お世話」をさせる、ということもあったんです。
受領、つまり地方官というのは、都では出世ができぬ(能力的な劣っているということではなく家柄として出世に限界がある)貴族たちが多く、「位よりも財」「財はあるけれど位がない」というケースがよくありました。
中央の高貴な人との「つながり」を持ち、場合によっては都にもどされて昇進、それがかなわずとも、財では得られぬ高貴な血を自らの家に流入することができる…
また中央の貴族でも、政争に敗れたり落ちぶれたりした場合は、中央との関係を深めたいと思っている地方の受領に娘をやって、その受領の「財」の援助を得ようとする者もいました。
空蝉の実家も、それなりの家柄だったようですが落ちぶれてしまい、「位は無いけれど金はある」受領の後妻となっていた、という設定でした。夫には先妻との間に自分とたいして齢の違わない娘もいる、というオマケ付きでしたが、地方の受領の家にはこういうパターンの妻たちがけっこういたようです。
実家が落ちぶれたために、位は低いが金持ちの受領の妻あるいは後妻となった女性、そしてそういう女性たちには、どこか「高貴な人」を憧れる気持ちがないとはいえない…
『源氏物語』は貴族の社会にかなり広がっていましたから、こういう女性たちの読者たちは、自分の境遇と照らし合わせて「帚木」の帖をどうなることかと気をもみながら読んでいたかもしれません。
しかし、空蝉は光源氏にはなびかない…
え~ なんてもったいないっ
わたしならOKなのにぃ~
と、歯がゆい思いをして読んでいた読者もいたかも…
で、あるとしたら、やはり紫式部は一流の作家ですね。
読者に「どうしてどうして」「あ~ じれったいっ」と思わせる演出はたいしたものだと言わねばなりません。