中世では「悪」という言葉は、現在の「悪」とは少し違う意味があります。
「超」という意味や「非」という意味がある言葉でもあります。
「なかなかのやり手だなぁ~」
という表現をすると、ホメているという一面もありますが、ちょっぴり、悪口が含まれていますよね。すぐれているが、ちょっとやりすぎかな… という「過」という意味がある言葉でもあります。
生徒たちには、
賢人はすべて悪人ではないが、悪人はすべて賢人である
という話をよくします。
過ぎた知恵、超えた知恵、そして知恵は、常識とは異なるもののを体現する力であるがゆえに非常識に見えてしまう発想でもあります。
『太平記』は、そういう人間の「悪」というものをよく伝える軍記物であるといえます。
「ばさら」は、『太平記』の中では、「悪」の本質と現象をうまく表現しているものでしょう。
もともとはサンスクリット語で、金剛、すなわちダイヤモンド、を意味とする言葉と考えられています(諸説あり)。
金剛石は、どんなものでも打ち砕く。よって常識破り、秩序の破壊、という意味が「ばさら」という言葉にこめられました。
常識をくつがえす、既存の秩序を破壊する…
そのためには、一切動じない「硬い」意志が必要になるわけです。
「ばさら」と呼ばれた人は、一見「変わり身」「裏切り」を示しますが、不動の「何か」を持っているのも確かです。
ブッダは
見よ
車輪が回る 車輪が回る
しかし見よ
車軸は動かない
という言葉を残しています。変わるためには変わらぬ何かをしっかり持たなくてはならない、という意味の言葉で、わたしはこの言葉が大好きです。
激しく回転する車輪の軸。それが『太平記』の悪とよばれた人々のような気がします。
佐々木道誉。
一見ものすごい非常識な人間として扱われています。寺社や貴族と対立し、他の武将ともときに協力し裏切りもしました。
鎌倉幕府打倒運動では軍事的活躍、というのはあまり史料的には確認できないのですが、光厳天皇や花園上皇をの身柄を拘束し、三種の神器を確保したのは、確か佐々木道誉であったと思います。
建武の新政では、塩冶高貞とともに、雑訴決断所の役人となっています。
しかし建武の親政に対する不満が高まるようになりました。
関東地方で、北条氏の反乱が起こると(中先代の乱)足利尊氏は兵を率いて関東にむかい、後醍醐天皇に逆らって(それが尊氏の本意であったかどうかは別として)恩賞を支給し、「独立」した動きを見せました。
それを討つべく、新田義貞が派遣されたのですが、箱根竹ノ下の戦いで、新田義貞は足利尊氏の軍に敗れます。
このとき、新田軍に従っていた塩冶高貞と佐々木道誉が尊氏側に「寝返った」ことによって足利尊氏側の勝利が決定的となりました。
最初から尊氏と内通していて、戦いの途中で裏切ることが決まっていた陰謀であった、とも言われています。
新田義貞って、どうもよく「この手」の失敗をするんですよね…
尊氏が北畠顕家の攻撃を受けて九州に逃れたときもそうです。
赤松円心
赤松円心は、後醍醐天皇を助けて建武の新政を実現するのに功績がありましたが、後に足利尊氏に同心し、今度は室町幕府の建設に与力します。
九州に逃れた尊氏を討つべく、新田義貞が派遣されるのですが、播磨の赤松円心は、新田義貞に対して
「わたしはもともと後醍醐天皇に従っていました。恩賞が不満で尊氏に味方していただけです。恩賞を十分いただければ新田さんに協力しますよ。」
と伝えます。それは好都合、では天皇に伺いをたてましょう、と、バカ正直にこの話を信じて後醍醐天皇と赤松円心の間の「とりつぎ役」をしてしまうんです。
これは赤松の「時間稼ぎ」の作戦で、尊氏が態勢を立て直すための時間を与えてしまうことにもなりました。
道誉にせよ、円心にせよ、「軸」は尊氏で、それを中心に激しく回転していた人物だったのでしょう。
そして最後は、高師直とその兄弟たち。
彼らの「悪」ぶりは、とにかく有名。
「天皇とか上皇とかめんどくせー かわりに木や金属の像でも使えばよいやんっ」
「恩賞が不足? だったら近くの寺や貴族の荘園を好きにしたらええねん」
おまけに人妻には手を出すし、当時の権威や伝統など、まったく無視…
かなり破天荒な人物として描かれています。
でも…
わたしが、高師直のことをちゃんと調べ直そうとした“きっかけ”は、おばの言葉でした。
おばは、お茶やお花だけでなく、書道の先生でもあり、お弟子さんもたくさんいた人なのですが…
師直さん、悪いお人やない。
こんな立派な字を書く人、悪い人やあらへん。
字は必ず人をあらわすんや。
きっと誠実で強い人やったはずやで。
確か真如寺だったかどっかに師直の直筆の書状か何かが残っていて、それを見てそう言うたはずなんです。
おばは古典には詳しかったですが、歴史そのものに詳しいわけではありませんでした。
おばやおじの世代(大正時代の人)は、戦前の教育のせいもあり、足利尊氏・高師直=「悪」というイメージが広がっていたので、たいていの人は、彼らを悪く言います。
おばもそう「教育」されていたのですが、どうも、その字を見ただけで、「ほんまはええ人やったんちゃうかな」と「根拠ない直感」で思ったようです。
だったら根拠を調べてみよう、と、高校生のときに高師直を詳しく調べてみました。
戦闘指揮官としてきわめて有能。
足利家に対して忠実。
尊氏の名代として汚れ役も引き受けている。
(会社の上司で嫌われている人って、実際はよく仕事をしている人でもありますよね。その人がいなくなってから、「ああ、あの人、ちゃんとやってたなぁ」と思える人物って、けっこういますよ。師直の嫌われ方って、そういう感じの嫌われ方のような気がします。)
後醍醐天皇が、昔の荘園を復活させながら武家と公家の合体した政治をしようとしているのをみて、
いや、無理でしょ。
だってそんなことしたら、荘園、領地、足らないし。
と、シンプルに考えていました。
「現実」をしっかり受け止めて武家政権の樹立をしようとしていたことは確かです。
そして何といっても戦闘方法の革命です。
武家にとって、「手柄」の証明は
首
でした。敵を倒す、首をとる、そしてそれを手柄の証とする…
でも、首を切り取る作業、けっこう手間がかかりますし、首を三つも四つも提げたまま戦う、というのはちょっと無理です。
しぜん、戦いの勢い、というのが削がれてしまいます。
わたしたちが「戦い」を想像するとき、近代以降の戦争を中世の戦いを「混同」してしまっています。統一された指揮系統のもとでの集団行動、というのは中世の戦いでは確立されていません。
高師直は、「恩賞記録係」をつくって従軍させ、首をとらなくても、倒した手柄をその係に報告して記録すればOKという方法を採用しました。
南北朝の争乱を通じて、近代戦の基礎が確立されたのです。
これもそれまでの「常識」を“うちやぶった”ことでした。
佐々木道誉、赤松円心、高師直…
彼らは手に触れる、常識、伝統、古き悪しきもの、を打ち砕いていった“ダイヤモンド”であったことは確かでしょう。