あんまり書かれない坂本龍馬 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

坂本龍馬ほど美化された歴史の英雄はいません。
いや、歴史上の人物で美化されたり歪曲されたりしていない人物は一人もいないと思います。

“江戸フィルター”

の話を以前にしたと思いますが、かならず時代の価値観、社会の流行などなどを通じて過去の人物像は歪められてしまいます。
小説、ドラマとして「楽しむ」のはかまいませんが、それを史実として鵜呑みにしてしまうと、小さなことが累積して歴史の全体像が「気が付けば」「知らないうちに」歪んでしまっている、ということが多々あります。

小説のおかげで、その人物がそうであった、と、思い込んでしまうのは仕方がないとしても、たった一人の人物の「おかげ」で歴史が動く、ということは、実際はあまりありません。

 坂本龍馬

も、多くの史実でない話が累積して、すっかり実像が歪んでしまった人物の一人です。
誤解なさらないように。だから実像はたいしたことがない、という話ではないのです。
ほんとうの実績や歴史上の役割が隠されて虚像ばかりが実体であるかの誤解を避けたいだけです。

拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』でも説明しましたし、かつてテレビ朝日のQさまでお話ししたように、

 薩長同盟

は、幕府を倒すための同盟ではなく、口約束だけで、“同盟文書”のようなものはなく、桂小五郎に対して坂本龍馬が裏書した書状があるだけです。
巷間知られている「薩長同盟」より以前から薩摩と長州は、“同盟”(米と銃を交換交易する)を結んでいました。
小説やドラマのように、たった一日の会合で(坂本龍馬が西郷隆盛と桂小五郎を説得して)同盟が成立したのではないのです。

とくに坂本龍馬の“性格”“人となり”に関してはほとんどが小説家の「空想」です。

坂本龍馬の「人物像」は、ほとんどが虚構なのを知っていましたか?

・もともとはあまり利発な少年ではなかった。
・十二歳になっても寝小便していた。
・友人から、イジメられても言い返すこともできない。
・文字をおぼえるのも苦手だった。

というのは史料的にな~んにも証明されていないことです。
坂崎紫瀾という人物が明治16年に書いた『汗血千里駒』という小説で書かれているだけのものなんです。それ以前の史料には一切出てこない逸話です。

小説やドラマにみられる「坂本龍馬」は、大器晩成で、子どものときは愚鈍な少年で、彼が志を得てやがて大人物となる、というストーリーになっています。
読者や視聴者にとっては「自分自身」や「自分の子ども」、「自分の身近な人物」と重ね合わせて作品に「入り込みやすい」設定ですが、事実ではありません。

坂本龍馬が江戸に出たのは大きな“志”を得たからではなく、土佐の郷士という貧乏武士の次男として家を出なくてはならなかったことが大きな理由です。(龍馬以外にも同じような境遇の若い武士はたくさんいました。)
彼が江戸に出たのは1853年ですから、ペリーの来航と「遭遇」しています。これが17才か18才の頃になります。

勝海舟という大物に出会って近代に目覚める、というのは1862年ですから26才くらいのことになります。
でも、江戸にいた10代のとき、もう一人の大物、佐久間象山の弟子になっています。
小説では、この10代のときには剣術にあけくれ、千葉道場のさな子との恋愛などが描かれている場合が多く、「信夫左馬之助」なる人物と絡む場面もありますが、この人物はまったくのフィクションで実在しません。
佐久間象山から西洋砲術を学び、土佐にもどってからも砲術研究家の徳弘孝蔵の弟子となって土佐の海岸で砲術の射撃訓練までやっています。

二十代で勝海舟から近代海軍を学んでいるだけでなく、すでに十代で佐久間象山から西洋砲術を学んているんです。
江戸から送った1853年の手紙には、

 異国船が近づいています。
 まもなく戦さとなるでしょう。
 そのときは異国の首をとって土佐に帰って参ります。

と書かれていて、近代的な西洋の技術を学んで、それによって攘夷を実現する、という「合理的攘夷論」を佐久間象山から学んでいたことがわかります。
大器晩成どころか早期の段階で当時の最新思想を吸収していたことがわかります。

さて、「薩長同盟」と並んで、坂本龍馬の“業績”と考えられている大きなものは

 「大政奉還」

でしょう。

ただ、この大政奉還、というのは、実は、「倒幕」を引き出すための、一つの「道具」だったと最近は考えられています。

西郷隆盛はこう構想しました。

土佐藩に「大政奉還」を勧めさせる。
しかし、徳川慶喜はそれを拒否する。
それを口実として幕府を倒す運動を展開する。

ところが誤算が生じます。
幕府がそれを受け入れようとしてしまう…

小説やドラマでは、坂本龍馬は、倒幕には反対で、大政奉還をさせて諸侯連合のようなものを築き上げる構想をしていたように描かれていますが、そんなことはありません。

龍馬は、桂小五郎への手紙の中で、「後藤を退けて、乾(後の板垣退助)を出す」という話をしています。
後藤は大政奉還派の人物で、乾退助は倒幕派。

坂本龍馬の真意は西郷隆盛と同じで「大政奉還を献策する、幕府が拒否する、それを口実に倒幕する」というプランに添って動いていたはずです。
実際、坂本龍馬は、1867年9月(大政奉還のほぼ直前)に長崎でオランダから1000挺以上の小銃、武器類を購入して土佐藩に売りつけています。
倒幕運動の準備を着々と工作しているんですよね。(実際、戊辰戦争のとき、この坂本が調達した武器類が土佐藩の軍事力の基礎となりました。)

大政奉還が成功したのは後藤象二郎の実績で、坂本龍馬は違う路線で動いていた、と考えるべきでしょう。小説やドラマで「坂本龍馬と徳川慶喜が大政奉還を実現させた」というような描かれ方をしているのは史実に添っているとはとても思えません。

近代を切り開いたのがなんでもかんでも坂本龍馬、というのは、あまりにひどいコジツケです。

最後に、有名な彼のエピソードを否定しておきたいと思います。

坂本龍馬が西郷隆盛に新しい政府の人事案を示したときのことです。
新政府のメンバーに坂本龍馬の名前が無いことを西郷が指摘すると坂本龍馬は一笑し、

 世界の海援隊でもやりましょう

と豪快なことを言うてしまう。

 お~ 龍馬、カッコイイ~!

と感動した読者や視聴者もおられるかもですが、これ、大正元年に書かれた逸話で、当時の史料では確認できない史料です。

三条実美に仕えていた尾崎三郎(新政府人事案を考えた人物)の回顧録の中では、ちゃんと参議に坂本龍馬の名前が入っていたそうです。
それどころか、その案をみた坂本龍馬は「手を打っておおいに喜んで」、

 おい、これ、今日から実施しようぜ!

と、はしゃいだ、と、記されています。

こちらのほうが実際的で人間味があふれているエピソードだと思います。

(参考)
知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』
一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』
瑞山会編『維新土佐勤王史』
鹿児島県史料刊行会『桂久武日記』
宮地佐一郎『龍馬百話』『龍馬の手紙』

とくに一坂太郎氏の著作は断然おもしろいので是非、お読みください。